![]()
館での2日目の夜がふけていった。相変わらず食の細いアシュランをのぞいて、ウロフもルカシュも
前夜同様豪華な食事で腹を満たし、羽毛と絹のベッドに身を浸した。
「ウロフ、ウロフ。」
「・・・・・・ん?アシュランか。なんだ?」
「起きろ、ウロフ。ルカシュが出ていった。」
「ルカシュが?」
アシュランの言うとおり、ルカシュのベッドはもぬけの空になっている。
「ウロフ、黙っていたが馬をやったのはルカシュかもしれない。」
「なんだと?」
「ルカシュの剣に血がついていた。」
「しかし・・・・なんのためにだ?」
「ここを離れぬために・・・たぶん。なぜかは知らぬ。」
「馬鹿な・・・・・なぜだ?」
「ルカシュがどこへ行ったのか。それをつきとめれば、その意味がわかるかもしれない。」
「ふぅ・・・やっかいなことになりそうだ。」
ウロフ・ルツとアシュランの2人は、手早く身支度をととのえ、部屋の外に出た。
「この匂い・・・・・・」
常夜灯のほの暗い明かりだけが点々と灯る大理石の廊下を、壁づたいに手探りで進みながら、
ウロフはささやいた。
「甘い・・・・・・花のような・・・。昨日と同じだ。」
昨夜、夢うつつで嗅いだ香りよりももっと強い。
鼻腔から入り込んで全身をまわり、脳までくすぐる甘やかな香り。人間の五感すべてをやんわりと
包みこむようないいしれぬなつかしさと快感。そして心の奥深くに潜む本能までも刺激する匂い。
もっと嗅いでいたい・・・・・・。ウロフは心地良い眠気を覚え始めていた。匂いは進むほどに
ますます強まっていく。
「匂いを嗅ぐな、ウロフ。」
「ああ、わかっている。」
しかし、その香をもっと吸い込みたい。できれば、身体中その香で充満させて眠りたい。
その欲望はしだいに彼の中でふくらみはじめていた。
(まずいな・・・・)
ウロフは服のはしを自分の鼻にあてがった。
つきあたりの部屋からうっすらと明かりが漏れている。匂いがあの部屋から漂ってきているのは
まちがいない。ウロフはそっと扉を開け、腰の剣を抜き、いつでも使えるように低くかまえて中に
入った。アシュランも続く。
中はごく普通の部屋で、テーブルといすや、古い絵などが何枚も飾ってある。香りはますます強烈さを
増し、押さえた服からもかなり匂う。
「アシュラン、お前は平気なのか?」
「私は大丈夫だ。」
「ふん、お前さんは人間より神の部類に近いらしい。」
ウロフは少し肩をすくめてみせた。
「さぁ、たぶんあの扉の向こうらしい。」
部屋の左側にあるもうひとつの扉の方をウロフはあごでしゃくってみせた。
「覚悟した方がいい、ウロフ・ルツ。よくはわからないが、なにかひどくまがまがしい「気」を
感じる。吐き気がするほどに。」
アシュランはいつになく鋭い目で扉をねめつけている。
「なら、呪文でも唱えておけ。」
ウロフは自分の短剣をアシュランに渡し、自分は大剣をかまえた。
そして扉に近づくと一瞬ためらったのち、思い切って開けた。
とたんに、ねっとりとした甘い空気が、生き物のようにわらわらと2人の体を包み込んだ。
なんともいえぬ生温かい感触、そして・・・・・・
「なんだ?あれは。」
部屋の中央に、床を突き破り、なにやら植物のようなみのが生えている。
植物のようなもの・・・・・・・しかし、それは「植物」と呼ぶにはあまりにもいとわしい。
身の丈は天井までとどき、甲虫のような剛毛でおおわれた何本ものつるが、壁から天井を
おおっている。茎は鮮やかな緑色で、その中央にひどく毒々しい深紅のがくがあり、その中には
外見のまがまがしさとは対照的な、純白の、大人の頭みっつ分ほどのつぼみがついている。
妖しげな香りはこの妖花から放たれたものだったのだ。
そして、妖花の根本にあたかも花によりそうように倒れているのはまぎれもない、
ルカシュだった。ルカシュは両腕で妖花の茎を愛撫でもするように抱きしめていた。
「ルカシュ!起きろ、ルカシュ!」
「・・・・・・ああ・・・・ウロフかい・・・・」
ルカシュはとろりとした目でウロフを見上げた。
「そいつからすぐ離れろ!」
「なんだって?なに言ってるんだい・・・・」
ルカシュの右手がいとおしげに妖花のいやらしい剛毛でおおわれた茎を撫で、そしてにやにやと
笑った。
「やぼなこと言いっこなしだぜ。最高な気分さ、こんな女ははじめてだ。」
「ルカシュ、しっかりしろ、おい!」
「花の香りに幻惑されているんだ。」
「とんだ侯爵夫人だ・・・・こんな化け物を飼ってるんだからな。」
その時。背後からフェイシア夫人の声が響いた。
「困ったお客さまですこと。」
「無断で人のお部屋にお入りになってはいけませんわ。」
「ひとの部屋だと?ここにいるのは化け物じゃないか。」
「ここはミヌーシャのお部屋よ。」
フェイシアは形のいいしなやかな指で前方の壁を指さした。壁には美しい細工をほどこした
額入りの肖像画が一幅。年の頃なら17,8の、実に美しくも愛らしい金髪の少女の肖像。
「娘は・・・・・ミヌーシャは死んでいたのか。」
「死ぬ?いいえ、ミヌーシャはここにいます。もうすぐ目を覚ますわ。ほら、こんなに匂いが。」
「フェイシア夫人・・・・・正気を失っていたのか・・・?」
「見ろ、ウロフ・ルツ。」
アシュランが叫んだ。
紅のがくに縁取られた大きなつぼみが小刻みに震えはじめたのだ。緑のつるもごそごそと身を
よじらせる。
「花が・・・・・・・開くぞ。」
つぼみは、苦しげに首をふりながら、じょじょにその無垢な花弁を開き始める。
おもむろに、しかし確実に、妖花はその本体をウロフたちの前にあらわしたのだ。
「う・・・・こいつは!!」
あまりの醜悪さにウロフは、そしてアシュランでさえも絶句した。
あくまでも汚れのないじゃんぱくの花、しかしその花心には、世にもいとわしい、口が
流血を思わせる紅い女の口が。
あたりには、開花と同時にみだらなほど甘美な花の香が解き放たれる。
と、同時に、ルカシュがふらりと立ち上がり、花に向かって両手をさしのべた。
「ミヌーシャ、もう一度キスしてくれよ。」
するとそれに答えるように、妖花はするするとつるを伸ばし、ルカシュの胴体にその触手を
巻き付けた。
「ルカシュ!!つるをはらうんだ!そいつは化け物だぞ!」
ウロフがつるを切ろうと剣をかまえた。
「やめて!私の娘に剣を向けないで!」
「なにが娘だ、化け物だぞ!」
「ちがう、この子のはミヌーシャよ。私のミヌーシャを傷つけないで!」
フェイシアは全身の力を込めてウロフにしがみついた。
「はなぜっ、ルカシュ!逃げろっ、逃げろ、ルカシュ、ルカ・・・・。」
しかしウロフの絶叫も空しく、ルカシュは妖花のなすがまま、ひのいまわしい触手に
からめとられ、たぐりよせられていく。
「ルカシュ・・・ああっ、まさか、そんな・・・・・。」