草原の午後。湖沼の周りは山羊の乳をしぼるジュヌバの娘たちの笑い声で華やいでいた。
娘たちは長い黒髪をジュヌバ風に編み込み、野に咲く赤いラセニアや純白のサギソウの花を
飾り、薄緑や淡い水色のハシャと呼ばれる衣服を身につけ、草原の妖精のように軽やかに
笑い、走り、働いた。
「マーナの婚礼にはあたし、赤いハシャを着るわ、父さんがアストライドから買ってきた
ロゴール織りの布で作ったのよ。」
「あたしはどうしよう、晴れ着は去年の祭りの時作ったあれ一枚しか持ってないわ。」
「あら、作りなさいよ、新しく。」
「だって・・・・。」
他愛のない会話、しかしそれが娘たちにとっては大変な問題なのだった。
「マーナがうらやましいわ、ラクにお熱の子はたくさんいたのよ。」
うれしさを隠せない様子で微笑むマーナの脇腹を、娘たちのひとりがいたずらっぽく
つついた。
「ほんと、あたしだってラクにあこがれていたのよ、ラクがあんたを選んだって聞いて、もうあんたと
口きくのよそうって思ったほどよ。」
「それは困るわ、友達は大切だもの、あたしよそうかしら。」
「うそよ、うそ。」
娘たちの笑いさざめく声が草原に響いた。
その娘たちの会話にひとことも口をはさまず、痩せた小さな山羊の乳を搾りながら、にこにこと
話を聞いている娘がいた。
その娘は、他の子たちより身体も細く、ジュヌバの娘にしては病的なほど色が白かった。
髪の色も淡く、量も薄い。だから他の娘たちのようにジュヌバ結いができず、肩にたらしたままだった。
「ユラ、もう終わったの?」
隣にいた娘の声にまったく気が付かず、その少女は乳の入った皮の器を持って立ち上がった。
「少ないわね・・・・・。」
もうひとりの娘が、ユラの器をのぞき込んで言った。
「だってどう見たってその山羊、一人分の乳も出そうにないわ。」
事実、彼女の山羊はまるで彼女自身のように貧相で痩せていた。
さっき婚礼の晴れ着の話をしていた娘が、彼女の側に走り寄って、やさしく肩をつかんだ。
「こんなんじゃ今日の一食分にも足らないわよ。」
ユラは頭一つ分大きいその娘をきょとんと見上げた。どうやら、娘の声がほとんど聞こえて
いない様子だ。
「乳が少ないからあたしのを半分あげる。」
娘はわざとゆっくりと、普通より大げさに口を開いてそう言った。
ユラは娘の口元をじっと見つめていたが、すぐにっこり笑ってかぶりを振った。
「だめよ、あんたはそれでなくても弱いんだから、もっと栄養をつけなきゃだめよ。」
娘はユラの手から器をとり、自分の器から乳を注いだ。
「うちの山羊はね、この前子供を生んだばかりだから、たくさん出るの。」
ユラは申し訳なさそうに頭を下げ、そして彼女たちの元から立ち去った。
山羊乳のたっぷり入った皮器をしっかりと抱き、ユラは帰途を急いだ。
小さなジュヌバの、耳の不自由な娘ユラは、集落から離れた窪地に住んでいた。
ユラを親代わりに育ててくれた祖母は3年前に死んだ。
その時ユラはたったひとりで大地を掘り、祖母を埋葬した。
服が汚れるのもかまわず窪地をすべりおりると、ユラはきょろきょろと何かを捜していたが
小さな自分の天幕をのぞき込み、小走りに周辺を一回りしたあと、ひどく不安げに顔を歪め
誰かを呼ぶようにか細い声を出した。
ユラの不安は高まり、いたたまれなくなったユラは地面に器を置き、必死で窪地を
駆け上がった。あわてて駆け上がったために、足がすべってそのまま下まで転げ落ちそうに
なった、そのとたん、ユラの小さい身体は何者かの手によってふわりと抱き留められた。
「どうした?そんなにあわてて。」
男はユラの身体を赤子のように軽々と抱き上げた。
ユラは無言で男の首に両手を巻き付け、その無精ひげの生えた頬に自分の顔を押しつけた。
「そうか、俺が行ってしまったと思ったんだな。」
男の大きな手のひらがユラの頭を愛おしげになでる。ユラは窪地の外へ出てはいけないと
いう身振りをしてみせた。すると男はクサウサギを3匹ユラの目の前にちらつかせ、笑った。
「こいつを捕りに行ってた、今夜はこれでシチューを作ってくれ。」
男の口元を見ていたユラはこっくりとうなずいた。
男は鍛えぬかれた強靱な体躯でユラを軽々と抱き上げた。それでなくても華奢で小さなユラは
男の片手に乗ってしまいそうだ。
のび放題の髪は黒かったが、澄んだ水色の瞳は彼がジュヌバの民ではないことを
あらわしていた。
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ぱちぱちとたき火がはぜる。火にかけられた素焼きの壺には、山羊乳で柔らかく煮込んだクサウサギの
シチューが湯気をたてていた。
ユラは麻の袋から炒ったソマの木の実を取りだした。
「もうすぐ移動の時期だな。」
男はひとりごちた。
「俺がここに居着いてから3度目の移動だ。」
彼はソマの木を削って、狩猟用のやりを作っていた。手にした剣は旅人の護身用の小剣ではない。
それは第一級の戦士が持つしろものだ。
「俺が草原(ここ)を離れると言ったら、お前はどうする?俺とくるか?」
ユラはシチューの味をみるのに夢中だった。
「昨日いくさの夢を見た。あのハーランドの戦いの夢だ。いくさに嫌気がさして、国を捨てたはずなのに、
俺は心のどこかでまだ戦士でいたころの自分を忘れられずにいる。こんなものを捨てられずにいる。」
赤々とゆらめく炎に、彼は銀色に輝く大振りの剣をかざした。
「ここは俺の故国ハーランドに近すぎる。そしてあのアストライドにも。いっそ東域の奥の奥まで
行ってしまおうかと思うんだ。でないといつか俺は必ず元の奈落に戻ってしまう。あの血と炎が
俺を引き戻してしまう。なぁ、ユラ。国とか王とかのためでなく、お前を守るためだけに
戦おうと誓ったはずなのにな。」
しかし、彼の言葉はユラに伝わるはずもなく、無垢なジュヌバの少女はできあがったシチューの器を抱えて
ただにっこりと微笑むだけだった。