草原にて



第一章

草原の夕暮れは西風ではじまる。
遠く地平線を縁どるライカ山脈の方角から吹く風は、草原に咲き乱れる盛りを過ぎた薄雪草の綿毛を
羽根のように巻き上げた。
草原に居住する遊牧民ジュヌバの少年シュクは、夕日の照り返しをうけ、臙脂から紫に変身を
遂げようとする瞬間の草原が大好きだった。
シュクは一日の大半を草原で過ごす。彼の仕事は放牧馬の世話だ。200頭以上いる馬はすべて
成長すれば西の大国アストライドで第一級の戦士を乗せる名馬ばかりだった。
15才の彼はもう一人前の牧人として父親からそれらの馬の放牧をまかされている。
夕暮れ間近、あちこちに散らばっている馬をあざやかに呼び集め、追い立て、居住地近くの牧場に
入れてしまうと、彼は夕食までの自由な時間を再びこの草原で過ごすことが多かった。
夕焼けと同時にふき始めるさわやかな西風は、シュクの夢見る大国の匂いを運んできた。
あの連々と続くライカ山脈のむこうに広がる歓喜の大国アストライド。
金白色の髪の、艶やかな薄衣をまとった貴人、漆黒の名馬にまたがった勇壮な戦士たち。
赤い花を手に微笑む美姫。
草原に生まれ、草原に育ったシュクにとって、アストライドは夢の王国だった。
いつか必ずアストライドに行ってみせる   それがシュクのただひとつの夢だった。

風に乗る薄雪草の綿毛は、白い蝶の乱舞にも似ていた。そしてその蝶は膝を抱える小牧人の
栗色の髪や濃い茶の麻の服にまとわりついては風に吹かれて再び舞い上がる。
シュクはそれを払いもせず、いつしか膝に顔を押し当てて眠ってしまっていた。
時が、風と共にさやさやと流れる。シュクの愛馬レプルは、彼の髪と同じ色のたてがみを風に
なびかせ、静かに草をはんでいたが、ふいに頭を上げ、そのおだやかな目を西の方角に向けた。
レプルノ敏感な耳はピンとそばだち、彼方からやってくる何者かを待ち受けていた。
レプルの軽い鼻息で目を覚ましたシュクは小さくあくびをしながら、愛馬の引き締まった足を撫でた。
「どうした?レプル。」
シュクはレプルの視線を追って西に視線を向けたが、そこには燃え立つ夕陽とライカ山脈のシルエットが
あるだけだった。が、ほどなくして、遠く小さな人影が点となって現れた。何者かが馬を駆ってやってくる。
シュクはレプルの手綱を握り、脇腹に体を押しつけた。
点はみるみる人の形をなし、そしてシュクの目の前で馬を止めるまでさほど時間はかからなかった。
馬はつややかな漆黒の、あきらかに正規の訓練を受け、何度かの実戦を経験してきたらしい戦馬
だった。馬上の人は荒く呼吸する黒馬の首筋を愛しげに撫でた。
シュクはその者の腰にある銀色の剣を見逃さなかった。
(戦士か?)
馬にまたがったまま、その者は深くかぶっていたフードをはずした。その下から現れた顔を見て
シュクは息を呑んだ。
女だった。それも、シュクがいつも夢見ているアストライドの美姫と同じ、陽光のような金白色の
髪をした美しい女。
「陽のあるうちに集落に着けてよかったわ。」
女はシュクに向かってにっこりと微笑んだ。
「あなたはジュヌバの少年ね?」
シュクは黙ってうなずいた。
「ジュヌバの族長(おさ)に会いたいの。連れていってはくれないかしら。」
「い、いいよ。」
シュクはレプルにまたがった。

夕暮れは艶やかな幕を降ろそうとしていた。
もうすぐ草原は無風の、ねっとりとした暗黒に包まれる。
西風の最後のひと吹きは、女の柔らかい髪を吹き上げた。

西から来たんだね?」
シュクは思い切ってたずねた。
「そうよ。」
「アストライドから?」
「そう。あたしはフレイヤ・フレーセン。あなたは?」
「俺はシュク・タジミア。」
「いい馬ね。ジュヌバは名馬の産地だわ、なんて名前?」
「レプル。」
「レプル・・・・・風神ね。  レプルは戦いの神でもあるわ。」
フレイヤ・フレーセンは乱れた髪をかき上げた。
「あなたの馬は、戦馬のようだけど・・・・。」
「これ?そうよ、あたしと一緒にもう何度戦場を駆けたかしら。」
「それじゃ、やっぱりあなたは戦士なの?」
「そうよ。」
「俺、アストライドに行きたいんだ、戦士になりたいんだよ。」
「あら。」
フレイヤは小首をかしげてシュクを見た。
「なぜ?」
「俺の二番目の兄さんがアストライドで戦士になったんだ。去年帰郷してきた時そりゃ立派だった。」
「馬なら持ってるじゃない、そんな立派な。」
シュクは無言でうつむいた。
女戦士は薄闇に包まれた草原を見渡し、深く息を吸い込んだ。
「草原はいいわね。」
2人の行く手にジュヌバ大集落の灯火が広がっていた。