第二章

数ある遊牧民族の中でも、ジュヌバは最大規模の集落を持っていた。
一年の大半をアベラル大草原の北で過ごし、あとの半分を南で過ごす。
薄雪草の綿毛が西風にすべて飛ばされてしまった頃、ジュヌバ族は天幕をたたんで移動をはじめる。
半年前に馬や羊たちが食い尽くした草がアベラル大草原のおだやかな風と気候で再び元の青さを
取り戻している北に向かうのだ。
色とりどり、大小さまざまの天幕がひとつの大きな街を形成しているジュヌバの集落は、夕餉の煙と
暖かい灯火でどことなく活気づいていた。
ジュヌバの大族長、ヴァン・ラ・ダールの黒い天幕までくると、女戦士は軽くシュクに会釈した。
「どうもありがとう。ここでいいわ、あなたの家はどこ?」
「あの木の下。赤い天幕だよ。」
「そう、このお礼はきっとするわね。」
フレイヤは笑って、天幕の中に消えた。


草原の夜は凪いでいた。クサウサギの細くはかなげな鳴き声が遠くから響いてくる。
空気のそよぐ日中や西風が駆け抜ける夕刻よりも、風のない夜の方が草の香を強く感じた。
各天幕の外には、赤々とたき火が燃えている。ジュヌバの民は決して火を絶やすことはない。
各家庭にひとつ、ないしはふたつのたき火を持つ。特に夜は獰猛ですばしこい草原の獣から
身を守るために、火はかかせない。だから、家族の男は交代で毎晩火の番をする。
その夜、火の番に当たったシュクは朱色の炎の前に座り込んでいた。
いつもなら、草原の長い夜を、アストライドにいる2番目の兄のハルが土産にくれた本を
読んで過ごしていたが、その夜は夕暮れに出会った女戦士のことが気に掛かり、膝に
広げた本にもまったく気が入らなかった。彼女は何故この草原に、たったひとりでやってきたのか。

そして彼は、睡魔のやさしい指先にくすぐられて、いつしかとろとろとまどろんでしまっていた。
夜がゆっくりと、しかし確実に流れていく。クサウサギの声にかわってハイイロオオカミの
誇り高い遠吠えがいくつもいくつもたたみかけるように響いてきた。
どのくらいたったのか、たき火のはぜる音で目が醒めたシュクは、はっとして顔を上げた。
(ああ、よかった・・・・)
たき火は赤々と燃えさかっている。火を消すことは男の恥とされていたからだ。
その時、シュクは炎をはさんで向こう側にあの女戦士の顔を見た。
「こんばんは、いい夜ね。」
大地に腰を下ろし、棒きれでたき火をつつきながら、彼女は言った。
「いねむりさん、火が消えかかっていたわよ。」
「あ・・・・どうもありがとう。」
「ふふ、あたしはあなたにお礼を言いに来たのに。逆にお礼を言われてしまったわ。」
「俺に、礼?」
「そうよ、あなたはあたしがここに来て初めて会ったジュヌバ人。そして道案内までしてくれた。
あたしがここにいる間、なかよくしてね。」
「ここにいる間って?」
「しばらくヴァン・ラ・ダールのところでやっかいになるわ。」
シュクは思い切ってたずねた。
「あなたはここになにしにきたの?」
「人を捜しに。」
「だれ?友達?家族?」
「コンラートを捜しに。」
「コンラート?」
その名を口にする時、フレイヤの顔は少しだけ曇った。
「今はなんと名乗っているか知らない。あたしがあれを知った時はコンラートという名だった。」
「それはあなたの友達か?」
「いいえ。」
「わざわざ西から会いに来たんでしょ?」
フレイヤは棒きれをたき火の中に投げ込んだ。
「殺しに来たのよ。」
いつしか彼女の美しい顔は氷のように冷たくこわばっていた。
シュクはいけないものを見てしまった気がした。
「その人、ジュヌバの者なの?」
「いいえ、でもここにいると聞いた。」
「よそ者か。」
「族長に聞いたけど、知らなかったわ。」
「よそ者が入ればすぐわかるはずだ、でも集落は広い、森を挟んで向こう側にも分かれてるから
そっちの方にいるかも知れないね。」
「必ず探し出すわ、どこにいても。」
「見つかるまでここにいるんだね?」
「あれの命をもらうまで。」
「もしいなかったら?」
「いるわ、きっといる。以前ここに一夜の宿を借りた者が、ここであれの姿を見かけたと
聞いた。」
「もういないかも知れないよ。」
「いいえ、必ずいる。あたしにはわかるの、彼の居場所なら。」
再びフレイヤはシュクに笑顔を見せた。
「静かね、草原の夜は。」
「静かだけど怖ろしい。暗闇の中にはいろんなものがいる。日中には姿を見せない
獣や、この夜のものでないいろいろなおぞましいものがうろうろしている。草原は昼と夜では
まったく違う世界になっちまうのさ。だから火は絶やせない。」
まだようやく15になったばかりの少年でありながら、シュクは確かに草原に生まれ
草原に育ち、草原で生きる遊牧民のジュヌバ族だった。
彼が草原を語るとき、そのはしばしににじみ出る誇りと自信。
フレイヤはそれを子守歌でも聴くように心地よげに聞いていた。
「あれはなに?」
フレイヤは北の夜空を見上げて指さした。そこにはいくつもの小さな光の粒が
ぐるぐる大きな円をかいて回っていた。
「ヒクイドリだよ、日中は森の奥に潜んでいて、夜になると活動を始めるんだ。あの光は
ヒクイドリの目さ、暗闇でも見えるんだ。獣のように光る。」
「危険なの?」
「「しかばねを食って生きてるんだ。草原で行き倒れになった旅人とか、死んだ獣とか、
危険ではないけど、どん欲な生き物さ。」
「漂流都市アイシオームでは、夜になるとおびただしい数の魂が空を飛び回ると言うわ、
あの様子に似てるのかしら。」
「漂流都市?それはなに?」
フレイヤはふと視線を地面におとした。
「伝説よ、アイシオームはその昔、大地に築かれた普通の王国だったの、それが
何かのはずみで別の世界に国ごとそっくり引き込まれてしまったのですって。」
「別の世界?冥府のこと?」
「わからないわ、とにかくあたしたちが生きている世界ではない。違う世界ってことでしょうね。
そしてアイシオームは常に大海にたゆとう流木のように、その存在位置を移動させているの
ですって。だからアイシオームに行こうと思っても行く術がない、あるいは、たとえアイシオームへ
行く意志がなくとも、たまたま人が都市の座標軸に踏み入ってしまえば、人はたちまち都市の
時空に取り込まれ、もう再び現世には戻れないというわ。空間そのものがなにか砂地獄の
ように底知れぬ時間の奥へ人を引きずり込んでしまうらしい。」
「なんだかよくわからないけど、こわい話だね。」
「伝説よ、ただの言い伝え。さぁ、もう戻るわ。」
フレイヤはすらりと立ち上がり、服についた枯れ草を払った。
「コンラートを捜すの?」
「明日、森の方へ行ってみるわ、いねむりは禁物よ、火の番人さん。」
灯がフレイヤの剣に反射する。
濃い闇が幾重にもたれ込める草原に、再びハイイロオオカミの遠吠えが響きわたった。