其の弐
柔肌に突き刺さった棘の痛みが、うっすらと残る。しかしあのしたたりおちた血が嘘のように、

傷口は跡形もない。

(あれは夢だったのか。)

千手丸は自分の両手足をさすってみた。そしてその後、おのれの腹に手を当ててみた。

(やはり・・・・・)

よつき  と、あのあやしの婆(ばば)は言った。

「重衡(しげひら)   か。」

千手は嘲笑にも似た薄笑いを浮かべた。

平家の武者、平重衡。 囚われのまま、いずことも知れぬ地で斬首に処せられたと、風の噂で聞いた。

あの誇り高いもののふ。

木暮山で手傷を負い、重衡に命を助けられた。その恩にたった一夜、契りを結んだだけの男だった。

縁(えにし)は、暮れなずむ森で永劫に途切れたはずであった。

それなのに。

千手は声を押し殺して笑った。

おなごであるおのれを憎み、おなごを捨てたはずではなかったか  千手

声無き声が、千手をあざ笑う。

(赤子だと!?このわたしが。)

白拍子だった頃、朋輩の白拍子がどこの誰ともわからぬ男の子を孕(はら)み、宿の女主に骨が折れるほど

殴りつけられていた。

あの白拍子はその後近くの小川で、半身を水につけたまま、死んでいた。

身震いするほど苦悶の形相で、その女は死んでいた。

無意識のうちに、千手はかすかな水音をとらえようと耳をそばだてていた。

どこかに川はないか・・・・・・

身も凍るほどの水に小半時も浸かれば、腹の子はたやすく流れていくに違いない。

しばらく行くと、浸かるにちょうど良い小川を見出した。

深緑色の水がとうとうと流れる川に、千手はためらいもせずに入っていった。

冷たい・・・・・水の流れが千手の体を突き刺す。まもなく腰から腹にかけて、ぎゅうと締め付けられるような

痛みを感じてきた。

(千手・・・・・・)

あれは・・・・・・?

(千手  わしの子を、葬るか・・・・・)

限りなく絶望を含んだ低い声が聞こえる。千手は川に胸までつかりながら、あたりを見回した。

「重衡か?」

しかしそれは、川の水の冷たさが聞かせた幻聴だったのかもしれぬ。

「このわたしに、そなたの子を生めと言うのか・・・・・重衡。」

その時、千手の視界に 不可思議な物が飛び込んできた。

女物の着物。色鮮やかな女物の着物がぷかぷかと浮かんで、川上から流れてくる。

いや、あれは着物ではない。流れにたゆとう長い黒髪 それは人の 女のように見えた。

するとまもなく川上を川沿いに、必死で駆けてくる男がいた。

男は半狂乱で、どうやらその女を追いかけてきたらしい。

「だれかーーっ、だれか助けてくだされーーーーっ」

髪を振り乱し、声をからして 男は絶叫し続けた。

「妻をっ、妻を助けてくだされ、お願いでございますっ」

とっさに 千手は川の中央に流れいく着物の端をむずとつかんで、力を込めて引き寄せた。

そしてもう一方の手で黒髪を掴み引き寄せると同時に自分の手にからませ、ぐいと引いた。

その頃には男も千手のところまで駆け寄っていて、自らも川に半身までつかりながら、

流れに逆らって引き寄せられた女のずぶ濡れの体を抱き寄せた。

「露草っ!しっかりせい、露草ぁぁぁっ」

女の顔があらわになった。年のころは20そこそこの、色の白い美しい女だ。

しかし意識は無い。

「水を飲んでいる、吐かせぬと命は無いぞ。」

2人がかりで女の体を川原横たえると、すぐさま千手は女の唇に直接息を吹き込み始めた。

「お前は強く胸を押すんだ、早くっ」

動転している男を叱咤しながら、千手は女に息を吹き込み続ける。

男はぎこちない手つきで女の胸のあたりを何度も押す。

しばらくして、女の口から水があふれてきた。そしてうう・・と低く呻くと深く息をついた。

「ああ!露草・・・・しっかりしろ、露草!」

「少しこのままにしておけ。水を吐いたのだから、まもなく意識も戻ろう。」

男は、腰が抜けたようにへなへなと、女の体の上に身を伏せた。

「水を飲もうとかがんだ拍子に、足をすべられそのまま深みにはまってあっという間に流されました。

まるでなにかに引きずり込まれるように・・・・あなたさまが助けてくださらねば、今頃露草は・・・

ほんにありがとうございます。」

商人らしきその男は年のころなら25 6、精悍な面差しの若者だ。

「礼などいらぬ、行きがかり上 手助けしたまでだ。」

「わたくしは 伊勢の商人葦若(あしわか)と申します。つれは妻の露草、商用も兼ねて京まで行った帰りに

我が一族の出自したと伝わるこの土地に立ち寄った次第です。」

「葦若  とな・・・・?」

その名には聞き覚えがあった。どこかで確かに聞いた。しかしすぐには思い出せない。

「助けていただいたお礼として、些少ではございますが、これをお受け取りください。」

葦若がふところから袋を取り出し、なかからなにやら取り出そうとする。

「いらぬ、なにもいらぬ・・・・・」

と言いかけ、そのまま崩れ落ちるように千手は地面に倒れこんだ。それきり、次に目覚めるまで

3日もの間、千手の意識は混沌とした暗闇の中をただやみくもに彷徨するのだった。



ほどなくして、水中より助け出された露草が意識を取り戻す。葦若は妻の生還を喜び胸にかき抱いた後

それまでのいきさつを話して聞かせた。

「まぁ・・・ではこのお方がわたくしの命をお助けくださいましたのね。」

まだおもざしには幼さが残る。それでもけなげに夫の静止もきかず身をおこすと、倒れこんでいる恩人の

体にそっと手をかけた。

「ああ、ひどいお熱。このままにしておいたらいけませんわ、お前さま。」

「本当だ、とにかく人家を探そう。露草 歩けるか?」

「はい、わたしはなんとか歩けます。お前さまはこの方を背負ってさしあげて。」

「すまぬな・・・・・たった今息を吹き返したばかりなのに。」

「とんでもございませぬ、命を救っていただいた大切なお方。早くどこか人家を探して介抱して差し上げなければ。」

葦若は千手を背負い、それを支えるように露草が後に続いた。

「とんだ里帰りになったな、露草 すまぬ」

「まあ、あやまってばかり・・・良いのです、商用の旅にご一緒したいと申し上げたのはわたし。」

露草はにっこり笑って葦若を見上げた。

父であり、先代の葦若が亡くなって5年になる。

若いながらも父の遺志を継いでがむしゃらに商いに精を出したおかげで、先祖から引き継いだ身代を

無くすことなく今に至っている。

幼い頃からの許嫁である露草と一緒になって半年。それまでは脇目もふらず商いに精を出していたが

仕事がひと区切りついたところで、商用ついでに若き妻と共に葦若一族ゆかりのこの地へ足を向けてみようと

思い立ったのだった。


「お前さまっ、ほらあちらに・・・・灯りが見えまする。」

「おお、たしかに。露草 大丈夫か?あそこまで歩けるか?」

「はい、わたくしは平気でございます。」

葦若は、あらためて千手丸を負い直し、露草の小さな背中をかき抱いて灯りに向かって歩き出した。