野荊奇談

其の壱
霧が草の原を流れていく。

明け方、近くを流れる河からわき上がった霧は、またたくまにあたりを乳白色の衣で包み込んでしまう。

そして陽が天中まで登らぬうちに、霧はいずこへともなく消えるのだが、それまでにはまだ少し間があった。

どれほど遠くまで来たのか知れぬ。    知ろうともせぬ。

ただひたすら、おもむくままに歩きつづけてここまできた。

千手丸はふうと深く息を吐き、街道脇の草むらに腰を下ろした。

目覚めて歩き始めてからまだそうたっていない。千手丸は脇の下からにじみ出てくる汗をぬぐった。

わずかだが、熱があるようにも感じられる。

旅の疲れが今頃になって出てきたのか・・・・・・・・千手丸は草むらに身を横たえた。

草に降りた露がひんやりと心地よい。充分眠ったはずなのに、再びとろとろとまどろみはじめた、その時。

「そこな、旅のお方・・・・・・」

草むらの奥からおなごの声がする。

「旅のお方・・・・・・」

「わたしを呼んでいるのか?」

「さようにございます、旅のお方」

声から察するにそう若くもない。なにか聞く者を奈落の底にでも誘うような陰陰とした声だ。

「お願いがございます、どうか・・・・」

「どこにおる。」

「ここに・・・・それ、そこの草むらの奥におりまする・・・」

千手丸は身を起こし片手で膝丈ほど伸びた草を薙いだ。そこにあったのは一体の髑髏。

かなり古いものらしく、うち捨てられたように転がっている。

「しゃれこうべめ、あやかしの術でわたしをたぶらかす気か?」

「めっそうもございませぬ」

その声はたしかに髑髏のひしゃげた口から聞こえてきた。

「目が・・・・痛とうてたまりませぬ・・・」

見ればたしかに、生前はさぞかしうるわしいまなこのあったであろう髑髏の双の虚ろに

茅(ちがや)が生えている。

「どうかこの茅(ちがや)を抜いてくださいませ。お願いでございます。」

千手丸はしばしためらった後、草むらに踏みいって、髑髏に手をかけ茅を引き抜こうとしたそのとたん、

あたりの風景がぐにゃりとゆがみ、ねっとりとした空気が千手丸の全身を包み込んだ。

「くそ・・・・やはりあやかしかっ」

髑髏のうつろな目から伸びていた茅が、みるみる丈を伸ばし、するすると千手の右腕に絡みつく。

するとそれはしだいにいくつもの枝に分かれ、一方は左手にもう一方は両足に、

まるで蛇のように絡みつく。

腰の刀を抜く間もなく、千手は全身を得体の知れぬつるにからめ取られてしまった。

「あやしの者めが。」

「そなたには露ほどの恨みもないが・・・・」

ぐにゃりと歪んだ景色の中には、みるもおぞましい婆(ばば)の姿があった。

白髪を振り乱し、顔には人のものとも思えぬ深い深いしわが無数に彫り込まれ、まなこはらんらんと

異様に輝く。

「ううっ!」

千手は激しい痛みを覚えた。

千手の全身をからめ取っているものは、いつしか幾本もの青々とした棘を持つ

野荊(のいばら)のつると化していたのだ。

棘は千手の皮膚に食い込み、そこから鮮血がにじみ出ている。

「そなたの生き血と生き肝をくだされ。」

「あやかしにくれてやる生き血も生き肝も、持ちあわせてはおらぬわっ」

「くれぬと申されても、もはやそなたは荊のとりこ。どうあがいても、

そのつるからのがれられますまい。」

あやかしの婆はにやりと笑うと、もがく千手丸の側に近づいた。

「端正なお顔だちだこと・・・・・どんな出自のおかたやら。でも、わたしの愛しい

あのお方に比べたら足下にもおよばぬ。」

あやしの婆は流れ落ちる千手の生き血を指ですくって、ぺろとなめた。

「このもののけが。旅人の生き血と生き肝を食ろうて、生き長らえてきたか。」

「ほほほほ・・・・そうせずば葦若(あしわか)との契りを守ることができぬ。」

「葦若だと?」

棘はますます深く、千手丸の肌に食い込んでくる。

「わたしがおのれの命を賭けて好いた男の名じゃ。必ず戻ると・・・・必ず戻ってくると

契ったのじゃ。そのためには生きねばならなぬ。何年でも、どんなことをしても。」

「たとえもののけにおのれの魂を売り渡してもか。」

「物の怪だろうが、妖魅だろうが、かまわぬ。さぁ、生き血を、生き肝を」

あやしの婆は異様に赤い唇をくわと開いて、千手の首筋に食らいつこうとした。

「ん・・・・?そなた・・・・」

婆がいぶかしげに千手の顔を見入った。

「そなた・・・・おなごか・・・・?」

「それがどうした。」

「面妖(めんよう)な。なにゆえ男のなりをしている。」

「お前の知ったことか。」

「いかにも。」

さらに婆はしわがれた片手を、身動きのとれぬ千手の胸元から差込み、右の乳房をわしと掴んだ。

「しかもそなた、孕んで(はらんで)おろう。」

婆はなおも千手の顔におのれの顔を近づけ、食い入るように見つめた。

そしてなにを思ったか、婆の手は千手の着物のすそを割り、蛇のようにすばやく

千手の秘所を探し当て、あっというまに体内に侵入してきたのだ。

千手は苦痛と屈辱で身を震わせた。

「・・・・・・よつき・・・・・」

呪文のように婆がつぶやく。

「腹の子に感謝するがよい。」

婆かそう言うと、それまで千手をいましめていた野荊のつるが、霧のごとく消え去り

千手の体は草むらに投げ出された。

「そなたとは近いうちにきっと、もう一度相まみえようぞ。」

「なぜだ。」

「わたしがそなたを必要としているからじゃ。」

婆はしわ深い顔でにやりと笑った。

「わたしの名は咲耶(さくや)。覚えておいてくだされや。」

と言い残すと、婆の姿はふとかき消え、もちろん髑髏の影形も無く、

あたりにはそれまでと変わりない、霧の立ちこめた草の原が広がっているばかりであった。