
・・・・・・・・・なにもかも忘れてしまいたい・・・・・
カイトは仕事場を抜け出し、あてもなく街を歩いた。そしてふらりと人形館に足を踏み入れた。
そしていつしか、館内を一回りして最後のコーナーまで来ていた。そこだけひとつの部屋になっていて
入り口には人形の名とその説明書きが掲げてあった。
『人形師 イバ・リュウセイ作、妖精(ニンフェット)ティア』
(ティア・・・・涙?泣き人形か?)
カイトはたいした興味も持たず、足の向くまま中に入った。
蒼色の光に照らし出され、その人形は座っていた。生身の娘と見まごうほど、艶やかな肌と
うら悲しげに伏せられた目。物言いたげな唇。
「人形・・・・・?」
白い裸体にうすぎぬをまとい、両足を両腕で抱えるようなかっこうで、ティアは座っていた。
人形ティアの髪は背の丈よりも長く、床にゆったりと真っ直ぐに流れ落ち、しかも
それはラベンダー色に輝いていた。
(あの色はまるでアリアドネ星雲のような・・・・・)
すぐに、いますぐにその髪に触れてみたかった。
しかしカイトの指先が感じたのはガラスケースの冷たい感触だけだった。
「これがほんとに人形だっていうのか?」
カイトはケースに全身を押しつけ、ティアを見つめ続けた。
「あれ?お客さん、困るなぁ。」
突然背後から男の声がした。
振り返るとそこには20代後半の男が立っていた。
人形館の雰囲気に似つかわしくない、ちょっと下卑た感じのする男で、両手を無造作に
ポケットに突っ込み、ちょっとはすにかまえてカイトを見ていた。
「ここに入るなら特別料金払ってもらわなくちゃ」
「特別料金?」
「入り口で聞いてないの?」
「チケットは販売機で買ったし、入り口には誰もしなかったよ。」
「ちぇ・・・・ったく・・・・いくら最近人の入りが悪いからって、困るんだよねぇ。」
男は吐き捨てるように言った。
「とにかくね、ここは特別料金がいるの。500ルーク。」
「500ルークって、この人形を見るだけでそんなにとるのか?」
「こりゃそのへんにある普通の人形じゃないんだよ。」
男の口元が意味ありげに歪んだ。
「払うの?払わないの?払わないならさっさと出ていってくれよ。」
そのままその部屋を出ることもできた。たかが人形に500ルークも払うほど物好きな人間ではないと、
カイトは心でつぶやいた。
しかし大枚支払っても、このままここにいたい。ここにいてティアを見ていたかった。
ティアの髪に触れたかった。
「わかった、払うよ。」
カイトが500ルーク支払うと、男は投げやりな感じで少しだけ頭を下げて
「ではごゆっくり。」とだけ言い残し、部屋を出ていった。
確かに、普通の人形じゃないかもしれない。500ルーク払ってもいいと思うほど、ティアはカイトの心を
引きつけてしまっていた。
・・・あの伏せた瞳の色は、何色だろう。蒼か?翡翠か?それとも漆黒・・・菫・・・。
それを確かめるまでは、ここから出られない。
「ティア、ティア。俺を見て。ティア、俺に君の瞳を見せてくれ。」
カイトはガラスケースに顔を押しつけた。
・・・・ティア・・・・・ティア・・・・・
唐突に、その声は人形の口元からかぐわしい旋律となって、あたりに響きわたった。
「ティア・・・?」
ティア・・・・ティア・・・・オレヲ・・・・ミテ・・・・キミノヒトミヲ・・ミセテ・・・・・
「この人形はしゃべるのか?」
コノ ニンギョウハ シャベル ノカ
確かにティアが、この物言わぬはずの人形が、おうむ返しにささやいている。
(そうか、わかった。)
一世紀ほど前に、人の言葉をまねる人形が爆発的な人気を得た。
まねるだけじゃない、しだいに言葉を記憶していき、しまいには簡単な会話ができるようになるという
ふれこみでものすごい数が売れたと記録されている。
これもまた移り気な人の心に翻弄され、まもなく記憶の断片からも消えていったが、
(そうか、これはあの人形の名残か・・・・)
よし、それなら・・・・・・
「蒼い宇宙(そら)の果ての果てに」
・・・・アオイ・・・ソラノ・・・ハテノ・・・ハテニ・・・・
「置き忘れた 僕の心」
・・・・オキワスレタ・・・・ボクノ・・ココロ・・・
「羽を無くして もう取りに戻れない」
ハネヲ・・・ナクシテ・・・モウトリニ・・・モドレナイ・・・・
いつのまにか、泣いていた。
ティアがまるで、自分の心を知っていてくれたような気がして、カイトは泣きながらその場に
座り込んだ。
「ティア、僕はカイト。君はティア、僕はカイト」
・・・・ティア・・・ボクハカイト・・・キミハティア ボクハカイト カイト カイト カイト・・・・
「愛してるよ、ティア」
・・・・アイシテルヨ・・・・・ティア
その時、伏せていたティアの瞳が微かに開いた気がしたが、涙でうるんだせいで
そう見えたのだと、カイトは自分に言い聞かせた。