第一章


「平家にあらざれば人でなし」
栄華を極めた平氏も、清盛の死後その華やかな幕を降ろし始めていた。
清盛の五男、平重衡(たいらのしげひら)は一ノ谷の合戦で
生け捕られ、「南都大衆」鎮圧の際、兵火によって奈良東大寺の大仏を
消失した罪を問われた。
平家の若武者、平重衡は刑を申し渡されるまでの間、伊豆出身の
武士(もののふ)狩野介宗光(かのうのすけむねみつ)に身柄を
預けられていた。
壇ノ浦の合戦の前年である。

    *南都大衆・・・反平氏的な動きをしていた東大寺興福寺の
              僧兵


葉擦れの音ばかりが聞こえていた。
重衡は森の奥の木の間から静かに自分を見つめている影に
気づいて足を止めた。
「宗光殿、鹿が。」
「あれは麝香(じゃこう)でござる。」
鹿は石像のように微動だにしない。
「麝香は深山に住むものと聞きましたが。」
「さよう、常は木暮山の奥に身をひそめている麝香が、時折
この森まで降りてまいるのでござる。」
「ほぉ、それはまたなにゆえ?」
「さぁ、それはわたくしにも。」
重衡が再び森の奥へ視線を戻したとき、底には既に鹿の
姿はなかった。

清盛の五男、重衡が一ノ谷で生け捕られ、身柄を狩野介のもとに
預けられたのは前日のことである。
「ここからは木暮山がよう見える。」
東に峙つ木暮山はうっすらと色づき始めていた。
(これが本三位中将の顔か・・・・・・?)
重衡の横顔に、宗光は心の中で問いかけた。
若い身空で平家一門の大将格としてその名を響かせた平重衡。
しかし確実に浴びたであろうおびただしい流血の臭いを
微塵も感じさせぬほどに、その武士(もののふ)は
おだやかだった。
「このあたりは風光明媚ゆえ、重衡殿もたまには気晴らしに
散策などなされるがよかろう。」
「宗光殿のお心遣い、まことにかたじけないが、囚われの身の
僕(やつがれ)にそこまでなされては・・・・。」
「いやいや、お気をまわされるな。重衡殿は敵に後ろを
見せられるような輩(やから)ではないと信じておりまする。」
「さあ・・・・それはどうか。逃亡するやも知れませぬぞ。」
重衡は笑った。

「ん?」
宗光の館への帰途、重衡は不可思議な光景に目を留めた。
風はいつのまにかやみ、葉擦れの音も消え、あたりはしんと
静まり返った。
しかし草むらの一カ所だけ、奇妙に揺れている。
「野兎か?」
「鹿では?」
「宗光殿、念のため腰の物を抜かれよ。」
重衡はおもむろにその一点に近寄った。
(血の臭い・・・・・・・)
紛れもなく、重衡の嗅覚をついたのは、戦場で幾度となく嗅いだ
臭いと同じものであった。
重衡は手で草を薙いだ。
男がうつ伏せに倒れていた。
「重衡殿、こ、これは・・・・・。」
肩から腕にかけて鮮血で染めたその者は、全身を小刻みに
震わせながらようやく顔をあげ重衡を見た。
唇がもの言いたげに歪んだが、言葉にならず
再び地面に倒れ込んだ。
「気を失ったようだな。」
「これはおおかた盗賊かなにかでしょう。かかわりあいに
ならぬほうがよろしかろう。」
重衡はやにわに己の片袖を引きちぎり、手ずからその者の
傷口を押さえた。
「重衡殿、なにをなされるおつもりじゃ。」
「宗光殿、我の頼みを聞いていただけぬか。」
「よもや、その者を助けようというのでは?」
「聞いていただけぬか。」
「まぁ、当方はかまいませぬが・・・・。」
すると重衡はその者をいとも軽々と抱きあげた。
人の良い性格(たち)の宗光も、重衡の行為を理解しかねた。
どこの馬の骨ともわからぬ者を・・・・・・
しかし、重衡のうらがなしい目を見ると、頼みを断り
きれなかった。
(中将殿はなにをお考えなのか・・・・・)