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| その日は昼12時きっかりに1回、午後1時に1回、3時に1回5時に1回、着信があった。 すべて公衆電話からで、おそらく紫苑からの電話だと思われた。 俺は出なかった。しかしズボンのポケットで携帯がブルブル振動するたびに、俺の全身からねっとりとした汗が 吹き出してくるのがわかった。 しかも出ないとわかったらすぐに切ればいいのに、携帯は15分以上も震えつづけるのだ。 (いったいなんなんだ・・・・なんだっていうんだ、この女は。) 仕事も手に付かず、しまいには携帯をたたき壊してしまいいたい衝動にかられる。 家に帰るまぎわ、再び電話が来た。 思い切って出ることにした。 「もしもし、あたし。どうして出てくれないの?さっきから何回も電話してるのに。」 紫苑の声は思いがけず落ち着いておだやかだった。 「今日は忙しいと言ったろう。仕事中には私用の電話は控えるように、会社で習わなかったのか・・」 つい語気が強くなる。 「だって、あなたの声が聞きたかったんだもん。」 さもつきあいの深い恋人に甘えるように、紫苑は答えた。 「とにかくいい加減にしてくれ。頼む またこっちから連絡するから。な?頼むよ」 「ほんと?ちゃんと連絡してくれる?」 「するよ、必ずする。」 「約束よ。」 「ああ、約束する。」 「明日会ってくれる?」 「明日は無理だと言ったろう。」 「じゃ、あさって。」 「だめだよ。」 「どうして?どうして?どうして?どうして?どう・・・」 俺は携帯を切った。そのまま紫苑の声を冷静に聞き続けることはとてもできなかった。 そしてそのまま携帯の電源を切った。 その足で携帯ショップへ行き、携帯を解約した。そして別の携帯会社の電話に代えた。 帰宅して妻に携帯を代えたことを伝えると、妻は目を見開いて言った。 「えー?どうして急に?いままでの便利だってずっと使ってたんじゃないの。しかも別の会社っていったら いままでたまってたポイントとか使えなかったんじゃないの?」 「ポイントなんてそんなこといってる場合じゃないんだよっ!」 「あなた・・・なにそんなに怒ってるのよ。」 「ああ・・・すまん。前の携帯おっことして壊れちゃったんだよ。別の会社の携帯もたまにはいいだろ。 特に意味はないよ。」 なにをそんなにびくびくしてるんだ。携帯を代えてしまえば、もう電話もかかってくることはない。 あとはメールだけだが、そんなの読まずに削除してしまえばいいのだ。 夕食前にパソコンを立ち上げて、とりあえずメールチェックしてみた。 「う・・・・・・・・・っ」 俺の目はパソコンのディスプレイに張り付いた。 『167通のメールが届いています。』 ひゃく ろくじゅう なな・・・・・? 俺は取り憑かれたようにすべて受信、震える手でマウスを操作し、その中のひとつを開いた。 『「5月18日 12時08分 送信者 紫苑 ちっとも電話に出てくれないのね。こんな時あたしも携帯持ってればよかったって思う。 明日買いに行こうかなぁ。今日は会社無断欠勤しちゃったの。あなたに会えると思ってたんだもん。 つまんない。』 『5月18日 13時00分 送信者 紫苑 ね〜けい?あたしに会いたくなってきたでしょ?あたしは会いたいわ。あのね、秘密の画像 撮っちゃった。見たい?見たいよね。送るね♪見たらあなたのも送ってね、きっとよ』 そのメールには添付ファイルが付いていた。 むやみに添付ファイルは開けちゃいけないと知ってはいたが、その時の俺はもうまともな判断力は 麻痺してしまっていた。 添付ファイルを開く。 「こ・・・これは・・・」 それはおそらく紫苑の 紫苑自身の局部の画像だ。 得体の知れない生き物が、腹を空かせて涎をしたたらせながら獲物を待ってでもいるかのように、 それはぬらぬらと、どす黒い口をあけて 俺に襲いかかろうとするかのようだ。 俺は軽い吐き気をもよおして、画像を閉じた。 くそっ くそっ くそっ! そうつぶやきながら、受信したメールをすべて削除した後、すぐに紫苑のメールアドレスを 受信拒否設定にした。 これでいい。これでもうあの女からのメールは見なくてすむ。 それにしてもあの女は常軌を逸している。今日一日会社を休んで、自宅と公衆電話を 何回も往復しながら 俺に167通もメールを送信しその合間にこんな画像を撮影していたのか。 それでもとにかく携帯は代えた。アドレスも拒否した。 これであの女からは逃れることができる。 もう二度とこんな思いはいやだ。ちょっとした刺激のつもりがとんだ地雷を踏んでしまったようで 俺は激しく後悔していた。 |
| それから一週間、紫苑からはなにも連絡がなかった。 それでもたまに携帯の着信音でびくつくことがあったが、それは全部仕事関係か友達からの電話で、 ちょっとトラウマになっているなと苦笑した。 それは紫苑からの連絡が途絶えて10日のことだった。 自宅で夕食を食べた後、テレビを見ていると自宅の電話が鳴った。 妻が出る。 「あなた、電話よ、女の人」 「ん?誰だ?」 「知らない ご主人いらっしやいますか?ってなにかの勧誘じゃないかしら。」 「ああ、そうか。どれ」 妻から受話器を受け取り、耳に当てた。 「はい、かわりましたが。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・もしもし」 紫苑?!それは紛れもなくあの女の声だった。 なぜだ、なぜ俺の自宅の電話を知ってるんだ!? 「携帯代えちゃったのね。メールも毎日送ってるのに、読んでる?」 「は・・・はい・・・」 そう答えるのがやっとだった。 「ねぇ・・・けい。会いたかった・・・ねぇ・・・けい、お願い、会って 話したいことがあるのよ。大切な話」 「は、はぁ、その件につきましては会社で調査いたしましてからあらためてご連絡させていただきます。」 そう答えるのが精一杯だった。 「奥さんが側にいるから話せないのね。そうよね、ごめんねお家に電話したら駄目ってわかってたんだけど、 けいったら携帯もメアドもかえちゃうんだもん。ねぇ、新しい番号教えて」 「あ、新しい番号は・・・・」 ついに教えてしまった。教えるしかなかった。他にどうすればよかったと言うんだ。 新しい番号を教えなかったら、また彼女は自宅に電話してくるに決まっている。 「じゃ明日電話するね♪愛してるわ けい。」 紫苑のうれしそうな声、無邪気にも聞こえる明るく弾む声。 受話器を置いた後、俺はこみ上げてくる苦い唾液を飲み下した。 「あなた?誰だったの?」 「顧客だよ。緊急にこの前の契約内容の変更したいっていうんだ。会社に行かないと正確な数字は わからないから、明日会社にいる時に電話してくれっていったのさ」 「そう、家まで電話してくるなんてよっぽど緊急なのね。最初なんだか泣きそうな声だったのよ、 田村恵一さん ご在宅でしょうか・・・って。若い女性っぽい声だったけど、契約ミスかなんかで 上司に怒られたのかしらね」 「田村 そう言ったの?」 「うん、言ったわよ。羽田商事 第一営業部の田村恵一さんって。」 紫苑がなぜ俺の本名を・・・・・・・・?なぜ会社名まで知ってるんだ! 口の中に広がる苦い唾は、俺の全身に広がって真っ黒い塊となって俺自身を押しつぶそうとしていた。 |
| 翌日、俺は会社には外回りに行くと言って、朝のミーティング終了後すぐに会社を出た。 きっと、必ず紫苑から連絡が来る。話したいことがあると言った。なんの話だろう。 会社では込み入った話ができない とにかく逃げてばかりいたってらちがあかない。今日はじっくり彼女と話し合わなくてはならないだろう。 午前10時きっかりに、携帯が鳴った。 「もしもし、あたし。」 紫苑だった。 「いったいどういうつもりなんだ!どうして家に電話したりするんだ!どうやって調べた、俺の本名も 会社も、どこで調べたんだ!なにが望みだ!」 俺はいっきにまくしたてた。そうでもしなければ、気が狂いそうなくらいの動揺が抑えられなかったからだ。 「落ち着いて、けい。」 「なにが落ち着いてだ!どうして君は俺の名前や自宅の番号を知ってるんだ!答えてくれ」 「この前愛し合った後、あなたぐっすり眠ってたじゃない、あの時スーツの胸ポケットに入っていた 手帳と、名刺入れ見せてもらったのよ。」 なんてこった・・・・・・確かに俺はつい10分くらい寝入っていた。 そうか、あの時に。 「どうしてそんなことを。」 「だって好きなんだもん。愛してるんだもん。」 悪びれる様子もなく、当然と言った口調で紫苑が答えた。 「ね、明日会ってくれる?」 「会えるわけないだろう・・・・・。」 「どうして!愛してるのに!こんなに愛し合ってるのに、あたしたち。」 「愛し合ってる!?」 「だって、愛してるって言ってくれたじゃない。言ってくれたよね?あんなに激しく、あたしたち 愛し合ったじゃない。」 なにを言ってるんだ。そんなの言葉遊びに過ぎないじゃないか。こいつやっぱりいかれている? 「とにかくもう家に電話しないって約束してくれ。」 「わかったわ、今奥さんにばれたら困るもんね。とにかく今は音便にしてないと、離婚する時になかなか 話が進まないってことあるらしいから。慰謝料とか請求されても困るしね。」 「離婚?誰が離婚するんだ?!」 「あなたよ。奥さんと離婚するんでしょ?そしてあたしと結婚してくれるんでしょ?」 俺は軽いめまいを覚えた。 「なんで俺が離婚するんだよ。」 「愛し合ってるんだもの、結婚するのが当然でしょ。あなたも奥さんに愛情がないからあたしを抱いたんでしょ?」 どうして話がそうなるんだ。やっぱりどうかしている。なんとかしなけりゃ・・・・でも どうすればいいんだ。 どうすれば・・ 「それにね、あたしね・・・・」 紫苑がくふっというような笑い声を発し、とてももったいぶったような口調でこう言った。 「あたしね、あかちゃんができたの。」 その言葉は俺の心臓をひと突きして、肉を切り裂きぐりっと臓物をえぐりだすのに充分な威力があった。 「あかちゃんって・・・・」 「けいのあかちゃんよ。けいとあたしの。」 俺の子供だって?たった一度の行為で?そりゃ確かになりゆきで避妊しないまま果てた。 それだって紫苑がしがみつくから・・・・・まてよ、まさかそれもすべてこの女の策略だったのか? 「すまない、俺が悪かった。なにが望みだ、金ならなんとかする。もうこんなことやめてくれ、な?頼む」 「お金って・・・・そんなの欲しいんじゃないわ。わたしのことそんな女だと思ってるの?ひどい。」 「じゃ、どうしたいんだ。」 「可愛いあかちゃん産んで、あなたと結婚して、幸せな結婚生活おくるのが今のわたしのささやかな夢よ。」 ささやかな 夢。 「な、お金なら出す。いくらかかるんだ?10万あれば足りるか?」 「いくらかかるってどういう意味?」 「病院だよ。」 「なに言ってるの?あなたまさかこの子を・・・・あたしは産むわよ。」 「よく考えてみろ、そんなの無理に決まってるじゃないか。それに俺の子供だって証拠はあるのか?」 「ひどい人!ひどい人ね!」 そして電話は切れた。 携帯を握るてのひらに、脂汗がにじんでいた。ひどいことを言った。でも他にどんな言葉があったというんだろう。 こんなことって。 悪い夢を見ているとしか思えない。悪い夢なら朝になれば覚める。そうだ、きっと明日の朝になったら この悪夢から目覚めて、またいままでとかわりない平凡だけど安全な日常が待っているに決まっている。 そう自分に言い聞かせた。 |