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| 終業時間まぎわの社内は、その日1日の残務整理を終えほっと一息つく社員たちでざわついている。 アフターファイブの相談を交わす者、仕事先の愚痴を言い合う者、話す気力も無くしてただぼーっとディスクに 頬づえつく者。 いつもならそんな喧噪がわずらわしい俺だったが、その日はそんな現実のざわめきに安堵感を覚えていた。 仕事と偽って、初対面の女と経験したあの数時間。 後ろめたさと ちょっとした虚しさと、そしてめくるめく快感。 「佐々木、今日いつものとこ、行かないか?」 小林が飲む手真似をしながら俺の肩をたたいた。 「ああ・・・今日はいいよ、遠慮しとく。」 「なんだー?お疲れのご様子、取引先でやなことでもあったか?」 「いや、そーじゃないけどな・・・」 さすがに今日は飲みに行く気力なんて残っていない。 結局立て続けに三回。紫苑は俺の体液という体液をすべてしぼりとろうとでもするかのように どん欲に俺の体をむさぼり尽くしたのだ。 狂ったように腰を降り続ける紫苑に、少し常軌を逸しているものを感じたりもした。 よっぽど男に飢えているのか。彼氏を親友に奪われてから、ずっと体を持てあましていたのかもしれない。 それでも、終わった後は満ち足りた笑顔で俺にそっとキスして、 「愛してるわ。」とささやいた。 その声は限りなく優しく、少女のように愛らしく澄んでいた。 「なぁ、佐々木。つきあうのに独身ってありだと思うか?」 「どういう意味だ?そりゃ」 「独身の女とつきあうのって、やっぱりやばいかなってことさ。」 「お前独身の女とつきあってんの!?」 「いや、例えばの話だって、例えば。」 「ん〜そりゃ相手にもよるけどな。俺はしないね。」 「やっぱりそうか?」 「俺の大学時代の友達でさ、独身の彼女に本気になられちゃって、自分ちの玄関先で焼身自殺されたやついるぞ。」 「おいおい・・・・おだやかじゃないな・・それ。」 「別れ話がもつれたらしい。灯油かぶってさぁ・・・・・。やつは精神的に再起不能。それ以来鬱状態になっちまって いまだに病院に通ってるらしい。それだけじゃない」 「もっとあるのか?」 「あっちのほうが駄目になっちゃったんだよ、ショックで・・・・・・」 「いまだにか?」 「ああ、 女は怖いってさ。でも心配するな、お前はそんなヘマはしないだろ?結構石橋たたいて渡るタイプだもんな」 小林は下卑たような笑みを浮かべた。 「ま、そうだな。デンジャラスゾーンには足踏み入れないのが得策ってことかな。」 「でもあれだぞ、独身でも利口な子はいるからなぁ。人妻でも地雷ってこともあるし。性格じゃないか?性格。」 小林の言うとおりだ。 要は性格だ。 しかし紫苑はどうなんだろう。紫苑の性格なんて俺にはまったくわからない。 だってメールを数通やりとりしただけなんだから。 性格もわからない女と寝てしまったんだと、いまさらながら思う。 でも、別に俺が誘ったわけじゃない。あっちが誘ってきたんだ。 女から誘われたら好むと好まないのにかかわらず、乗ってやるのが礼儀だろう。 それが思いやりだ。それが親切ってものだ。 と、必死に自分に言い聞かせていた。 小林の誘いを断って、家に帰ると妻がおかえりを言う間もなく、息子の尚人の塾の成績が最近下がったと ぼやき始める。ひとり息子の尚人に対する妻の期待は並々ならぬものがある。 どっちに似たってそんなに頭脳明晰成績優秀は期待できないはずなのに。 「月5万も塾に払って、成績が下がるなんて・・・ねぇ 塾代えようかしら。坂本さんの奥さんがもっといい塾 紹介してくれるっていうのよ。」 「また入会金から払い直すっていうのか?お前いいかげんにしろよ、いくらかかると思ってんだ。」 「だってあなた、尚人の将来がかかってんのよ?このままじゃ希望の大学になんか入れないわ。」 「大学って、尚人はまだ中学だろ、いいから飯にしてくれよ」 「バカね!いまどき希望の大学に入ろうと思ったら、幼稚園の頃からみんな必死になってるのよ?」 まだ当分夕食にはありつけそうになかった。 俺は妻の声からのがれるように、書斎兼物置部屋兼俺の部屋に入りパソコンの電源を入れた。 とりあえず紫苑にメールをしておこうと思った。 できれば次ぎに会う約束も取り付けたい。来月か、再来月でもいい。 彼女さえその気があるなら、月に一度くらいあのめくるめく快感ってやつを経験したいものだ、と思った。 それくらいの刺激を味わってもバチは当たらないだろう。 彼女だって次の彼氏が見つかるまでの 寂しさの埋め草としてなら都合がいいはずだ。 ネットにつなぎ、いつものとおりメールをチェックする。 「受信メールが 30通?」 たしかに最近わけのわからないスパムメールの類は来るが、いきなり30通というのは妙だなと思った。 受信して、さらに俺は身がすくんだ。 すべて紫苑からのメールだった。30通 すべて。 『5月17日 16時15分 送信者 紫苑 今、部屋に帰りました。今日はうれしかった、あんなにあなたの愛を感じたことはいままでなかった。 やっぱり会ってよかった。あなたはわたしの思っていた通りの人。 もっともっとあなたを感じていたかった。愛してるわ・・・けい。ずっと一緒にいてね。』 『5月17日 17時03分 送信者 紫苑 ずっとずっとあなたのこと考えているの。あなたのことが頭の中にいっぱいで、どうかしちゃいそう。 またすぐにでもあなたに抱きしめられたいの。』 『5月17日 17時20分 送信者 紫苑 まだ会社から帰ってないの?いつ帰るの?早くあなたのメールが欲しい。待ってるのに・・・ ねぇ、今度はいつ会えるの?明日は?あさっては?わたしはいつでもいいの。あなたが 呼んでくれさえしたら これからだっていいのよ。またさっきみたいに抱いて・・・・・』 『5月17日 17時23分 送信者 紫苑 まだなの?まだ帰ってこないの?早くあなたのメールが欲しい。抱いて欲しい。愛してるの・・・ 明日会える?会社ならわたしいつでも休めるの。あなたのためなら会社辞めたっていいと思ってる。 あなたに合わせるわ。辞めたらいつもあなたのいい時間に、あなたと会えるでしょ? 大好きなの、けいが。愛してるの。」 紫苑からのメールが数分おきに来ていた。 そしてネットにつないでいる間も、次々とメールの受信音が鳴り、チェックするとすべて紫苑からのものだった。 (・・・・なんなんだ・・・・これは・・・・) 『5月17日 19時30分 送信者 紫苑 なにしてるの?!まだ帰ってないの?早くメールが欲しい・・・・あなたの打つ文字がみたいの。 愛してるって言って お願い。苦しいの。』 とにかく返事を書かなくちゃならない。俺は激しく動揺した。 でも、なんて書けばいいんだ・・・・なんて。 『紫苑さん さっきはどうもありがとう。今家に帰ってきました。 初対面なのにあんなことになってしまって、君には申し訳ない気持ちでいっぱいです。 でも楽しかったよ。明日は仕事が忙しいので、残念だけど会えません。でもそのうちきっと 都合がついたら、連絡するね。ほんとに今日はありがとう。』 それが俺に書ける精一杯のメールだった。 これで少しは彼女の気持ちも落ち着くだろうか。 案の定、このメールを送ってから、紫苑のメールはぴたっとやんだ。 「やれやれ・・・・・」 きっと彼女も、俺がそこまで本気にはなってないってことに気が付いただろう。 だいたい俺が既婚者だってことを承知であってから誘ったんだ。それくらいの割り切りがあってのことだろう。 彼女も子供じゃないんだから。 そう思った、いや 思いこもうとした。無理矢理に・・・・・ |
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| 翌日の午前中のことだった。 ズボンのポケットの中でバイブ設定にしている携帯が鳴った。 見ると「公衆電話」の表示。 「もしもし・・・・・」 紫苑だ。まぎれもなく紫苑の声だ。 ディスクで書類の整理をしていた俺は、声をひそめて言った。 「あ・・・・ああ・・・君か。どうしたの?」 「今日ね、仕事休んじゃった♪」 紫苑の声は生き生きと楽しげにはずんでいた。 「え、どうして?体の具合でも悪いの?」 「なに言ってるのよぉ、けいとデートするからじゃないのぉ」 デート?そんな約束はしていない。 「デートって・・・・昨日メールに書いたでしょ、今日は忙しくて時間がとれないって。」 「じゃ明日、明日も会社休むし、あたし。」 「だめだよー、無理言わないで。」 「冷たいわねぇ・・・・少しでも時間とれたら、メールしてね。お願いね」 「わかったわかった。メールするよ」 「愛してるわ、けい」 「うんうん」 「けいも愛してるって言って、ねぇ、言ってよ」 「今職場だから・・・・」 「言ってくれないと、ずっと電話切らないわよ。」 俺は小走りに部屋から出て、誰もいない階段の下に移動した。 「あ・・・愛してるよ。」 「うれしい!あたしもよ、けい、愛してるわ!」 そして紫苑の電話は切れた。 とんでもない地雷を踏んでしまったのか 俺は。 携帯を握りしめながら、背中にじわりと冷たい嫌な汗がにじんでくるのがわかった。 でもいいさ、携帯だってメールアドレスだって、いざとなったら代えることができる。代えてしまったら「けい」という人間は 紫苑の前から消えてしまえる。ネットってそういうもんじゃないか。 なにをしても、なにを言っても 携帯とアドレスを代えてしまえば 無かったことにできるのだ。 すべて、存在そのものすらなかったことにできるのだ。 パソコンがフリーズしてしまったら強制終了するみたいに、 紫苑と俺との関係も、強制終了してしまったら、跡形も無くなってしまえるんだ。 |