強制終了


『紫苑』は もちろん本名ではない。
インターネットの出会い系サイトの掲示板に、彼女は『紫苑』という名で登録されていた。
そういえば紫苑の本名を知らなかったことに気がついたのは、ずっと後になってからのことだ。
そういう俺自身も 彼女には「けい」としか伝えていない。
でもいつのまにか彼女は、俺の本名も住所も、会社も生年月日も 妻の年齢も中学生の男の子がいることも
全部知っていた。

俺がインターネットの出会い系サイトで、登録してあった女性にメールしたのは、半年前のことだ。

『紫苑です。都内に住む27歳、OLやってます。独身です。本音で話せるメールフレンドが欲しくて、思い切って登録しました。
友達にも言えない悩み事を話したり、心がほっとするメール交換ができたらいいな』

この手の登録にメールしても、返事が返ってくることなどまず無いと、同僚の小林が言っていた。
同期入社で同い年の小林はこういう話には詳しい。よくこういうメルトモ募集サイトに書き込みしているらしく
最近ではあやしげな携帯出会い系サイトにも手を出し始めたようだ。
「特に俺たちみたいな40男は、人気ないみたいだぞ。この前『35才の会社員です。』ってはったりかましたら、
返事は返ってきたんだけどな、『本当は40なんです』って書いたら、とたんに返事来なくなってやんのっ。
バカにしてっぜ〜」
「そりゃいい年してサバよむお前が悪いよ。」
俺は笑いたいのをかみ殺しながら言った。
「バカだなぁ、メルトモに正直な自己紹介書いてどーすんのよ。どこの馬の骨かもわかんない同士なのによ。
それにな、サバよむのは女のほうがもっとうわてだぜ。」
そして小林はいきなり俺の耳元に顔を寄せて、小声で言った。
「この前さ、実は面接してきたんだよ・・・・」
「なに?会ったのか?」
「ああ・・・・・メールじゃさ、33とか言って 女優の黒沢瞳に似てますなんて書いてあったから、
俺、期待しちゃってさ。待ち合わせの場所に行ったら、黒沢瞳とは似ても似つかないすげーおばさんが
いてさ。まいったよ」
「33じゃなかったの?」
「どうみてもありゃ50近いな・・・・・ド派手なかっこしちゃってさ、うわずった声で『はじめましてぇ』とか言うんだよ。
で、ちょっとお茶だけ飲んでさ、帰ろうとしたら 彼女どうしたと思う?」
「どうしたんだ?」
小林はますます俺に体を近づけて、押し殺した声で言った。
「ふたりっきりになれる場所に行きましょう って言うんだよ。」
「ホ・・・ホテルに誘われたのかっ?」
「いやぁ〜びっくりしたよ。俺さ、女からホテルに誘われたの初めてだよ。」
「で?行ったのか?」
「行かないよー、いくら俺でもあの女は無理だ。ちょっと用事があるんで って言って逃げてきたよ。」
「お前そりゃ失礼なんじゃないの?女心ってもんわかってないなー」
「じゃなにかよ、お前なら行くのか?」
「行くかもしれないな、だって断ったら相手に失礼だろ。よっぽど生理的に受け付けないってわけじゃなかったら
俺、行くよ。それが相手に対する礼儀だろ。」
すると小林はにやにや笑いながら言った。
「お前・・・・甘いなぁ。お前のほうがよっぽど女心をわかってない。お前みたいなのが地雷女につかまるのさ。」
「なんでだよぉ」
女から誘ってくるなんて、男としてはうれしい話じゃないか。
断って相手を傷つけるくらいなら、誘いにのってやるのも思いやりってもんだろう。
その時の俺はそう思っていた。
小林はそれ以上はなにも言わなかったが、彼の言葉の意味を理解したのは
もっともっと後になってからだった。
もちろん理解できた頃にはもう遅かったわけだけど・・・・・・

『はじめまして、「ケイ」といいます。同じく都内に住む40歳の既婚。営業マンやってます。
 趣味はドライブ・音楽鑑賞・映画。優しい女性とメール交換したいなぁって思ってました。
 もしよかったら、メールください、待ってます』

意外なことに、彼女からの返信はすぐに届いた。

『メールどうもありがとうございます。わたしもドライブは大好き。昔はよく横浜あたりまで
ドライブに行ったけど、最近はあまり行ってません。ひとりで行っても楽しくないしね。
そういえば最近映画も見に行ってないなぁ。』

そして彼女のメールには、短大を卒業してからずっと今の会社に勤務していること。
去年 5年つきあっていた彼氏と別れたこと。それは彼氏の浮気が原因で、浮気相手は自分の親友だったこと。
先月会社が大幅なリストラ方針をうち立ててその対象に自分もあがっていることなど、
まだメール交換をはじめたばかりの相手にここまでうち明けるかと思うほど、かなり突っ込んだ身の上話まで書いてあった。


何度かメールをしていくうちに、彼女の住んでいる場所が、会社からさほど遠くないこともわかった。
さらに彼女は、今会社の5才年上の上司に結婚を申し込まれていて、相手がほとんどストーカーかと思うほど
熱烈にアピールしてきて困っていることや、他にも何人か交際を申し込まれていて、このまま結婚退社しようか
本当に好きな人があらわれるまで仕事を続けていこうか迷っていること、
自分が学生の頃一度だけファッション雑誌のグラビアに、読者モデルとして出たことなど、
より具体的に書いてくるようになった。
啓一の好奇心は刺激された。どんな女なんだろう。一度に複数の男から口説かれる女なら
容姿もまんざらではないだろう。素人とはいえモデル経験ありとくれば、言わずもがなだ。
そして思い切ってこんなメールを出してみた。
『もしよかったら、一度ランチでも一緒に食べませんか?新しくできた美味しいパスタの店があるんです。
美味しいものでも食べながら、日頃いろんなストレスとか愚痴とか悩み、そういうのを僕と話すことで
たまには解消してみませんか?なんでも聞きますよ』
思いのほか、彼女の反応は良く 次の水曜のお昼に会うことになったのだ。
下心はなかったと言えば嘘になる。でもその時は本当に下心より好奇心のほうが大きかった。
メールフレンドと会うってどんな感じなんだろう。
文字から知り合う関係って、それから先はどんなふうに変化していくものなんだろう と。

刺激を求めていた。
痛い思いをしない程度の刺激。
毎日毎日会社と家の往復と単調な日々。見慣れた女房の顔と体。そして40になって急激に感じてきた『老い』。
このまま年老いて行くのかと思ったら、いてもたってもいられなくなる。
(俺だってまだまだ・・・・・)
男として通用するということの確固たる自覚が欲しい。
かといって、手近な場所にいる女の子と浮気する気力は無い。
女の子をなだめてすかして機嫌をとり 自分や家族に向けられる青い嫉妬心をやりすごしながらする浮気より
お互い割り切って、あとくされなくする浮気のほうが、どんなに楽で楽しいだろう。

割り切ったあとくされのない関係をハート模様の包装紙でラッピングして、ピンクのリボンをかけると
最近では「婚外恋愛」とか呼ぶらしい。
便利な言葉ができたもんだと思う。
これならもしかしたら、さえない40男の俺だって、ちょっとした刺激を手に入れることができるかもしれない。

俺はまだ見ぬ紫苑の顔と体を想像して、心を躍らせていた。