136ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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甲府陣屋
甲府市

享保2年(将軍・徳川吉宗の時代)に甲府藩が幕府直轄領となった際に甲府城の二ノ丸に陣屋が築かれたのが始まりです。幕末に石和陣屋に統合されるまでの144年間支配していました。甲府城の稲荷櫓に入ったときに、甲府市内の史跡を地図にしたパネルがあり、その中に甲府陣屋の存在を知りました。パネルには石碑「甲府陣屋跡」の写真入りで「現在は撤去保存されている」と書いてあったのですが、現在は富士川小学校が統合で廃校となり、跡地は富士川悠遊館という総合体育館として建て直されていて、敷地がきれいに整備されていたので、なぜ元の場所である敷地内に石碑を戻さなかったのかが残念でなりませんでした。甲府市教育委員会は史跡をもっと真剣に考えて欲しいと思いました。写真は、富士川悠遊館(甲府陣屋跡)の玄関にあった富士川小学校の由来碑です。

一条氏居館
甲府市

平安末期に源義光の曾孫・一条忠頼の居館があった場所です。忠頼は武田信義(武田氏の始祖)の嫡男で、と共に源頼朝の家臣として平家討伐で大活躍しました。しかし、甲斐源氏の台頭を恐れた頼朝の命を受けた天野遠景(頼朝が伊豆で幽閉生活を送っていた頃から助けていた御家人)によって謀殺されてしまいました。写真は「小作」のほうとうを食べたくなって甲府に行った時に立ち寄った一蓮寺(時宗)の本堂で、忠頼夫人が菩提を弔うために居館跡内に建立したのが最初です。歴代の住職は一条氏と武田氏の一族のみが歴任し、遊行時衆の寺だったことから一條道場と呼ばれていました。県内には、増穂町にある宝林寺(日蓮宗)と市川三郷町にある蹴裂神社も忠頼の居館跡があります。余談ですが駿河国にある明楽寺跡(浄土宗で現在は廃寺)にも忠頼の墓があります。

武田義信邸
甲府市

戦国時代に武田義信が幽閉されたのが臨済宗・東光寺です。義信は武田信玄の嫡男で、妻は今川義元の娘・嶺松院です。傅役の飯富虎昌よって英才教育を受けた義信は、智勇兼備の武将で重臣達の間でも人望の厚い跡継ぎとして育ちました。数々の戦いでは赤備え軍団を率いて大活躍をしたという文献が残されています。しかし、義元亡き駿河を巡って家中が二つに分れると、強い危機感を抱いた信玄によって幽閉されてしまい、わずか30年の生涯を閉じました。義信事件は多くの一族と重臣達が処刑されるなど、武田家に深い影を落とし、武田家の滅亡に直結する原因となりました。写真は甲斐に侵攻した織田軍の兵火から免れた仏殿で、当時の刀傷が残っています。余談ですが裏手の墓地には、義信と諏訪頼重(信玄の妹婿)の墓があったので、両手を合わせて頭を下げました。
※正確には幽閉地で、ここでは邸宅として紹介しています.

織田陣城
甲府市
武田家の敗色が濃くなってきた天正10年3月7日、甲府に侵攻した織田信忠(信長の嫡男)が本陣を置いた所が、写真の甲斐善光寺(浄土宗)です。信濃善光寺(天台宗&浄土宗)に川中島の戦火がおよぶことを恐れた武田信玄が、自分の領国である甲斐へ本尊を安置するために建立したのが甲斐善光寺です。武田勝頼(信玄の4男)が天目山で小山田信茂(信玄の従弟)の裏切りに遭って滅亡したのが3月11日。投降してきた信茂は不忠の行動を咎められて処刑、織田軍に捕まった葛山信貞(信玄の庶子),一条信龍(信玄の異母弟),武田信友(駿河で産まれた信玄の異母弟),武田信堯(信友の子)は、3月16日までに甲斐善光寺の境内で自刃させられました。約2ヶ月半後の6月2日の夜中に、信長と信忠は本能寺において重臣・明智光秀の大軍に襲われて自刃しました。
烏森砦
身延町
戦国時代に武田信虎と信玄に仕えていた重臣・飯富虎昌が管理する烏森砦がありました。眼下を通る富士川街道(甲斐と駿河の往還道路)の向かいにある兵部平に飯富氏の屋敷(現在は流れの変わった富士川によって消滅)がありました。信玄の嫡男・義信の傅役をしていた虎昌は身代わりとなって切腹する事で武田家の内紛を回避させた忠臣です。虎昌の嫡男・昌時は事件後に京都の公家・三条家を頼った時に古屋姓を名乗る様になりました。写真は烏森砦の麓にある永久寺(日蓮宗)の裏手にあった昌時の供養塔で、土中に埋もれていたのを掘り起こして立て直されました。非常に悩んだ信玄の命を受けて自刃した虎昌一族や郎党の数十を数える供養塔群が周囲を囲む様にしてありました。虎昌も見たであろう今でも変わらぬ風景を眺めながら、戦国の浪漫に浸ってしまいました。
身延代官邸
身延町

江戸時代に甲斐国・久遠寺(日蓮宗)の門前町一帯を支配していた池上氏の身延代官邸がありました。お袋を連れて身延方面の史跡巡りで久遠寺に行った後、門前町の中を探し回って見つけたのが写真の石碑で、高さ60cm程度のものでした。石碑には「身延代官邸跡」と彫ってあり、側面には「池上家二十五代宗直建之」とありました。最初見つからなくて、門前町の中にある交番で尋ねてみたのですが、応対してくれた警官から「申し訳ない、本官には分からない…そういうのがあったのですね」と言われてしまいました。困ったなと思いながら、門前町を通る参道を70メートル位くだったところにポツンと建っているのを見つけました。

穴山氏館
身延町

室町時代に河内領を支配していた穴山信綱の居館がありました。信綱が当主の頃は、周辺の国人衆(今井氏・栗原氏・飯富氏・諏訪氏など)と共に反武田勢力でした。しかし、河原部合戦で武田信虎(信玄の父)に敗れてしまいました。信綱のあとを継いだのが穴山信友で、信虎の娘・南松院を迎えた事で、武田家の軍門に降りました。2人の間に産まれたのが穴山信君で信玄とは従兄弟に当たります。写真は信綱の居館跡にあった龍雲寺(曹洞宗)で、信綱の鎧が残っています。余談ですが、信玄の婚姻で三条夫人(公家・三条公頼の娘)が京都から輿入れをする時、義信(信玄の嫡男)の婚姻で嶺松院(今川義元の娘)が駿河から輿入れをする時、信玄のクーデターによって信虎が駿河への追放が起きた時は、この穴山一族が支配していた河内領内を通過していました。

下山城
身延町

平安時代に下山光基(甲斐源氏・加賀美一族)が居館を構えたのがはじまりです。戦国時代は南部領から河内領を支配することになった穴山信友(武田信虎の娘婿)がかつて下山氏の居館跡に居城を構えると、下山城となりました。信友の嫡男・穴山信君(武田信玄の従兄弟)が駿河にある江尻城(武田水軍の基地)の城主になると、城代が置かれました。しかし、武田氏が織田氏によって滅ぼされると、下山城は廃城になりました。写真は日蓮宗・本國寺の入口にあった石碑です。敷地内にあった巨大な銀杏の木が見事で、周辺は黄色い銀杏の葉のじゅうたんでキレイでした。

菅沼城
身延町

戦国時代に武田家が滅亡した後、徳川家康が岡部正綱(弟の元信と共に今川家の滅亡まで守った武将)に命じて築城したのがはじまりです。富士川に突き出した舌状崖の先端に築かれた城で、身延街道を押さえる交通の要衝でした。城が完成すると、小田原城・北条家の甲斐侵攻に備えて菅沼定政(家康の傅役・鳥居元忠の娘婿)を城主に置きました。定政は8年間在城した後、役割を終えました。写真は中富中学校に行く途中の麓にあった説明板です。本丸跡(中富中学校の敷地内)に行けば菅沼城跡の石碑もあったのですが、その後も巡らなければならない城跡が4ヶ所も残っていたので、そこでUターンして富田城跡(大井家の椿城の支城)にレンタカーを走らせました。

波木井城
身延町
戦国時代に波木井義実の居城がありました。旧河内路(駿州往還)を押さえる要衝で、眼下には富士川が流れていました。波木井氏は南部一族・波木井実長を始祖に持つ甲斐源氏の家柄です。今川氏親(義元の父)の重臣・福島正成(北条氏康の娘婿・綱成の父)が1万の大軍を率いて甲斐に侵攻したときに、義実は今川方に付いてしまいました。正成が甲斐小山城で武田信虎(信玄の父)に敗れて駿河に逃げ帰ると、後ろ盾を失った義実は信虎に討たれ、波木井城の落城と共に波木井氏は滅亡してしまいました。写真は日蓮宗・文殊堂を通り過ぎた先の三叉路(登城口)にあった城跡の標柱です。この先には立派な石碑「波木井城跡」もありましたが、逆光になっていて上手く撮れませんでした。
波木井氏館
身延町

鎌倉初期に南部実長(源義光の玄孫)が平氏討伐の恩賞で領地の拡大を得た父・光行より波木井郷を与えられて居館を構えたのが始まりです。波木井姓を名乗るようになった実長は、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻っていた日蓮を招いて草庵を造営して提供しました。それが日蓮宗の総本山・久遠寺の始まりです。実長は3男の波木井長義に家督を譲ると、出家して日円と名乗りました。長義も父と同様、日蓮宗の熱烈な信者で、久遠寺の外護につとめ、出家した後は日教と名乗ったほどです。余談ですが、戦国時代の最後の当主は波木井義実で、甲斐統一を目指す武田信虎(信玄の父)によって、居館から近くにある波木井城で滅ぼされてしまいました。写真は日蓮宗・円実寺で、波木井実長の像が階段の右横に、左横に日蓮の像がありました。

南部氏館
南部町

平安末期に加賀美光行の居館があったと伝わっています。光行は加賀美遠光の3男で、源義光の玄孫に当たります。源頼朝の家臣として平家討伐で大活躍をして南部郷を拝領すると、南部氏を名乗るようになりました。他の甲斐源氏の一族と違い、粛清に遭うことなく鎌倉に在住して頼朝(鎌倉幕府の将軍)と頼家(鎌倉幕府の2代将軍)の2代に仕えていました。兄に秋山光朝(甲州秋山氏の始祖)と小笠原長清(信州小笠原氏の始祖)、妹に大弐局(2代将軍・頼家の養育係)が居ます。写真は居館があった場所には土塁跡があり、館跡の標柱と説明板がありました。後ろにある柵内には井戸跡があり、敷地の眼下を富士川が流れていました。奥州の南部氏の祖先は光行だったということは知らなかったし、そこに住んでいたのだと思うと、鎌倉時代の浪漫に浸ってしまいました。

南部実長館
南部町

鎌倉初期にこの地を支配していた甲斐源氏・南部実長の居館があった場所です。実長は南部光行の3男です。父・光行より波木井郷を与えられるまでの間は、ここで暮らしていました。余談ですが、実長の祖父に加賀美遠光、実長の伯父に秋山光朝(甲州秋山氏の始祖)と小笠原長清(信州小笠原氏の始祖)、実長の叔母に大弐局(幕府の2代将軍・頼家の養育係)が居ます。写真は身延山の宿坊・鏡園坊(日蓮宗)の正門で、柱には「南部実長公館跡」と書かれた看板が付いていました。あと、国道52号によって分断された参道の石段を降り切った所には、山梨県が設置した大きな石碑「南部氏館跡」がありました。

真篠城
南部町
築城の時期と築城者は不明ですが、戦国時代に原虎吉が管理していた砦群の1つです。富士川西岸に築かれた山城で、富士川の水運や南山麓の駿州往還の監視をしていました。武田氏直轄の拠点として普請、および守備されているのですが、金山の採掘場でもあったので虎吉が管理し、この河内領主であった穴山氏に任せていませんでした。虎吉は武田信玄の近習として活躍した武将で、第4次・川中島の戦いでは本陣を守備していたところ、単騎で居る信玄切り込んできた上杉謙信に対し、彼の馬の尻を槍で刺して信玄の危機を救っています。写真は「富栄橋西詰」交差点の角にある集会所の壁にあった看板「真篠城跡」です。お袋を連れて身延にある久遠寺(日蓮宗)に行く予定だったので、城山は眺めるだけにしてレンタカーに乗り込むと、身延街道を北方面に目指しました。
福士砦
南部町
戦国時代にこの地を治めていた原虎吉が守る砦がありました。富士川の本支流沿いに築かれ、狼煙台として敵の動静を伝えていました。虎吉は武田信虎(信玄の父)のときから武田家に仕え、信虎の偏諱を受けて‘虎’の一字を貰っていましたが、信玄の時は近習として活躍しました。第4次・川中島の戦いでは本陣を守備していたところ、単騎で居る信玄切り込んできた上杉謙信に対し、彼の馬の尻を槍で刺して信玄の危機を救った事で知られている武将です。写真は砦の麓にあった臨済宗・最恩寺の仏殿(重文)で、室町初期に創建された建物です。仏殿の裏には穴山勝千代の墓がありました。勝千代は穴山信君(信玄のいとこ)の嫡男で、痘瘡によってわずか16歳で亡くなってしまいました。勝千代の葬儀に参列した穴山一族の悲しむ姿を仏殿は見てきたんだなと思いました。
武藤常昭館
南アルプス市

戦国時代に武田信虎の親衛隊・武藤常昭の居館があったところです。常昭は大井信達の6男で、武田信玄の叔父に当たります。兄の武藤信堯(信達の3男)が、上田原の戦いで村上義清に討たれた後に武藤家を継いだという記録が残っているそうです。信玄の時代では公事奉行として活躍をしました。武田家が滅亡した後も生き残り、徳川家康に提出した忠誠を誓う起請文が残っています。余談ですが、真田家から武藤家に養子に入ったのが昌幸で、2人の兄(真田信綱と昌輝)が長篠の戦いで戦死するまで‘武藤喜兵衛’と名乗っていました。しかし、誰の養子になっていたのかは未だに解明されていません。写真は浄土宗・阿弥陀寺(無住職)の入口にあった石碑です。そこから数百メートルのところには河村道雅(武田勝頼の家臣)の屋敷跡である曹洞宗・常泉寺があります。

富田城
南アルプス市
戦国時代にこの地を治めていた富田範良の居城がありました。深田に囲まれた平城で、大井氏の居城・椿城の支城として機能していました。範良は大井信達(武田信玄の祖父)に仕えていた武将で、その頃の信達と武田信虎(信玄の父)は覇権を巡って対立していた時期です。富田城で起きた戦いで、武田方は飯富道悦(飯富虎昌と山県昌景の父)、今井信房(信虎に降伏した武田一族)、板垣備州(信虎に降伏した武田一族)、小山田大和守(小山田信有とは別系統の小山田氏)などの家臣と200名の兵を失ってしまいました。範良などの家臣達の奮戦も空しく、ついに降伏した信達は、娘の瑞雲院を信虎に差し出しました。二人の間に産まれたのが、武田信玄、信繁、信廉、定恵院(今川義元の正室)です。写真は国道52号バイパス沿いにある小さな公園にあった城址碑です。
一条忠頼館
増穂町
平安末期に源義光の曾孫・武田忠頼が一条郷に居館を構えて一条姓を名乗ったのがはじまりだそうです。忠頼は父の武田信義と叔父の安田義定と共に源頼朝の家臣として平家討伐で大活躍をしました。しかし、甲斐源氏の台頭を恐れた頼朝の命令を受けた天野遠景(頼朝が伊豆で幽閉生活を送っていた頃から助けていた御家人)によって謀殺されてしまいました。写真は屋敷跡にあった宝林寺(日蓮宗)です。県内には、甲府市にある一蓮寺(時宗)と市川三郷町にある蹴裂神社にも忠頼の居館跡があります。余談ですが駿河国にある明楽寺跡(現在は廃寺)に忠頼の墓があります。
跡部勝資邸
甲府市
武田家臣・跡部勝資の邸宅がありました。跡部氏は信州の名門・小笠原氏の流れを組む家柄で、室町時代には甲斐国の守護代として勢力を誇っていた時期がありました。勝資は信玄の側近として外交手腕に長けていた人物です。信玄の時代では、信州の有力豪族達を服属させるときに信玄の名代として交渉を次々と成功させたことがあります。勝頼(信玄の4男)の時代では、上杉景勝との甲越同盟と、佐竹義重との甲佐同盟を成功させた立役者です。余談ですが、幕末に水戸藩の尊王攘夷派・天狗党を引き連れた武田耕雲斎は勝資の末裔に当たります。写真は甲府西田郵便局の道を隔てた向かいにあった中沢ハイツ勝資邸跡)で、真田信綱邸の横にありました。標柱でもいいので是非設置して欲しいなと思いました。
初鹿野忠次邸
甲府市
武田家臣・初鹿野忠次の邸宅がありました。忠次は武田一族で、ムカデ衆の一人に数えられていたエリートです川中島の戦いでは、武田信玄の本陣を守備していました。左翼を守備していた武田義信(信玄の嫡男)の軍勢が上杉勢によって突き崩されると、諸角虎定(信玄の父・信虎の叔父)と共に救援に向かって義信を無事に救出しました。しかし、虎定の軍勢が上杉勢によって崩されると、義信を無事に逃がすべくして人盾となって戦死してしまいました。余談ですが、忠次の父は伝右衛門といい、上田原の戦いで信玄が村上勢(信州の豪族)の軍によって突き崩されると、信玄を無事に逃がすべくして人盾となって戦死しています。写真は古府中サンハイツ忠次邸跡)で、跡部勝資邸跡の隣にありました。標柱でもいいので是非設置して欲しいなと思いました。
相木昌朝邸
甲府市
武田家臣・相木昌朝の邸宅がありました。相木氏は清和源氏の流れを組む依田氏の分流を持つ名門です。昌朝は佐久にある長窪城主・大井昌隆の家老でしたが、武田信玄による信州攻略が本格化すると信玄に仕える様になりました。信濃衆でありながら、同じ信濃衆の真田幸隆と共に信玄からの信頼の厚い武将で、川中島の戦いでは別働隊として幸隆と共に行動し、戦後は善光寺平の治安維持を任されていたほどです。昌朝の息子・市兵衛は山県昌景の娘を迎え、娘は真田昌輝(幸隆の2男)に嫁いでいます。昌朝は外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許されました。写真は邸宅跡付近にある駐車場で、山県昌景邸と真田幸隆邸に挟まれた位置にありました。標柱でもいいので是非設置して欲しいなと思いました
小山田虎満邸
甲府市
小山田虎満の邸宅がありました。虎満は武田家の親類衆・小山田氏とは別系統で、後に武田信虎(信玄の父)に仕えました。信虎の偏諱を受けて‘虎’の一字を貰うと虎昌と名乗る様になりました。武田晴信(後の信玄)の時代には信濃国侵攻戦で大活躍し、真田幸隆が信玄に降りた時は取次をした事があります。虎満が築城した城は落城する事がなく、晴信は城を築いた際には虎満を入城させる恒例を行なっていたという逸話が残っています。余談ですが、虎満の子供達(昌成と昌貞の兄弟)は武田勝頼(晴信の4男)の命令で高遠城に入城し、仁科盛信(晴信の5男)の副将として織田軍と戦って戦死してしまいました。写真は「スーパーほさか」で、飯富虎昌邸と小幡虎盛邸と諸角虎定邸に挟まれた位置にありました。標柱でもいいので是非設置して欲しいなと思いました。
市川陣屋
市川三郷町
明和2年(10代将軍・徳川家治の時代)に、駿府にある紺屋町陣屋の出張陣屋として入封した代官・小田切五郎によって陣屋が置かれたのがはじまりです。寛政7年(11代将軍・徳川家斉の時代)に本陣屋となり、明治を迎えるまで25名の代官が市川郷を代々治めていました。途中、大火で元締官舎の1棟を残して焼失したことがありましたが、その都度再建され、明治期に郡役所と学校として利用された後に取り壊されてしまいました。写真は落合通りにあった陣屋の旧門で、地元の人達の協力で現在地に移されたものです。ここから10メートル歩いた角に、「市川陣屋跡」と彫られた石碑がありました。
古城山砦
市川三郷町
戦国時代に武田信玄が整備した烽火台です。甲斐国から駿河国をつなぐ富士川街道に沿っている中間地点にありました。この古城山砦は、仏岩の狼煙台と城山の狼煙台を取り込んだ大きな砦で、武田家臣の跡部蔵人が守っていました。武田氏滅亡後は徳川家臣の大洲兼高が一旦守備したものの、間もなくして廃止されました。写真は四尾連湖登山道にあった看板で、右に折れると「古城山の砦」への行先を示していました。しかし、付近はドングリの実と一緒に熊の糞が多く転がっていて、入山前にあった「熊注意」という看板ですっかりビビッていたので、そこで引き返してしまいました。
源義清館
市川三郷町
天承元年(1131年)に源義清が常陸国・勝田郷から甲斐国・市河郷に移り住んだときに居館を構えたのがはじまりです。義清は源義光(源義家の弟)の3男で、甲斐源氏の始祖となりました。甲斐国といえば武田信玄が真っ先に思い浮かぶのですが、武田家を興した武田信義(武田氏の祖)は義清の孫に当たり、信義から数えて15代目に信玄が現れました。写真は居館跡(熊野神社)にあった由来案内板で、小高い丘の上にあった居館跡を囲むようにして土塁の一部が残っていました。余談ですが、昭和町にも同じく義清の館跡(義清神社)だという伝承地があります。
諸角虎定邸
甲府市

諸角虎定の邸宅がありました。虎定は武田信玄のハトコに当たる親類衆で、武田信虎(信玄の父)の叔父に当たります。信虎が武田当主になると信虎の偏諱を受けて‘虎’の一字を貰うと、昌清から虎定に改名しています。川中島の戦いでは、武田信繁(信玄の弟)と共に本陣の前備えとして布陣して、上杉謙信の猛攻に耐えていました。しかし、左翼を守備していた武田義信(信玄の嫡男)の軍勢が越後勢によって突き崩されると、救援に向かって義信を無事に救出しました。しかし、虎定の軍勢は越後勢によって全滅してしまいました。虎定の首印は配下の石黒将監が奪い返して信玄のところに送られました。写真は武田通り沿いにあったクリーニング・オスカー大手店(虎定邸跡)で、信繁邸跡の向かいにありました。標柱でもいいので是非設置して欲しいなと思いました。

曽根昌世邸
甲府市
曽根昌世の邸宅がありました。昌世は代々武田家に仕えていた親類衆の家柄で、信玄時代には奥近習六人衆の1人に数えられ、同期の真田昌幸(幸村の父)と共に活躍をしたので、信玄から「昌世と昌幸は我が両眼だ」と賞賛されていました。しかし、息子の周防守は武田義信(信玄の嫡男)の重臣で、義信事件の時に周防守は義信を庇った為に監禁され、後に切腹を命じられてしまいました。余談ですが、昌世と同じ奥近習六人衆の長坂昌国(長坂光堅の息子)も、義信事件の時に連座して周防守と一緒に切腹しています。武田家が滅ぶと、昌世は武田家が滅んだ後は徳川家康と蒲生氏郷に仕えていました。写真は武田通り沿いにあった創価学会甲府平和会館(昌世邸跡)で、武田家の重臣・馬場信春邸跡の横にありました。標柱でもいいので是非設置して欲しいなと思いました。
清水陣屋
山梨市
宝暦13年(1763年)に徳川重好(10代将軍・徳川家治の弟)が飛び地である下岩下村を治めるために陣屋を置いたのがはじまりです。陣屋は代官所としての機能も兼ね合わせていました。重好は清水徳川家の祖で、江戸城の清水門付近に屋敷を構えていた10万石(甲斐国・武蔵国・下総国・播磨国・摂津国・和泉国)の御三卿でした。寛政7年(1795年)に重好が亡くなると陣屋は廃止され、近くにある石和陣屋に統合移管されました。写真は陣屋跡にあった稲荷神社で、説明板が設置されていました。余談ですが、わずか300メートル付近に甲斐国の豪族・岩下氏(武田信虎の母・崇昌院の実家)の居館跡があり、そこで信虎(信玄の父)と勝沼信友(信玄の叔父)が誕生しています。
雨宮氏館
笛吹市
戦国時代に武田信虎(信玄の父)に仕えていた雨宮織部正の居館がありました。雨宮氏は信州の葛尾城主・村上氏の一族で、元々は信州の雨宮という所に領地を持っていた豪族でした。近くには理慶尼(信玄のイトコ)が住んでいた大善寺と勝沼館(慶尼の実家)があり、その慶尼を織部正は妻に迎えていた武将です。理慶尼は武田勝頼(信玄の4男)の乳母をしていた事から、織部正は勝頼が天目山で滅びる最後まで従って殉死しています。織部正の一族に雨宮家次という武将が居て、武田義信(信玄の嫡男)の重臣でした。義信事件の時に家次は義信を庇った為に監禁され、配下の80名は処刑されてしまいました。高坂昌信(武田二十四将の一人)の庇護で武田家に帰参したものの、長篠の戦いで戦死してしまいました。写真は居館跡に建てられた長昌寺(臨済宗)です。
武田信重館
笛吹市
室町時代に14代当主・武田信重の居館があった場所です。信重の父・信満は上杉禅宗の義兄であるため、室町将軍・足利義持の追討命令を受けた上杉憲宗と有直の連合軍に攻められて木賊山で滅ぼされてしまいました。京都に居て事変を知った信重は叔父の穴山満春(信満の実弟)と共に剃髪して高野山に入山しました。鎌倉公方の勢力拡大を快く思っていなかった室町将軍・足利義教は信重を呼び、叔父の満春と共に還俗させました。甲斐に戻った信重は、鎌倉公方側に付いた逸見氏と跡部氏(共に武田一族)の反武田勢力を一掃すると当主の座に就きました。結城合戦では鎌倉公方側に付いた結城持朝の首級を挙げるなどの活躍をしたものの、裏切った叔父の満春に討たれ、居館を放火されてしまいました。写真は居館跡(浄土宗・成就院)にあった由来案内板です。
茶臼山烽火台
笛吹市
戦国時代に武田信虎(信玄の実父)が弟の勝沼信友に命じて築かせたのがはじまりです。その頃は小山田信有(武田二十四将の一人・信茂の父で信玄の義父)と対立していたので、笹子峠を監視する砦として勝沼氏が管理していました。信玄の時代には烽火台が置かれていて、相模の北条氏の動向が分かるようになっていました。写真は釈迦堂遺跡博物館の背後にある茶臼山の登山口にあった看板です。山頂には烽火台があったのですから、「茶臼山砦跡」という小さな文字を下行に入れて欲しかったと思いました。余談ですが、釈迦堂遺跡博物館は甲府盆地を一望出来る大規模な縄文遺跡で、土器と土偶、石器や飾り物など、おびただしい量で展示されていてビックリしてしまいました。尚、釈迦堂遺跡博物館へは中央自動車道の釈迦堂パーキングエリアに駐車して見学が可能です。
荻原氏館
山梨市
戦国時代に武田信虎(信玄の父で18代当主)に仕えていた重臣・荻原昌勝の居館があった場所です。荻原氏は武田信満(13代当主)の血筋を引く武田一族だという説があるのですが、異説があって定かではありせん。昌勝は、武田信昌・信縄・信虎の3代に仕えていた軍師で、信昌の偏諱を受けて‘昌’の一字を貰うと昌勝と名乗るようになりました。信縄が産まれたときと信虎が産れたときは教育係を、信玄が産まれたときは傅役を任命されるなど、代々の武田当主からの信任が厚かったそうです。写真は荻原氏の御子孫が今でも住んでいる民家(居館跡)の長屋門で、周辺は荻原姓の札が付いた民家が密集していました。甲斐国から武蔵国(秩父の雁坂峠)をつなぐ棒道(武田氏が整備した軍用道路)を見下ろす位置にありました。
下釜口烽火台
山梨市
戦国時代に武田信玄が整備した烽火台です。甲斐国から武蔵国(秩父の雁坂峠)をつなぐ棒道(武田氏が整備した軍用道路)の経路に沿っていました。この地方を統治していた荻原氏が管理していた烽火台は、武田家の重臣・荻原氏の居館の背後にあり、その奥には武田金山がありました。写真は雁坂峠に向かう途中の国道140号沿いにあった「富士見茶屋いろり(ほうとうの店)」の敷地内に建てられていた烽火台で、そこから見えた富士山がとてもキレイでした。そこから1キロメートル程度進んだところに、城山公園の入口があったのですが、時間の都合で登山しませんでした。
奈胡義行館
南アルプス市

平安末期に源義光の曾孫・奈胡義行が奈古郷に居館を構えて奈胡姓を名乗ったのがはじまりだそうです。義行は加賀美遠光,武田信義,安田義定などの兄達と共に源頼朝の家臣として平家討伐で大活躍をしました。しかし、甲斐源氏の台頭を恐れた頼朝の命令によって派遣された鎌倉軍に滅ぼされてしまいました。この地には伝説があって、戦いに敗れた義行が居館に逃げ帰るときに、カボチャの弦に足を引っ掛けて転んで討たれてしまったそうです。それ以来、この土地の農家ではカボチャを作る習慣がないそうです。写真は水田と畑に囲まれた農地の中にあった義行の墓で、居館でもあるそうです。去年の夏に行こうとして見つからなかったので、リベンジを果たすことが出来て嬉しかったです。

岩手氏館
山梨市

室町時代に岩手縄美の居館がありました。縄美は17代目・武田信縄の弟で、武田信虎(信玄の実父)の叔父に当たります。縄美と信繩の兄弟対立は15年以上も続いたのですが、信繩が病死すると家督を継いだ武田信虎(信玄の父)によって、兄の油川信恵と共に滅ぼされてしまいました。縄美の息子・信盛は信玄の下で旗奉行をしていました。信盛の息子・信景は武田勝頼(信玄の4男)の下で旗奉行を務めていましたが、織田軍の甲斐侵攻のときに抵抗した後に自刃してしまいました。写真は金光寺跡にあった岩手氏の末裔が建てた信景と共に自刃した岩手氏一門の供養塔です。

上野氏屋敷
山梨市

戦国時代に武田家の調衆(村人達から年貢を徴収して武田家へ納付する役目)をしていた上野道忠の屋敷がありました。屋敷は笛吹川と西川に挟まれた荒神山の麓に築かれていました。道忠は第4回目の川中島合戦で、上杉方の数個の首を挙げた恩賞で甲冑を与えられたと伝わっている人物だそうです。荒神山桜公園の麓の東側にある個人宅に説明板があるというので行ってみたのですが、事前の下調べで見つけることが出来ませんでした。帰宅してから分かったことは、道忠が葬られている信盛院に向かう途中にある個人宅に説明板があることと、その個人宅は上野氏の末裔が今でも住んでいるということでした。写真は背後にあった荒神山桜公園の看板です。

教来石氏館
北杜市
戦国時代に武田信虎(信玄の父)に仕えていた頃の教来石景政の居館があった場所です。景政は後の馬場信春のことで、元々は信虎の親衛隊・騎馬御一統衆を引き連れていた組頭でした。武田信玄によるクーデターでは、板垣信方と甘利虎泰などの重臣達が景政を説得してみたが失敗に終わったそうです。しかし、信虎がゾッコンしていた武田信繁(信玄の弟)が説得に出てきたことで、信玄に付く決心をしたそうです。クーデターは景政の協力なくして成功しなかったと云われています。信玄が家督を継いで正式に武田家の棟梁になると、信虎の親衛隊はそのまま信玄の旗本として組み込まれました。写真は、ビューファーム鳥原平の前にある居館跡にあった説明板です。そこからは、サントリーのウイスキー博物館と事業所の大きな建物がよく見えました。
馬場氏館
北杜市
武田家臣・馬場信房(後の馬場信春)と名乗っていた頃に構えていた居館があった場所です。武田信虎(信玄の父)が一族の加賀美虎光を討った事件で、諌言しようとして殺されてしまった武田一族・馬場虎貞の名跡を、信玄の命令で教来石景政が継ぎました。同時に、信玄の偏諱を受けて‘信’の一字を貰うと馬場信房と名乗るようになりました。余談ですが、信春と名乗るようになったのは、信玄の家臣・原虎胤が病死したときに最後に改名した名前で、その名前で現在は武田二十四将の一人として親しまれています。武田三代(信虎・信玄・勝頼)の下で70回を超える合戦に参加してかすり傷一つ負わなかった信春でしたが、長篠の戦いで戦死してしまいました。写真は曹洞宗・白元寺にあった馬場信春の墓です。あと、白元寺本堂の屋根には花菱の紋が輝いていました。
屋代氏館
北杜市
江戸初期に徳川家康が天下を治めると、屋代勝永と三枝昌吉(三枝守友の甥で徳川秀忠の小姓)と真田信昌(真田昌幸の弟)が巨摩郡15000石の知行地を与えられると、上神取村に入った勝永が居館を構えたのがはじまりです。勝永は村上源氏の末裔で、父の正国は信州に領地を持っていましたが、晴信の旗下では70騎の大将をしていました。近くには屋代氏の菩提寺・勝永寺(臨済宗)があり、そこに勝永が眠っているそうです。子の忠正が後を継ぎましたが、松平忠長(徳川秀忠の3男)事件で連帯責任を問われて所領を取り上げられ、居館は破却されてしまいました。写真は屋代氏2代の居館跡に残っていた石積みで、その前に説明板がありました。
中尾城
北杜市
平安末期に谷戸城を本拠地にしていた逸見清光(源義光の孫)が、支城を築いて孫の武田信光(武田氏の祖・武田信義の子)を置いたのがはじまりだそうです。余談ですが、清光の弟に加賀美遠光と安田義定が居ます。また、従兄の小笠原長清と共に弓馬四天王と呼ばれていた武将でした。戦国時代には武田一族の今井信元が中尾城主で、栗原信友と大井信達と飯富虎昌らと組んで、武田信虎に対して反旗を翻しましたが、信虎(信玄の父)によって次々と制圧されました。中尾城から獅子吼城に移ってもなお抵抗を続けた信元でしたが、ついに信虎の軍門に下りました。同時に信虎による甲斐国の統一が成し遂げられました。写真は桂精機という会社の前にあった中尾城の説明板ですが、文字が薄くなって読みづらくなっていて、ステンレスのミラー板みたいになっていました。
若神子城
北杜市
築城の時期は定かではないのですが、戦国時代には武田信玄が整備した狼煙台が置かれていました。韮崎と小淵沢をつなぐ棒道(武田氏が整備した軍用道路)の経路に沿っている中間地点に若神子城がありました。武田氏が滅亡して織田信長の武将・河尻秀隆が甲斐国を支配しました。しかし、信長が本能寺で倒れると領内に大規模な一揆が起きて秀隆は殺されてしまいました。甲斐国の支配を巡って起きた天正壬午の乱で、相模国の北条氏直(氏政の子)が率いる4万3千の軍勢は若神子城に陣を敷きました。それに対して徳川家康は8千の軍勢で新府城に入城して対峙しました。まもなくして和議が成立して両軍が引き上げると、若神子城は再利用されることなく廃城になりました。写真はふるさと公園(若神子城跡)に復元された狼煙台です。
獅子吼城
北杜市
室町中期にこの地を治めていた江草信泰が居城を構えていました。戦国時代には武田一族の今井信是が城主で、栗原信友と大井信達と飯富虎昌らと組んで、武田信虎(信玄の父)に対して反旗を翻しましたが、結局は信虎の軍門に下りました。同時に信虎による甲斐国の統一が成し遂げられました。武田信玄の時代には、甲州佐久街道の押さえとして整備された狼煙台が置かれていました。甲斐国の支配を巡って起きた天正壬午の乱では、相模国の北条氏直(氏政の子)の手勢が占領して新府城に入城した徳川家康を牽制しました。和議が成立して両軍が引き上げると、獅子吼城は再利用されることなく廃城になりました。写真は獅子吼城の登城口にある根小屋神社の敷地内にあった説明板で、横には国指定の天然記念物である2本の「根小屋神社の大ケヤキ」の巨木がありました。
深草館
北杜市
平安末期に谷戸城の支城として逸見光長(逸見清光の子)によって築かれたという説と、戦国時代に武田氏の滅亡後に甲斐に侵攻した北条軍の駐屯地として築かれたという説があって、定かではないそうです。前者は逸見氏の本城・谷戸城が近くにあるためで、後者は1980年に行なわれた発掘調査で15世紀から17世紀にかけての遺構や遺物が出土したためです。余談ですが、近くには金生遺跡があり、縄文時代から弥生時代にかけての集合住宅跡、そして中世(15世紀から17世紀)の集合住宅跡が出土しています。写真は深草館跡がある森です。
谷戸城
北杜市
平安時代に常陸国の武田荘から甲斐国の逸見荘に流刑された源清光(源義光の孫)がこの地に住みつきました。東衣川と西衣川が合流する岬に居城を築いて逸見姓を名乗ったのがはじまりです。清光は甲斐源氏の祖として、逸見光長(末裔に飯富虎昌),加賀美遠光(末裔に秋山信友),武田信義(末裔に武田信玄),浅利義成(末裔に浅利与一),安田義定などの息子達に恵まれました。戦国時代に武田氏が滅亡すると、甲斐国に侵攻した北条軍によって駐屯地として利用されていた時期があります。現在、谷戸城跡は国指定史跡となって整備され、その正面には谷戸城ふるさと歴史館がありました。写真は資料館の駐車場にあった石碑です。
谷戸氏館
北杜市
この地を治めていた土豪・谷戸氏の居館があったと云われているそうです。谷戸氏についての資料がほとんど残されていないのですが、武田氏滅亡後に甲斐国に入った徳川家康によって領土を安堵されたことと、写真の道善禅院(曹洞宗)の開祖が谷戸淡路守という領主で、居館の敷地内に道善禅院があったという、その2つだけしか分かっていないそうです。写真の本堂を撮り終わって出ようとしたら、お昼から法事があるらしく、喪服をした方達がぞろぞろと入ってきました。
曲渕氏館
北杜市
板垣信方(武田信玄の重臣)の破官・曲渕吉景の屋敷があった所です。吉景は信方の草履取りから身を起した人物だそうです一番槍を含めた数々の手柄を立てました。信方が戦死した後は山県昌景(信玄の重臣)仕えるようになり、そこでも数々の手柄を立てて采配御免衆まで登りつめました。吉景は大変癖のある武将だったらしく、生涯で70回以上も訴訟を起こしながら、勝訴が1回も無かったという話が残っているそうです。武田家滅亡後は、吉景は他の武川衆と共に徳川家康に仕えました。写真は曲渕氏の菩提寺・清泰寺の麓にあった屋敷址の碑です。
長坂氏館
北杜市
武田家臣・長坂光堅(長閑斎は出家後の名前)の居館がありました。長坂氏は信州の名門・小笠原氏の流れを組む家柄で、信玄の時代には諏訪の郡代を務めていて、板垣信方をよく補佐していました。光堅には二人の息子が居て、昌国は信玄の奥近習六人衆となりましたが、勝繁は武田義信事件に連座して処刑されています。長篠の戦いでの光堅は、攻撃を武田勝頼(信玄の4男)に進言した為に、武田軍団が敗れた原因を作った人物として山梨県では評判が悪いそうです。しかし、実際には駿河に居て長篠に出陣していなかった事や、最後まで勝頼に従って天目山で殉死していた事が最近の研究で判明しました。長坂氏の居館跡までは行けたものの、藪が凄くて説明板を見つける事が出来ませんでした。写真は白井沢宮川にかかる橋で、長閑大橋という名前が付いていました。
山高氏館
北杜市
鎌倉時代に武田一族・山高氏の代々居館があった場所です。戦国時代には山高親之が当主で、武田信繁(信玄の弟)の家臣として仕えていました。第4回目の川中島の合戦で越後勢によって信繁が討たれると、親之は越後勢の中に突入して信繁の首を奪い返して武田信玄に送り届けたそうです。孫の山高信直のときに武田家が滅亡すると、徳川家康の誘いを受けて他の武川衆とともに帰属するようになりました。山高氏は代々徳川氏の旗本として続きました。余談ですが、江戸時代において大飛躍を遂げた武川衆の出身に、徳川綱吉の寵愛を受けた柳沢吉保が居ます。写真は、山高氏の居館跡に建てられた曹洞宗・実相寺です。
武田信昌館
山梨市
室町時代に16代当主・武田信昌の居館があった場所です。信昌は武田信縄の父であり、武田信虎の祖父に当たります。息子・信縄との折り合いは悪く、親子対立は15年以上も続きました。一族の跡部景家の台頭と政治介入と、郡内の有力領主である小山田信有(信茂の父で信玄の叔父に当たる)と穴山信友(信君の父で信玄の叔父に当たる)の侵入と、一揆の多発を許してしまい、それが甲斐国の内乱を引き起こす原因となって求心力を低下させました。信縄との親子対立は、信昌が合戦中に病死したことで終わりを告げました。写真は曹洞宗・永昌院(信昌の菩提寺)の付近にある交番の真横にあった石碑「武田信昌公廟」です。
武田信縄館
山梨市
室町時代に17代当主・武田信縄の居館があった場所です。信縄は武田信虎(信玄の父)と勝沼信友の父に当たります。弟・油川信恵との兄弟対立は15年以上も続いたのですが、父・武田信昌との折り合いも悪かったそうです。一族の跡部景家を滅ぼし、郡内の有力領主である小山田信有(信茂の父で信玄の叔父に当たる)と婚姻関係を結んで味方として引き入れることに成功しました。しかし、病弱だったために37歳で若くして亡くなりました。わずか14歳で18代当主となった信虎は、国内外の反抗勢力を武力や婚姻同盟で押さえ、27歳の時に郡内の有力領主である大井信達を攻略して信達の娘・大井夫人(信玄の生母)を迎えると、甲斐国の統一を果たしました。写真は曹洞宗・聖徳寺(信縄の菩提寺)の境内にあった武田信縄の墓です。
田安家陣屋
山梨市
延享3年(1746年)に徳川宗武(8代将軍・徳川吉宗の次男)が飛び地である山梨郡と八代郡を治めるために陣屋を置いたのがはじまりです。陣屋は代官所としての機能も兼ね合わせていました。宗武は田安徳川家の祖で、江戸城の田安門付近に屋敷を構えていた10万石(甲斐国・武蔵国・下総国・播磨国・摂津国・和泉国)の御三卿でした。余談ですが、寛政の改革で有名な松平定信は宗武の次男です。写真は陣屋跡にあった水上稲荷神社で、土塁の前に石碑と説明板が設置されていました。
小笠原長清館
南アルプス市
平安時代に小笠原長清がこの地に館を構えたのが始まりです。長清は加賀美遠光を父に持つ甲斐源氏でしたが、京都に滞在していた時期は兄の秋山光朝と共に平知盛(清盛の4男)に仕えていましたが、いち早く源頼朝に仕えて平家討伐に従軍して頼朝から信頼を得ていたそうです。長清は頼朝の弓馬術礼法師範となるなど、御家人として比企能員と共に信濃国の支配を任されていました。しかし、頼朝が亡くなって2代将軍・源頼家&能員と北条時政&政子の対立が激化すると、小笠原長経(長清の子)は頼家の近習なっていたために、連座の責任を問われて所領を没収されてしまいました。まもなくして許されると、鎌倉幕府と後鳥羽上皇が対立して起きた承久の乱では、幕府軍の中山道の大将となって京都に攻め上り、恩賞として阿波国守護職を与えられて移住しました。
中野城
南アルプス市
平安末期に秋山光朝の要害があったと伝わっています。光朝は加賀美遠光の嫡男で、源義光の玄孫に当たります。光朝の居館(熊野神社)があった場所より、弟の小笠原長清の居館(小笠原小学校)があった場所のほうが近いので、いわゆる遠光の一族の詰城だったのではないかと想像しています。中野城址は、県民の森を目指し、途中から分かれる大久保平林道に入り、更に進んだところに「歴史にふれる遊歩道(中野城址)のご案内」がありました。山奥なのにすれ違う車の台数の多さには驚いてしまいましたが、霧で視界が良くなかったので麓まで戻れたときはホッとしました。
秋山光朝館
南アルプス市
平安時代に秋山光朝がこの地に館を構えたのが始まりです。光朝は加賀美遠光を父に持つ甲斐源氏でしたが、京都に滞在していた時期は平知盛(清盛の4男)に仕え、平重盛(清盛の嫡男)の娘・重子姫を妻に迎えていました。源頼朝の旗揚げでは鎌倉に遅参してしまいました。しばらくして甲斐源氏の勢力の拡大を恐れた頼朝の命令で、討伐に向かった梶原景時の軍勢によって居館まで攻め込まれると、光朝は背後にある雨鳴山において自害したそうです。光朝の遺児・光経と重子姫は十三回忌に高僧を招いて大法要を営み、熊野神社(居館跡)と光昌寺にそれぞれ経文を埋設したそうで、近年その2つの経文が納められた経筒が発掘されたそうです。余談ですが、徳川家康に「武田の猛牛に似たる男ぞ」と恐れられた秋山信友は後裔に当たり、武田二十四将の一人です。
河村氏館
南アルプス市

戦国時代に武田勝頼の家臣・河村道雅の居館があった場所だそうです。落ち目の勝頼に最後まで従った武将の一人で、勝頼と共に行動して天目山の近くにある田野で自害しました。悲報を知った道雅の妻は、居館を廃止してお寺にして開祖となると、‘河村山常泉寺’と名づけました。写真は常泉寺(曹洞宗)の入口付近にあった「河村下野守道雅館跡」という小さな石碑で、2年前も同じ所を通っていながら何と見落としてしまったもので、リベンジを果たすことが出来て嬉しかったです。少し暗くなっていたのですが、お寺の本堂からは、雲のかかった南アルプスの山脈が少しだけ見えました。

安藤氏屋敷
南アルプス市

戦国時代に武田家に仕えていた小尾氏の屋敷がありました。主家滅亡後は帰農して姓を母方の安藤に変えると、西南湖村の名主として代々続きました。小尾氏は津金胤秀(常陸国の佐竹一族)を祖先に持つ津金衆の一派で、甲斐国と信濃国の国境を警備する役割を受け持っていたそうです。余談ですが、武田一族に小尾氏が居ますが、そちらとは繋がりが全く無いので注意が必要です。写真は国指定重要文化財に指定された安藤氏の屋敷で、主屋や長屋門、茶室や蔵などがあります。2年前にも行っていたのですが、その時は時間が遅くて屋敷内に入りませんでした。今回は身延にある久遠寺に行きたがっていたお袋を連れて行った時だったので、初めてゆっくり入ってみました。立派な屋敷で、安藤家の子供達が広い庭と屋敷内を走り回って遊んでいる姿が可愛らしかったです。

一条氏館
市川三郷町

鎌倉時代に武田信義(武田氏の始祖)の長男・一条忠頼にはじまる一条氏の館があった場所だそうです。戦国時代に武田信玄は、途絶えていた名跡を惜しんで異母弟の信竜に継がせたそうです。山県昌景は信竜を評して「伊達者にて花麗を好む性質なりし」といった話が残っています。織田氏と徳川氏の連合軍が甲斐に侵攻してきたとき、信竜は甲府盆地南部にあるこの一条氏館に立てこもって戦死したとも、侵攻前には既に病死していたともいわれ、最後は定かではありません。写真は蹴裂神社に残っていた土塁の上にあった石碑「上野城址」で、横に説明板がありました。周囲を観察していると、わずかに残されていた土塁を無残に切り崩して模擬天守閣(市川歌舞伎資料館)が建てられていたことが分かり、大きな怒りを感じると共に、模擬天守閣に入館しませんでした。

市川氏屋敷
市川三郷町
戦国時代に一条信竜(武田信玄の異母弟)に仕えていた堀越十郎の屋敷があった場所だそうです。主君・信竜の居館に隣接していたそうで、現在は同じ歌舞伎文化公園の敷地内に蹴裂神社(信竜の居館跡)と模擬天守閣(十郎、および市川氏の屋敷跡)がありました。その市川氏というのは、十郎の曾孫に当たる歌舞伎・市川団十郎の発祥地でもあるそうで、堀越夏雄(堀越孝俊/市川海老蔵の父)が12代の市川団十郎を襲名したときに市川団十郎顕彰会が建立した顕彰碑がありました。写真は歌舞伎文化公園の中にあった模擬天守閣です。すぐ脇に蹴裂神社があり、土塁の一部が残っていました。周囲を観察していると、わずかに残されていた土塁を切り崩して模擬天守閣(市川歌舞伎資料館)が建てられていたことが分かり、大きな怒りを感じてしまいました。
二階堂氏館
甲州市
鎌倉末期に甲斐国の守護職・二階堂貞藤の居館がありました。なお、居館内に禅院(後の恵林寺)を建立して夢窓疎石を招いて開山しました。貞藤は鎌倉幕府の最後の執権・北条高時の家臣で、彼をよく補佐していました。後醍醐天皇の挙兵に呼応した楠木正成が籠城する千早城を攻撃する遠征軍として加わったことがあります。写真は二階堂氏館跡に建てられた武田家菩提寺・恵林寺(臨済宗)の本堂です。恵林寺といえば、織田信忠(信長の嫡男)が甲斐国に侵攻したときに「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の辞世を残して焼死したことで有名な快川紹喜(美濃国の名門・土岐氏の一族で明智光秀の縁戚)も住職になったことがあります。恵林寺は10回以上訪れていながら、かつては二階堂氏の居館があったなんて全く知りませんでした。
鎌田氏館
大月市
鎌倉時代に恩賞で鎌田為成が居館を構えたのがはじまりだそうです。居館は大きくうねった桂川の河岸段丘面に築かれた天然の要害でした。武家政権の確立と執権政治確立を狙っていた二代目執権・北条義時(北条政子の実弟)と、それに対抗した幕府の侍所別当・和田義盛の衝突で起きた和田合戦は、この地方まで飛び火しました。領主・古郡安忠は和田氏と同じ三浦一族(坂東八平氏)だった関係で、和田側に付いて幕府軍と戦いました。敗れた安忠は何とか鎌倉を脱出して波加利荘まで逃れたものの、あえなく自害してしまいました。安忠の旧領を恩賞として拝領した為成は、居館内に館の鎮守として諏訪犬鳴神社を設置しました。写真は諏訪犬鳴神社の境内にあった説明板で、土塁の一部が残っていました。前日に降った雪が残っていて寒かったです。
曽根氏館
甲府市
鎌倉時代に武田一族・曽根禅師に始まる曽根氏代々の館があった場所だそうです。曽根氏は代々の武田氏当主から厚い信頼を寄せられていて、偏諱を受けた曽根一族がどの世代でも多く見られます。信玄時代には、曽根昌世は奥近習六人衆の1人に数えられ、一族の曽根与市之助はムカデ衆を務めていました。昌世は三増峠の合戦や花沢城攻めなどで、同期の真田昌幸(奥近習六人衆)と共に活躍をしたので、信玄から「昌世と昌幸は我が両眼だ」と賞賛されていました。武田家が滅んだ後は徳川家康と蒲生氏郷に仕えていました。氏郷の居城・会津若松城の縄張りを行なったのが昌世で、軍学や築城術の技能に長けていました。画像は真言宗・竜華寺の本堂で屋根には武田氏の紋が付いていました。曽根氏に関する由来板などが無かったので竜華寺で設置して欲しいと思いました。
下曽根氏館
甲府市
室町時代に下曽根賢信の居館がありました。賢信は14代目・武田信重の4男に当たります。賢信の孫は下曽根信恒といい、武田信豊(武田信玄の甥)の重臣でしたが、小諸城内で信豊を騙し討ちにして、信豊の首を織田信長に届けた謀反人です。しかし、信恒の3人の息子達(信秀・源七・弥左衛門尉)は武田勝頼の旗本で、長篠の戦いで揃って戦死しています。知らなかったのですが、下曽根信照(信秀の子)は徳川家康の家臣・平岩親吉に仕えていたそうで、豊臣秀吉の小田原役による武州岩槻城の攻略で戦死しています。信照の弟・信正が家督を継ぐと、代々徳川旗として存続しました。写真は下曽根氏館跡にあった曹洞宗・実際寺の本堂で、屋根には武田氏の紋が付いていました。境内には「曽根の名を上下に分け曽根連」と彫られた石碑がありました。
山宮氏館
甲府市
室町時代に山宮信安が湯村温泉の北側に位置する山宮郷を与えられて居館を構えたのがはじまりです。信安は13代当主・武田信満の6男に当たります。青松院の開祖は紀州太守信章(信安の5男)といい、上杉禅宗の乱で起きた甲斐国の内乱で信安が戦死したときに、母の胎内にやどっていた子だったそうです。信章は武田信虎(信玄の父)の助力を得て山宮一族の菩提寺としました。写真は山宮氏館跡に建てられた曹洞宗・青松院の仏舎利殿で、2年前に完成したばかりの新しい建物でした。仏舎利殿を見ていると臨済宗・東光寺(甲府五山)の仏殿とは建築様式がそっくりだなと思いました。
油川氏館
笛吹市

室町時代に油川信恵の居館がありました。信恵は17代目・武田信縄の弟で、武田信虎(信玄の実父)の叔父に当たります。信恵と信繩の兄弟対立は15年以上も続いたのですが、信繩が病死すると家督を継いだ武田信虎(信玄の父)によって、息子の信守と共に滅ぼされてしまいました。信玄の側室になった油川夫人は、信虎に滅ぼされた信守の娘に当たり、仁科盛信(信玄の5男)と松姫(信松尼)と菊姫(越後・上杉景勝の正室)を産んでいます。写真は油川氏の居館跡に建てられた曹洞宗・泉竜寺の本堂です。本堂の脇に黒くて大きな石碑があり、油川氏についての由来が書いてありました。一年振りの訪問で、去年の大河ドラマ「天地人」に登場していた菊姫は景勝の子を産む事の出来なかった悲劇の女性として描かれていたので、お袋は感慨深げに石碑を読んでいました。

武田信成館
笛吹市
南北朝時代に11代当主・武田信成の居館があった場所です。信成は弟の氏信と共に北朝方として安芸を中心に活躍をしたそうです。足利尊氏が室町幕府を開府すると、信成は甲斐に戻り、氏信は安芸に残って安芸武田氏を興しました。信成は信仰深い武将だったらしく多くの寺領寄進をしていました。写真は清道院の境内にあった標柱「武田信春公館跡」です。境内には信成が遠征中に南朝方よって館が攻められたときに、館に残っていた信成夫人が身を投げたと伝わる井戸が残っていました。信成夫人は清道院といい、息子の武田信春が菩提を弔うために建てたお寺の名前となりました。
理慶尼邸
甲州市
奈良時代に開山された大善寺の一角に、理慶尼の邸宅(庵室)がありました。理慶尼は勝沼信友(武田信虎の弟)の娘で、武田勝頼(武田信玄の4男)の乳母をやっていたことがあります。兄の信元が小田原城の北条氏との内通の疑いをかけられて討たれてしまった後に、実家の勝沼館の近くにある大善寺の慶紹和尚を頼って入ったそうです。大善寺は真言宗の寺院で、国宝の薬師堂(鎌倉時代創建)と厨子があります。新府城から天目山を目指していた勝頼一行が立ち寄った時に、慶尼は温かく出迎えました。薬師堂で理慶尼・勝頼夫妻・信勝(勝頼の子)の4名で寝所を供にしました。あと、勝頼が腰掛けたという石、勝頼一行の様子を克明に綴ったという「慶尼記」、慶尼の五輪塔、各戦国武将の古文書などが残されています。写真は国宝の薬師堂です。
小佐手氏館
甲州市
室町時代に武田一族・小佐手(おさで)永信の居館があった場所だそうです。永信は武田信重(14代当主)の3男に当たります。小佐手信行のときに武田信虎(信玄の父)に滅ぼされてしまったものの、信行の遺児・信広は信玄に仕えていました。信広の息子・信房のときに武田氏が滅亡すると、子孫は徳川家康に仕えるようになりました。徳川家の旗本・小佐手氏の菩提寺は臨済宗・勝林寺(東京都豊島区)で、徳川幕府の老中・田沼意次の墓もあるそうです。写真は東雲保育園の駐車場にあった説明板で、すっかり日焼けして読みづらくなっていました。
岩崎氏館
甲州市
平安時代に石和信光(武田氏の祖・武田信義の甥)の息子・岩崎信隆の居館があった場所だそうです。岩崎氏は宗家・武田氏と肩を並べるほどの強大な勢力を誇っていたので、甲斐源氏の棟梁職を現す御旗盾無鎧を8代にわたって相伝していたそうです。しかし、岩崎直信のときに宗家の武田信重(14代当主)に返したそうです。写真は国道20号の「下岩崎」交差点付近にあるブドウ農園にあった説明板で、すっかり日焼けして読みづらくなっていました。数年前に行ったときに説明板が見つからなくて断念したことがあり、リベンジを果たせて嬉しかったです。余談ですが、信隆の従兄は甘利行忠(甘利氏祖)で子孫に甘利虎康、信隆の叔父は板垣兼信(板垣氏祖)で子孫に板垣信方が出ています。
安田義定館
甲州市
平安末期に源義光の曾孫・源義定が安田郷に居館を構えて安田姓を名乗ったのがはじまりだそうです。義定は長兄の加賀美遠光と次兄の武田信義と共に源頼朝の家臣として平家討伐で大活躍をしました。しかし、甲斐源氏の台頭を恐れた頼朝の命令で、討伐に向かった梶原景時と加藤景廉によって笛吹川で討たれてしまいました。写真は義定の居館があったという場所に建てられた福蔵院(曹洞宗)で、甲州七福神の1つに数えられています。余談ですが、福蔵院に向かう途中の国道20号沿いに、塩山市一葉会が設置した「樋口一葉女史先祖旧邸跡並墓所」と書かれた白色の大きな看板があったので、帰宅してからインターネットで調べてみたところ、樋口一葉の父・則義の実家(百姓)があったことが分かりました。
武田信春館
甲州市
南北朝時代に12代当主・武田信春の居館があった場所です。信春は北朝方として活躍をしたそうです。信春は父・信成の影響もあって信仰深い武将だったらしく多くの寺領寄進をしていました。なかでも代表的なのが国宝・大善寺(真言宗)です。信春の娘は上杉禅宗の正室になっており、禅宗の乱が起きると鎌倉公方・足利持氏に付いた武田一族の逸見有直に襲われて、居館を焼かれてしまいました。写真は慈徳院の入口にあった石碑「武田信春公館跡」で、境内には信春の墓がありました。余談ですが、信春の跡を継いだ嫡男の武田信満は、室町将軍・足利義持の追討命令を受けた上杉憲宗と有直の連合軍に攻められて木賊山で滅ぼされてしまいました。木賊山は天目山の旧名で、皮肉にも165年後に同じ山で子孫の武田勝頼が織田信長によって滅ぼされています。
十組屋敷
甲州市
戦国時代に武田家に仕えていた蔵前衆をしていた伊丹康勝の屋敷(伊丹氏陣屋)がありました。康勝は今川義元の家臣だった伊丹康直の子で、今川家が滅亡した後は武田勝頼に仕えていた人物だそうです。江戸時代には陣屋になりましたが、曾孫・伊丹勝守のときに廃止されました。武田時代の康勝は大蔵長安(後の大久保長安)と同じ蔵前衆だったそうで、共に甲府城番、勘定奉行、そして佐渡金山奉行を歴任するなど、幕府では重きをなした人物だそうです。写真は塩山町にある「三日市場」交差点付近にあった石碑で、そこから500メートル北上したところに武田家の菩提寺・恵林寺(臨済宗)があります。
中牧城
山梨市
平安末期に源義光の曾孫・安田義定によって築かれたのが始まりです。武田信玄の時代には狼煙台が置かれ、家臣の大村氏が秩父往還雁坂口の警護をしていました。江戸時代には徳川家康の命令で保科直正によって改修され、城代として内藤信成を配置しました。その時に小さな天守閣が挙がったそうで、天守台だったという盛り土がありました。しかし、普請によって甲府城が完成すると中牧城は廃城になりました。写真は本丸跡に建てられた八幡神社に設置されていた案内板で、地元では浄古寺城で通っているそうです。本丸跡からは恵林寺(武田家菩提寺)と甲府盆地一帯を見下ろすことが出来、盆地の向こうには雪化粧をした富士山が大きく見えました。
源義清館
昭和町
天承元年(1131年)に源義清が常陸国・勝田郷から甲斐国・市河郷に移り住んだときに居館を構えたのがはじまりです。義清は源義光(源義家の弟)の3男で、甲斐源氏の始祖となりました。甲斐国といえば武田信玄が真っ先に思い浮かぶのですが、武田家を興した武田信義(武田氏の祖)は義清の孫に当たり、信義から数えて15代目に信玄が現れました。写真は居館跡(義清神社)にあった由来案内板で、長方形の居館跡を囲むようにして土塁と水堀の一部が残っていました。余談ですが、市川三郷町にも同じく義清の館跡(熊野神社)だという伝承地があります。
一橋家陣屋
韮崎市
宝暦3年(1753年)に徳川宗尹(8代将軍・徳川吉宗の4男)が飛び地である河原部村と韮崎宿を治めるために陣屋を置いたのがはじまりです。陣屋は代官所としての機能も兼ね合わせていました。宗尹は一橋徳川家の祖で、江戸城の一橋門付近に屋敷を構えていた10万石(甲斐国・武蔵国・和泉国)の御三卿でした。寛政6年(1794年)に駿河国の相良村に所領が変わるまでの41年間治めていました。陣屋跡はJR韮崎駅から200メートル程度の所にあり、日本キリスト教団教会の敷地内に石碑と写真の案内板が設置されていました。訪れたのが日曜日で、教会ではちょうどミサをしていたので、石碑と案内板の正面は路上駐車で塞がっていて写真が撮りづらくて斜めになってしまいました。
重久烽火台
韮崎市
戦国時代に武田信玄が整備した烽火台です。須玉にある若神子城と穴山にある能見城をつなぐ棒道(武田氏が整備した軍用道路)の経路に沿っている中間地点にありました。現在は山頂にNHK施設と中継塔が建っていて、「通信施設」という意味では、現在も変わらなかったんだなと思いました。写真は麓から撮った狼烽火跡のある山です。
堂坂砦
韮崎市
天正10年(1582年)の3月に武田氏が滅亡し、甲斐国は織田氏の支配化に置かれました。しかし、わずか数ケ月後の6月に織田信長が本能寺において討ち死にすると、信濃国で信長の家臣・滝川一益を撃破して碓氷峠から甲斐国に侵攻した相模国の北条氏直(氏政の子)が率いる4万3千の軍勢は若神子城に陣を敷きました。それに対して徳川家康は鳥居元忠と三宅康貞(元忠の義弟)と酒井忠次と依田信蕃(武田氏の遺臣)で構成した8千の軍勢で新府城に入城して対峙しました。その時に堂坂に砦を築いています。黒駒の戦いで徳川軍が勝利を収めました。写真は御名方神社の麓にある山道にあった標柱と説明板で、前方には八ヶ岳が良く見えました。
武田氏館
甲府市
1519年に、武田信虎が石和館からこの地に館を新たに築いて移転したのがはじまりだそうです。同時に家臣団の屋敷や城下町を整備し、詰めの城として要害山城も築きました。躑躅ヶ崎館として信虎・信玄・勝頼の3代渡り、甲斐武田家の拠点として栄えました。1575年に、武田勝頼が長篠の戦いで惨敗し、新府城を築いて居城を移すと、躑躅ヶ崎館は取り壊されてしまいました。現在は、武田神社が建ち、武田氏館跡として観光客で賑わっています。僕は小学3年生の誕生日の時に、親父から「織田信長」という歴史漫画の本を買ってもらったのですが、「あの信長と家康が勝てなかった武将」という印象が強烈に残って以来、武田信玄の大ファンになってしまいました。もう、武田神社には10回以上もお参りしました。写真は大雨が降った直後の正面にある石垣です。
武田龍宝邸
甲府市
武田龍宝(本名は武田信親)は武田信玄の次男で、信玄が信州の海野城を攻め落とすと、龍宝は名跡を継いで海野信親を名乗りました。龍宝は盲目だったので兄の武田義信(信玄の長男)が病死した後も継ぐことなく半僧半俗の生活を送っていたのですが、性格は温厚である上にずば抜けて頭も良く、相談役もしていたので武田家中の信頼が厚かったそうです。なお、領民からもお聖堂様と慕われていました。武田勝頼が新府城を築いて移ると、龍宝は入明寺(浄土真宗)に入りました。龍宝を温かく迎えた住職・栄順は信玄の父・信虎を諌言しようとして亡くなった工藤虎豊の子で、武田二十四将・内藤昌豊の実弟です。あと、信玄と三条夫人(義信と龍宝の実母)の婚姻を取り持ったのも栄順でした。勝頼が天目山で滅んだ報を聞いた3月11日に境内で割腹自殺しました。
武田信繁邸
甲府市
武田信繁の邸宅がありました。信繁は二人の兄弟(武田信玄と武田信廉)と共に、武田信虎と大井夫人の間に生まれました。武略と外交に長けていた武田家の副将で、性格は温厚である上に相談役もしていたので、武田家中と信濃先方衆からの信頼が非常に厚かったそうです。武田氏の主要な合戦には全て従軍して信玄を助けていましが、第4回目の川中島の戦いで上杉勢に囲まれて戦死してしまいました。敵の上杉謙信も信繁の死を惜しんだそうです。信繁の死後、信濃では信濃先方衆による反乱が頻発し、駿河国を巡って信玄と義信(信玄の嫡男)による家中の分裂など、後の武田家に深い影を落としました。余談ですが、信玄の奥近習をしていた真田昌幸は信繁を最も尊敬していたので、息子の名前を信繁(幸村)と名付けたほどです。写真は武田通り沿いにあった解説板です。
武田信廉邸
甲府市
武田信廉の邸宅がありました。信廉は二人の兄達(武田信玄と武田信繁)とともに、武田信虎と大井夫人の間に生まれました。武勇などに秀でた人物ではなく、むしろ画家や彫刻家としての才能に優れていた文人でした。兄の信繁が戦死すると親類衆の筆頭となったのですが、容姿が信玄によく似ていたので影武者として、本陣の守りや後方支援に徹していたそうです。織田信長による武田征伐がはじまると、信濃大島城を放棄して甲斐に逃れたのですが、後ろ盾を失った仁科盛信(信玄の5男)は高遠城で玉砕してしまいました。甲斐に戻った信廉は織田軍による残党狩りよって捕らえられ、武田勝頼が自刃した13日後に府中を流れる相川の河原で斬首されてしまいました。写真は古府中町1号公園の前にあった解説板で、小山田信茂邸と土屋昌続邸と隣接していました。
一条信竜邸
甲府市

一条信竜(本名は武田信竜)は武田信虎の8男で、兄・信玄の命令で信竜は一条氏の名跡を継ぎました。信玄の時代では、主に外交として活躍し、戦いが始まると数々の手柄を立てていた親類衆で、信竜も武田二十四将の一人に数えられています。信玄の信頼が厚く、信玄の遺言で武田勝頼の後見役になったことがありました。長篠の戦いでは、織田信長が敷いた三段構えのうち二段を突き破るほどの活躍をしました。この戦いで敗戦の色が濃くなっても、馬場信春の軍勢と共に戦場に残り、大将の勝頼の戦線離脱を見極めたあとに信竜の軍勢は退却、府中に戻っています。8年後の甲州崩れでは、駿河から府中に侵入した徳川家康の1万の軍勢に対し、信竜は3百の手勢を引き連れて突撃して戦死しました。写真は「北新小学校北」交差点にあった解説板です。

飯富虎昌邸
甲府市
武田家臣・飯富虎昌の邸宅がありました。飯富氏は河内源氏の流れを組む家柄で、後に武田信虎(信玄の父)に仕えました。甲山の猛虎」と呼ばれて敵味方から恐れられていた武将で、武田二十四将の一人に数えられています。信虎の偏諱を受けて‘虎’の一字を貰うと虎昌と名乗る様になりました。赤備えの軍団を引き連れて戦いに出ても負ける事を知らなかったので、信玄の嫡男・武田義信の傅役に任命される等、武田家の中でも重きをなしました。義信は智勇兼備の武将で武田家の重臣達の間でも人望が厚い人物でした。今川義元亡き駿河国を巡って家中が二つに分れると、信玄の命で義信は東光寺に幽閉されてしまいました。内紛への発展を恐れた虎昌は「責任は虎昌ただ一人によるもので、義信に非はございません!」と遺言を残すと、邸宅内で自刃してしまいました。
山県昌景邸
甲府市
武田家臣・飯富源四郎(後の山県昌景)の邸宅がありました。昌景は兄の虎昌に劣らぬ武将で、武田二十四将の一人に数えられています。武田義信事件で内紛を恐れた虎昌は、昌景に「自分が死んだら、自分の邸宅を放火し、その首を持って信玄の所に届けるように!」と託すと、義信の身代わりとなって自刃しました。虎昌の忠誠に気がついていた信玄の命令で昌景は山県氏の名跡を継ぎました。信玄の時代では武勇だけではなく内政・外交の感覚に優れていたので、敵方にも広く知られ渡っていました。三方ケ原の戦いで破れた徳川家康が脱糞したのも気づかぬまま命からがら浜松城に逃げた逸話は有名で、追い詰めたのは昌景でした。長篠の戦いでは織田&徳川連合軍の銃弾によって散りました。家康の重臣・井伊直政の赤備えの部隊は、山県の軍勢がモデルになっています。
馬場信春邸
甲府市
武田家臣・馬場信春の邸宅がありました。信春は美濃の名門・土岐氏の流れを組む家柄で、武田二十四将の一人に数えられています。信春の軍勢は黒備えで統一されていました。武田三代に仕えた40年間で70回を超える合戦に参加しましたが、長篠の戦い迄かすり傷一つ負わなかったと云われています。駿河攻めで武田信玄が今川氏館から財宝を持ち出すよう指示した事を知った信春は「後世の物笑いになる」として、味方の武田軍が来る前に財宝を全て火中に投げ込んだという話が残っています。長篠の戦いでは、敗戦の色が濃くなっても一条信竜の軍勢と共に戦場に残り、大将の勝頼の戦線離脱を見極めた後に、信春の軍勢は反転して追撃の織田信長の大軍に突入し、全滅しました。写真は武田通りの「護国神社入口」交差点にあった解説板です。
内藤昌豊邸
甲府市
武田家臣・内藤昌豊の邸宅がありました。父の工藤虎豊は武田信虎に仕え(信虎の偏諱を受けて‘虎’の一字を貰っています)、息子の昌豊は武田信玄に仕えていました。武略と外交に長けていたので、信玄の弟・武田信繁と共に武田軍団の副将として活躍していたことから、山県昌景が「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と昌豊を評価していました。小田原城の北条氏康が病死して後を継いだ北条氏政が和睦を申し入れてきたときには、信玄の全権名代として交渉に当たり、それを無事にまとめています。武田勝頼の時代では、勝頼とは折り合いが悪かったそうです。長篠の戦いでは、織田信長と徳川家康が築いた水堀と三重柵を突き破って、信長の重臣・滝川一益の軍勢を追い散らすほどの活躍をしましたが、多勢に無勢で戦死してしまいました。
原昌胤邸
甲府市
武田家臣・原昌胤の邸宅がありました。原氏は美濃の名門・土岐氏の流れを組む家柄で、後に武田信虎(信玄の父)に仕えました。陣形やその陣を敷くための場所の決定、荷駄隊の運営と財務全般を一括して引き受けていた武将で、武田二十四将の一人に数えられています。戦いが起きると「陣馬の見立ては隼人佑に全て任せておけばいい」と信玄から言われるほど、信頼が厚かったそうで、武田軍が無敵を誇ることが出来たのは昌胤が居たからだと云われています。長篠の戦いでは、織田信長の布陣から敗戦を読み取り、大将・武田勝頼に撤退を進言しましたが、聞き入れられませんでした。昌胤も刀を握って、手勢を引き連れて織田信長の陣地に飛び込んで戦死してしまいました。写真は屋形3丁目にある住宅街の外れにある畑にあった解説板です。
板垣信方邸
甲府市
武田家臣・板垣信方の邸宅がありました。板垣氏は武田の親類衆で、武田二十四将の一人に数えられています。武田信虎(信玄の実父)が武田家の当主になったのは14歳で、信方とは年齢が同じだったことから頼りにしていたそうです。わずか13年間で甲斐国を統一することが出来たのは、信方をはじめとする優秀な家臣団に恵まれていたからでした。武田信玄の時代には、諏訪攻略に活躍するなど、甘利虎泰と共に信玄を支えていました。しかし、村上義清と対戦した上田原の戦いで戦死してしまいました。写真は武田通りから一本入った松木堀付近にあった解説板で、内藤昌豊の邸宅と隣接していました。余談ですが、幕末と明治維新に活躍した板垣退助は、信方の末裔だそうです。
甘利虎泰邸
甲府市
武田家臣・甘利虎泰の邸宅がありました。甘利氏は甲斐源氏の支族・一条氏流れを組む家柄で、武田信虎に仕えていました。信虎は「荻原昌勝(信虎の軍師で後に信玄の養育係になった人物)に劣らぬ剛の武者」と評価し、‘虎’の一字を授けています。戦場では荷駄隊の運営として出陣することが多かったので目立った活躍が少なかったものの、刀を手に持つと暴れまくったので、敵味方から「猛り狂う野牛を野に放つが如し」と恐れられていました。板垣信方と共に若き武田信玄を強力に支えていましたが、村上義清と対戦した上田原の戦いで戦死してしまいました。家督を継いだ長男の昌忠は武田軍団では最年少の騎馬大将に抜擢された武将で、飯富虎昌に可愛がられていたことから赤備えに変えています。写真は甲斐護国神社の鳥居の前にあった解説板です。
秋山信友邸
甲府市
武田家臣・秋山信友の邸宅がありました。秋山氏加賀美遠光(弟が武田氏の祖・武田信義)の流れを組む家柄で、武田二十四将の一人に数えられています。黒備えの部隊を引き連れて戦場では暴れまくって負けることを知らなかったので、徳川家康から「武田の猛牛」と評価したという話が残っています武田信玄による西上作戦では、信濃から美濃に攻め入って東美濃の要衝・岩村城を陥落させています。岩村城の女城主だったおつやの方(織田信長の叔母)は、城兵全員の命を助けることを降伏の条件として信友の正室になりました。武田勝頼が長篠の戦いで敗れた後も3年間孤立無援で岩村城を死守しましたが、半年に及ぶ攻防戦の末についに落城しました。捕らえられた信友夫妻は信長の命令で長良川の川原で処刑されてしまいました。
三枝守友邸
甲府市
武田家臣・三枝守友の邸宅がありました。父の虎吉は武田信虎に仕え(信虎の偏諱を受けて‘虎’の一字を貰っています)、息子の守友は信玄の奥近習(武田二十四将の一人に数えられています)として仕えました。上州攻めや駿河攻め、三方ケ原の戦いなどで数々の一番槍を挙げました。守友の活躍ぶりに感銘した山県昌景は、名刀・吉光の太刀を授けるとともに、娘を与えました。昌景の娘婿となった守友は、自分の部隊を赤備えに変えています。長篠の戦いでは川窪信実(本名は武田信実で信玄の異母弟)の副将として従軍し、信実と共に三河・鳶ケ巣山砦で戦死しました。8年後に武田家が滅亡した後も、駿河・田中城を死守し続けていた父の虎吉と守友の遺児・守吉は、穴山信君の説得に応じて10日後に開城しました。虎吉は隠居し、守吉は徳川家康の旗本になりました。
土屋昌続邸
甲府市
武田家臣・土屋昌続の邸宅がありました。父の金丸虎義は武田信虎に仕え(信虎の偏諱を受けて‘虎’の一字を貰っています)、息子の昌続は信玄の奥近習(武田二十四将の一人に数えられています)として仕えました。信玄の時代では、外交手腕に長けていたので、北関東方面の諸大名との外交交渉を担当していました。そういう繋がりで昌続の軍団は東信州衆と西上州衆で構成された黒備えでした。川中島の戦いでは、武田本隊の前備え(武田信繁の部隊)が崩れて武田信玄の本陣に上杉勢が近づいてきても、昌続は動じる事なく上手に防ぐ活躍をしました。三方ケ原の戦いでは徳川家康の家臣・鳥居信之の部隊を壊滅させました。長篠の戦いでは、織田軍が築いた水掘を渡り、三重柵の二重まで突き破りましたが戦死してしまいました。写真は古府町3丁目にあった解説板です。
長坂長閑斎邸
甲府市
武田家臣・長坂光堅(長閑斎は出家後の名前)の邸宅がありました。長坂氏は信州の名門・小笠原氏の流れを組む家柄で、堅は武田信虎(信玄の父)に仕えていました。信玄の時代には諏訪の郡代を務めていて、板垣信方をよく補佐していました。光堅の長男・昌国は信玄の奥近習六人衆に数えられていて、親子共に信玄からの評価が高い武将でした。長篠の戦いでは、信玄以来の宿老達が「織田信長&徳川家康との合戦を避けて撤退をすべきだ!」と進言したのを、光堅は攻撃を主張したので、武田軍団が敗れた原因を作った人物として山梨県では評判が悪いそうです。しかし、長篠に滞陣中の勝頼から駿河に居た光堅宛の書状が現存しています。勝頼が天目山で自刃するときに、光堅と昌国は最後まで勝頼に従い殉死していたことが、最近の研究で判明しました。
真田幸隆邸
甲府市
武田家臣・真田幸隆の邸宅がありました。幸隆は武田信虎に滅ぼされた海野棟綱の遺児で、上州の豪族・長野業正を頼って落ち延びていました。武田信玄による信州攻略が本格化すると信玄に仕える様になりました。信濃先方衆として調略に徹底してほとんど兵力を損する事なく平定してしまいました。上田原の戦いと砥石城の戦いで信玄が村上義清に惨敗すると、砥石城の攻略を任されました。幸隆は1兵を損する事なく砥石城を陥落させてしまいました。幸隆の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許されました(写真は武田神社の斜め前にあった幸隆の屋敷跡にあった解説板です)。武田家中でも一目置かれていました。幸隆が旗印として六紋銭を考えたのはその頃です。
真田信綱邸
甲府市
武田家臣・真田信綱の邸宅がありました。信綱は幸隆の嫡男で、弟の昌輝と共に武田氏の主だった合戦には全て従軍すると共に、数々の戦功を挙げていました。真田家が赤備えになったのは、信綱&昌輝兄弟が飯富虎昌の家臣だったからだといわれています。信綱は父の幸隆と同様、外交手腕にも優れていたので、武田家の副将・内藤昌豊から一目置かれていました。長篠の戦いでは織田信長の三重柵を突き破って、信長の重臣・佐久間信盛の軍勢を混乱に陥れましたが、多勢に無勢で真田隊は全滅しました。信綱&昌輝兄弟には弟が居て、奥近習として信玄に仕えていた真田昌幸です。昌幸は徳川家康を上田城で2度も撃退させています。昌幸の子が有名な真田幸村で、大坂の陣で家康を苦しめています。写真は真田信綱の山交バスの停留所「小松入口」の付近にあった解説板です。
高坂昌信邸
甲府市
武田家臣・高坂昌信の邸宅がありました。昌信は甲斐石和の豪農の出身で、信玄の奥近習(武田二十四将の一人に数えられています)として仕えました。信玄と勝頼の時代に、武田氏の主だった合戦には全て従軍すると共に、外交も引き受けていました。特に駆け引きに優れていたことから逃げ弾正≠ニ異名が付いた智将です(逆に攻め弾正≠ニ異名が付いたのが真田幸隆です)。長篠の戦いでは、信州の海津城を守備していたので、信玄以来の老臣は昌信の1人だけになってしまいました。しかし、長篠の戦いで息子の昌澄を亡くしています。武田勝頼と上杉景勝が同盟を結んだ立役者が昌信で、景勝側からは直江兼続が出席したから成功したといわれています。まもなくして昌信は病気になると、海津城で亡くなりました。
多田満頼邸
甲府市
武田家臣・多田満頼の邸宅がありました。多田氏は摂津源氏の流れを組む家柄で、後に武田信虎(信玄の父)に仕えました。夜襲を得意としていた武将で、武田二十四将の一人に数えられています。信虎の時代には溺愛され、信玄の時代になっても高く評価されていました。地獄の妖婆「火車鬼」を退治したという伝説、湯村温泉で天狗を倒したという鬼の湯伝説が残っています。川中島の戦いが起きた頃には既に病床にあったそうです。満頼の息子・常昌は武田勝頼に仕えていましたが、長篠の戦いで戦死してしまいました。写真は屋形2丁目にある住宅街にあった解説板です。
横田高松邸
甲府市
武田家臣・横田高松の邸宅がありました。高松は近江の名門・六角氏の家臣でしたが、後に武田信虎(信玄の父)に仕えました。先読みと駆け引きに優れた武将で、武田二十四将の一人に数えられています。村上義清の属城・砥石城を武田晴信(後の信玄)が攻略した戦いでは、背後から村上軍の奇襲を受けた武田軍は大混乱に陥ってしまい、信玄の本隊にも村上軍が迫ってくるほどでした。高松は殿(しんがり)軍として義清の本隊に突撃して戦死してしまいました。前の年にあった上田原の戦いで板垣信方と甘利虎泰を亡くし、砥石城攻めで横田高松を亡くした信玄は、血気にはやってしまった己の行動を反省し、生涯負け戦をしなくなったと云われています。写真は武田氏館の裏にある竜華池の側にあった解説板です。
小幡虎盛・昌盛邸
甲府市

武田家臣・小幡孫十郎(後の虎盛)の邸宅がありました。小幡氏は近江出身で、後に武田信虎(信玄の父)に仕えました。虎盛の父・虎次が戦死すると、わずか14歳で家督を継ぎました。信虎の甲斐統一事業、北条氏と今川氏との緒戦で活躍をしたので、その戦功から信虎の偏諱を受けて‘虎’の一字を貰うと、虎盛と名乗って「鬼虎」称される様になりました。武田信玄の時代では36回の合戦に参加して貰った感状も36枚を数えました。信玄が出家すると、原虎胤と真田幸隆と共に剃髪しました。息子・昌盛も優秀な武将で、父と共に武田二十四将に数えられています。「鬼の子には鬼の娘が相応しい」という信玄の計らいで、虎胤の娘を正室にしました。織田軍と徳川軍が甲斐に侵攻した頃には既に病床にあった様で、武田勝頼が天目山で自刃する数日前に病死しました。

山本晴幸邸
甲府市
武田家臣・山本晴幸(通称:勘助)の邸宅があったそうです。甲陽軍艦では武田信玄の軍師として、また武田二十四将の一人として活躍をした人物だといわれています。川中島の戦いでは、武田軍を二手に分け、別働隊を上杉謙信の妻女山に迎撃させ、上杉軍を八幡原に引きずり出し、八幡原に布陣させた本隊が待ち伏せをして、降りてきた別働隊と挟み撃ちにするという‘啄木鳥戦法’を信玄に提案したともいわれています。個人的には晴幸の存在を全く信じていません。仮に実在していたとしても身分が高くない人物だったのではないかと思っています。写真は古府中町2号公園にあった解説板で、去年の大河ドラマ「風林火山(2007年度)」をやっていた時に設置されたばかりの新しい物でした。余談ですが、大河ドラマ「風林火山」は非常につまらなくて最悪の内容でした。
小山田信茂邸
甲府市

小山田信茂は武田信玄のイトコに当たる親類衆で、武田二十四将の一人に数えられています。小山田氏は穴山氏と共に武田宗家から独立した広大な郡内運営をしていました。信玄と勝頼の二代に仕え、数々の武功を挙げました。織田信長による甲斐侵攻が始まると、武田勝頼に新府城を引き払って自分の居城・岩殿山城に逃れるように勧めました。しかし、途中で裏切って勝頼一行を郡内に入れず、逃げ場を失った勝頼は天目山で自刃してしまいました。勝頼が滅ぶ直前に松姫(信玄の4女)が、幼かった香具姫(信茂の娘)と貞姫と督姫(仁科盛信の娘)を連れて八王子に逃れたので助かりました。香具姫は徳川家康の計らいで内藤忠興(7代目の大坂城代)の元に嫁いでいます。甲斐に入った織田信忠に拝謁した信茂は「古今未曾有の不忠者」と咎められて処刑されました.。

穴山信君邸
甲府市
穴山信君は武田信玄のイトコに当たる親類衆で、武田二十四将の一人に数えられています。穴山氏は武田宗家から独立した領地運営をし、独自の金山も運営していました。元々武田勝頼とは折り合いが悪く、長篠の戦いでは敗戦の色が濃くなると合戦に参加することなく勝手に戦線離脱をするという愚かな行動を取っています。8年後に織田信長による甲斐侵攻が始まると、武田家を裏切って徳川家康の元に転がり込んでしまいました。本能寺の変で信長が討ち死にすると、家康と信君はそれぞれの領地に戻るべく京都を脱出しましたが、信君は落ち武者狩りの農民に襲撃されて殺害されました。信君の妻・見性院(信玄の次女)は徳川家康の庇護を受けて清泰寺(現さいたま市)に入りました。家康の命令で後に徳川秀忠の4男・保科正之(会津藩祖)の養育係を務めています。
河尻秀隆館
甲府市
織田信長の家臣・河尻秀隆の居館があった場所だそうです。秀隆は織田信秀(信長の父)の頃から仕えていた武将で、織田信長のときは桶狭間の戦いや美濃攻略、長篠の戦いなどの主要合戦に従軍して数々の手柄をたてました。甲斐侵攻で武田勝頼を天目山に追い詰めて滅亡させると、恩賞で甲斐を与えられました。府中に入った秀隆は背後の信長の権力を利用して威圧的な政治を行なったそうで、新領主・秀隆に反感を抱いた武田遺臣達と農民達の襲撃を受けて殺害されてしまいました。この事件は信長が本能寺で討たれた時期と重なっていたそうで、勝頼が天目山で自刃してからわずか3ケ月後の出来事でした。写真は襲われた秀隆の首が捨てられた場所(居館跡)にあった「河尻塚」です。
岩下氏館
笛吹市
室町時代に甲斐国の豪族・岩下氏の居館があった場所だそうです。岩下氏の妹・崇昌院が武田信綱に嫁いだのですが、二人の間に産まれたのが武田信虎(信玄の実父で18代当主)で、崇昌院の実家で産声をあげたそうです。信虎の弟・勝沼信友もここで産まれたそうです。平成13年に発掘調査が行なわれ、中世の掘立柱建築の跡の一部が確認されたそうです。写真は無住職・大徳院の近くにあったぶどう畑の中にあった解説板です。
八田氏屋敷
笛吹市
戦国時代に武田家に仕えていた蔵前衆をしていた八田氏の屋敷です。甲斐に侵攻した織田軍の兵火によって建物が全焼してしまいました。その後再建された武家書院が残されています。土塁と水堀も残されていて素晴らしかったです。江戸時代に石和陣屋が置かれていたときの表門が、明治7年11月に払い下げを受けて八田氏屋敷の表門として移築されたものが、写真の門です。余談ですが、蔵前衆頭をしていた古屋氏の屋敷跡(現・連方屋敷跡)が隣の山梨市にあります。あと、ここから数百メートルのところに「ホテル石風」があり、正面には17歳の北条夫人(北条氏康の娘)がら贈られたという黒松がとても見事でした。
平時忠屋敷
笛吹市
平安時代に鵜飼で生計をたてていた勘作という若者が住んでいたところだそうです。源氏に追われて能登に流された平時忠(平清盛の正室・時子の実弟)であるとも、平家の縁者とも伝えられています。ある日、勘作は観音寺の定めた殺生禁断の流域で漁をしていたために捕らえられ、簀巻きにされて水底に沈められてしまったそうです。殺された勘作は平家の若武者の亡霊となって毎夜に現れて、村人や観音寺をさんざんに悩ませ続けたそうです。この地域を通りかかった日蓮上人は村人達の話を聞き、勘作の霊を鎮め、集めた石に法華経一部八巻・六万九千三百八十余字を三日三晩かかって書き上げ、その一字一石の経石を岩落の水底の沈めながら亡霊の供養をしました。すると勘作の亡霊は現れなくなったそうです。写真は平時忠の霊が眠っている日蓮宗・遠妙寺の本堂です。
石和信光館
笛吹市
平安時代に武田信義(武田氏の始祖)の5男・石和信光の居館があった場所だそうです。信義は源頼朝の鎌倉幕府創立に積極的に支えた武将でしたが、軍事力が強大だった為に、頼朝によって甲斐源氏の一族が粛清されてしまいました。信光は5男だったので本来は家督を継ぐ位置ではなかったのですが、謀略によって父と4人の兄達を隠居や暗殺をしてしまいました。甲斐源氏の力を恐れる頼朝と北条一族の存在と、家督を継ぎたい信光の利害が一致した結果で、信光は甲斐源氏の勢力減退と交換に武田家の家督を継いだそうです。写真の黒松(「ホテル石風」の正面)は、武田勝頼の元に嫁ぐことが決まった17歳の北条夫人(北条氏康の娘)が古府中に入り、石和桧峯神社主・武藤氏の屋敷で休憩したときに、お礼として小田原から持参していた鉢植えの黒松を贈った物です。
川田館
甲府市
室町時代に武田信昌が川田に居館を構えたのが始まりで、子の信縄、孫の信虎の3代に渡って利用されました。信縄は37歳の若さで病死すると、わずか14歳の信虎が18代当主になりました。翌年には信縄の弟・油川信恵と信守の親子を滅ぼし、17歳の時に強力な勢力を誇っていた小山田信有を攻略して妹を嫁がせました。その後も武田一族や穴山信友を攻略し、27歳の時に大井信達を攻略して大井夫人を迎えると、甲斐国の統一を果たしました。28歳の時に戦国大名で初めての富士山頂上にある御鉢一周巡りをしました。まもなくして古府中に新しい居館(躑躅ヶ崎館)を構えると川田館は廃止されました。余談ですが、信玄の側室・油川夫人は、信虎に滅ぼされた信守の娘に当たり、仁科盛信(信玄の5男)と松姫(信松尼)と菊姫(上杉景勝の正室)を産んでいます。
武田信廉館
甲府市

武田信玄の弟・信廉の居館があったそうです。信廉は二人の兄達(信玄と信繁)とともに、武田信虎と大井夫人の間に生まれた兄弟です。信廉は信玄の弟として武田家を支えましたが、武勇などに秀でた人物ではなく、むしろ画家や彫刻家としての才能に優れていたそうです。信虎の肖像画(大泉寺蔵)と大井夫人の肖像画(長禅寺蔵)、武田不動尊(恵林寺蔵)、そして写真の逍遥院(曹洞宗)にある生前に作成したという位牌など、見事な作品が残されています。信廉は武田家滅亡のときに、甲斐に進攻した織田軍によって府中の相川で処刑されるという悲運を辿りました。

谷村城
都留市

戦国時代に小山田信有が火事で焼けてしまった中津森館から谷村に城を新たに築いて移転したのがはじまりだそうです。同時に詰めの城として勝山城も築きました。両城は桂川にかかる橋で繋がっていました。まもなくして信有が武田信虎(信玄の父)の妹を娶ると、岩殿山に新城を築いて移ったので短い期間でした。桃山時代と江戸時代を通して、浅野氏,鳥居氏,秋元氏と城主が変わりました。秋元喬朝の時に関東震災による石普請を奉行した功により、武州川越城に移封すると、谷村城は背後にある勝山城と共に廃止されました。谷村城址は谷村小学校が建てられてしまったので遺構は全く残っていませんでしたが、谷村小学校の隅に写真の石碑が、都留市役所の玄関前に説明板がそれぞれ設置されていました。谷村小学校では体育祭を応援する地元の人達で賑わっていました。

谷村陣屋
都留市

宝永元年(1704年)に秋元喬朝が川越城に移封すると、翌年に川越城より柳沢吉保が入れ替わるようにして甲府へ入封すると、都留郡は御料所となって谷村陣屋が置かれました。時には石和陣屋の出張所となったりして、甲府勤番支配と代官支配による一国の地方行政が行なわれ、明治元年まで144年間にわたって支配したそうです。現在は簡易裁判所となり、遺構などは残っていませんでした。簡易裁判所の向かい前には谷村小学校があって体育祭で賑わっていました。写真の石碑は簡易裁判所の隅っこにありました。

勝山城
都留市

国時代に小山田信有が谷村城を造営した時に、同時に詰城として背後に勝山城を築いたのがはじまりだそうです。両城は桂川にかかる橋で繋がっていました。近くにある中津森館が火事で延焼してしまったので、居館を谷村に移したそうですが、まもなくして信有が武田信虎の妹を娶ると、岩殿山に新城を築いて移ったので短い期間でした。桃山時代と江戸時代を通して、浅野氏,鳥居氏,秋元氏と城主が変わりました。秋元喬朝の時に関東震災による石普請を奉行した功により、武州川越城に移封すると、勝山城は谷村城と共に廃止されました。勝山城址は土塁が良く残り、いくつかの石碑や説明板が設置されていて楽しむ事が出来ました。城址で8匹のニホンザルに出食わしてビックリしました。僕を物珍しそうに眺めていたり、先回りして上から覗いたりしていました。

長峰砦
上野原市

戦国時代に加藤景忠は武田信玄に仕え、上野原城の出城として整備されたのが、この長峰砦です。甲斐と相模の境目にあり、上野原城と共に国境警備をしていたそうです。中央道の建設によって長峰砦のあった山が完全に切り崩されてしまい、中央道の談合坂サービスエリアの外に小さな公園がありました。公園には長峰城の歴史を書いた説明板と、発掘報告を書いた説明板と、写真の石碑がありました。公園の前は中央道があり、真横を車がゴーゴーと音をたてて通過していました。

上野原城
上野原市

鎌倉時代に横山党(武蔵七党)の一族・古郡忠重が上野原の地に館を構えたのがはじまりだそうです。戦国時代に加藤景忠は武田信玄に仕え、相模の北条氏に対する押さえとして、相模と甲斐の境目にある上野原城を守備していたそうです。天正10年3月、岩殿山城・小山田信茂の謀反によって武田勝頼の一行が天目山に逃げるの急を聞き、加藤信景は手勢を引き連れて救援に向かったのですが、小田原城の北条氏の大軍に行く手をはばまれて全滅してしまったそうです。写真は稲荷神社で、上野原城の歴史が書かれている説明板がありました。遺構は住宅街と中央道の建設によって消滅してしまったそうで、中央道を走行する車の音が聞こえました。

松留館
上野原市
戦国時代に上野原を支配していた加藤氏、もしくはその家臣が築いたと云われているそうです。松留館は甲斐と相模の国境付近を流れている鶴川と桂川の合流地点に築かれていて、すぐ近くを通る甲州街道の押さえとしての役目を担っていました。現在は臨済宗・正法寺が建っていますが、本堂は新しくなっていて、松留館があったことを示すものは何もありませんでした。
岩殿山城
大月市
鎌倉時代に天台宗・円通寺として開山したのがはじまりで、室町時代には修験道として栄えていたそうです。小山田氏は谷村城に居館を構えていましたが、戦国時代に武田信虎(信玄の父)の妹を娶った小山田信有によって要塞化されたのが現在の岩殿山城だそうです。長篠の戦いが終わって11年後の天正10年3月に、織田&徳川の連合軍が甲斐に侵攻すると、武田勝頼は築城中の新府城を焼き払って、小山田信茂(信有の子)の守る岩殿山城を目指したそうです。信茂の謀反に遭い、武田勝頼の一行は天目山で自害し、武田氏が滅んでしまったそうです。後に信茂は織田信長によって不忠者として成敗されてしまいました。本能寺の変が起きたのは武田氏が滅んでわずか3ケ月後の出来事でした。写真にある岩肌の山の上が城跡で、模擬櫓のある場所はお城とは無関係でした。
穴山氏館
韮崎市

「甲斐国志」によると、武田信虎に降伏した穴山信友(後に信虎と和睦して信虎の妹を迎えた)がこの台地周辺一帯に館を築いて身延にある下山城から移ったそうです。それ以外は詳細不明のようです。今回は立ち寄らなかったのですが、近くには曹洞宗・大龍寺があり、穴山一族の墓が眠っているそうです。写真の館址碑と説明板が薮で蔽い尽くされていたのですが、何とか剥がし取ってデジカメに収めました。ちょうど雨が止み、雲から太陽が顔を出し始めました。空を見上げながら「やっと雨が止んだか…」とつぶやくと、今回の甲州旅行のメインである曹洞宗・天澤寺(飯富虎昌と山県昌景兄弟の菩提寺)に向かうべくしてレンタカーに乗り込みました。

能見城
韮崎市

室町時代に武田氏の家臣・守屋定知の城であったと云われているそうです。武田勝頼が新府城を築くと、外城としての役割を持っていましたが、新府城が廃城になると能見城も廃城になったそうです。新府城の見学が終わってから能見城を訪れました。登城口の前には「長峰寺の私有地につき立ち入り禁止」という看板があって躊躇してしまいましたが、ここを登らないと城跡に行けないことが分かっていたし、いくつかのホームページでは能見城の看板を紹介していたので大丈夫だろうと思い、そのまま登りました。降っていた雨がますます強くなっていき、夏で藪がひどかったのですが、薮を掻き分けながら看板「能見城址」を目指し、それをデジカメに収めたときは嬉しかったです。麓に停めていたレンタカーに戻ったときはズボンがずぶ濡れになってしまいました。

日之出城
韮崎市

室町時代に武田信長が武田家再興の拠点として構えた城だそうです。上杉禅宗の乱で、禅宗とは縁戚関係にあった武田信満(信長の父)が味方をしたために、敵対していた上杉憲宗に攻められて自刃してしまいました。武田家を同族の逸見有信と跡部有海が乗っ取ってしまったそうです。足利義教(室町将軍・義満の3男)の援助を得た信長は日之出城で奮戦して逸見と跡部の連合軍を打ち破ると、兄の信重が武田家の当主になったそうです。信長は甲斐を離れると古河公方・足利成氏に仕えるようになり、成氏の命令で上総国に入ると真里谷城と庁南城の2城を築いたそうです。真里谷武田氏(3代目の信興のときに、真里谷氏に改姓)は、信長からはじまって豊臣秀吉の小田原攻めで滅ぼされるまで134年間続いたそうです。

新府城
韮崎市
天正9年の春に武田勝頼が釜無川と塩川に挟まれた断崖に、真田昌幸の指揮下で築城を開始し、府中にあった躑躅ヶ崎館と家臣の屋敷を取り壊して、同年の冬に普請最中の新府城に移ったそうです。それから3ケ月後に織田と徳川の連合軍が信濃と甲斐に侵攻を開始したので、未完成の城では防げないと考えた勝頼は城に火を放ってしまったそうです。落ち延びる途中に勝沼にある大善寺で宿泊をすると、小山田信茂の居る岩殿山城を目指しました。笹子峠で信茂の謀反に遭い、真田昌幸の居る岩櫃城に向かおうと天目山に入った所で、織田方の滝川一益の軍勢に遮られて名門武田家は滅亡してしまいました。土塁が大きくて見事な城跡だったので隅々まで歩き回りたかったのですが、ここでも大雨が降り止まなくて断念してしまいました。勝頼の無念の涙のような気がしました。
武田信義館
韮崎市

平安末期に源義光の曾孫・源信義が居館を構えたのがはじまりだそうです。信義は近くにある武田村にあった武田八幡宮の社前で元服し、武田氏を名乗った発祥の地となりました。兄の加賀美遠光と共に源頼朝の家臣として平家討伐に活躍をしたのですが、甲斐源氏の勢力拡大を恐れた頼朝によって幽閉させられてしまいました。長男の忠頼は一条家を、次男の有義は逸見家を、兼信は板垣家をそれぞれ起こしました。三男の信光は武田家を相続して14代目に武田信玄が現れました。写真の武田信義館跡がどうしても見つからなくて15分位ウロウロしていたのですが、運良くバイクで配達中の郵便局員を見つけたので聞いてみて、やっと辿り着くことが出来ました。近くの韮崎市役所に武田信義の騎馬武者像があるのですが、今回は寄りませんでした。

白山城
韮崎市

武田信義が、韮崎にある館を造営したときに、同時に詰城として背後に白山城を築いたのがはじまりだそうです。白山城へは麓にある武田八幡宮の駐車場に写真のような標識があるので、それに従って行くことが出来ました。武田八幡宮の本殿は武田信虎が再建工事をして、武田信玄のときに完成した建物で、昭和4年に国指定重要文化財に指定されました。武田家が滅ぶ直前に武田勝頼の夫人(北条氏康の娘)が戦勝を祈念して訴えた切々たる願文が武田八幡宮に残されていますが、とても19歳の女性が書いたとは思えない文章でした。武田八幡宮からは新府城のある城山が良く見えたのですが、「すぐ近くにある新府城から来た勝頼の夫人がこの本殿の前に戦勝を祈念したんだなぁ…」思うと、その様子が目に浮かんできました。涙を誘うように、再び大雨が降ってきました。

甘利氏館
韮崎市

平安末期に一条忠頼の次男・行忠が甘利庄に居館を構えて、甘利姓を名乗ったのがはじまりだそうです。忠頼の父は武田信義で、ここから北側に2キロメートル先の所に信義の館がありました。武田信虎が韮崎まで勢力を拡大すると、甘利虎泰は武田軍門に下りました。甘利家は信虎・信玄・勝頼の三代に仕えました。虎泰は「猛り狂う野牛を野に放つが如し」と恐れられた武将で、武田神社の二十四将に選ばれています。長男の昌忠は武田軍団では最年少の騎馬大将に抜擢された武将で、恵林寺の二十四将に選ばれています。知人に甘利氏の末裔が居ます。サークルの旅行で甲州に行ったとき、甘利姓を持つおじいさんが駆けつけてくれ御先祖の話を聞かせてもらったことがあります。写真は日蓮宗・大輪寺で、慶受院が父・昌忠を弔うために建てた菩提寺で、静かなお寺でした。

金丸氏館
南アルプス市
武田信玄の傳役を務めた金丸虎義の館のあった場所だそうで、現在は真言宗・長盛院が建っています。金丸氏は清和源氏の足利一族・一色範氏の次男・範光を祖とする名門で、範光の兄は九州探題の直氏(幸手一色氏の祖)です。虎義の次男は土屋昌次で、武田二十四将の一人に数えられていましたが長篠の戦いで戦死してしまいました。虎義の五男は土屋昌恒で、武田勝頼に従って天目山で織田兵と戦い、狭い山道を登ってくる敵兵を、藤の蔓に捕まって片手切りに多数斬ったので、後世「片手千人斬」と言われるようになりました。昌恒の遺児・昌忠は駿河の清見寺に身を隠していましたが、徳川家康に召し出されて秀忠の小姓となり、久留里藩の藩主となりました。余談ですが、政治家で「政界のドン」と呼ばれた自民党副総裁・金丸信は金丸一族の末裔だそうです。
椿城
南アルプス市

鎌倉時代に小笠原長清(加賀美遠光の次男)の孫・上野盛長が上野城を築いたのがはじまりだそうです。付近には椿が多かったので、後に椿城と呼ばれるようになったそうです。大井氏は、武田信武の次男・信明を祖とする武田一族です。大井信達が武田信虎に敗れて降伏したときに娘を差し出したのですが、信虎夫人として男子3人(晴信・信繁・信廉)と女子1人(今川義元の夫人)を産みました。信達は和歌に優れた人物らしく晴信(後の信玄)の師として、外祖父として武田家で重きを成したそうです。現在は城址の上に曹洞宗・本重寺が建ち、正門を入った右側に石碑「椿城跡」がありました。本堂の裏側には、大井氏一族の墓がありました。お寺の本堂からは、南アルプスの山脈が雨雲の合間から少しだけ見えました。

加賀美氏館
南アルプス市
平安時代に源義光の曾孫加賀美遠光がこの地に館を構えたのがはじまりだそうです。遠光は弓矢の名手だったそうで、宮中に留まっていた妖怪を高倉天皇のお召しで退治したという言い伝えが残っています。弟の武田信義と共に源頼朝の家臣として平家討伐に活躍をしたのですが、甲斐源氏の勢力拡大を恐れた頼朝によって5人の息子のうち3人が鎌倉で殺されたり、失脚させられたりしたそうです。嫡男の光朝は秋山氏を名乗って末裔に秋山信友(武田二十四将の一人)を輩出し、次男の長清は小笠原氏を名乗って信濃に進出し、三男の光行は南部氏を名乗って盛岡に進出しています。写真は真言宗・法善寺で、遠光の孫・遠経が館跡に建てたそうです。周囲には水堀が敷地を囲んでいて、鯉が泳いでいました。法善寺では、毎年8月になると遠光祭があるそうです。
甲府城
甲府市
武田家が滅亡すると、織田信長は家臣の川尻秀隆を派遣しましたが、武田遺臣と領民の反乱で殺されてしまったそうです。信長が本能寺の変で死ぬと、甲斐国を手に入れた徳川家康の命令で平岩親吉によって築城工事が始まりました。まもなくして家康が関東八州に転封されると、豊臣秀吉の養子・秀勝に工事中の甲府城が引き渡され、五階の天守閣はそのときに完成したそうです(平成2年に行なわれた発掘調査で桐紋付の金箔瓦と鯱瓦が出土したので、天守閣が存在しなかったという定説が崩れました)。現在は鶴舞公園として整備され、3つの高麗門・漆喰の長塀が復元され、二階の稲荷櫓が木造で復元されました。更にJRの中央線を挟んだ向いには、写真の石垣と山手御門が木造で復元されました。
湯村山城
甲府市

武田信虎の家臣・駒井高白斎の日記によると、信虎が武田氏館を築いたときに、要害山城と共に支城として整備されたのがはじまりだそうです。信玄の時代は狼煙台として利用されていたそうです。数年前に甲府旅行に行ったときに、湯村温泉街から湯村山遊歩道を登って湯村山城址に行ったことがあります。虎口には小高い石垣が残っていて、本丸には井戸も残っていました。本丸からは甲府盆地を見渡すことが出来ました。今回は湯村温泉街の一角にあった要害山城の案内図を撮影しただけで、そのままレンタカーに飛び乗ると、甲府城に急ぎました。

要害山城
甲府市
戦国時代に武田信虎が、石和から武田氏館(現在の武田神社)を造営したときに、同時に詰城として臨済宗・積翠寺の背後にある要害山に詰めの城として築いたのがはじまりだそうです。今川氏親(義元の父)の武将・福島正成が甲斐に侵攻したときに、大島で迎え撃った信虎は敗れて敗走してしまったそうです。そのときに身重だった大井夫人を要害山城に避難させました。戦乱の最中に晴信(後の信玄)が産まれたそうです。1ケ月後、甲斐国の勝山城に駐屯していた今川勢を、信虎は飯田川原に誘き寄せて夜襲を仕掛けて駿河国に追い払ったそうです。この合戦で戦死した正成の遺児は、後に北条氏綱の娘婿になった北条綱成(旗指物「地黄八幡」で有名)です。写真は積翠寺温泉にあった要害山城跡への登山道の入口にあった要害山城の石碑と由来板で、9年振りの訪城です。
於曽屋敷
甲州市

鎌倉時代に加賀美遠光の4男・於曽光経が屋敷を構え、於曽荘一帯を治めていたそうです。今回は立ち寄らなかったのですが、屋敷跡から北西に200メートルの所に菅田天神社があり、武田家の秘宝・楯無鎧(国宝)が納められています。源義光は、父・頼義が後冷泉天皇から下賜された楯無鎧と日ノ丸御旗を3男の義清に譲ったそうです。この2つが、義清は子・清光と共に常陸から甲斐に伝えられ、甲斐武田家の家宝となったそうです。それ以来、武田家惣領の印として、武田信玄と武田勝頼に至るまで代々引き継がれたそうです。日ノ丸御旗は、大菩薩峠の手前にある臨済宗・雲峰寺に、多数の孫子の旗と諏訪大明神の旗と一緒に納められています。

連方屋敷
山梨市

時代は不詳ですが、甲府盆地における地方豪族の屋敷跡だそうです。屋敷跡の周囲には、土塁が正方形に囲っていました。「甲斐国志」は、武田氏時代の蔵前衆頭をしていた古屋道忠の屋敷であった可能性を示唆しているそうです。今回は立ち寄らなかったのですが、屋敷跡からすぐ近くには国宝・清白寺(臨済宗)があります。特に仏殿は1415年創立の建物なので、戦国時代の兵火に遇わなかったのが不思議なくらいでした。

栗原氏館
山梨市

武田一族・栗原氏の館があった場所で、現在は曹洞宗・大翁寺の境内になっています。栗原信友は、同じ武田一族の大井信達(武田信玄の母の実父)と今井信業らと組んで武田信虎に抵抗しましたが、次々と鎮圧されて臣従したそうです。門の脇には説明板が設置されていて、反対側の脇には土塁の一部が残っていました。

勝沼氏館
甲州市
武田信虎(信玄の父)の同母弟・勝沼信友の居館がありました。信友は兄・信虎からの信頼が厚く、甲斐統一に大きく献上しましたが、北条氏綱と対決した都留郡の合戦で戦死してしまいました。父の跡を継いだ信元は、従兄・信玄の家臣として佐久平の平定、信州深志城(後の松本城)の攻略など数々の活躍をしましたが、小田原城の北条氏との内通の疑いをかけられ、信玄の命を受けた山県昌景によって討たれてしまいました。勝沼氏館跡は大がかりな発掘後に整備されていて見学がしやすくて良かったです。近くには大善寺(真言宗)があり、信友の娘・理慶尼(りけいに)が尼住職をしていました。天目山を目指していた武田勝頼一行を温かく出迎えています。慶尼・勝頼夫妻・信勝(勝頼の子)の4名で寝所を供にしたという薬師堂(国宝)が残っています。
小山城
笛吹市

室町時代に穴山信友(信君の父)が館を構えたところだそうです。武田氏が滅ぶと、徳川家康の家臣・鳥居元忠に命じて小山城を修復し、730の兵力で小田原城の北条氏に備えたそうです。小山城址も、先程訪城した勝山城と同様、桃園に囲まれていて見つけづらかったです。本丸跡に入ると笛吹市のゴミ捨て場があってビックリしてしまいました。唖然として見ていたらば、笛吹市のゴミ回収トラックが3台も入ってきて、ゴミを捨てると再び桃園の中に消え去って行きました。城跡は土塁と空堀が良好に残っていて、しかも石碑と説明板が設置されているにもかかわらず、堂々と市のゴミ捨て場になっていたとは…。ビックリして開いた口が塞がらなかったです。早急に見直しをして欲しいと思いました。

浅利与一館
中央市

浅利与一は武田信義(武田氏祖)の弟で、正確無比の弓業の持ち主だったそうです。壇ノ浦の合戦で平家の武将・仁井親清と弓合戦を演じた末に射倒したそうです。与一の奥方は板額御前といい、元々は越後平家の頭領・城資盛の奥方だったそうです。資盛が平家再興を企てて鳥坂城に籠城して鎌倉勢の佐々木盛綱に攻められて、資盛は戦死して板額御前は生け捕りにされたそうです。捕らえられた板額御前は鎌倉に護送されましたが、与一に請われて嫁いだそうです。越後の鳥坂城址に行ったとき、資盛と共に籠城した板額御前は、大岩を投げ落とし、強弓で敵方を射倒す大奮闘をしたといわれており、その錦絵が説明板に載っていたのですが、その板額御前が甲斐に来ていたなんて知らなかったのでビックリしてしまいました。公園には船上から矢を射放す与一の像がありました。

勝山城
甲府市

室町時代に武田信繩(信玄の祖父)の異母弟・油川信恵によって築かれたそうです。信繩と信恵の対立は15年以上も続いたのですが、信繩が病死すると家督を継いだ武田信虎(信玄の父)によって滅ぼされてしまったそうです。その後甲斐に侵攻した今川氏親の武将・福島正成の1万5千の大軍が勝山城を占領すると、わずか3千の信虎軍は飯田河原で夜襲をしかけて甲斐から追い出してしまったそうです。信虎は大河ドラマの影響で暴君というイメージが強いのですが、わずか14歳で家督を継ぐと、武田一族同士の対立を平らげ、小山田信有(後に信虎と和睦して信虎の妹を迎えた)と今川氏親(義元の父)と北条早雲による甲斐への侵攻を退けて、名実と共に甲斐統一を成し遂げました。写真の石碑は城址全体にある桃園の中心にあり、収穫直前の桃の実でいっぱいでした。

石和陣屋
笛吹市

江戸時代に徳川綱重が建てた陣屋です。柳沢吉里(徳川綱吉の側近・柳沢吉保の長男)が大和郡山へ国替えとなると、慶応3年まで代官所として機能していたそうです。現在、陣屋のあった場所は石和南小学校になっており、明治7年に払い下げられた門が、小学校から北東700メートルの所にある八田家の表門として残っています。八田家は武田氏の家臣(蔵前衆)だった家柄だそうです。