岩国城
岩国市
吉川広家(毛利元就の次男・元春の子)が、米子から岩国に移封されたときに、この地に居館・土居を築きました。同時に詰城として土居の背後にある横山の山頂に岩国城を築いたのがはじまりです。本丸には4重6階の天守閣が建てられましたが、完成からわずか7年後に幕府の一国一城令によって岩国城は取り壊されて、廃城になりました。それは長府にあった毛利氏の分家・毛利秀元(輝元の弟)の居城・櫛崎城、および天守閣を破却したことに合わせられた処置だったそうです。写真は二ノ丸の石垣の上に建てられた観光用の模擬天守閣で、麓にある錦帯橋から見えるように配慮されていました。本丸には旧天守台の石垣がひっそりと残っていました。
吉川氏館
岩国市
1600年に関ヶ原で西軍が敗れ、領地を大幅に削減された毛利輝元(毛利元就の孫)が広島から萩に移封されると、家臣の吉川広家も米子から岩国に移封されました。そのときに平時の居館・土居を築いたのがはじまりです。同時に家臣団の屋敷や城下町を整備し、戦時の城として背後にある横山の山頂にも岩国城を築きました。広家は関ヶ原で西軍を裏切って東軍が勝利をおさめたキッカケをつくった人物です。岩国藩は本藩である長府藩(毛利本家)より幕末まで独立が認められることはありませんでした。写真は土居跡(吉香神社)の土塁の上に建てられた錦雲閣で、水堀もあって雰囲気をよく残していました。隣にある吉川資料館では吉川家の展示品を見てきたのですが、先月のツアーでは観覧することが出来なかったそうで、リベンジを果たしたお袋は満面の笑顔でした。
亀山台場
下関市


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てしまったために
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幕末に長州藩・毛利元周の命令で下関海峡に設置した台場の1つです。文久3年(1863年)に米国商船・ベンブローグ号への攻撃合図の砲弾が亀山台場から発射され、米国と蘭国と仏国の3ケ国を相手に攘夷戦の火蓋が切られました。翌年には英国を加えた4ケ国連合艦隊の来襲によって攘夷戦は幕を閉じ、開国と尊王倒幕を経て、明治維新へと時は慌しく流れました。余談ですが、慶応元年には暴漢に襲われて怪我をした伊藤博文が亀山八幡宮(亀山台場跡)の境内で茶屋の娘だった木田梅子に助けられたのがキッカケで夫婦になった出会いの場所だそうです。門司城跡からは、左側から亀山八幡宮、みもすそ公園(壇ノ浦台場跡)、茶臼山(麓に前田御茶屋台場跡)の順で海岸線に沿うようにして見渡すことが出来、下関海峡にはたくさんの大型船が交差していました。

壇ノ浦台場
下関市


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幕末に長州藩・毛利元周の命令で下関海峡に設置した台場の1つです。米国と蘭国と仏国の3ケ国を相手に6回にわたる攘夷戦の火蓋が切られました。翌年には英国を加えた4ケ国連合艦隊の来襲によって攘夷戦は幕を閉じ、開国と尊王倒幕を経て、明治維新へと時は慌しく流れました。余談ですが、寿永4年(1185年)3月24日に壇ノ浦を舞台に合戦をし、平家一門が滅んだ場所でもあり、みもすそ公園(壇ノ浦台場跡)には錨を担いだ平知盛(平清盛の4男)と八艘跳びの源義経の大きな銅像があるそうで、機会があったら絶対に行ってみたいと思いました。門司城跡からは、対岸の中央にみもすそ公園、右側には茶臼山(麓に前田御茶屋台場跡)、左側には亀山八幡宮(亀山台場跡)の3つが海岸線(現在は国道9号)に沿うようにして見渡すことが出来ました。
前田御茶屋台場
下関市


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幕末に長州藩・毛利元周の命令で下関海峡に設置した台場の1つです。米国と蘭国と仏国の3ケ国を相手に6回にわたる攘夷戦の火蓋が切られました。翌年には英国を加えた4ケ国連合艦隊の来襲によって攘夷戦は幕を閉じ、開国と尊王倒幕を経て、明治維新へと時は慌しく流れました。外国軍によって砲台が占領され大砲には大勢の水兵が座っている様子の有名な古写真が教科書に載ることが多いのですが、それは前田御茶屋台場を仏国・セミラミス号によって接収されたものです。門司城跡からは、右側から茶臼山(麓に前田御茶屋台場跡)、みもすそ公園(壇ノ浦台場跡)、亀山八幡宮(亀山台場跡)、の順で海岸線(現在は国道9号)に沿うようにして見渡すことが出来、下関海峡にはたくさんの大型船が交差していました。

5ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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