鶴ヶ岡城
鶴岡市
=作成中=
尾浦城
鶴岡市
=作成中=
藤島城
鶴岡市
=作成中=
平形館
鶴岡市
=作成中=
丸岡城
鶴岡市
=作成中=
松根城
鶴岡市
=作成中=
備前館
鶴岡市
=作成中=
亀ヶ崎城
酒田市
=作成中=
城輪柵
酒田市
=作成中=
新田目城
酒田市
=作成中=
出羽松山城
酒田市
=作成中=
砂越城
酒田市
=作成中=
山谷楯
酒田市
=作成中=
山楯楯
酒田市
=作成中=
狩川城
庄内町
=作成中=
余目城
庄内町
=作成中=
余目館
庄内町
=作成中=
横山城
三川町
=作成中=
米沢城
米沢市

鎌倉時代に源頼朝の重臣・大江広元が地頭として長井郷に赴任して館を築いたのが始まりだそうです。室町時代に伊達宗遠が長井広房を滅ぼすと、米沢城は伊達氏の支配を受けるようになったそうです。伊達輝宗が城主のときに米沢城で政宗が産まれたそうです。その後は蒲生氏郷と直江兼続が城主になり、上杉景勝が入部してから明治維新を迎える迄の268年間、上杉氏の居城として機能していました。窮迫した財政を立て直したのは18歳で藩主になった上杉治憲(後の鷹山)で、34歳で隠居するまでの16年間の間に成し遂げた偉業でした。ケネディが米大統領に就任した時の記者会見で、日本人記者団からの質問「貴方が日本で最も尊敬する政治家は?」の答えが「上杉鷹山」だったそうです。余談ですが、鷹山の曽祖父は赤穂浪士事件で有名な吉良義央です。=作成中=

山形城
山形市

南北朝時代に北朝方の斯波兼頼が羽州探題となって山形に入って山形城を築いたのがはじまりだそうです。それにともなって兼頼は最上氏に改姓したそうです。斯波氏は細川氏と畠山氏と共に三管領の一つに数えられた足利一門です。兼頼の父は家兼で、奥州探題として南朝の勢力に睨みを効かせていたそうです。戦国時代に最上義光が当主になると、宗家に抵抗していた一族を全て平らげ、伊達氏の勢力を出羽から一掃したそうです。仙台の伊達政宗とは甥に当たりながら、度々刀を交えたそうです。義光の娘・駒姫が豊臣秀次事件で側室だったために京都で処刑されたのですが、義光夫妻の悲しみは深かったそうで、駒姫を想う夫妻の歌は涙を誘いました。山形城は明治維新に取り壊されてしまいましたが、復元工事で城門が再建するなど往時の姿に取り戻ししつつあります。

成澤城
山形市

南北朝時代に最上直家が6男の兼義に命じて山形城の支城として築かせたのがはじまりだそうです。それにともなって兼義は成澤氏に改姓したそうです。主家・最上氏が改易になるまで240年間、成澤氏の居城として続きました。戦国時代には上山城の上山満兼と米沢城の伊達輝宗の連合軍が攻めてくると、成澤城の成澤道忠は山形防衛に奮戦したそうです。道忠は「最上義光の懐刀」と異名を持つ氏家守棟の従弟だそうです。元和8年(徳川将軍秀忠の時代)、最上氏の改易によって成澤城は廃城となりました。

中野城
山形市

南北朝時代に最上満直が次男の満基に命じて山形城の支城として築かせたのがはじまりだそうです。それにともなって満基は中野氏に改姓したそうです。6代の義時のときに実兄の最上義光(山形城主)との家督争いが起き、義光によって滅ぼされてしまいました。中野城は接収され、中野氏の旧臣は最上軍団に組み込まれたそうです。元和8年(徳川将軍秀忠の時代)、最上氏の改易によって中野城は廃城となりました。現在は大郷小学校が建てられ、正面に城址碑と説明板が設置されていました。

長谷堂城
山形市

築城年代と歴史は共に不詳ですが、伊達文書によれば「1514年最上氏と戦って長谷堂を陥す」という内容があることから、その頃には最上義定(義光の祖父)の山形城の支城として機能していたそうで、伊達稙宗(政宗の曽祖父)によって落城したということになるようです。長谷堂城が有名になったのは、関ヶ原の戦いにともなう出羽合戦で、最上義光は東軍についたため、西軍についた上杉景勝の家臣・直江兼続の大軍が出羽に侵攻したときでした。直江軍は細谷、寒河江、延沢などの最上氏の持城を次々と落としましたが、志村光安の守備する長谷堂城は1ケ月も持ちこたえたそうです。そうしているうちに関ヶ原での西軍敗北の報が届き、それと同時に義光の要請で甥の伊達政宗の援軍が近づいて来たので、直江軍は撤収して出羽合戦は終わりを告げたそうです。

上山城
上山市
室町時代に最上満直が甥の満長に命じて山形城の支城として月岡の上に新城を築かせたのがはじまりだそうです。満長の父は天童頼直で満直の弟に当たります。戦国時代には米沢城の伊達植宗(政宗の曽祖父)が攻めて上山城を追われてしまいましたが、上山義忠は翌年に奪い返したそうです。その頃から上山氏は宗家から独立路線をとるようになったそうです。時の上山満兼が城主のときに、伊達輝宗(政宗の父)と手を組んで最上氏と対抗するようになりましたが、家臣の里見民部が異論を唱えて主君の満兼を暗殺してしまったそうです。西のほうで関ヶ原の合戦が起きると最上氏は東軍についたため、上杉氏の家臣・直江兼続が上山城を来襲したのを、城代・里見民部は撃退させてしまったそうです。上山温泉は「奥羽三楽郷」の1つに数えられる温泉街として栄えています。

24ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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