鳥取城
鳥取市
室町時代に因幡の守護職・山名誠道が久松山に築いたのが始まりだそうです。鳥取城が有名になったのは豊臣秀吉による鳥取城の籠城戦「鳥取城渇え殺し」で、城主は毛利氏から派遣された35歳の吉川経家でした。経家は文武両道に優れていただけでなく人望も厚かった武将で、それを知っていた秀吉は力攻めにしなかったそうです。4ケ月に及ぶ籠城戦の末に開城する事になった時、秀吉は毛利家への帰還を薦めましたが、経家は秀吉からの申し出を蹴って城兵5千名の命と引き換えに自害してしまったそうです。江戸時代に池田忠雄(輝政の次男で、徳川家康の娘婿)が鳥取藩を立藩した時に、現在の近世城郭になったそうです。余談ですが、落語家で「笑点」の4代目司会・三遊亭圓楽(本名:吉河寛海)は、吉川経家の末裔だそうです(途中で「吉川」から「吉河」に改姓)。
防己尾城
鳥取市
戦国時代に吉岡定勝が湖山池の西側にある岬に新たに城を築いたのがはじまりだそうです。防己尾(つづらお)城と読みます。吉岡一族は天神山城を本城として、湖山池を囲むように支城を配置していたそうです。吉岡一族は吉岡荘を治めていた荘官でしたが、鳥取城主・吉川経家に従っていたそうです。世に言う鳥取城の籠城戦「鳥取城渇え殺し」では、鳥取城の支城として豊臣秀吉軍を背後から何度も突いて悩ませたそうです。3度目の小競り合いでは秀吉自慢の「千成瓢箪」の馬印が奪われて踏み捨てられたこともあったそうです。鳥取城が開城&接収されると、防己尾城も城門を開き、戦後吉岡一族は帰農したそうです。現在は防己尾城址公園として整備されていて、家族連れで賑わっていました。
松ヶ崎城
湯梨浜町
戦国時代に羽衣石城主・南条元続の侍大将であった小森方高の居城があったところだそうです。松ヶ崎城は東郷湖の東側にある岬に築かれた城でしたが、関ヶ原の戦いでは南条氏に従って西軍に属したために改易の憂き目にあってしまったそうです。現在は桜小学校が建てられているのですが、小学校の建設のときに石垣が出土したそうです。小学校の玄関前に石垣があり、その横に説明板がありました。
羽衣石城
湯梨浜町


撮影していない為
画像はありません

南北朝時代に南条貞宗が羽衣石山の山頂に居城を築いたのがはじまりだそうです。それ以来、234年間も続いた南条氏10代の居城でした。南条元忠が城主のときに関ヶ原の戦いが起き、元忠は西軍として伏見城と大津城の攻略に参加しましたが、戦後は浪人になってしまったそうです。大坂冬の陣では旧臣と共に大坂城に入城し、平野橋口を守備しました。しかし、徳川方・藤堂高虎の誘いを受け、伯耆国一国を条件に寝返ろうと画策しましたが、その動きを豊臣秀頼の側近・渡辺守に見破られて大坂城内で打ち首になってしまいました。写真は同町内にある松ヶ崎城に行く途中に、麓から見上げた羽衣石城の模擬三階櫓で、昭和6年に大阪に住んでいた南条氏の末裔によって建てられた木造の建物で、雰囲気が出ていました。

打吹山城
倉吉市

室町時代に山名師義(持氏の嫡男)が打吹山に築いたのがはじまりだそうです。大永の五月崩れで尼子経久の支配下に置かれたそうです。戦国時代には毛利元就の次男・吉川元春が一時的に在城していた時期があったそうです。江戸時代に鳥取藩・池田家の家老・荒尾嵩就が打吹山の麓に倉吉陣屋を構えると、打吹山城は廃城になったそうです。打吹山城のある打吹山は「中国百名山」、そして「さくらの名所百選」に数えられる名山だそうで、季節になると山麓にある4千本の桜と4万本のツツジが観光客を迎えてくれるそうです。あと「伯耆民談記」によれば、天女伝説のある信仰の山でもあるそうです。写真は登山口の前にあった打吹山周辺案内図です。

倉吉陣屋
倉吉市
江戸時代(寛永9年)に鳥取藩・池田家の家老・荒尾嵩就が打吹山の麓に陣屋を構えたのがはじまりだそうです。荒尾氏は池田輝政の実母の実家で、代々池田家に仕えていたそうです。鳥取城址内にある鳥取県立博物館に寄ったときに「倉吉御陣屋絵図」が展示されていたので、イメージを思い描くことが出来ました。この絵図は陣屋及び周辺の町並みが克明に描かれており、当時の姿を伝える資料として貴重だそうです。現在は正徳小学校が建てられていて、敷地を囲むようにして低い石垣が残っていました。絵図に描かれている石垣も低くて、陣屋というよりは代官所に近い規模だったのではないかと思いました。写真の石垣がそうなのですが、後世になって積み上げられた石積みとの区別が分かりやすかったです。
米子城
米子市
現在の米子城の姿になったのは安土桃山時代で、吉川広家(元春の3男で、毛利元就の孫)のときで、4重の天守閣があったそうです。関ヶ原の戦いで広家は岩国に減封されると、駿府城から中村一忠が入封したそうです。一忠は広家が建てた天守閣の横に5重の天守閣を建てたので、全国でも珍しい天守閣群が湊山にそびえたそうです。一忠が建てた天守閣は明治初期に撮影された古写真で見ることが出来ます。米子城の建物は明治9年に30円で売られ、取り壊されてしまったそうです。約5時間前に淀江町で見たお菓子の壽城(山陰銘菓と海産物などの郷土物産を販売している天守閣風の建物)のお陰で、在りし日の天守閣のイメージを思い描くことが出来ました。余談ですが、広家の正室は宇喜多秀家の妹だと知ってビックリしてしまいました。
飯山城
米子市
室町時代には伯耆と出雲の境付近にあった為、山名氏・尼子氏・毛利氏の戦国武将による攻防戦が繰り広げられていたそうで、小さな古城があった場所だそうです。江戸時代には湊山(米子城址)の東側を守る飯山城があったそうです。慶長8年(1603年)に起きた米子城騒動では、政に参加せずに酒に溺れていた米子城の城主・中村一忠を諌めようとして家老・田内村詮(一忠の叔父)が切られると、怒った横田郎党は飯山城に籠城したそうです。この内乱で横田党の剣豪・柳生宗章(徳川将軍家の剣術指南役・宗矩の実兄)が18名の中村兵を切り倒す程の奮戦をしたそうですが、多勢に無勢で吹雪の中に散ったそうです。この内乱は幕府の耳に入り、中村家は断絶となったそうです。
尾高城
米子市
築城年代は不詳ですが、大永の五月崩れ(尼子経久によって伯耆にある山名一族の属城が全て陥落した事変)で尼子方の武将・吉田光倫が城主になったそうです。尼子氏の勢力が衰退すると、毛利元就に付いた行松正盛が城主に帰り咲いたそうです。5年後に毛利方の家臣・杉原盛重が城主のときに、尼子氏の残党・山中幸盛(通称:鹿之助)が率いる数百の手勢によって尾高城を奪われてしまったという笑い話が残っているそうです。慶長5年に関ヶ原の戦功によって、駿府城から中村忠一が17万石で入封したそうです。米子城の築城に取り掛かった忠一は、完成するまで尾高城に居たそうです。米子城が完成すると、尾高城は廃城になったそうです。現在の尾高城跡に米子勤労総合福祉センターが建っているのですが、土塁と空堀が良好に残っていて見こたえがありました。
富繁城
米子市
築城の年代と歴史は不詳ですが、尾高城と北尾城の中間地点にあることから、室町時代から戦国時代にかけて築かれた尼子氏、もしくは山名氏に関係のある城だったのではないかと思います。米子市にある市立山陰歴史博物館に入館したときに買った「米子市文化財地図」に載っていたのが富繁城で、行ってみたら写真の小さな石碑があってビックリしてしまいました。近くには弥生時代最大級の集落だった妻木晩田遺跡があり、行ったときは銅鐸や銅剣が大量に出土してニュースや新聞で盛んにやっていた時期でした。
石井要害砦
米子市


撮影していない為
画像はありません
築城年代と歴史は共に不詳ですが、位置から戦国時代の砦、もしくは米子城を守る砦としての役割を果たしていたのではないかと思いました。米子市にある市立山陰歴史博物館に入館したときに買った「米子市文化財地図」に載っていた砦跡で、この日最後に巡ったところだったので、石井要害公園に着いたときには外が真っ暗になっていて土塁などの遺構がよく分かりませんでした。伯耆町にあった岸本要害砦跡には石碑と説明板があったのに、ここには無くて残念でした。
江美城
江府町
室町時代にこの地を治めて蜂塚氏が築いたのがはじまりだそうです。以後80年に渡り蜂塚氏4代の居城でした。尼子経久の大軍が伯耆国に侵攻し、守護山名氏をはじめ伯耆の諸将を制圧すると、蜂塚氏は尼子氏に従うようになったそうです。尼子氏の勢力が衰退すると、吉川元春(毛利元就の次男)の家臣・杉原氏の軍勢に攻められて落城してしまったそうです。近年に行なわれた発掘で金箔瓦が出土したそうで、織豊期の特徴のある小規模の天守閣が挙がっていたことが実証されたそうです。毎年お盆明けになると「江尾十七夜」というお祭があるそうです。江美城主・蜂塚氏が8月17日になると城内を開放して民衆を招き、踊りと相撲に興じたのがはじまりだそうです。領主が滅ぼされた後も人々は城主を偲んで、城跡の草むらに集まって踊りを伝えてきたそうです。
岸本要害砦
伯耆町
戦国時代に尼子晴久の軍勢を追って播磨の三木城から攻め込んで来た別所就治(長治の祖父)が要害を築いたのがはじまりだそうです。麓にある天台宗・瑞応寺の伝記によると、播磨の三木城が豊臣秀吉による兵糧攻めで落城したときに、別所長治の遺児・松竹丸を家臣が連れて逃れたという話が残っているそうです。先程行ってきた富繁城跡と同様、米子市にある市立山陰歴史博物館に入館したときに買った「米子市文化財地図」に載っていた砦跡で、石碑「岸本要害砦跡」と説明板がありました。播磨の三木城からは随分離れた地点(しかも尼子氏と毛利氏の勢力範囲内)にあるので、いささか信憑性に欠けるような気がするのですが、瑞応寺の開祖は就治なので本当だろうと思いました。
法勝寺城
南部町
伯耆誌に登場する三村家親の居城だったと伝えられています。家親は吉川元春(毛利元就の次男)の家臣でしたが、出奔する前は尼子氏に仕えていたそうです。毛利本紹が城主のときに尼子遺臣の山中鹿之介に攻められて落城したそうです。本紹は19歳の青年で自刃してしまったという悲話が残っているそうで、写真の城址碑の横に本紹と主従の霊碑がありました。法勝寺城は尼子家の居城・月山富山城を巡ったあとに寄った城で、まだ雨が降っていました。城址碑の後ろに見える本丸跡に行きたかったのですが、藪とクモの巣が凄い上にぬかるみで登れなかったので断念してしまいました。法勝寺城址は桜の名所だそうで、春になると桜できれいになるんだろうなぁと思いながら、レンタカーに乗って夜行寝台列車が待っている米子駅に戻りました。
田内城
倉吉市
室町時代に伯耆の守護職・山名時氏が築いたのが始まりだそうです。時氏は因幡の守護職も兼ねていて、因幡の二上城を居城とし、伯耆には嫡男の師義を田内城に配したそうです。田内城は急峻な岩山の上に築かれた城で、山裾には国府川と小鴨川が流れて天然の堀となり、また水運にも利用されて城下町が発達し「見日千軒」といわれる程に繁栄していたそうです。まもなくして師義は治所を打吹城に移したので田内城は廃城になったそうです。話は戻るのですが、田内城を築いた時氏は上州の山名荘の出身でした。時氏は新田義貞の一族で、室町幕府が開かれた後も山陰と山陽を支配していたそうです。その領国は全国の6分の1に相当する11ヶ国だったので、幕府から「六分の一殿」と恐れられていたそうです。尚、応仁の乱で有名な山名宗全は時氏の曾孫に当たります。
鹿野城
鳥取市
築城の年代は不詳ですが、この地を治めていた領主・志加奴氏(後の鹿野氏)の居城があった場所だそうです。戦国時代には尼子氏の重臣・亀井茲矩が城主だったそうです。茲矩は「槍の新十郎」の異名を持つ槍使いだったそうで、さすが山中幸盛(通称:鹿之助)の娘婿だな〜と思いました。安土桃山時代、そして江戸時代を通して亀井氏は生き残ったそうです。余談ですが、政治家で衆議院議員(島根地区)の亀井久興は、茲矩の末裔(津和野藩主の家系)だそうです。あと、同じく衆議院議員(広島地区)の亀井静香は、茲矩の兄・吉助の末裔だそうです。
お菓子の壽城
淀江町
山陰銘菓と海産物などの郷土物産を販売している天守閣風の施設です。友達の知人の車に乗せてもらって、大山にあるホテルを出発して境港にある水木しげるの記念館に向かう途中の国道9号沿いで見かけました。信号待ちだったので、思わずウィンドウを下げてカメラのシャッターを切りました。この建物は、明治13年に取り壊されてしまった米子城の天守閣の特徴を非常に良く捉えたものでした。約5時間後に友達と別れると、米子城址のある湊山に登りました。重なるようにして築かれた石垣が現れ、その上には天守台の石垣が見えました。先程見てきた天守閣風の建物のお陰で容易にイメージを思い描くことが出来ました(古写真で見られる米子城の天守閣は板張りで、多少の違いはあります)。

17ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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