伊庭城
東近江市
=作成中=
伊庭御殿
東近江市
=作成中=
金堂城
東近江市
=作成中=
金堂陣屋
東近江市
=作成中=
佐生日吉城
東近江市
=作成中=
垣見城
東近江市
=作成中=
種村城
東近江市
=作成中=
和田山城
東近江市
=作成中=
尼子城
甲良町

室町時代に近江源氏・京極高久(佐々木道誉の孫)が尼子郷を与えられた際に築いたのがはじまりだそうです。高久の嫡男・尼子詮久は近江国の尼子城を継ぎ、高久の次男・尼子持久は出雲国に住み着いて月山富田城を築いています。中国地方の覇者になって毛利元就を脅かした尼子経久は持久の孫に当たります。写真は尼子城の水堀跡だと伝えられている殿城池で、落城のときに城主の美しい姫君・八千姫が水堀に身を投げて亡くなり、仕えていた美しい侍女・お園も後を追って殉死したので、「お堀の水神様」として地元の人達によって祀られ、殿城池の周囲には美しいお花が植えられていました。余談ですが、近くにある住泉寺(浄土宗宗)の裏手に土塁公園があり、そこには近江尼子一族が眠る墓がありました。

下之郷城
甲良町
=作成中=
勝楽寺城
甲良町
=作成中=
目賀田城
豊郷町
=作成中=
八町城
豊郷町
=作成中=
吉田城
豊郷町
=作成中=
柏原城
米原市
=作成中=
柏原御殿
米原市
=作成中=
箕浦代官屋敷
米原市
=作成中=
敏満寺城
多賀町
=作成中=
目賀田城
愛荘町
=作成中=
島川城
愛荘町
=作成中=
常楽寺城
近江八幡市
=作成中=
北之庄城
近江八幡市
=作成中=
宇佐山城
大津市
=作成中=
源満仲館
大津市
=作成中=
衣川城
大津市
=作成中=
石田三成屋敷
長浜市
豊臣家の忠臣・石田三成が産まれた屋敷がありました。石田家は土豪だったという説と庄屋だったという説などがあって定かではありません。幼少は佐吉といい、羽柴秀吉と出会うキッカケとなった「三献の茶」の伝承地である観音寺(天台宗は、浅井氏滅亡後に秀吉が入城した横山城の麓にありました。秀吉に見出された三成は奉行として頭角を現し、わずか26歳で豊臣政権を支える台所の筆頭奉行になりました。写真はバス停「石田」にあった石碑で、近くにある石田会館と石田神社には三成像と掘り起こされた石田一族と家臣の供養塔がありました。周囲の風景を眺めていると、三成も見ていたであろうと思うと感動してしまいました。三成には奸臣説が根強いのですが、それは徳川幕府によって歪められてしまった作り話なので、本当にくだらないと思っています。
横山城
長浜市
戦国時代に浅井長政が六角義賢の属城・佐和山城を攻め落とすと、南近江進出の拠点として築いて一族の浅井井演を城代に置いたのが始まりです。浅井&朝倉連合軍と、織田&徳川連合軍が度々衝突した姉川は横山城の麓を流れています。数年後に浅井氏が滅ぼされると、織田信長の命令で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が城番として守備しました。秀吉と佐吉(後の石田三成)が出会うキッカケとなった「三献の茶」の伝承はその頃です。写真は天台宗・観音寺の門前にあった横山城跡へのハイキングコース看板です。JR長浜駅前には秀吉と佐吉の銅像がありました。余談ですが、江戸時代において三成を高く評価したのは徳川光圀で、「徳川家の敵といって三成の事を悪く言うのは良くない。君臣とも三成のように心がけるべきだ。」と、家臣達に説いたという記録が残っています。
長浜城
長浜市
天正元年に浅井長政攻めの恩賞で浅井氏の旧領を拝領した羽柴秀吉が琵琶湖の畔に新城を築いたのが始まりです。当初は今浜と呼ばれていましたが、居城が完成すると地名を長浜に改めました。秀吉が在城したのは6年間だけで、現在の長浜の基礎は秀吉の時に出来上がったものです。その後、柴田氏,山内氏,内藤氏と城主が変わった後に廃城になりました。解体された資材は城下にある大通寺と知善寺、築城の最中だった井伊家の彦根城に運ばれました。現在は長浜城歴史博物館が建っていて、本丸跡は琵琶湖に沈んでいて潮が引いた時に散策が出来ると聞いていたのですが、行った時には本丸跡にあった石碑まで完全に水没していました。写真は本丸跡に建てられた長浜城歴史博物館の模擬天守閣です。
宮川陣屋
長浜市
元禄11年(1698年)に上州吉井から移封した堀田正休が加田街道と長浜街道の交差する交通の要所であるこの地に陣屋を構えて宮川藩を興したのがはじまりです。宮川氏の陣屋だと紹介しているホームページが多いのですが、坂田荘の下司をしていた宮川氏の屋敷跡地に正休が陣屋を築いたのが史実です。宮川藩は1万3千石を支配する藩で、堀田氏は改易されることなく9代続いて廃藩置県を迎えました。写真は日枝神社の前にあった石碑「宮川陣屋跡」です。すぐ近くに浅井氏の家臣だった垣見氏の屋敷跡があるというので探してみたのですが、場所が分かりませんでした。
小堀氏屋敷
長浜市
戦国時代に浅井氏に仕えていた土豪・小堀政次の屋敷がありました。政次氏は近くにある総持寺の土地の寄進主・売主としていましたが、浅井氏が滅ぶ前に義父の磯野員昌(浅井氏の重臣)と共に羽柴秀吉に降りました。浅井氏が滅ぶと、政次は秀吉の命令で弟の羽柴秀長の家老となって、秀長と共に大和郡山に移りました。政次が家老になったばかり頃に息子の政一がこの屋敷で産まれたのですが、後の名高い小堀遠州です。写真は屋敷跡にあった石碑と説明板で、住宅街に変貌していました。余談ですが、政一が手がけたという庭園が全国各地に残されていますが、実は藤堂高虎の娘を正室として迎えていた関係で、宮中や幕府関係の主要作事奉行(城や御所、寺院などの普請責任者)だけではなく、茶の湯(遠州流・小堀遠州流)、華道(華道遠州)にも精通していた人物でした。
上坂氏館
長浜市
鎌倉時代に鎌倉御家人・梶原景家が居館を築いて上坂氏を名乗ったのが始まりだそうです。上坂氏(梶原氏)は坂東八平氏の一つである鎌倉氏の支族でした。景家の子・景重の時に京極実高を養子に迎えた事で、京極氏の執権として代々続きました。戦国時代には上坂意信が当主で、浅井氏が台頭して下克上が成立すると仕える様になりました。意信の子・正信の時に浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、正信は羽柴秀長に仕える様になりました。関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、敗れた正信は東軍に付いた叔父・上坂貞信から屋敷を譲り受けて帰農しました。写真は長浜インター近くの上坂児童遊園にあった説明板で、灌漑濠の名残である土塁がありました。そこから姉川は近くにあり、東側には横山城のあった城山が、北側には小谷城のあった城山がそれぞれ見えました。
下坂氏館
長浜市
室町時代にこの地方を治めていた地頭職・下坂氏代々の居館がありました。下坂氏は源頼信(清和天皇の玄孫)の流れを持つ名門です。南北朝時代には北朝方に付いていたらしく、足利直義(尊氏の弟)から当時の当主・下坂治部左衛門尉に宛てた書状が一番古いそうです。戦国時代の下坂氏は、浅井家に仕えていたと同時期に、対立関係にあった京極家との繋がりがあったそうで、当時の地域は浅井久政(浅井家の当主で長政の父)と京極高広(京極家の当主)の統治が並立して存在していたことをうかがわせる両家からの複数の書状が下坂氏に残されています。浅井家が織田信長によって滅ぼされると帰農しました。江戸時代には彦根藩の御典医として代々続きました。現在も子孫が当地で下坂クリニックを開業していて、土塁の前にある駐車場に写真の説明板がありました。
三田村氏館
長浜市
室町時代に京極氏の被官をしていた三田村氏の居館がありました。六角氏と浅井氏の勢力範囲の狭間にあったので、一族はそれぞれの勢力に分裂していました。室町末期には三田村定頼が当主で、浅井亮政(長政の祖父)の娘・松市御料を迎えて親類衆になっています。戦国時代には三田村氏光が当主で、姉川の合戦では、氏光は横山城の守備に回り、三田村氏の居館には援軍に駆けつけた朝倉景建の軍勢が本陣として利用しました。織田信長による浅井長政の居城・小谷城攻略では、小谷城の守備に回って激しく抵抗した為、落城後に織田軍によって捕らえられた氏光と一族は処刑されてしまいました。写真は伝正寺(居館跡)にあった説明板で、周囲を土塁が囲む様にして残っていました。余談ですが、16代・内閣総理大臣を務めた原敬は三田村氏の末裔だそうです。
片桐氏屋敷
長浜市
戦国時代に浅井長政の家臣・片桐直貞の屋敷があった場所です。須賀谷は浅井氏の居城・小谷城とは尾根続きであり、支城としての機能を果たしていました。あと、温泉が湧き出る場所だったので、湯治場としても利用されました。織田信長による3年もかけた小谷城攻めでは、一貫して浅井軍として勇敢に戦っていた事から、落城前日の日付が入った長政からの感状が残っているそうです。長政が自刃して小谷城が落城すると直貞は羽柴秀吉に降伏しました。余談ですが、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた片桐且元は直貞の子で、須賀谷で産まれています。秀吉の晩年には豊臣秀頼の傅役を任される程だったにもかかわらず、大坂の陣では豊臣家を裏切ってしまいました。写真は須賀谷温泉にあった片桐氏のことを書いた説明板で、横には直貞の墓碑がありました。
小谷城
湖北町
小谷城が築かれた時期は定かではないのですが、観音寺城の六角定頼が北近江に侵攻した時に、浅井亮政が小谷城に篭城したという記録が残っています。定頼は六角氏の全盛期を築き上げた人物で、同じ近江国の豪族達を圧倒したので、浅井氏は臣下の礼を取っていました。定頼が亡くなり、浅井長政の代になって勢力を盛り返すと、小谷城を本城と定めました。織田信長との関係が悪化すると、横山城の羽柴秀吉の調略によって落城し、お市と3人の娘達(茶々・初・督)は脱出して、城下にある曹洞宗・実宰寺に居る昌安見久尼(長政の実姉)を頼りました。戦後、小谷城は秀吉に与えられるが、北国街道の要衝である長浜に新城を築いて移りました。写真は小谷城の本丸跡に残っていた石垣の一部です。余談ですが、「熊に注意して下さい」という看板にはビックリしました。
赤尾氏屋敷
湖北町
戦国時代に浅井長政の家臣・赤尾清綱の屋敷があった場所です。屋敷は小谷城内にあって、一角を守る曲郭の機能を果たしていました。清綱は海北綱親と雨森清貞と共に浅井三将の1人に数えられていた武将で、亮政,久政,長政の浅井三代に仕えていました。写真は小谷城の本丸に向かう途中にあった案内看板です。小谷城の戦いで老体に鞭を打っていた清綱は戦死してしまいました。織田信長に敗れた長政は本丸を出て、赤尾の屋敷に入ると自刃してしまいました。1573年(天正元年)9月1日の出来事で、享年29歳の若さでした。今回は時間の都合で赤尾屋敷跡がある所までは行かなかったのですが、浅井長政自刀跡碑があるそうです。余談ですが、清綱の遺児・虎千代は織田兵に捕まったものの、清綱の浅井氏への忠義に免じて信長の厳命で助命されたそうです。
脇坂氏屋敷
湖北町
戦国時代に浅井長政の家臣・脇坂安明の屋敷があった場所です。屋敷は浅井氏の居城・小谷城の麓にあり、支城としての機能を果たしていました。余談ですが、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた脇坂安治は安明の子で、浅井長政と織田信長が交戦中に安明が討ち死にすると、跡を継いだ安治は、羽柴秀吉の横山城に逃げ込んでしまいました。秀吉の下では数々の手柄を立て、豊臣政権下では水軍で活躍をしていたにもかかわらず、関ヶ原の戦いでは豊臣家を裏切ってしまいました。写真は脇坂氏の屋敷跡にあった石碑で、その横には安治産湯の井戸がありました。ここは浅井亮政(長政の祖父)が産まれた場所でもあるそうです。うっそうとした場所にあり、ここにも「熊に注意して下さい」という看板があっただけではなく、写真の石碑の周辺には熊の糞が大量に転がっていました。
丁野山城
湖北町
室町時代に浅井亮政(長政の祖父)によって小谷城の支城として築かれたのがはじまりです。戦国時代には小谷城攻防のときに、越前から救援に駆けつけた朝倉軍(堀江甚助,久保田勘十郎,波多野玉泉坊)の軍勢が陣を置きました。織田信長は大軍を繰り出して猛攻を加えたために、各地で朝倉軍や浅井軍が敗走してしまいました。丁野山城が落城して7日後に朝倉義景が自刃し、それから26日後に浅井長政が自刃しています。わずか33日の間に朝倉家と浅井家が滅亡してしまうなんて、本当に信じられませんでした。写真は小谷城から2キロメートルのところにあった丁野山城跡です。城山に説明板があるそうですが、時間の都合で登りませんでした。
中島城
湖北町
戦国時代に小谷城攻防のときに浅井長政によって築かれ、家臣の中島直親が守備していました。朝倉軍(堀江甚助,久保田勘十郎,波多野玉泉坊)の軍勢が陣を置いた丁野山城とは尾根続きにありました。落城した時期は不明ですが、丁野山城と共に落城したと思われます。写真は小谷城から1700メートルのところにあった中島城跡で、撮影した地点から浅井家の居城・小谷城は目の前にありました。城山に説明板があるそうですが、時間の都合で登りませんでした。
山本山城
湖北町
平安末期に源義光の孫・源義経が山本郷に居館を構えて山本姓を名乗ったのが始まりです。義経は源義光(義家の弟)の孫で、弓の名人だそうです。近江国における源平合戦では、平知盛(清盛の4男)と平資盛(重盛の次男)の大軍によって攻められて落城したものの、脱出した義経は木曽義仲(頼朝のイトコ)を頼りました。室町時代には、京極家の被官・阿閉氏の代々居城となりました。戦国時代には浅井長政に仕えていた阿閉貞征が城主で、小谷城の支城として機能していましたが、小谷城攻防の際に羽柴秀吉の説得に応じて開城しました。しかし、織田信長が本能寺の変で倒れると、貞征は明智光秀に加担して秀吉の長浜城を攻めてしまいました。山崎の合戦で光秀を破った秀吉によって追討された阿閉一族は全て処刑されてしまい、山本山城も歴史の舞台から消えました。
虎御前山城
虎姫町
戦国時代に浅井氏の居城・小谷城攻防のときに築かれた織田方の陣城です。小谷城の麓にある丁野山城(朝倉方)と中島城(浅井方)の目前にある小山の上に築かれた虎御前山城は、織田信長の本隊だけではなく、家臣団(羽柴秀吉,掘秀政,滝川一益,丹羽長秀,柴田勝家,佐久間信盛,蜂屋頼隆,多賀貞能)も陣を置きました。写真は虎御前山公園(虎御前山城跡)の入口から見上げた城山です。城山には信長や家臣団の陣城があったという標柱がいくつか設置されているそうですが、時間の都合で登りませんでした。虎御前山城に立った信長は、義弟(浅井長政)や妹(お市の方)達が籠城している小谷城を、どんな気持ちで眺めていたのかな?とか、信長の本隊がどのようにして配置されていたのかな?とか、色々と思ってしまいました。
宮部城
虎姫町
戦国時代に浅井長政の家臣・宮部継潤が寺院だったのを城郭化したのが始まりです。継潤は神官出身でありながら、比叡山で修行を経験した僧侶でした。小谷城攻防の際に羽柴秀吉の説得に応じて降伏すると、織田軍の駐屯基地として利用されました。戦後、継潤は秀吉の与力として鳥取城の兵糧攻め,高松城の水攻め,山崎の合戦,賤ヶ岳の合戦などに同行し、その恩賞で鳥取城の城代となると、宮部城は廃城になりました。継潤は戦に優れていただけではなく、奉行としての手腕にも長けていた両道の武将で、一時的に秀吉の甥・秀次を養子として宮部城に迎えていた時期がありました。写真は宮部神社(宮部城跡,瀬川氏陣屋跡)に城跡の石碑があるというので行ったのですが、見落としてしまいました。何と、陣屋跡の石碑も見落としてしまい、ガックリしてしまいました。
宇賀野氏館
米原市
戦国時代に京極一族・宇賀野氏の居館があったそうです。宇賀野氏は京極高雅を始祖に持つ家柄で、宇賀野村(現在の米原市の北部一帯)を支配していました。戦国時代には、織田信長によって黒田城を落とされて尾張国から命からがら脱出し、この地に逃げ込んだ幼かった山内一豊と母の法秀院が一時期に身を寄せたという長野家の住宅が直ぐ近くにありました。写真は宇賀野会館の敷地内にあった石製の説明板です。説明によると、法秀院は村内の子女達に裁縫や行儀作法を教えていて、この習子の中に後に一豊の妻となる千代が居たそうです。この地で一豊と千代が運命の出会いをしたことを知らなかったのでビックリしてしまいました。
若宮氏館
米原市
戦国時代に浅井氏の家臣・若宮友興の居館があったところだそうです。友興の娘は千代といい、後に山内一豊と一緒になります。写真は若宮公園にあった冠木門で、居館跡の雰囲気が出ていました。すぐ横をJR北陸本線が通っていて、ここから約300メートル北上したところにある坂田駅の前に、地元事業者や地域住民の方々からの寄付金によって建てられた一豊と千代の像がありました。余談ですが、織田信長による厳しい詮索から逃れていた一豊と母の法秀院が一時期に身を寄せたという長野家も近辺にありました。そこで一豊と千代が運命の出会いをしたということです。
太尾山城
米原市
鎌倉初期に平家討伐の恩賞で源頼朝から近江国の守護職に命ぜられた佐々木秀義が中仙道と北陸道の分支点を見下ろせる位置にあった太尾山の山頂に城を築きました。これには異説があって、平安末期に地元の土豪・米原氏が築いたのが最初だったという話があって定かではありません。鎌倉時代は佐々木氏の持城となり、室町時代には六角氏の持城となっていたそうです。戦国時代には京極氏に代わって江北を支配した浅井長政の持城となり、家臣の中嶋宗左衛門が城番をしていました。しかし、織田信長との関係が悪化すると、織田軍によって落城しました。写真は太尾山城の麓にある青岸寺の駐車場にあった説明板で、そこからJR米原駅は目の前にありました。
上平寺城
米原市
室町時代に近江源氏・佐々木氏の流れをくむ京極高清によって築かれたのがはじまりだそうです。高清は戦国大名として北近江の守護職を手に入れたものの、内紛によって上平寺城を追われて家臣・浅井亮政の居る小谷城に逃げたそうです。翌年、亮政によって上平寺城が取り戻されると、観音寺城の六角氏に対する前線の城として機能していました。上平寺城は麓にある上平寺館(京極氏の居館)と1つになっている大城郭で、山城では珍しい庭園が残っているそうで、長浜でレンタカーを借りる機会があったときは行ってみたいと思いました。写真は長浜城の展望台から見た上平寺城のある城山です。その後ろには雪を被った伊吹山が大きく見えました。
彦根城
彦根市
関ケ原の合戦が終わると石田三成の近江国は家康に接収され、井伊直政は上州箕輪城から転封しました。最初に入城した佐和山城は石田三成の居城だったので、それを嫌って金亀山に新城を築いたのがはじまりだそうです。直政は関ケ原で負った傷が元で亡くなると、後を継いだ直継が意志を継いで13年の歳月をかけて完成しました。それ以来井伊氏14代の居城として続きました。明治6年の廃城令で彦根城も取り壊しが始まったのですが、明治11年10月に明治天皇が北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたので、天守閣をはじめとする多数の建物が残りました。日本で国宝に指定されている天守閣を持つ城は、彦根城・姫路城・松本城・犬山城の4城だけです。
佐和山城
彦根市
豊臣家の忠臣・石田三成の居城として有名です。「治部少に過ぎたるものが二つあり。島の左近(島左近)と佐和山城。」という歌が残っています。三成は凶作時には年貢を免訴するなどの善政をした事があり、領民から大変慕われていました。関ヶ原の戦功で入封した井伊直政は、三成の威光を払拭し切れずに病死し、後を継いだ直継は佐和山城と所縁の寺の徹底破却を命じて、資材を彦根城に転用したほどです。余談ですが、石田三成は関ヶ原の戦いでは西軍として動いているため、同じ近江出身である淀派だといわれていますが、それは大きな間違いです。近年の研究で北政所(豊臣秀吉の正室)とは緊密な関係があった事が書状などで判明しました。三成の3女・辰姫は北政所の養女になっています。北政所の女中・孝蔵主は三成の縁戚で、北政所の侍女・東殿は大谷吉継の母です。
島左近屋敷
彦根市
石田三成の重臣・島左近(本名は清興)の屋敷がありました。「治部少に過ぎたるものが二つあり。島の左近(島左近)と佐和山城。」という歌が残っています。関ヶ原の戦いでは黒田隊と田中隊を苦しめたものの、戦死してしまいました。鬼のような奮戦ぶりは、東軍諸将の間でも語り草となりました。写真は佐和山城の麓にあった曹洞宗・清涼寺で、パンフレットで三成の奥方の屋敷と、左近の屋敷があった事を初めて知りました。清涼寺は彦根藩の井伊家代々の菩提寺でもあるのですが、そういった説明板などが何1つも設置されていなかったのは非常に残念でした。余談ですが、幕末の大老・井伊直弼は青年時代を清涼寺で修行を受けていました。直弼の肖像画があって、それは自分の死を予測していた直弼が桜田門外の変で横死する3ケ月前に描かせたものだそうです。
肥田城
彦根市
戦国時代に高野瀬隆重が観音寺城の支城として築いたのがはじまりだそうです。高野瀬は近江源氏・佐々木氏の一族・愛智氏の分家です。隆重の秀頼のときに浅井長政に寝返ったために、六角義賢の猛攻に晒されてしまったそうです。長政と義兄の織田信長の関係が決定的になると、肥田城は信長の調略を受けると、秀頼の軍勢は柴田勝家の配下に組み込まれました。秀頼は越前で起きた一揆の征伐に向かったのですが、逆に取り囲まれて全滅してしまったそうです。その後、蜂屋頼隆、長谷川秀一と城主が替わり、秀一が文禄の役で出兵先の朝鮮で病死すると、肥田城は廃城になりました。肥田城は天守閣を持った近代城郭だったそうですが、周囲は田んぼで天守台や石垣などは全く残っておらず、「本当か?」と思ってしまいました。写真は肥田町公民館にあった城址碑です。
安土城
安土町
設楽原で織田信長が武田勝頼の騎馬軍団を鉄砲隊で壊滅させた翌年である天正4年に安土山に新城を築いたのが始まりです。天下統一事業を象徴する見事な天守閣を備えた大城郭でした。わずか6年で本能寺の変が起きて信長が討ち死にすると、まもなくして全焼してしまいました。近くにある観音寺城址の麓にある滋賀県立安土城考古博物館、および安土駅の前にある安土町立城郭資料館にある安土城の復元模型で在りし日を偲ぶ事が出来ました。本能寺の変で明智秀満が放火したといわれていましたが、実際には秀満に利用される事を嫌った織田信雄(信長の次男)が放火した事が近年になって明らかになりました。写真は安土城址の前にあった石碑です。久しぶりに訪れた安土山は、安土町ではなく総見寺によって入山料が必要で、しかも受付時間を過ぎて入れませんでした。
観音寺城
安土町
正確な築城時期は定かではないのですが、「太平記」によると南朝方の北畠顕家の軍勢の進軍を阻むべくして北朝方の佐々木氏頼が観音寺山に砦を築いたのが始まりだそうです。室町時代から戦国時代にかけては近江国の守護・六角氏の居城として栄えていました。六角義賢の時に観音寺山には石垣が張り巡らされ、全国でも指折りの巨大な山城が完成しました。義賢はたびたび織田信長と戦って悩ませ続けていましたが、ついに降伏して居城を明け渡してしまいました。義賢には2人の子が居て、長男の義治は豊臣秀次の弓馬指南役を務め、次男の義定は豊臣秀頼の弓矢の指南を務めていました(豊臣氏が滅ぶと江戸幕府の旗本に転身)。写真は50分かけて登って辿り着いた観音寺城の本丸跡にあった解説板で、観音寺山の尾根つたいの曲郭であった安土山が下のほうに見えました。
箕作山城
東近江市
応仁の乱の最中に、室町幕府の内書を受けた佐々木政堯が佐々木高頼の清水城と対抗するために箕作山に城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には、清水城が六角定頼に攻められて落城すると、清水城に入城した定頼は観音寺城と改めました。同時に箕作山城は観音寺城の支城となりました。六角義賢のときに観音寺城を織田信長によって追われると、箕作山城は信長の家臣・佐久間信盛と木下秀吉の軍勢によって落城しました。写真は安土城跡から眺めた箕作山城のある城山です。観音寺城と箕作山城の間を、国道8号線,東海道新幹線が分断するような形で横断しています。京都方面に旅行するときに新幹線を利用することが多いのですが、知らず知らずのうちに箕作山城跡,観音寺城跡,安土城跡を眺めていたことになります(皆さん、知っていましたか?)。
八幡山城
近江八幡市

天正13年に近江国43万石を与えられた豊臣秀次(秀吉の甥)によって八幡山に城を築いたのが始まりです。わずか18歳だった秀次は旧安土城下の商人や領民を移転させて城下町を建設しました。秀吉のもとで忠実に働いていた秀次でしたが、豊臣秀頼が産まれると秀吉から疎まれるようになりました。殺生関白という異名が付いたのはその頃で、秀次の最大の理解者であった豊臣秀長(秀吉の弟)が病死すると、秀吉の命令で三条河原にて処刑されてしまいました。秀次事件で秀次の助命運動をしたのは石田三成などの近江派でしたが、願いは叶えられませんでした。秀次の旧臣はのちに三成の本陣を守る精鋭として関ヶ原で散りました。秀次の奇行は江戸時代に作り上げられた作り話です。写真は八幡山にあった本丸の石垣で、尼寺・端雲寺の門がまるで城門のようでした。

豊臣秀次館
近江八幡市
JR近江八幡駅を降りて、タクシーで真っ先に向かったのが八幡山公園です。行くまで知らなかったのですが、お城の本やガイドブックなどで紹介されている石垣が残っているという八幡山城址は詰めの城で、豊臣秀次が普段の政を行なっていたのは麓にある居館だったそうです。竹やぶに覆われた八幡山公園を散策して気づいたのですが、なんと3段から4段に積み重なるようにして築かれた石垣で、しかも1キロメートルにわたっていました。さすが関白・秀次の権力の大きさを思い偲ぶことが出来ました。写真は、秀次居館跡(八幡山公園)にあった秀次の銅像で、城下町を見渡せる台地の上にあり、眼下には碁盤の目状の城下町が広がっていました。
大津城
大津市
豊臣秀吉が浅野長政に命じて大津城を築いたのが始まりだそうです。その後、増田氏,新庄氏,京極氏と城主が替わりました。関ヶ原の戦いでは京極高次は東軍に付いた為、西軍の立花宗茂の猛攻を受けました。木食応其(僧)と孝蔵主(北政所の女中)の仲介によって開城し、高次は剃髪して高野山に入りました。戦後、大津城は取り壊され、石垣や建材は膳所城に運ばれてしまいました。写真は浜大津駅の前にあった石碑です。余談ですが、高次は織田信長に滅ぼされた浅井長政の甥に当たり、妹・竜子は秀吉の側室、正室・お初の姉妹は淀君と於江与です。特に竜子は聡明でかつ美女だったらしく、同じ側室である淀君よりは格式は上でした。北政所からの信頼が厚く、大坂夏の陣の時に淀君の侍女達を保護したり、処刑された秀頼の子・国松の遺体を葬ったりしました。
膳所城
大津市
関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は京都の背面の守りと大坂方への備えとして、東海・中仙・北陸の三街道の押さえとして、大津城を廃止して琵琶湖に突き出している膳所崎に新城を築かせたのが始まりだそうです。膳所城は天下普請として江戸幕府が諸大名に号令して築いた第一号の城で、縄張りは藤堂高虎が担当しました。里謡「瀬田の唐橋からねぎぼし水に浮かぶは膳所の城」にも謡われていた4階の天守はその時に築かれました。しかし、明治3年に惜しくも取り壊されてしまいました。多数の城門や隅櫓が大津市内のあっちこっちに移築されて残っています。それらを見学して感じたのは、「天守閣跡」とか「旧城門」という標識が立ててあるものの、それについての説明板が全くありませんでした。整備する以上は中途半端な事はしないで欲しいと思いました。
瀬田城
大津市
室町時代に山岡景房によって瀬田川の畔に築かれたのが始まりだそうです。瀬田川は古く源平合戦の時代から交通の要衝で、戦国時代には東海道と瀬田川にかかる唐橋を監視する役割を果たしていました。山岡資広が城主の時に、主家・六角氏を見限って織田信長に仕えるようになりました。本能寺の変で信長が討たれた際、明智光秀からの勧誘を拒んで豊臣秀吉に付いたそうです。しかし、柴田勝家に内通した事が露見して秀吉によって瀬田城を追われてしまいました。江戸時代には膳所藩の別邸・臨江庵が置かれていましたが、何と高層マンションが建つそうで、工事によって臨江庵が破壊されていました。何故大津市はそんな工事を認可したのでしょうか。呆れて開いた口が塞がらなかったです。写真は臨江庵の前にあった小さな石碑「瀬田城跡」です。
坂本城
大津市
織田信長による比叡山の焼き討ちがあった翌年に、近江国の滋賀郡を与えられた明智光秀が琵琶湖の畔に坂本城を築いたのがはじまりだそうです。三階の天守閣まであった城でしたが、山崎の合戦で光秀が羽柴秀吉によって討たれると、坂本城に逃げ延びた明智秀満(光秀の娘婿)は坂本城に火を放って、光秀の妻子と共に自刃しました。秀満は放火する直前に、坂本城を包囲していた秀吉方の堀秀政に、城内に保管していた延暦寺の寺宝などをはじめとする多くの文化財を預けたという古文書が残っています。余談ですが、本能寺の変で明智軍が放火したといわれていましたが、実際には明智軍に利用される事を嫌った織田信雄(信長の次男)が放火した事が近年になって明らかになりました。写真は坂本宿にあった石碑「坂本城址」で、そこから比叡山が目の前に見えました。

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