佐賀城
佐賀市
室町時代に龍造寺宗家の居城・村中城があった場所です。戦国時代に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津&有馬の連合軍に敗れて戦死すると、龍造寺家は衰退しました。豊臣秀吉による九州平定で、秀吉の命令で龍造寺氏に代わって国政の実権を握った隆信の重臣・鍋島直茂が村中城を接収して佐賀城と改めました。江戸時代には息子の勝茂が佐賀藩主になると、11代続いて明治を迎えました。勝茂のときに現在見られる佐賀城になり、5重の天守閣が建てられました。しかし、明治7年に江藤新平が起こした佐賀の乱によって建物の大半を失ってしまいました。現存する鯱の門には当時の弾痕が残っています。写真は平成19年に復元された本丸御殿(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)です。今後の復元や整備費用の捻出を兼ねて、熊本城のように入館料を徴収すべきだと思いました。
水ヶ江城
佐賀市
築城の時期は定かではないのですが、室町時代に少弐氏の筆頭家老・龍造寺康家が隠居所として水ヶ江館を構えたという文献が残っているそうです。康家が没後に龍造寺家は内紛や当主の早逝が相次いだ為、長老だった家兼(康家の5男)が家督を継ぐと、水ヶ江館を大改修して水ヶ江城と改めました。大内義隆の大軍を田手畷の戦いで打ち破ると、武勇に惚れた義隆と内通してしまいました。それに激怒した少弐氏の一族・馬場頼周は謀略で家兼の2人の息子達と4人の孫達が殺されてしまいました。蒲池氏と鍋島氏の援助を受けた家兼は頼周を滅ぼすと、曾孫の円月を還俗させて隆信と名乗らせました。それが後に九州北部を平定した19代当主・龍造寺隆信です。写真は水ヶ江城跡にある小さい公園内にあった高さ10メートルもある石碑「龍造寺隆信誕生地碑」です。
高木城
佐賀市
平安時代に平家討伐を命ぜられた藤原貞永が下向先であるこの地に居城を構えて高木の姓を名乗ったのがはじまりだそうです。貞永は大宰府の役人で藤原北家の流れをくむ名門の出身です。高木城は環濠を巡らせた城で、そういった城館が多い地方です。鎌倉時代から室町中期にかけては河上社大宮司を代々つとめていましたが、戦国時代には高木鑑房が当主で少弐冬尚に仕えていましたが、冬尚が龍造寺隆信によって滅ぼされると、鑑房と一族も滅ぼされてしまいました。余談ですが、龍造寺氏は貞永の甥・季綱を祖に持つ家柄なので、高木氏とは同族です。写真は高木八幡宮にあった説明板です。近くの民家の前には石碑もあるそうですが、そちらは行きませんでした。写真を撮ってレンタカーに戻ると、唐津市内にある岸岳城に向かって走らせました。
蓮池城
佐賀市
室町時代に宇都宮一族・小田直光が築いたのがはじまりだそうです。戦国時代に龍造寺隆信によって落城し、小田氏は滅亡してしまいました。主家・龍造寺家を滅ぼして実権を握った鍋島直茂が居城として大改修をしました。まもなくして直茂が佐賀城に入城すると、嫡男の勝茂が居城としました。江戸幕府による一国一城令によって天守閣をはじめとする建物が全て破却されてしまったものの、鍋島直澄(勝茂の3男)がこれまでの居場所だった佐賀城の三ノ丸御殿を移築して蓮池陣屋が置かれました。以後、蓮池の鍋島家は小城藩と鹿島藩と共に佐賀の鍋島三支藩の1つとして9代続いて明治を迎えました。写真は蓮池公民館の横にあった解説板で、城跡である蓮池公園にはツツジや桜の木がたくさん植えてありました。
直鳥城
神崎町
築城の時期は定かではないのですが、蓮池家久によって築かれたのが最初だといわれています。直鳥城は城原川の畔に築かれた城で、城を築いた家久は犬塚姓を名乗るようになりました。室町時代は小弐氏に仕え、戦国時代は竜造寺氏に仕えていました。吉野ヶ里遺跡から佐賀城に向かう国道264号沿いにある光顕寺の背後にまわってみたところ、空き地に写真の石碑「直鳥城・環濠集落跡」がポツンとありました。余談ですが、犬塚氏は下野国の名族・宇都宮氏の支族だと知ってビックリしました。
吉野ヶ里
吉野ヶ里町
背振山地南麓に広がる吉野ヶ里丘陵に築かれた弥生時代の大規模な環濠集落です。物見櫓で周囲を見張りし、二重の環濠で集落を守ると共に、外部からの敵の侵攻を防ぐなど、防御的な性格を強く残していることが発掘調査から判明しました。こういう環濠集落は弥生時代の特徴で、古墳時代に入ると衰退していったそうです。JR九州の吉野ヶ里公園駅と神崎駅の間では、物見櫓等の建造物群を遠望できることを知ったのは帰宅した後で、今回は宿泊した久留米から佐賀市内に向かう国道34号を吉野ヶ里公園駅の手前で右折してしまったため、建造物群を見渡せる見晴らしスポットを行き外してしまいました。
唐津城
唐津市
関ヶ原の戦いで東軍に付いた恩賞で天草領を加増された寺沢広高が満島山に築いたのが始まりです。豊臣政権下では、名護屋城の普請や長崎奉行や貿易の担当し、秀吉からの信任が厚かった武将でした。徳川政権下では、松浦川の流路を改築し、防風林として松原の保護育成をするなど土木事業でも能力を発揮しました。以後、譜代大名5家(大久保氏,松平氏,土井氏,水野氏,小笠原氏)が唐津領を統治し、明治4年の廃藩置県によって廃城になりました。余談ですが、唐津藩の4代藩主に水野忠邦が居ます。忠邦は重臣達の反対を押し切って25万石の唐津藩から15万石の浜松藩への減封を11代将軍・徳川家斉に願い出て認められました。頭角を現した忠邦は寺社奉行,大坂城代,京都所司代,老中などの要職を歴任しました。天保の改革を行なったのは老中時代です。
岸岳城
唐津市
平安時代から続く波多宗家の居城として戦国時代まで続きました。波多氏は嵯峨源氏の流れをくむ松浦一族です。戦国時代には波多親が最後の当主で有馬晴信の弟に当たります。波多氏の滅亡には諸説があって定かではないのですが、以下の伝承が残っています。親の奥方・秀ノ前(龍造寺隆信の娘)が絶世の美人だったので、親の朝鮮在陣の留守中に名護屋に呼び出されてしまいました。秀吉の側室への誘いを拒絶した事で秀吉の怒りを買い、岸岳城は秀吉によって攻め滅ぼされ領地も没収されてしまいました。朝鮮から帰陣した親は上陸を許されず、徳川家康の預かりとなった後、筑波に流されてしまいました。この話は30年前に九州旅行に行ったお袋が唐津城に行ったときに知った話で、行く事に憧れていたお袋は満面の笑顔でした。写真は登山口の前にあった看板です。
波多城
唐津市
平安時代から続く波多氏の城があった場所です。波多氏は嵯峨源氏の流れをくむ松浦氏を総領に持つ最大支族です。肥前地方では大きな勢力を誇っていた波多氏らしく、波多神社の前にあった公民館の敷地内に「上松浦党波多氏四十八騎城」があり、そこには一族と家臣で配置した48ケ所の城群の配置図が看板に書かれていました。波多城と呼ばれているほどなので波多氏の本拠地かと思いきや、そうでも無さそうで波多城の由来については詳しく分かりませんでした。写真は波多神社にあった「波多城見取図」で、その横には波多氏の本拠地・岸岳城への道路標識が建てられていました。
名護屋城
唐津市
中世から貿易拠点として名護屋氏の居城・垣添城があった場所です。名護屋氏は松浦党の流れをくむ波多一族です。豊臣秀吉は前線基地として加藤清正と寺沢広高を普請奉行に命じて諸国の大名を大動員して白夜を問わずに築かせたのが名護屋城です。5重7階の天守閣を中心に多数の櫓と多数の曲郭を配置した巨城がわずか5ケ月で片田舎に出現し、それは豊臣家の本城・大坂城に匹敵する規模でした。秀吉が滞在したのは1年2ケ月で、文禄の役では20万の将兵が、慶長の役では14万の将兵が朝鮮半島を渡り、秀吉が伏見城で病死するまで14年間も戦いが続きました。画像は名護屋城の天守台にあった天守閣跡の石碑です。島原の乱で名護屋城跡が一揆軍に利用されることを恐れた幕府によって徹底的に石垣が崩されてしまったものの、壮大な石垣は見応えがありました。
木下延俊陣
唐津市
豊臣秀吉の朝鮮出兵に参陣した木下延俊の陣屋がありました。延俊は秀吉の正室・おねの甥に当たります。名護屋城の周辺に築かれた諸大名の陣屋の中では最も名護屋城の近くに位置しています。延俊は小早川秀秋の兄で、正室は細川幽斎の娘・加賀姫です。義兄の細川忠興とは親交があったため、関ヶ原合戦時に木下一族では唯一東軍に付いた武将です。後に日出藩を興して以来、16代の居城として271年間続きました。写真は佐賀県立名護屋城博物館の裏手にある陣屋跡にあった解説板で、解説板周辺には石塁の一部がありました。
伊達政宗陣
唐津市
豊臣秀吉の朝鮮出兵に参陣した伊達政宗の陣屋がありました。名護屋城とは名護屋浦を挟んだ対岸に築かれました。文禄の役では1千の伊達軍を引き連れて上洛し、その軍装の壮麗さで秀吉の耳に入って褒められたことがあります。派手好きな者を指して「伊達者」と呼ぶようになったのは、その出来事が語源となったそうです。佐賀県立名護屋城博物館から唐津市内に向かう国道204号の名護屋大橋を渡った付近にある交差点の名前「伊達政宗陣跡」です。ついでに陣屋跡に行ってみたのですが、整備されていないのか場所が分かりませんでした。愛知県の名古屋市が設置しているような小さな看板で構わないので、諸大名の陣屋跡にそれぞれ設置して欲しいと思いました。伊達政宗陣跡の周辺には黒田長政陣跡と 毛利秀頼陣跡があるみたいですが、行きませんでした。

12ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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