狭山陣屋
大阪狭山市

慶長5年(1600年)に北条氏盛(北条氏康の3男・北条氏規の嫡男)が大和国1万石を与えられたものの、狭山藩の政務は大坂にある屋敷で執り行っていました。氏盛の嫡男・北条氏信の時に狭山池の近くに狭山陣屋を築くと、北条氏12代の城下町として栄えました。数代の藩主が藩政改革を目指したものの、小田原城時代からの譜代家臣と藩を興してから採用された外様家臣との対立が随分長いこと続いていたようで、苦しい財政難から一度も抜け出すことは出来ませんでした。写真は狭山池博物館から陣屋跡にある東小学校に向かう途中の住宅街にあった由来板です。余談ですが堺市にある西本願寺堺別院(浄土真宗)に陣屋表門と鐘が移築されて残っているそうですが、今回は時間の都合で寄りませんでした。

池尻城
大阪狭山市

築城の時期は不明ですが、奈良興福寺の社領を管理していた池尻氏の居城があったことが文献に見えます。近くには狭山池があり、南北朝時代には南朝方・楠木氏の軍勢が北朝方・遊佐氏(河内国の守護代)を攻めた戦いで半田城と野田城と大饗城と共に池尻城も落城してしまいました。近くにある狭山池は要衝だったことから、狭山池を巡って度々合戦が絶えませんでした。昭和60年に住宅団地開発に伴い発掘された池尻城の写真があるのですが、土塁と空堀が全て出土した様子が映っていて、それが史跡公園として残っていたらと思うと非常に残念でした。写真は下高野街道と中高野街道のことを説明した由来板で、文面の中に池尻城のことが手短く書かれていました。

陶器城
堺市

築城の時期は不明ですが、鎌倉末期にこの地域を支配していた陶器左衛門尉が城主をしていたという記録が残っています。鎌倉時代の陶器城は楠正成の軍勢によって攻められ、南北朝時代は南朝方・和田助氏の軍勢によって攻められ、2回落城しています。現在は東陶器公園となって土塁が残されていましたが、フェンスに囲まれて入れなくて残念でした。写真は南海高野線の北野田駅を降りて30分程度歩いた所の東陶器公園にあった由来板です。由来板の後ろにあるフェンスの先に見えるのが土塁です。その後、池尻城跡がある付近にある狭山池博物館を目指して高野街道を歩きました。

烏帽子形城
河内長野市

南北朝時代に楠木正成が赤坂城の出城として築いたのがはじまりで、烏帽子形城をめぐって争奪戦が繰り返されました。烏帽子形城は石川と天見川に挟まれた断崖絶壁の上にある烏帽子形山に築かれた城です。室町時代は河内国の守護職・畠山氏の家督争い(この家督争いが応仁の乱の発端となりました)に巻き込まれました。戦国時代は、楠木一族の甲斐庄隆成が城主をしていましたが、畠山定国に攻められ落城しました。その後、碓井氏、三好氏、畠山氏、織田氏と城主が替わりました。天正12年に豊臣秀吉の紀州攻めが始まると、秀吉の命令を受けた中村一氏によって改修されました。余談ですが高砂香料工業という香料メーカーの創業者は甲斐庄氏の末裔です。写真は本多氏の西代陣屋跡(長野小学校)から下った所にある石川にかかる橋から眺めた烏帽子形城跡の城山です。

膳所代官所
河内長野市

万治3年(1660年)錦部郡を与えられた膳所藩2代藩主・本多康将が代官所を高野街道沿いに置いたのがはじまりです。広さは300坪で北側に長屋門を配置し、主屋敷、大小の蔵や白州、牢屋がありました。しかし、康将が次男の本多忠恒に1万石を分知して新たに西代陣屋が置かれると、代官所は廃止されました。写真は長野保育園の前にあった代官所の石碑と石灯篭です。長野保育園の角には代官所の由来板が設置されていましたが、英文もあってビックリしてしまいました。その後、約300メートル先にある長野小学校(西代陣屋跡)を目指して歩きました。

西代陣屋
河内長野市

延宝7年(1679年)、錦部郡を与えられた膳所藩2代藩主・本多康将の命令によって次男の本多忠恒に1万石を分知して新たに西代陣屋が置かれると、すぐ近くにあった膳所藩の代官所は廃止されました。忠恒の息子・本多忠統の時に伊勢国・神戸藩を興すと同時に神戸城を築いて移ると、西代陣屋は廃止されて天領となりました。忠統は5代将軍・徳川綱吉の小姓を経験し、8代将軍・徳川吉宗では若年寄に就いて享保の改革に参与した人物です。写真は長野市立文化会館にあった由来碑で、隣にある長野小学校の門柱に別の由来パネルがありました。

池田城
池田市
南北朝時代にこの地を治めていた池田教依が築いたのが始まりです。池田城は五月山の南側にのびる丘陵の上に築かれた城で、北側には杉ヶ谷川が流れて水堀の役割を持っていました。応仁の乱の時に、西軍に付いた大内政弘(周防国の当主)の大軍によって落城しました。戦国時代は池田勝正が城主で、織田信長の摂津国の入国時に降伏しました。勝正は信長の下で複数の手柄を立てる等の活躍をするのですが、池田氏の内紛に乗じて家臣の荒木村重が池田城を乗っ取ってしまいました。有岡城に移った村重が反旗を翻すと、池田知正(勝正の弟)は信長に付き、有岡城を包囲する信長の本陣として池田城は利用されました。写真は池田城址公園に建てられた模擬櫓で、残念ながら工事中だったのですが、その幕に家紋でも入れてくれたら陣幕の雰囲気が出たのにと思いました。
原田城
豊中市
築城の時期は不明ですが、室町末期に原田右衛門尉(池田城主・池田長正の家臣)が城主で、管領・細川晴元が3万の大軍を引き連れて侵攻したときに、家臣・木次長政の手勢によって落城しています。戦国時代には、池田城の池田勝正が荒木村重と中川清秀によって居城を追われてしまうのですが、細川藤孝(後の幽斎)の援助で池田城を取り返すために原田城に一時入城したことがあります。有岡城の荒木村重が反旗を翻すと、織田信長によって有岡城を包囲する城郭の1つとして原田城が利用され、家臣の中川清兵衛と古田佐助を守備していました。写真は原田小学校の南東にある台地の上にあった民家にあった原田城跡の標柱と説明板です。その民家は石垣に囲まれていたので、城跡っぽくて良かったです。
麻田藩陣屋
豊中市
江戸時代初期に青木一重が初代藩主として入封したときに1万石の陣屋を構えたのがはじまりです。一重は元々徳川家康に仕えていましたが、豊臣秀吉の命令で秀頼の側近になり。大坂城が落城すると再度家康に召しだされました。青木氏は江戸時代を通して移封されることなく麻田の地を治め続け、14代続いて明治維新を迎えました。余談ですが、9代目の青木一貫は宇和島藩の伊達一族から青木家の養子として迎えられた人物で、伊達政宗の玄孫に当たります。写真は阪急電鉄宝塚線蛍池駅から歩いて3分の所にある蛍池公民館の玄関前にあった大きな石碑と標柱と説明板です。豊中市内には、陣屋玄関が報恩寺に、陣屋旧門が刀根山住宅街に、それぞれ移築されて残っているのですが、そのことが説明板に書いてあれば読む側として楽しかったのにと思うと残念でした。
2012年1月9日(月)
豊中市
戦国時代に織田信長が稲葉通朝(美濃三人衆の一人だった稲葉一鉄の6男)に命じて荒木村重の有岡城を包囲する城郭の1つとして築かせたのがはじまりです。元々は南北朝時代に本願寺派の存覚上人によって創立された刀根山御坊という大寺院があった場所なので、寺院の建物はそのままに、土塁と空堀を築き、土塁上には柵で防御を固めて改修した程度の陣城だったのではないかと思っています。写真は刀根山城跡に建つ正安寺(浄土真宗)の敷地内にあった由来碑です。正安寺の本堂はコンクリートの建物になってしまい、かつて大寺院だったという面影は市街地によって見当たりませんでした。近くには中国自動車道が通っていて、通過する走行車の騒音でうるさいところでした。
有岡城
伊丹市
南北朝時代に豪族・伊丹氏が築いたのが始まりです。戦国時代に荒木村重が大改修して有岡城と改名されました。当時では珍しかった瓦を葺いた城で、天守閣までありました。城と城下町を土塁と水堀で囲み、惣構えの要所には複数の砦を配置した堅城でした。村重は織田信長の信頼が厚い武将でしたが、次第に信長のやり方に反発を覚えた村重は石山本願寺に付いてしまいました。驚いた信長は明智光秀や羽柴秀吉等の重臣達を説得に派遣したものの突き返され、黒田孝高(秀吉の軍師)は牢屋に幽閉されてしまいました。翌年に信長の総攻撃を受け、10ケ月の攻防戦の末に落城しました。村重は落城前に脱出し、妻子や城兵、籠城していた住民を含めた2千名は惨殺されてしまいました。JR伊丹駅に有岡城址公園があり、本丸跡に残っていた石垣をデジカメに収めました。
岸ノ砦
伊丹市
戦国時代に荒木村重(織田信長の家臣)が伊丹城跡を利用して新城・有岡城を築いたときに、有岡城と城下町を土塁と水堀で囲んで城塞化しました。その惣構えの北側に設けられたのが、岸ノ砦です。織田信長の有岡城攻めのときに、荒木村重の家臣・渡辺勘大夫が守備していました。信長による有岡城総攻撃が始まって旗色が悪くなると、勘大夫は降伏を申し出ますが攻め滅ぼされてしまいました。砦跡は猪名野神社となり、本殿の周囲には惣構の土塁が残っていました。写真は砦跡にあった猪名野神社の大きな鳥居をくぐった左手にあった説明板です。
上臈塚砦
伊丹市
戦国時代に荒木村重(織田信長の家臣)が伊丹城跡を利用して新城・有岡城を築いたときに、有岡城と城下町を土塁と水堀で囲んで城塞化しました。その惣構えの西側に設けられたのが、上臈塚砦です。織田信長の有岡城攻めのときに、荒木村重の家臣・中村新八郎(村重に滅ぼされた池田城主・池田勝正の旧臣)が部下の雑賀衆を引き連れて守備していました。信長による有岡城総攻撃を前に、城主の村重が逃亡してしまったことを知った新八郎は、砦を囲んでいた織田軍の滝川一益に降伏して明け渡しました。写真は砦跡にあった墨染寺(曹洞宗)で、有岡城が落城の際に捕らえられ惨殺された数百名に及ぶ婦女子の霊を弔うために築かれた女郎塚が境内にありました。
岸和田城
岸和田市
築城の時期は定かではないのですが、室町時代には細川氏と松浦氏が代々居城として構えていた時期がありました。戦国時代には三好義賢(長慶の実弟)によって大改修が行なわれ、義賢と十河一在(長慶の2番目の弟)と安宅冬康(長慶の3番目の弟)の軍勢2800が常に駐屯していたほどの大城郭でした。豊臣秀吉による紀州攻めでは本陣が置かれたことがあります。戦後、小出氏,北条氏,松平氏,岡部氏と城主が変わりました。小出秀政が城主のときに5層の天守閣が建てられましたが、232年後の文政10年(11代将軍・徳川家斉の時代)に落雷で焼失してしまいました。写真は昭和29年に建てられた3層の模擬天守閣と庭園で、岸和田高校から眺めた水掘と石垣上にそびえたつ天守閣は美しかったです。
岸和田古城
岸和田市
南北朝時代に和田高家(楠木正成の甥)が照日山と呼ばれる丘の上に居城を構えたのがはじまりです。和田氏が居城していたことから岸ノ和田という地名となり、それが岸和田という地名の語源となりました。写真は住宅地の再開発されたところに設置されていた石碑「和田氏居城伝説地」と、8ケ月前に製作されたばかりの新しい由来板です。この付近は本城と呼ばれる郭の土塁の一部が残っていた場所で、その上に写真の石碑があったそうで、平気で事業許可した岸和田市と破壊した事業者に対して怒りを感じずに居られませんでした。4年前に行われた発掘によって、古城図(大阪歴史博物館所蔵)と合致する部分が多いことが判明しました。余談ですが、近くを通る市道に南海バス停「上古城」があり、付近が岸和田古城跡だったことを示していたので、好感が持てました。
久米田城
岸和田市
戦国時代に畠山高政との間で起きた久米田の戦いで三好義賢(長慶の実弟)が水掘に囲まれた前方後円墳の上に陣を敷いたのが始まりです。畠山方は安見宗房,遊佐信教,湯川直光,根来衆の軍勢を引き連れ、三好方は篠原長房,三好康長,三好政康,三好盛政の軍勢を引き連れたので、両軍合わせて2万の兵が大激突した戦いでした。畠山方の巧みな駆け引きによって三好方は戦線を広げてしまったため、義賢の本陣が手薄になってしまいました。隙を突いた根来衆の鉄砲隊によって義賢は戦死してしまいました。義賢は非常に勇猛果敢な武将として兄を良く補佐した人物でした。3ケ月前に十河一存を、久米田の戦いで義賢の弟を続けて失った長慶は、悲しみに明け暮れて欝にかかってしまったと云われています。余談ですが、近くの真言宗・久米田寺に義賢の墓がありました。
高井城
貝塚市
戦国時代に近隣の農民達によって近木川の畔に築かれた城(砦)です。元々は神宮寺(新義真言宗・根来寺の末寺)があった場所です。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が根来衆を征伐するための軍を起すと、根来寺の出城として農民200名が籠城し、二重の土塁と空堀が築かれました。寄せ手は福島正則(秀吉の子飼い)で、戦にもならなかったそうです。根来衆だけでなく、農民まで抵抗するなんて、昔の信仰心は凄いものがあったんだなと思いました。水間鉄道の名越駅から歩いて5分のところにある清名台ちびっこ公園内にあった説明板です。余談ですが、近年にあった発掘で平安時代の軒丸瓦などの破片などが出土したことで、神宮寺の存在が確実視されました。
積善寺城
貝塚市
戦国時代にこの地を治めていた根来衆によって築かれた城です。根来衆は紀伊国にある根来寺(新義真言宗)の僧兵によって鉄砲で武装した集団で、周辺一帯に影響力を持っていました。徳川家康と対峙した小牧・長久手の戦いを終えた秀吉は紀州攻めを起しました。秀吉方の寄せ手は蒲生氏郷,大谷吉継,細川忠興,池田輝政などの武将でしたが、積善寺城には9500名の根来衆が籠城して戦意が高かったので、なかなか落城しませんでした。和泉国の南部における要衝だったが、寄せ手の総大将・羽柴秀長(秀吉の実弟)の説得によって降伏しました。積善寺城の落城後、根来寺は焼き払われてしまい、続いて織田信長を悩ませていた雑賀衆も平定しました。写真は貝塚中央病院の横を流れる近木川にかかる橋の手前にあった説明板です。
千石堀城
貝塚市
戦国時代にこの地を治めていた根来衆によって築かれました。近木川と見出川に挟まれた城で、小栗街道と大熊街道が交差する要衝でした。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が根来衆を征伐するための軍を起すと、和泉国の南部から紀伊国の北部の一帯に防衛線が張られたときに築かれた城の1つです。千石堀城には1500名の根来衆と非戦闘員の5000名が籠城し、寄せ手は羽柴秀次(秀吉の甥)を大将とした20000名の大軍でした。筒井順慶の家臣・中坊秀祐が放った火矢が城中にあった火薬庫に引火し、大爆発を起して落城したそうです。この戦いで籠城した根来衆と非戦闘員は皆殺しにされてしまいました。写真は城跡の手前にあるバス停から奥に入ったところにあるフェンスにあった看板です。城跡に説明板があるのですが、藪が凄くて入城を拒まれてしまいました。
家原城
堺市
築城の時期は不明ですが、戦国時代に松永久秀(三好長慶の家臣)に仕えていた寺町左近将監と雀部治兵衛が家原城を守っていました。長慶の死後に実権を握った久秀は、三好義継(長慶の実弟・十河一存の実子)を擁する三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)と対立するようになりました。内紛が激化すると、政康が5000騎の兵を引き連れて松永方の家原城を攻め落としてしまいました。JR阪和線の津久野駅を降りて10分ほど歩いた所の家原大地公園にあった説明板です。土塁の上内側に石碑「家原城跡」があったのですが、藪で覆いつくされていて残念でした。この日は大阪府内を巡った最後の城跡(8ケ所目)で、電車とバスと歩きで回ったので、足が痛くなって重くなっていました。
観音寺城
和泉市
築城の時期と城主は不明ですが、観音寺城に入っていた南朝方の北畠顕家が観音寺城を出発して北朝方の細川顕氏(和泉国の守護職)を阿倍野で打ち破ったことが文献に見えます。しかし、石津の戦いで高師直(足利尊氏の執事)との激戦の末に顕家は戦死してしまいました。顕家は父の北畠親房よりも先に散った21歳の若武者でした。観音寺城跡へはJR阪和線の和泉府中駅から南海バスに乗り、「観音寺」バス停前の弥生4号公園に写真の石碑があり、遺構は全く残っていませんでした。余談ですが、孫子の兵法で有名な「風林火山」の旗印は、顕家が甲斐国の武田信玄よりも先に用いたと云われていることを、観音寺城跡で初めて知りました。さすが昔の若者は立派だったんだなと改めて思いました。
高槻城
高槻市
戦国時代には松永久秀の家臣・高山右近の居城でした。右近は父の友照と共に熱烈なクリスチャン大名で、右近の洗礼名はユスト、友照の洗礼名はダリヨと名乗っていました。豊臣家が滅ぶと、高槻藩を興した内藤信正(初代の大坂城代)が入城して大改修して現在の縄張りになりました。内藤氏,土岐氏,松平氏,岡部氏,永井氏が城主になりました。明治7年に廃城となると、石垣や木材などは東海道線が敷設される際の資材に全て当てられてしまった為、地上から消滅してしまいました。写真は高槻城跡公園にあった模擬天守台で、その上に高山右近像が建っていました。余談ですが、幕府によるキリシタン追放礼を受けた右近は、同じクリスチャンになっていた内藤如安(久秀の甥で小西行長の旧臣)と共にマニラに移住して、再び日本の地を踏むことはありませんでした。
藤井竹外邸
高槻市
幕末に活躍した漢詩人・藤井竹外の邸宅があったところで、かつては高槻城内にあった武家屋敷街の一角に邸宅がありました。竹外は高槻藩の財務奉行衆の一人で、鉄砲の名手でもあったそうです。晩年は京都に移り住んで漢詩人として活躍をしたことで、晩年は美濃出身の漢詩人・梁川星巖と交流があったそうです。写真は高槻現代劇場文化ホールの駐車場にあった邸宅跡碑と説明板で、同じく高槻城内にあったというカトリック高槻教会と隣接していました。
芥川城
高槻市
築城の時期は定かではないのですが、鎌倉時代にこの地を支配していた土豪・芥川氏(桓武平氏の後裔)の居城があったところで、鎌倉幕府の六波羅探題を守備する武士団の1つでした。芥川城は京都と下関をつなぐ西国街道が通る芥川宿を押さえる役割を持っていました。室町時代に起きた応仁の乱では東軍に属したために、西軍の大内政弘(妻は山名宗全の養女)に攻められて落城しました。戦後、細川政元(勝元の子)が焼失した芥川城を再建し、重臣の能勢頼則(多田源氏の後裔)を城主として置きました。しかし、頼則は摂津峡にある三好山に新城・芥川山城を築いて移ると、芥川城は廃城になりました。写真の城址碑は城跡にある住宅街の中にありました。
茨木城
茨木市
建武の新政のときに楠正成が築いたという説、応仁の乱のときに安富元綱(細川勝元の執事)が築いた説などがあって定かではありません。城主は茨木氏,荒木氏,中川氏,川尻氏と変わり、関ヶ原の戦いの後は片桐且元(賤ヶ岳の七本槍の1人)が入城しました。且元が駿府で病死すると、次男の孝利が家督を継ぎました。しかし、幕府による一国一城令によって摂津国は高槻城と決まると、孝利は竜田藩(大和国)を興して移住すると、茨木城は廃城になりました。画像は茨木小学校(本丸跡)の近くにある茨木神社の東門として移築されて残っていた茨木城の旧搦手門です。余談ですが、茨木小学校周辺を歩いていると、電柱に片桐町という文字が目に止まったときに「豊臣家の裏切り者の城だったのか…」と思ってしまいました。
真田丸出城
大阪市・四天王寺区
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に備えて真田幸村(本名は信繁)が笹山という丘陵に三日月形の出城を築いたのがはじまりです。大坂城の縄張りを拡張して築かれたのではなく、大坂城外にあった丘陵に築かれたので、出城と呼ばれるようになりました。幸村は3000の真田兵と籠城し、前田利常(利家の4男)・本多政重(正信の次男で、直江兼続の娘婿)・井伊直孝(直政の次男)・松倉重政・藤堂高虎・寺沢広高などの大軍を見事に撃退しました。しかし、大坂冬の陣後に豊臣家と徳川家とで和平が成立すると、和議の条件として大坂城の総構えが埋め立てられ、真田丸出城と三ノ丸と二ノ丸は破壊されてしまいました。写真は真田丸出城跡の三光神社にあった幸村像で、采配を振るっている姿がカッコ良かったです。
茶臼山陣城
大阪市・四天王寺区
大坂冬の陣の時に徳川家康が陣を敷いたのが始まりで、大坂城下にあった船場の蔵や家を壊して資材として矢倉と茶室が建てられました。家康の寝所と浴室まで備えていて、そこから大坂城を毎日眺めていたのかなと思いました。翌年の大坂夏の陣の時は、真田丸出城から出た真田幸村が陣を置きました。そこから出撃した幸村と真田兵は東軍の各部隊を撃破して家康の本営に何度も肉薄したものの、救援に駆けつけた松平忠直(家康の孫)の軍勢に取り囲まれて全滅してしまいました。幸村の嫡男・幸昌は豊臣秀頼(秀吉の子)と共に燃える大坂城内で自害しましたが、幸村の次男・守信は片倉重綱(伊達政宗の側近・景綱の嫡男)に、幸村の妻・松林院(大谷吉継の娘)も浅野長晟(家康の娘婿)に保護されて生き延びています。写真は時間で入れなかった茶臼山の看板です。
四天王寺砦
大阪市・四天王寺区
天正4年(1576年)に織田信長が石山本願寺攻めで築かせた砦群の1つで原田直政(柴田勝家の娘婿)が固めていました。四天王寺の脇にある高台に築かれた砦で、木津川口封鎖の役割をしていました。軍事作戦で砦から出撃した直政は石山本願寺方の鈴木重秀(雑賀衆の一人)の逆襲に遭って討ち死にしてしまいました。この戦いで火蓋を切ってから4年間も膠着状態が続くことになります。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、豊臣方の毛利勝永(豊臣秀頼の側近)と、徳川方の本多忠朝(徳川四天王の一人・本多忠勝の次男)と小笠原秀政(徳川家康の嫡男・松平信康の娘婿)の両軍が激突して、忠朝は戦死し、秀政は重症を負ってしまいました。写真は砦跡にあった月江寺の正門ですが、血生臭い合戦が目前で繰り広げられていたなんて想像出来ませんでした。
正覚寺城
大阪市・平野区
明応年間(11代将軍・足利義澄の時代)に畠山政長と畠山義就が対立して起きた正覚寺合戦で、政長が正覚寺に布陣の際に要塞化したのが始まりです。畠山持国に嫡子が居なかった為、後継者として弟の持富(政長の父)が後継者と決まっていましたが、持国が独断で庶子の義就が後継者にしてしまいました。後継者変更を巡って持国&義就の親子と持富&政長の親子が対立したのがキッカケで、将軍家や全国の管領や守護大名を巻き込んだ応仁の乱が勃発しました。政長は山名宗全を味方に付けたものの、細川政元(勝元の子)に攻められて自刃し、正覚寺城も炎上しました。戦国時代には織田信長による石山本願寺攻めの為に本陣を置いた所でもあります。旭神社にあった城址碑を眺めながら、応仁の乱が起きた舞台の城があったんだなあと思うと浪漫に浸ってしまいました。
岡山砦
大阪市・生野区
大坂冬の陣のときに徳川秀忠(家康の3男)が陣を敷いたのがはじまりで前方後円墳の上に置かれました。翌年の大坂夏の陣のときも秀忠は陣を敷いて、豊臣家が滅んだので以後「御勝山」と呼ばれるようになりました。大坂城が落城するときに、豊臣秀頼の武将・堀内氏久(九鬼義隆の養外孫)の護衛を受けて、千姫(秀頼の正室)と奈阿姫(秀頼の娘)と甲斐姫(太閤秀吉の側室)の3人が秀忠の元に送り届けられた先が、この岡山砦です。岡山砦からは炎上する大坂城を見た3人の女性達は何を思って眺めていたのかなと思ったりしながら、古墳を一周してしまいました。写真はJR大阪環状線の桃谷駅を降りてアーケード通りを突き抜けて10分程度歩いたところにある古墳公園の前にあった石碑です。
野田城
大阪市・福島区
室町時代に三好元長(長慶の父)と細川晴元(蓮如と武田信玄の義兄)が対立した際、元長に付いた浦上村宗(播磨の大名・赤松晴政の家臣)が野田村に城を築いたのが始まりです。戦国時代には織田信長と対立していた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友道)が野田城に籠城し、それに呼応して石山本願寺が武装蜂起をしました。しかし、6年後に信長の命令を受けた明智光秀と荒木村重の大軍によって落城すると、石山本願寺に救援物質を届けるため入り江に出入りする毛利水軍の動きを警戒する軍事拠点となりました。写真はJR野田駅前にあるマンションの玄関にあった石碑で、お城の中心部だそうです。ここから100メートルのところに野田御坊極楽寺があり、そこの門前にも石碑があったみたいですが、行くのを忘れてしまいました。
榎並城
大阪市・城東区
戦国時代に三好政長と政勝の居城がありました。江口の戦いで三好長慶(政長のはとこ)に敗れて柴島城から逃げ帰った政長は、3ケ月後に長慶との決戦を挑んで江口城で戦死してしまいました。父の戦死を知った政勝は、榎並城を捨てて瓦林城に逃げました。その後、榎並城は廃城になると再び歴史の表舞台に出ることはありませんでした。余談ですが、政勝は兄の政康と共に長慶亡き後の三好一族のまとめ役となり、三好三人衆を結成させたりして天下人となる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の世の中を上手に世渡りしました。写真は城跡にあった野江水神社です。
大和田城
大阪市・西淀川区
天正8年(1580年)に織田信長が家臣の阿波氏に命じて石山本願寺攻略の拠点の1つとして築かせたのがはじまりだそうです。これには異説があり、石山本願寺が下間氏に命じて本願寺の周囲を固める出城群の1つとして築かせたとも云われていて定かではありません。写真は大和田小学校の敷地内にあった城址碑「大和田城跡」で、開いていた裏門から校庭に入り、試合をしていた野球クラブの人達に断ってから撮影しました。
柴島城
大阪市・東淀川区
戦国時代に十河一存によって築かれたのがはじまりです。一存は三好長慶の実弟で、非常に勇猛果敢な武将として兄を良く補佐した武将です。淀川と中津川が合流する中洲に築かれた城で、京都と下関をつなぐ西国街道の要所を押さえる城でもありました。どういった過程で三好政長が細川晴賢と共に入城したのかは不明ですが、政長が一族の対立で従兄弟の三好元長(長慶の実父)を誅殺してしまったため、恨みを持った長慶が大軍を持って攻め落城させています。敗れた政長は対岸にある榎並城に、晴賢は京都に逃げ帰りました。近くにある柴島中学校のある地域は本丸という地名なのですが、写真の城址碑は阪急千里線の柴島駅から歩いて3分のところに入った住宅街の一角にポツンとありました。
大坂城
大阪市・中央区

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼすと、蓮如の石山本願寺跡(浄土真宗)に巨大な新城の築城を開始しました。鯱や瓦などには金箔をふんだんに用い、壁には漆を塗った豪華絢爛な城だったそうです。大坂城の築城から数えて32年目の大坂冬の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川幕府によって新たに築き直されたのが、現在見られる大坂城の姿となりました。幕末に起きた鳥羽伏見の戦いでの混乱の最中と、昭和20年の大阪大空襲で、多数の建物を焼失してしまいました。それらは残された膨大な量の古写真で偲ぶことが出来ます。戦後、大坂城を接収した進駐軍のタバコの不始末で紀州御殿(明治10年に移築された和歌山城・旧二ノ丸御殿)が焼失してしまいました。写真の天守閣は昭和6年に竣工したもので、大阪大空襲を奇跡的に免れた建物です。

中津 蔵屋敷
大阪市・福島区

豊前国・中津藩の蔵屋敷があった場所は、現在は朝日放送の近くにあるポケット広場が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大坂に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。写真は土佐堀川(旧淀川)沿いにあるポケット広場にあった石碑「中津藩蔵屋敷舗之跡」です。余談ですが、1万円札で有名な福澤諭吉(儒学者をしていた福澤百助が働いていた)が産まれたところでもあるそうで、石碑「福沢諭吉誕生地」もありました。周囲はすっかり開発されて面影はありませんでした。

人吉 蔵屋敷
大阪市・福島区

肥後国の人吉藩・相良家の蔵屋敷があった場所は、現在は中之島クリニックと関西電力が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「肥後国・人吉藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は中之島クリニックで、周囲に面影はありませんでした。

長岡 蔵屋敷
大阪市・福島区

越後国の長岡藩・牧野家の蔵屋敷があった場所は、現在はリバーレジデンス堂島と堂島リバーフォーラムが建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「越後国・長岡藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は蔵屋敷にあったリバーレジデンス堂島で、周囲はマンションが建ち並んでいて面影はありませんでした。

富山 蔵屋敷
大阪市・福島区

越中国の富山藩・前田家(金沢藩の支藩)の蔵屋敷があった場所は、現在は朝日放送が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「越中国・富山藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は土佐堀川(旧淀川)にかかる玉江橋から見た朝日放送の大きな社舎で、周囲はすっかり開発されて面影はありませんでした。

桑名 蔵屋敷
大阪市・福島区

伊勢国の桑名藩・松平家の蔵屋敷があった場所は、現在はNTTグループ関連の高層ビル群が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「伊勢国・桑名藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は田衰橋から見たNTTグループ関連の高層ビル群で、面影はありませんでした。

水戸 蔵屋敷
大阪市・北区

常陸国の水戸藩・徳川家(徳川御三家)の蔵屋敷があった場所は、現在は日本銀行が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、加賀国の金沢藩・前田家の蔵屋敷も日本銀行の敷地内の一部に含まれています。なお、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「常陸国・水戸藩の蔵屋敷跡」と「加賀国・金沢藩の蔵屋敷跡」を書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は大阪市役所から見た日本銀行で、敷地は日本銀行の巨大な建物で占領されていて面影はありませんでした。

高松 蔵屋敷
大阪市・北区

讃岐国の高松藩・松平家の蔵屋敷があった場所は、現在はリーガロイヤルホテルの大きな建物が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。写真はリーガロイヤルホテルの横にある駐車場付近にあった石碑「蔵屋敷跡」で、周囲はすっかり開発されて面影はありませんでした。余談ですが、石碑があったのは嬉しいのですが、「讃岐国・高松藩の蔵屋敷跡」という風に、どこの国の藩の蔵屋敷だったのかを正しく彫って欲しかったなと思いました。

仙台 蔵屋敷
大阪市・北区

陸奥国の仙台藩・伊達家の蔵屋敷があった場所は、現在は大阪市中央公会堂が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、新年に相応しい企画「新春能面展」をやっていました。あと、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「陸奥国・仙台藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真はレンガ造りの大阪市中央公会堂で、周囲は大阪市の官公庁が建ち並んでいて面影はありませんでした。

大洲 蔵屋敷
大阪市・北区

伊予国・大洲藩の蔵屋敷があった場所は、現在は住友不動産ビルが建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「伊予国・大洲藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は土佐堀川(旧淀川)沿いにある住友不動産ビルで、周囲はすっかりビル開発されて面影はありませんでした。

姫路 蔵屋敷
大阪市・北区

播磨国・姫路藩の蔵屋敷があった場所は、現在は大阪市建設局中之島抽水所が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「播磨国・姫路藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は大阪市建設局中之島抽水所で、面影はありませんでした。

今治 蔵屋敷
大阪市・北区

伊予国の今治藩・松平家の蔵屋敷があった場所は、現在は大阪市立科学館が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「伊予国・今治藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は大阪市立科学館のロビーで、敷地内には庭園があったという庭園石と大きな松の木が唯一の遺構でした。

佐賀 蔵屋敷
大阪市・北区

肥前国の佐賀藩・鍋島家の蔵屋敷があった場所は、現在は大阪高等裁判所が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。写真は大阪高等裁判所の外周にあった石碑「佐賀藩蔵屋敷跡」で、周囲は裁判所関連の施設が建ち並んでいて面影はありませんでした。

小城 蔵屋敷
大阪市・北区

肥前国の小城藩・鍋島家(佐賀藩の支藩)の蔵屋敷があった場所は、現在は雑居ビルが乱立しています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。写真は大阪高等裁判所の向かいある雑居ビルの前にあった石碑「小城藩蔵屋敷跡」で、石碑の前を塞ぐようにして停められていた迷惑な2台のバイクをどかしてから撮りました。

福井 蔵屋敷
大阪市・北区

越前国の福井藩・松平家の蔵屋敷があった場所は、現在は大阪市役所が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、先月大阪市長選挙で橋本氏が大勝したばかりです。改革を掲げる橋本氏が徹底した無駄な税金の洗い出しをして、「越前国・福井藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は大阪市役所で、周囲は大阪市の官公庁が建ち並んでいて面影はありませんでした。

大垣 蔵屋敷
大阪市・北区

美濃国・大垣藩の蔵屋敷があった場所は、現在は広大な空き地になっています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「美濃国・大垣藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は土佐堀川(旧淀川)にかかる玉江橋から見た民家(蔵屋敷跡付近)で、周囲に面影はありませんでした。

久留米 蔵屋敷
大阪市・北区

筑後国の久留米藩・有馬家の蔵屋敷があった場所は、現在は大阪大学中之島センターが建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、古写真と「久留米藩大坂蔵屋敷絵図」が残されており、在りし日の姿を偲ぶことが出来ます。あと、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「筑後国・久留米藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は蔵屋敷跡にあった石碑「大阪府師範学校跡」で、周囲に面影はありませんでした。

岡 蔵屋敷
大阪市・北区

豊後国の岡藩・中川家の蔵屋敷があった場所は、現在は中之島フェスティバルタワーが建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「豊後国・岡藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は土佐堀川(旧淀川)にかかる肥後橋から見た中之島フェスティバルタワーの前にあった大木で、周囲はすっかり開発されて面影はありませんでした。

熊本 蔵屋敷
大阪市・北区

肥後国の熊本藩・細川家の蔵屋敷があった場所は、現在は住友病院と大阪府立国際会議場が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大坂に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「肥後国・熊本藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は土佐堀川(旧淀川)にかかる土佐堀橋から見た住友病院で、周囲はすっかり開発されて面影はありませんでした。

徳島 蔵屋敷
大阪市・北区

阿波国の徳島藩・蜂須賀家の蔵屋敷があった場所は、現在はリーガロイヤルホテルの横に某外車販売会社が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「阿波国・徳島藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は某外車販売会社のショールームで、面影はありませんでした。

鹿児島 蔵屋敷
大阪市・西区

薩摩国の鹿児島藩・島津家の蔵屋敷があった場所は、現在は三井倉庫が建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。写真は三井倉庫の事務所の壁際にあった石碑「薩摩藩蔵屋敷跡」で、周囲は倉庫群が建ち並んでいました。

大村 蔵屋敷
大阪市・西区

肥前国の大村藩・大村家の蔵屋敷があった場所は、現在は富士ゼロックスシステムサービス株式会社になっています大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「肥前国・大村藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は富士ゼロックスシステムサービス株式会社の社舎です。

萩 蔵屋敷
大阪市・西区

長門国の萩藩・毛利家の蔵屋敷があった場所は、現在は住宅地になっています大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。写真は「土佐堀1」交差点の一角にあった石碑「長州萩藩蔵屋敷跡」で、周囲はすっかり住宅地が開発されて面影はありませんでした。

徳山蔵屋敷
大阪市・西区

長門国の徳山藩・毛利家(萩藩の支藩)の蔵屋敷があった場所は、現在はエネオスになっています大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「長門国・徳山藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真はエネオスのガソリンスタンドで、周囲はすっかり開発されて面影はありませんでした。

福岡 蔵屋敷
大阪市・西区

筑前国の福岡藩・黒田家の蔵屋敷があった場所は、現在はグランスイート中之島タワーが建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。余談ですが、改革を掲げる橋本氏が大阪市長になった今、無駄な税金の洗い出しをして「筑前国・福岡藩の蔵屋敷跡」と書いた小さな簡易板を設置して欲しいと思いました。写真は土佐堀川(旧淀川)にかかる筑前橋から見たグランスイート中之島タワーで、周囲はマンション群が建ち並んでいて面影はありませんでした。

黒田藩 蔵屋敷
大阪市・四天王寺区

筑前国の福岡藩・黒田家の蔵屋敷があった場所は、現在は中之島にある三井ビルが建っています。大坂蔵屋敷とは、江戸時代に知行地からの年貢や特産物の販売、必需物資の購入や財政資金の調達、その元利を支払うなど、大に設けた倉庫・管理事務所・詰役の宿舎などからなる藩財政管理役所としての機能を持っていました。写真は戦前に三井財閥から大阪市に寄贈され、天王寺公園内にある大阪市立美術館の南門として利用されている長屋門で、とても大きな建物でした。ここに着いたとき外はすっかり暗くなってしまいました。すぐ近くにはラブホテル街になっていることもあり、イチャイチャするカップル達と、JR四天王寺駅に向かって帰路を急ぐ人達が長屋門前を激しく交差していました。
(注意:黒田藩蔵屋敷ではなく正しくは福岡藩蔵屋敷)

60ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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