鮫ヶ尾城
妙高市
戦国時代に越信国境の防備と監視のために築かれた城で、上杉家の居城・春日山城を守る支城として機能していました。家督争いである御舘の乱で上杉景虎(謙信の養子で北条氏康の7男)と上杉景勝(謙信の甥)が対立すると、春日山城の奪い合いで景虎は負けてしまい、景勝側の追撃が激しかった為、景虎方に付いた堀江宗親が城主をしていた鮫ヶ尾城に逃げ込みました。そこで1年近く籠城に耐えたものの、景勝の家臣・安田顕元の調略によって宗親が寝返って放火してしまいました。この混乱の中で景虎は妻の清円院(景勝の姉)と子供達と一緒に自刃してしまいました。26歳の若さでした。落城した鮫ヶ尾城は再利用されることなく廃城となりました。今でも発掘すると焼き米等が出てくるそうです。写真は景虎と清円院の可愛いイラストが入った登城案内看板です。
立ノ内館
妙高市

戦国時代に越信国境の防備と監視のために鮫ヶ尾城が築かれた際に、城山の麓にあった勝福寺の一角に平時用の居館を造営したのがはじまりだそうです。以後、鮫ヶ尾城を治めていた城主の居館として存在していました。家督争いである御舘の乱で上杉景虎(謙信の養子で北条氏康の7男)と上杉景勝(謙信の甥)が衝突すると、景虎方に付いた堀江宗親を頼った景虎が鮫ヶ尾城に入城しました。しかし城主の宗親が景勝方に寝返ったために行き場を失った景虎は妻の清円院(景勝の姉)と子供達と一緒に自刃してしまいました。落城したのは4月29日だったので、毎年勝福寺で景虎忌法要が営まれています。写真は勝福寺(真宗)の境内にあった甲冑姿の景虎像で、父の氏康が居る小田原城に向いていました。景虎像の周辺には戦いに敗れた景虎方の供養塔がたくさんありました。

西条城
妙高市

戦国時代に越信国境の防備と監視のために築かれた城で、近くにある鳥坂城と鮫ヶ尾城の中間の位置にありました。複数の曲郭を配置し、大きな土塁や堀切で巡らされた堅固な山城でした。標高216メートルの尾根に築かれたので、鳥坂城と鮫ヶ尾城、そして上杉謙信の居城・春日山城が見渡せるそうです。西条城専用の駐車場があり、そこに行けば西条城の鳥瞰図があるそうですが、駐車場が分からず付近をウロウロしてしまいました。写真は麓にある八幡宮の近くにあった西条城跡を示す標識です。主郭まで登りたかったのですが、残暑の厳しい9月だったため深い藪にさえぎられたために撤退して、飯山街道を南下して鳥坂城に向かいました。

鳥坂城
妙高市

戦国時代に越信国境の防備と監視のために築かれた城で、近くにある猿橋城と西条城の中間の位置にありました。高床山北尾根にある標高347メートルの鳥坂山に築かれた城で、複数の曲郭を配置し、大きな土塁や堀切で巡らされた堅固な山城でした。飯山街道沿いにあり、そこから高床山森林公園に行きました。写真は高床山森林公園内にあるキャンプ場の駐車場にあった鳥坂城の鳥瞰図で、その左側に説明板がありました。主郭には石碑があるので上まで登りたかったのですが、残暑の厳しい9月だったため深い藪にさえぎられたのと、時間の都合で仕方なく登山を断念して、猿橋城に向かいました。

猿橋城
妙高市
戦国時代に越信国境の防備と監視のために築かれた城で、国境からわずか3キロメートルの位置にありました。標高360メートルの尾根に築かれ複数の曲郭を配置し、大きな土塁や堀切で巡らされた堅固な山城でした。廃校になった猿橋小学校に行けば猿橋城の鳥瞰図が、そこから通じる登城道を行けば石碑があるのですが、小学校の廃校によって校門の扉が閉められて藪が凄かったので敷地内に入ることが出来ませんでした。写真は城山の北側に広がっていた畑道にあった猿橋城跡の標識です。この日の城巡りは猿橋城が最後の6城址目で、その後友達が釣りをしている飯山市内にある希望湖(斑尾高原の北側に位置している湖)に向かって、釣竿を積んだ愛車を走らせました。
箕冠城
上越市
築城の時期は不明ですが、戦国時代は大熊政秀が守っていた城です。標高237メートルの山頂に築かれ、複数の曲郭を配置し、土塁や堀切で巡らされた堅固な山城でした。政秀は上杉家の台所奉行を務めていた重臣でした。嫡男の朝秀は、上杉謙信の側近・直江実綱(直江兼続の養父)と本庄実乃との派閥対立に巻き込まれ、武田信玄の調略に応じて出奔してしまいました。写真は箕冠城跡の登上道にあった標柱で整備されていない雰囲気が良かったです。出奔して武田に仕えた後の朝秀ですが、山県昌景の与力となり、小幡虎盛の娘を娶っています。武勇があり、上州箕輪城攻めでは剣豪の上泉信綱と一騎打ちを演じています。勝頼の時代でも重用されて遠州小山城の城代に任じられています。しかし、勝頼の終焉の地となった天目山の戦いまで従って散ってしまいました。
今井城
津南町

平安末期に木曽義仲の家臣・今井兼平によって築かれたのがはじまりだそうです。信濃川を下に望む河岸段丘の上に築かれた城で、近くにある赤澤城と共に越後と信濃の境を固める役割を持っていました。南北朝時代には、南朝方の大井田義政と大井田義里が籠城したことがあるそうです。戦国時代には上杉謙信亡き後に起きた御館の乱では、今井城の金子次郎右衛門と小森政秀は上杉景勝(謙信の甥)に付いたそうです。写真は国道117号のバス停「大井平入口」付近にあった津南町教育委員会が設置した今井城跡への標識です。その後、津南町内にある赤澤城に向かってレンタカーを走らせました。

赤澤城
津南町
築城の時期は不詳ですが、南北朝時代には、今井城を守る南朝方の大井田義政と大井田義里の手勢が赤澤城に籠城した事があるそうです。信濃川を下に望む河岸段丘の上に築かれた城で、近くにある今井城と共に越後と信濃の境を固める役割を持っていました。戦国時代には村上国清(武田信玄に追われて越後に逃げた義清の息子)の家臣・坂井清信が在城していた時期がありました。上杉謙信亡き後に起きた御館の乱では、上杉景勝(謙信の甥)に付いた今井城の金子次郎右衛門と小森政秀の手勢が守備していました。写真は国道117号の中津川交差点から県道251号に入り、バス停「赤沢入口」付近から、畑の奥に入った先にあった赤澤城跡の石碑で、発掘調査の最中でブルーシートが被せられていました。その後、平家の里・秋山郷に向かってレンタカーを走らせました。
与板城
長岡市
戦国時代に直江景綱(上杉謙信を守る四天王の一人)が尾根続きに新しい居城・与板城を築いて移すと、かつての居城・本与板城は北側を固める曲郭になりました。麓にある八坂神社の前にレンタカーを置いて、そこから長い階段を経由して登りました。大河ドラマ「天地人」の影響で、本丸跡には「天地人」と「直江兼続公」と「与板城」の幟が無数に建てられていました。ここで、兼続が治めていたんだな〜と思いました。写真は与板城の本丸跡にあった石碑です。麓には直江家の菩提寺徳昌寺(曹洞宗)があり、そこはひんやりとして苔に覆われてキレイな敷地を持つ古い佇まいの良いお寺でした。
本与板城
長岡市
南北朝時代に新田一族・籠沢入道が居城を構えたのがはじまりだそうです。室町時代には上杉房能(越後守護)の重臣・飯沼氏が守っていましたが、房能が上杉為景(越後守護代で上杉謙信の父)によって滅ぼされると、為景の重臣・直江実綱(お船の祖父)が入城しました。直江景綱(お船の父)のときに尾根続きに新城・与板城を築いて居城を移すと、かつての居城・本与板城は北側を固める曲郭になりました。余談ですが、景綱は上杉謙信を守る四天王の一人に数えられた武将で、川中島の戦いでは武田義信(信玄の嫡男)を破り、諸角虎定(武田一族)を戦死させる活躍をしました。写真は本与板城の本丸跡にあった石碑です。麓には浄土真宗・光西寺があり、そこは景綱の居館があった場所で、ここでお船(直江兼続の妻)が産まれました。
直江氏館
長岡市
戦国時代に本与板城の麓に直江景綱の居館があった場所で、長女のお船が産まれました。景綱は上杉謙信を守る四天王の一人で、男子の子供に恵まれなかったために、上州の長尾家から信綱を婿養子に迎えました。しかし、御館の乱の恩賞を巡って刃傷沙汰の巻き添えで信綱は春日山城内で亡くなりました。その後、上杉景勝(謙信の甥)の命令でお船は樋口与六と再婚し、与六は直江兼続として直江家を相続しました。お船は景勝の正室・菊姫(武田信玄の6女)の従女として、景勝の嫡男・定勝の養育係として、立派に勤めたそうです。写真は浄土真宗・光西寺の前にあった石碑「お船の方生誕御館跡」で、大河ドラマ「天地人」の上映が始まる前の年(平成20年)に設置されたものです。ここで、兼続の妻となったお船が過ごしていた居館があったんだな〜と思いました。
与板陣屋
長岡市
寛永11年(1634年)に長岡藩の支藩として牧野康成が与板藩を興して陣屋を構えたのが始まりです。陣屋は直江兼続の居城・与板城の麓にありました。康成は5代将軍・徳川綱吉の従兄弟であり、徳川家康を守った四天王の一人・酒井忠次の孫でもあります。68年後に牧野氏が小諸藩に転封されて一時天領となりましたが、掛川藩から井伊直矩が入封すると、井伊家10代の陣屋として明治維新まで続きました。余談ですが、最後の藩主は直安といい、桜田門外の変で殺害された大老・井伊直弼の4男です。戊辰戦争では宗家の彦根藩が新政府側に付いたため、与板藩も足並みを揃えました。そのため、井伊軍は与板手前にある金ヶ崎で奥羽越列藩同盟軍に敗れて陣屋が放火されてしまいました。写真は与板ふれあい交流センター(陣屋跡)に復元された陣屋門です。
栃尾城
長岡市
南北朝時代に宇都宮一族・芳賀禅可が狭い栃尾盆地を見渡せる鶴城山の頂に築いたのがはじまりです。室町時代には本庄氏代々の居城でした。越後の守護代・長尾為景(上杉謙信の父)が亡くなると、為景に滅ぼされた守護職の残党勢力が立ち上がったので、家督を継いだ長尾晴景の名代として弟の長尾景虎(後の謙信)が栃尾城に入城しました。栃尾城の城主・本庄実乃の協力の許で14歳の景虎は周囲の抵抗勢力を次々と鎮圧し、19歳なって春日山城に戻るまでの6年間栃尾城に在城していたそうです。写真は登城口に当たる諏訪神社の階段の手前にあった石碑「栃尾城跡」です。今回が2度目の訪城でリベンジを果たすことが出来ました。余談ですが、向かいの秋葉公園には謙信の像があり、麓には謙信の学問の師・門察和尚が開祖の常安寺(曹洞宗)がありました。
佐々木氏館
長岡市
戦国時代に刈谷田川と西谷川の合流地点に築かれた佐々木了閑(上杉謙信の軍奉行の居館がありました。了閑は新発田城の新発田家重の一族で、御舘の乱(上杉景勝と上杉景虎が家督相続を巡って対立した戦い)では景虎に付いたので、景勝に攻められて討ち死にしてしまいました。閑の遺児・赤倉は越後を脱出して、摂津にある石山本願寺を頼りました。僧となった赤倉は帰郷すると、居館跡に阿弥陀堂を建立して御家再興を果たしました。写真は居館跡に建てられた西厳寺(浄土真宗)の本堂で、玄関の脇に説明板がありました。秋葉公園から対面にある栃尾城址に向かう途中に古い佇まいの本堂が目に入ったので、寄り道をして佐々木氏の居館跡だったのを知りました。ちなみに、滅ぼされた了閑は源頼朝から信頼が厚かった御家人・佐々木盛綱の末裔に当たります。
古戸城
長岡市
平安末期に那須宗隆(通称:那須与一)の居城があった場所です。栃尾から長岡に戻る途中に寄った城跡で、なぜ宗隆が栃尾に居たのかが不思議でした。源頼朝の側近・梶原景時の謀略によって鎌倉を追放され、越後国下田郷の領主・五十嵐小豊治に預けられた時に、古戸城を与えられたという事です。その後許された宗隆は下野国に戻り、次男の宗嗣は古戸城主として残りました。宗隆といえば、屋島の戦いで海上の船に掲げられた日の丸を描いた扇の的を見事に射落とした事で名を残した弓の名手ですが、実際には扇の的の伝説は存在しないどころか、船上に居た平家の貴婦人達を次々と射殺して海に倒した野蛮な武将でした。余談ですが、宗隆の妻は新田義重(源義家の孫で新田氏の始祖)の娘です。写真は城跡の入口にあった看板で、奥の本丸跡には説明板がありました。
栖吉城
長岡市
室町時代に蔵王堂城の城主・長尾孝景がこの地に本拠地を移したのがはじまりです。戦国時代には越後守護代になった長尾房景(孝景の息子)が城主をしていた時期がありました。余談ですが、房景の娘・青岩院は長尾為景に嫁いで長尾景虎(後の上杉謙信)を産んでいます。長尾景信(房景の息子で謙信の従兄弟)が城主のときに、家督相続を巡って上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子で謙信の養子)が対立した御舘の乱が起きると、景信と栖吉衆は景虎に付いたために景勝に滅ぼされてしまいました。戦後、長尾岩鶴丸(景信の息子)が城を守ったものの、景勝の会津移封によって廃城になりました。写真は曹洞宗・普済寺の背後の城山にあった標柱で、付近には長岡藩主の牧野氏累代の墓や、戊辰戦争で亡くなった少年兵達の墓標がありました。
町田城
長岡市
鎌倉時代から続く野村氏の代々居城があったところです。野村氏は宇多源氏の流れを持つ名門です。戦国時代には関東管領・上杉憲顕に従った野村信成、織田信長に従った野村信綱が居たという記録が見えるだけです。写真は栃尾から長岡に戻る途中に、高町団地側から入った公園前にあった町田城跡の説明板です。2004年に起きた中越地震で城跡の入口付近で大規模崩壊があり、現在地に移されたそうです。説明板のある崖から長岡市街地を見渡すことが出来ました。
柿館
長岡市
室町時代から続く岡野氏の代々居館があったところです。岡野氏は関東管領・上杉氏の家臣で、この地方を治めていた豪族でした。対面には詰めの城である柿城もありました。戦国時代には、家督相続を巡って上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子で謙信の養子)が対立した御舘の乱が起きると、城主の岡野左内は景虎に付いたので、景勝に攻められて柿館と柿城を焼かれてしまいました。写真は跡にあった浄土真宗・広西寺で、後世に造られた石垣ではあるけど、跡らしい雰囲気を出していました。
柿城
長岡市
南北朝時代に上杉憲顕(初代の関東管領で足利尊氏の従兄弟)の命令で家臣の岡野氏によって築かれたのがはじまりです。柿川と釜沢川に挟まれた断崖絶壁に築かれた要害で、岡野氏は築城後この城を代々の居城としました。戦国時代には、家督相続を巡って上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子で謙信の養子)が対立した御舘の乱が起きると、城主の岡野左内は景虎に付いたので、景勝に攻められて落城し、信濃国へ逃れたそうです。写真は浄土真宗・広西寺(柿館跡)から眺めた柿城があった城山です。城山には城址碑や説明板があるのですが、時間の都合で登りませんでした。
小国城
長岡市
平安時代に越後国の小国保の地頭に命ぜられた源頼連が居館を構えて小国氏を名乗った地です。以後、小国氏代々の居城として戦国時代には小国重頼が当主で、上杉景勝(謙信の甥)の命で直江兼続の弟・樋口与七を養子として迎えました。その時に与七は小国実頼と名乗りました。豊臣秀吉の天下となり、聚楽第新築の時には祝賀の使者として実頼が務める事になった時に、景勝の命で大国氏を名乗りました。その時に重頼の嫡男・秀安が小国氏を相続して帰り咲きました。写真は越後おぐに森林公園にあった石碑「名族・小国氏発祥の地」で、高さ10メートルもある大きな物でした。ちょうど大河ドラマ「天地人」をやっていた時期だったので、「これが兼続の弟の城か〜」と思うと、感動してしまいました。余談ですが、実頼の末裔に王子製紙の会長を務めた大国昌彦が居ます。
来迎寺城
長岡市
来迎寺城は、昭和30年3月に地元の青年会が設置したという石碑「来迎寺城址」があるというので行ってみたのですが、地元の人達に聞いても「分からないです…」とか「お城があったの?」という返事が返ってくるだけで、それは近くにある朝日城も同じでした。某ホームページを読むと、秋だとまだ草むらに埋もれているだけではなく、来迎寺城にどういう歴史があったのか不明だと書かれていてガッカリしてしまいました。せっかく石碑を設置するからには、城山の麓にあった安浄寺の境内にして欲しかったなと思いました。写真は安浄寺の本堂です。余談ですが、近くには昭和初期に建てられた小学校の旧校舎があり、その時代に生まれ育ったお袋は懐かしがっていました。数ヶ月前に岡山旅行に行ったときに泊まった吹屋小学校の旧校舎も喜んで写真を撮っていました。
朝日城
長岡市
朝日城は、昭和30年3月に地元の青年会が設置したという石碑「朝日城址」があるというので行ってみたのですが、地元の人達に聞いても「分からないです…」とか「お城があったの?」という返事が返ってくるだけで、それは近くにある来迎寺城も同じでした。某ホームページを読むと、秋だとまだ草むらに埋もれているだけではなく、朝日城にどういう歴史があったのか不明だと書かれていてガッカリしてしまいました。せっかく石碑を設置するからには、城山の麓にあった朝日寺の境内にして欲しかったなと思いました。写真は朝日寺の本堂で、すっかり薄暗くなっていました。この日の城巡りは終わりで、長岡市内にあるホテルに急ぎました。
小千谷陣屋
小千谷市

江戸時代に会津藩の飛び地・小千谷地方を統治していた陣屋があった場所です。当初元町にありましたが、信濃川の大洪水によって流されてしまったために、現在のところに再建したそうです。宝暦13年(9代将軍・徳川家重の時代)には、小千谷組,塩沢組,六日町組,浦佐組,小出島組を支配範囲にしていた大きな陣屋でした。幕末に起きた戊辰戦争では、小千谷陣屋と近くにある小出島陣屋に会津藩の主力がそれぞれ駐屯したために、近くの芋坂と雪峠で激戦があり、その兵火によって全焼してしまいました。写真は小千谷総合病院付属老人保健施設・永仙の家にあった陣屋跡の石碑です。余談ですが、戊辰戦争での国内最大の激戦地が、芋坂と雪峠での戦いだったそうで知りませんでした。善政を敷いたので、この地域の住民から会津への評判は今でも高いそうです。

深地城
小千谷市
南北朝時代に上杉憲顕(初代の関東管領で足利尊氏の従兄弟)の命令で家臣の大関兵部によって築かれたのがはじまりです。信濃川沿いの断崖絶壁に築かれた要害で、大関氏の居城・大野城の支城として機能していました。戦国時代には長尾為景(越後守護代で上杉謙信の実父)の一族・深地時景が居城としました。謙信に会水城の石坂与十郎を攻略するよう命ぜられた時景でしたが、石坂軍は強くて何度も撃退されてしまいました。計略をたてた時景は、大雪が降りしきる大晦日に手勢を引き連れて取り囲み、元旦の明け方に攻撃をしかけたので、会水城は落ちました。善政を敷いていた与十郎だったので、会水城があった浦柄部落では正月の三が日のお祝いをしない慣わしになったそうです。写真は小さな公園にあった石碑で、目の前を信濃川が流れていました。
高梨城
小千谷市
築城の時期は不詳ですが、室町時代に長尾景長(上杉謙信の叔父)が居城としていました。戦国時代には高梨頼春(高梨政頼の子)が城主をしていましたが、重い年貢によって不満が爆発した農民一揆軍に攻められて落城し、頼春は討ち死にし、家族は皆殺し、高梨城は廃城になってしまいました。本丸跡に石碑と説明板があるというので、越後製菓の工場の横から行ってみたのですが、城山に入れたものの本丸跡が分かりませんでした。写真は城山にある広大な畑の中で偶然に見つけた「高梨城主碑」です。
生城
小千谷市

築城の時期は定かではないのですが、稗生氏によって築かれた城で、信濃川と野辺川に挟まれた標高250メートルの山頂に築かれた要害でした。鎌倉時代には源頼朝から越後の地頭職に命ぜられた平子有員が住み着いて以来、平子氏代々の居城となりました。平子氏は相模三浦氏の一族です。戦国時代には平子房長が城主で、上杉謙信の幕下の武将として活躍していたものの、謙信が急死して家督相続を巡って上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子で謙信の養子)が対立した御舘の乱が起きると、房長は景虎に付いたために景勝の攻撃を受けて落城しました。写真は稗生城のあった城山です。麓に登城口を示す新しい石碑があるというので行ってみたのですが、その石碑がどこにあるのかが分かりませんでした。

片貝城
小千谷市
戦国時代にこの地を支配していた豪族・片貝氏の居城がありました。上杉謙信の時代には片貝房忠が城主で、川中島の戦いで活躍したそうです。能連(房忠の子)が城主のときに、家督相続を巡って上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子で謙信の養子)が対立した御舘の乱が起きると、能連は景虎に付いて鮫ヶ尾城に籠城しましたが、景勝に内通したのでお家を潰されることはなかったそうです。戦後、能連は上州に移住すると、片貝城は廃城になりました。写真は二ノ丸跡にあった休憩所で、城跡を示す城址碑や説明板などはありませんでした。
浦佐城
南魚沼市

築城の時期は定かではないのですが、霊峰八海山から流れる魚野川を望む毘沙門堂の背後に築かれた要害でした。上杉謙信の時代には大関親憲(上杉25将の一人)が守備し、上杉景勝の時代には清水藤左衛門(信州小笠原一族)が守備していたという記録が残っています。家督相続を巡って上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子で謙信の養子)が対立した御舘の乱が起きると、近くにあった樺沢城は相模から駆けつけた北条軍の猛攻を受けて落城しました。浦佐城にも北条軍が押し寄せたものの、藤左衛門は見事に撃退したそうです。写真は麓にあった浦佐毘沙門堂で、仁王門の前に浦佐城の案内板がありました。毎年3月3日になると毘沙門堂内で行なわれる裸押合祭りは、日本三大奇祭の一つとして知られているそうです。

六万騎城
南魚沼市

築城は南北朝時代で、霊峰八海山から流れる魚野川を望む六万寺山の山頂に築かれた城でした。室町時代には越後で内乱が起きると、長尾為景(越後守護代で上杉謙信の実父)が敵対していた上杉房能(越後守護)を自害させ、その仇をとる為に関東から出兵した房能の実兄・上杉顕定(関東管領)も為景によって城山の麓で討たれてしまいました。戦国時代には坂戸城の支城として上杉景勝の家臣・水沢彦右衛門が守っていましたが、景勝の会津移封によって廃城になりました。写真は城山の麓にある子安延命地蔵尊の駐車場にあった説明板です。山頂には石碑があるというので、登ろうとしたところ、登山道の入口に「熊に注意」という看板が目に付いたので断念しました。余談ですが、城山全体がカタクリ群生地になっているそうで、季節になると凄いだろうなと思いました。

樺沢城
南魚沼市
南北朝時代に新田義貞の一族・田中右衛門尉が居城を構えたのが始まりです。樺沢城は清水街道と三国街道の分岐点を押さえる交通の要衝にありました。戦国時代には長尾政景が城主で長尾喜平次(後の上杉景勝)が誕生しました。上杉謙信が脳卒中で倒れると、家督相続を巡って景勝(謙信の甥)と景虎(北条氏康の子で謙信の養子)が対立した御舘の乱が起きると、樺野沢城は相模から駆けつけた北条軍の猛攻を受けて落城しました。しかし、越後に冬が訪れると景勝によって奪い返されました。景勝の家臣・栗原政頼が城代として守備していましたが、上杉家が米沢に移封すると廃城になりました。写真は樺沢城にあった城址碑で、麓には龍沢寺(臨済宗)がありました。この寺に謙信の姉・仙桃院が住んでいたそうで、幼少時の喜平次が遊んでいたであろう庭園がありました。
板木城
南魚沼市

築城年代と歴史は共に不詳ですが、発智長芳の居城のあった所だといわれているそうです。長芳は長尾政景(上杉景勝の実父で)の家臣で、政景が長尾景虎(後の上杉謙信)と対立したときは、板木城は謙信の猛攻を何度も受けたそうです。政景が降伏して景虎の姉・仙桃院を娶って重臣になると、春日山城の番城として機能していたそうです。謙信が亡くなったときに起きた家督争い(御館の乱)では、景勝についたそうです。慶長3年に景勝が会津若松に移ると、廃城になったそうです。大力山は中越地方では有名な山で、ハイキングで訪れる人が多いそうです。写真は国道17号に沿いかかっていた看板で、板木城のある大力山(大きな電波塔の見える山)が見えました。

鍬形城
南魚沼市

築城年代と歴史は共に不詳ですが、看板によれば上田長尾氏の居城のあった所だといわれているそうです。今まで知らなかったのですが、上杉謙信の後を相続した上杉景勝は、上田長尾氏の流れをくむ長尾政景の子だったそうです。上杉謙信は越後守護職・府中長尾氏の流れをくんでいて、上田長尾氏と府中長尾氏は10代に渡って敵対していたそうです。謙信が政景を降伏させたときに、謙信の姉・仙桃院を嫁がせたのですが、二人の間に生まれたのが景勝だそうです。写真は国道17号沿いにかかっていた看板で、そこから鍬形城のある城山が見えました。

坂戸城
南魚沼市
南北朝時代に新田義貞の一族・城資長が築いたのが始まりです。室町末期の守護代・府中長尾家では、長尾為景が一向宗との戦いで戦死すると、病弱だった晴景が相続しましたが、家臣や豪族達から信望の厚かった弟の景虎(後の上杉謙信)と内紛が起きてしまいました。坂戸城を居城としていた長尾政景は、晴景派として景虎と対立していましたが、坂戸城を包囲されると景虎の軍門に降りました。坂戸城は樋口与六(後の直江兼続)が生まれた城でもあります。最初は政景の家臣でしたが、政景に嫁いだ景虎の姉・仙桃院に非凡な才能を見込まれ、19歳の時に長尾喜平次(政景の遺児で後の上杉景勝)の近習として仕える様になりました。写真は坂戸城の登城口です。余談ですが、幼少時の喜平次と与六が共に学問を学んでいたという曹洞宗・雲洞庵は、坂戸城の麓にありました。
下倉山城
魚沼市

築城年代と歴史は共に不詳ですが、戦国時代には福王寺孝重の居城として機能していました。守護代の長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護職・上杉房能を滅ぼしたのがキッカケで起きた越後の大乱で、孝重は為景に味方をしたため、坂戸城の長尾房長(上杉景勝の祖父)の猛攻を受けましたが、何とか防ぎ切ったそうです。時代が飛んで上杉景勝が会津若松に移ると、景勝に同行しなかった家臣達は下倉山の地に帰農したそうです。入れ替わるようにして入封した堀秀治は越後を上手く治めることが出来ないでいたそうです。それに目をつけた直江兼続の入れ知恵で、下倉山の元家臣達を通じて越後の年貢を横取りして会津若松に運んでいたそうです。嘘のようで実際にあった出来事だったみたいですが、新領主の秀治は随分舐められたものですね。

蔵王堂城
長岡市

南北朝時代に越後守護代の長尾景恒が、弟の景春に命じて信濃川の畔に蔵王堂城を築かせたのがはじまりだそうです。豊臣秀吉の命令で上杉景勝は会津若松に移封されると、堀秀政と弟の親良は春日山城と蔵王堂城にそれぞれ入封したそうです。信濃川によって城が侵食されるので、堀直竒のときに長岡城を築くと蔵王堂城は廃城となりました。蔵王堂城の一角には平安時代から祭られていた金峯神社(中越の総鎮守)があったそうです。金峯神社では、毎年7月に行われる、馬を駆ながら的を射る神事や、毎年1月に行われる、信濃川で獲れた鮭を神前で神官が直接手を触れずに料理して供える王神祭が、今でも続いているそうです。写真は金峯神社にあった案内板で、すぐ横には石碑「蔵王堂城址」がありました。境内の周囲には旧水堀が残っていました。

長岡郷土資料館
長岡市
悠久山公園にある天守閣風の建物は、正しくは長岡郷土史料館といい、旧長岡城(JR長岡駅のある付近が本丸跡)とは全く関係のない場所にありました。慶応4年に起きた戊辰戦争では、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と対立したそうです。幕府側の中では最も早く近代兵器を揃えていた長岡藩だったので、新政府軍が最も苦戦した戦いになったそうです。しかし、質量共に優る新政府軍が勝利すると、長岡城を徹底的に破壊し、その上に鉄道を敷いて消滅させてしまったそうです。最初、長岡郷土史料館を長岡城のあった場所だと勘違いしてしまいました。長岡郷土資料館の建物は旧長岡城にあった三階櫓を模したもので、石垣には発掘された旧長岡城の石垣が使われていました。長岡郷土史料館の内部は、戊辰戦争に関する史料が数多く展示されていました。
長岡城
長岡市

大坂の陣で戦功をあげた堀直寄によって築かれ、牧野忠成のときに完成させて長岡藩を立ち上げました。牧野氏13代目のときに戊辰戦争が起き、新政府軍が柏崎まで進軍して来ると、奥羽越列藩同盟に加盟して開戦を表明して新政府軍を苦境に落としいれたが、新発田藩の溝口氏が新政府軍側に寝返ったことで形勢が一変し、長岡藩は敗退しました。そのことから新政府によって長岡城は徹底的に破壊されて跡形もなくなってしまいました。写真はJR長岡駅の広場にあった「長岡城本丸址」の石碑です。二ノ丸址に建てられた厚生会館前の広場に行くと、「長岡城址」の石碑があります。遺構は全く残っていませんが、発掘された石垣の一部が悠久山にある長岡城資料館の石垣として使われています。長岡市内には山本五十六元帥の記念館と生家があります。

鳥坂城
中条町

平安末期に桓武平氏の一族・城資永が奥山荘周辺を支配したそうです。城資盛のときに平氏復興のために挙兵し、鎌倉幕府は佐々木盛綱を総大将として討伐軍を派遣しました。この戦いで資盛の叔母・板額御前は大岩を投げ落とし、強弓で敵方を射倒す大奮闘をしたといわれており、その錦絵が写真の説明板にありました。説明板の後ろに見えるのが居館址の土塁で、山頂には詰めの城を兼ね備えた大きな城でした。戦国時代は鎌倉御家人・三浦和田氏の流れをくむ中条氏の持城となりました。御館の乱では上杉景勝に味方しましたが、後に景勝の会津若松移封に従い、鳥坂城は廃城となりました。

江上館
中条町

鎌倉時代末期に木曽義仲追討で戦功のあった和田義茂が奥山荘地頭職に任ぜられ、ここに居館を構えたのがはじまりだそうです。後に中条氏を名乗り、いくつかある庶流の総領家となりました。御館の乱では上杉景勝に味方しましたが、景勝の会津若松移封に従い、江上館は廃城となりました。写真の模型は鋳物で出来ており、高さ3メートルの復元された土塁にグルッと囲まれた居館跡の中央位置にありました。城門が2基復元されていて、城門の前にあった橋の下には水堀がありました。こういう整備方法には賛否両論があるかと思いますが、個人的には藪や雑草で遺構が隠れて分からなくなってしまうよりは良いと思いました。

村上城
村上市

鎌倉時代には桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族・本庄行長の居城でした。ちなみに平林城主・色部為長は実弟です。戦国時代には本庄繁長が上杉謙信に背いたものの、許されて戻ってきたそうです。上杉景勝の会津若松移封に従い、入れ替わりで加賀・小松から村上頼勝が移封し、本庄城から村上城と改めたそうです。堀直竒のときに城下町と石垣の大改修が行なわれ、現在の姿となりました。本丸には三層の天守閣が造営されましたが、戊辰戦争で全ての建物が焼失してしまいました。城下には残っていた武家屋敷と復元された武家屋敷がいくつかあり、皇太子妃雅子様の実家・小和田家とは縁戚関係にある旧嵩岡家の住宅もあります。小和田家は村上藩の藩士を祖先に持つ家柄だったんですね。

平林城
神林村

鎌倉時代には桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族・色部為長の居城でした。ちなみに村上城主・本庄行長は実兄です。戦国時代は長尾為景(上杉謙信の実父)と対立して平林城を落とされてしまいますが、色部勝長のときに上杉謙信の重臣となって活躍したそうです。特に川中島合戦では安田長秀と共に活躍をし、上杉謙信より血染めの感状を受けたそうです。色部光長のときに上杉景勝の会津若松移封に従い、平林城は廃城となりました。関ヶ原の戦の戦後処理によって景勝が米沢へ減封されると色部光長も米沢城下に住み、子孫は代々上杉家の重臣として続いたそうです。写真の説明板の横に高さ3メートルの土塁があり、道を奥に進むと居館跡がありました。詰めの要害山もあるのですが、時間の関係で行きませんでした。

新発田城
新発田市

鎌倉幕府創立期に戦功のあった佐々木盛綱が加持荘地頭職に任ぜられ、新発田城を築いた新発田氏はこの支族だといわれています。御館の乱での恩賞を不満として起きた新発田合戦では、上杉景勝に謀反を起こした新発田家重とそれに呼応した五十公野道如斎が、新発田城と五十公野城にそれぞれ立て籠もりました。戦局は一進一退であったが、上杉景勝の家臣・直江兼続と藤田信吉の軍勢によって落城しました。江戸時代になると溝口秀勝が加賀・大聖寺から移封し、それ以来280年間溝口家の居城となりました。2004年に写真の御三階櫓をはじめ、辰巳櫓が木造で復元されました。御三階櫓は自衛隊駐屯地の敷地内にあるため近づけませんが、辰巳櫓と二階隅櫓と城門の3棟は内部拝観が出来ます。

大天城
新発田市

平安時代末期に加治郷を支配した青鬼堅人の居城だったそうです。地元の住民に対して常に温情をほどこし、住民に敬愛されていたそうです。写真は大天城公園の駐車場入口前にあったもので、市道からは迷うことなく見つけることが出来ました。駐車場の奥に入り、テニスコートの横に立つと高さ5メートルほどの土塁が見えました。更にいくつかの土塁を乗り越えて進むと、深い堀切にかかる橋に出ます。この橋を渡ると主郭跡であり、城址碑と説明板がありました。きれいに草木が刈り取られていて歩きやすくて気持ちが良かったです。主郭跡にあった説明板を読んでも由来が詳しく書いてなくて良く分からなかったのですが、勢力争いで青鬼氏は滅んでしまったのではないかと思いました。

五十公野城
新発田市

鎌倉幕府創立期に戦功のあった佐々木盛綱が加持荘地頭職に任ぜられて築いたのがはじまりで、五十公野氏はこの分流だといわれています。御館の乱での恩賞を不満として起きた新発田合戦では、上杉景勝に謀反を起こした五十公野道如斎とそれに呼応した新発田家重が、五十公野城と新発田城にそれぞれ立て籠もりました。戦局は一進一退であったが、上杉景勝の家臣・直江兼続と藤田信吉の軍勢によって落城しました。写真の城址碑は主郭の中にあり、夏に行ったからなのか藪が凄くていくつもの土塁を乗り越えるのに一苦労してしまいました。東部中学校の横にある老人福祉センター・金蘭荘の入り口前に説明板「五十公野攻防戦対陣図」がありました。

春日山城
上越市

春日山城は、言わずと知れた上杉謙信の居城です。この日は自分の37回目の誕生日で、会社を休んでお袋と二人で新潟県の上越市に行ってきました。今回は謙信・大ファンのお袋が一緒なので「謙信所縁の史跡」を中心に巡りました。謙信といえば、春日山城と林泉寺の2つです。お袋は米沢と信州善光寺で謙信の遺品などを色々見てきたそうです。しかし、謙信が政を行なっていた春日山城と、幼少の謙信が過ごしていた林泉寺に行けたという感動はひとしおだったそうです。林泉寺の宝物館には、謙信が生きていたときに直に描かせたという小さな絵(日本では1つしか残っていない)、謙信直筆の書状、謙信の墓石、謙信愛用の毘沙門天、謙信時代の火縄銃、旧春日山城の城門だったと云われている門などがありました。この日のお袋は、一日中満面の笑顔でした。

福島城
上越市

上杉景勝が越後から会津若松へ転封すると、入れ替わるようにして入封した堀秀治が、春日山城から行政に便のいい平城に居城を移すために起工され、秀治の子・忠俊のときに完成したそうです。忠俊がわずか3年で改易となると、松平忠輝(徳川家康の6男)が越後60万石の太守として入城しました。まもなくして忠輝は高田に新城を築いて移ると、福島城は廃城となったそうです。3つの川と日本海に囲まれた近代城郭であったが、わずか7年で歴史から幕を閉じたそうです。古城小学校の敷地内に2つの城址碑と説明板と石垣の一部がありました。説明板を読むと、石垣のある大きな城郭だったそうですが、その後に足を運んだ高田城は石垣があまり無く、土塁が主体だったので、福島城は説明板にあるような城郭ではなかったような気がしました。

高田城
上越市

越後60万石の太守として越後に入封した松平忠輝(徳川家康の6男)は、福島城を廃して高田に新城を築いたのがはじまりだそうです。徳川氏と豊臣氏の対立が激しくなり、大坂の情勢と豊臣方の前田利常を睨んでの天下普請で、築城に当たっては伊達政宗(忠輝の舅)を奉行に、豊臣恩顧の諸大名13藩が動員されたそうです。わずか5ケ月の短期間で一応の完成を見せたそうですが、石垣はあまり無く、土塁が主体の城郭だったそうです。忠輝は素行が粗暴で家康に疎まれ、大坂の陣での遅参と将軍直臣の殺害を理由に改易となり、武蔵の深谷城に蟄居のを経て高野山に配流となったそうです。高田城は明治3年の火災で本丸御殿が全焼し、翌年の廃藩置県では建造物の大部分が取り壊され、鎮台が置かれた後も残っていた三重櫓も明治19年に取り壊されてしまいました。

御館
上越市

室町時代に越後守護上杉憲顕がこの地に館を築いており、代々越後の中心の機能を成していたそうです。川越夜戦で関東管領・上杉憲政が北条氏康に敗れると、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ってきたそうです。景虎は憲政のために館を造営したそうです。以後、御館と呼ばれるようになり、憲政の館として、景虎の政庁として使用され、関白の近衛前嗣など京都の文化人が多く訪れたそうです。上杉謙信が病気で倒れると相続争いが起き、上杉景勝(謙信の甥)によって春日山城を追われた上杉景虎(北条氏康の実子)は憲政の住む御館に立て篭もったそうです。景勝の家臣・直江兼続の軍勢によって落城しました。付近はこのような児童公園が多く、公園には八重桜が必ずといっていいほど植えてありました。発掘調査でお城の遺構や遺物がたくさん出土したそうです。

上関城
関川村

ここは中世の城があったところで、鎌倉時代に中条氏の庶流・黒川氏の流れをくむ関氏が、奥山庄の関郷を支配したのがはじまりだそうです。後に平林城の支城として機能していたそうです。写真の石碑の裏側に説明が書かれていたのですが、文字が薄くて読み取ることが出来ませんでした。県道が通る温泉橋のたもとにあり、土塁が良好に残っているにもかかわらず全く整備されていない状態で、非常にもったいないと思いました。城址碑の裏には由来が書いてあったのですが、堀文字が薄くてほとんどが読み取れない状態で残念でした。

堀越館
阿賀野市

ここは中世の館があったところで、鎌倉時代中期から水原氏、安田氏の豪族、そして大見一族・宇佐美氏の豪族が居たと考えられているそうです。その後上杉氏と長尾氏の舞台ともなり、古文書には「応永30年(1424年)に要害おちる」と記述されているそうです。昭和39年の国道建設にともなう発掘調査では、陶器類などの遺物や建物の柱穴が見つかったと、堀越館の推定絵図と共に説明板に書いてありました。写真の説明板は、安田城から水原代官所に向かう途中の国道49号沿いにある堀上会館の前にあり、その背後に土塁に囲まれた民家がありました。

水原代官所
阿賀野市

鎌倉時代に関東御家人・大見盛家が水原館城を本拠地として構えたのがはじまりで、水原氏と名乗るようになりました。戦国時代になると、水原親憲は上杉謙信と景勝の二代に仕えていました。後に景勝の会津若松移封に従い、水原城は廃城となりました。江戸時代になると水原城址に代官所が置かれ、約120年にわたって水原郷を統治しました。幕末(慶応4年)に入ると会津藩預かりとなり、戊辰戦争で西軍による戦火で焼失しました。写真の建物は、平成7年(1995年)に平面図を基に木造で復元されたそうで、建物の中まで入ってみました。長屋門の前には「水原城館址・水原代官所」と彫られた石碑と説明板がありました。

笹岡城
阿賀野市

南北朝時代に南朝方の篠岡資尚が城を構えたのがはじまりだそうです。戦国時代には武田信玄に追われて上杉謙信を頼っていた村上義清の嫡男・国清が、断絶していた山浦家を相続して城主となりました。御館の乱での恩賞を不満として起きた新発田合戦では、謀反を起こした新発田氏と五十公野氏に対する上杉景勝の前線基地として笹岡城が利用されました。新発田合戦で上杉方が勝利をおさめると、しばらくして廃城となりました。写真の大きな看板を通り過ぎて登った先に本丸跡があり、土塁が良く残っていました。更に鑑洞寺の境内にある諏訪神社からの土塁は高さが分かりやすくて良かったです。

越後府
阿賀野市

幕末に大地主・市島徳次郎が造営した別邸継志園で、戊辰戦争の際に会津藩松平氏の本営が置かれたが、戦火で建造物のほとんどが焼失しました。明治2年2月に明治政府がここに越後府を設置、同年7月には水原県と改め、県政の中心的な役割を果たしました。水原県は設置後1年余で新潟県に編入され、県庁は新潟に移されたため、水原県庁は翌年3月には廃止となりました。その後は旧所有者であった市島氏に返還されるが、昭和22年に水原町が購入し、昭和47年に県文化財指定を受けました。写真の建物は越後府にあがっていた矢倉を復元したもので、正門に連なる建物の上にあった象徴的なものでした。事前チェックでは知らなくて、堀越館から水原代官所に向かう国道49号を走っていたときに見つけました。国道沿いの土塁の前には城址碑と説明板がありました。

安田城
阿賀野市

鎌倉幕府創立期に戦功のあった関東御家人・大見家秀の子孫が白河荘地頭職に任ぜられて築いたのがはじまりです。安田長秀の時代では川中島合戦で武田義信(信玄の嫡男)を追い回すなどの活躍をし、上杉謙信より血染めの感状を色部勝長と共に受けたそうです。御館の乱では上杉景勝に味方をしました。後に景勝の会津若松移封に従い、安田城を離れました。堀直重(村上藩主・堀直竒の次男)によって安田藩が創立されましたが、直重の長男・直吉の時に幕府に願い出て村松城を築き、安田城は廃城となりました。安田城は今回で2度目になるのですが、鎌倉時代の土塁が良好に残っているのは他に例がありません。本丸には教習所を模した児童公園があり、横断歩道や信号までありました。こういうお金があるなら、説明板だけではなく城址碑も立てて欲しかったです。

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