松本城
松本市
=作成中=
野尻城
信濃町
野尻城(別名:琵琶島城)が築かれた時期は定かではないのですが、古くから信越国境にあった要衝で、近くには沼尻関所がありました。戦国時代には武田信玄と上杉謙信がこの城を巡って争奪戦を繰り広げた場所だそうです。野尻城は野尻湖に浮かぶ琵琶島に築かれた城で、対岸にある尾根上には野尻新城が築かれています。写真は琵琶島にある宇賀神社の鳥居で、弟と信州旅行に行ったときに、足漕ぎボートを借りて上陸したことがあります。信玄と内通の噂があった長尾政景(謙信の兄であり上杉景勝の父でもある)を、城主の宇佐見定行が野尻湖の舟遊びに誘い、政景と共に身を投げたという事件があり、境内には定行の霊を弔うために謙信が建てたという墓がありました。
野尻新城
信濃町
野尻新城が築かれた時期は定かではないのですが、古くから信越国境にあった要衝で、野尻湖を見下ろす場所に築かれた山城です。ここから越後領内(現在の上越市)まで30キロメートルしか離れていない場所だったことから、近くには沼尻関所が置かれていました。戦国時代には上杉謙信の属城として機能していて、謙信が関東出兵などの留守を狙って川中島に出てきた武田信玄によって落城したものの、後に謙信によって取り戻されています。写真は野尻湖に浮かぶ琵琶島に行くための定期遊覧船や貸しボートの船着場から見上げた城山です。
塩田城
上田市
=作成中=
小諸城
小諸市
=作成中=
松代城
長野市
=作成中=
横山城
長野市
=作成中=
大峰城
長野市


撮影していない為
画像はありません
=作成中=
海ノ口城
南牧村

室町時代に大井成頼(平賀源心)が本城・平賀城の支城として築いたのがはじまりだそうです。武田信虎(信玄の父)は大軍を引き連れて攻撃をしかけましたが、成頼はわずかな兵で撃退させてしまいました。年末になったので、信虎は甲斐に引き上げ、武田晴信(後の信玄)が殿を引き受けました。武田軍が帰陣することを知った成頼は、守備を解いて兵士達を海尻城や村に帰してしまいました。そこへ晴信は300の兵を引き連れて奇襲を仕掛け、海ノ口城は落城して成頼は討死してしまいました。この戦いで初陣を飾った時の晴信はわずか16歳で、天文5年(13代将軍・足利義輝の時代)12月28日の出来事でした。写真は本丸跡にあった城址碑で、ここにたどり着くまで30分もかかってしまいました。本丸に立つと、勝どきの声をあげる晴信の姿が見えてきそうでした。

海尻城
南牧村
築城の時期は不明ですが、伴野氏の家臣・井出氏が築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には葛尾城の村上氏の家臣達(薬師寺右近,多知三多兵衛,小沼川舎人亮)が守っていましたが、武田信虎(信玄の父)の命を受けた板垣信方の軍勢に攻められて落城しました。その後、小山田昌行が城代として日向昌時,長坂国清がそれぞれ固めました。その後、城を取り戻そうと村上氏の家臣達が周辺の土豪の援助を受けて攻撃しました。海尻城は二ノ丸まで落とされたものの、武田軍の救援が間に合って落城を免れました。翌年に海尻城を前進基地とした信虎は佐久に攻め入って36ヶ所の城砦群を攻め落として佐久地方を平定することになります。写真は国道141号沿い(かつての佐久街道)にある天台宗・医王寺の参道前にあった石碑「海尻城址」です。
田口城
佐久市
=作成中=
龍岡城
佐久市
=作成中=
内山城
佐久市
=作成中=
上ノ城
佐久市

元治元年(14代将軍・徳川家茂の時代)に内藤正縄(老中・水野忠邦の実弟)によって築かれました。正縄はわずか9歳で岩村田藩の6代藩主になった人物です。優秀な人物だったらしく、後に大番頭(江戸城の各要所を守備する組頭を束ねる役職)や伏見奉行などの幕府の要職を歴任するようになりました。正縄が63歳のときに城主格になると、上ノ城が新たに築かれました。しかし、完成しないうちに7年が過ぎて廃藩置県で明治を迎えて取り壊されてしまいました。余談ですが、正縄の舅は大岡忠正といい、武蔵国の岩槻城主であることが分かってビックリしました。城下にある遷喬館を藩校として勤学所と武芸稽古場を隣に設けて文武両道を奨励した藩主だったことは知っていたのですが、わずか36歳で亡くなっていたのには更にビックリしてしまいました。

志賀城
佐久市
=作成中=
岩村田城
佐久市

江戸時代に内藤正友が武蔵国の赤沼(比企郡)より移封して岩村田城を築いて岩村田藩を興したのがはじまりです。正確には城ではなく、内藤氏7代の陣屋として141年間続きました。幕末に7代藩主・内藤正縄(老中・水野忠邦の実弟)のときに、城主格になると、上ノ城が新たに築かれました。しかし、完成しないうちに7年が過ぎて廃藩置県で明治を迎えて取り壊されてしまいました。写真は本丸跡(岩村田公園)にあった大きな城址碑で、そこからは佐久市の市街地が見えました。付近には1棟の蔵があり、唯一の建物だそうです(追記:平成21年に愚かにも取り壊されてしまったのですが、何故修理することを考えなかったのかが残念でした)。本丸跡から岩村田小学校方面に100メートル歩いたところに神社があり、上ノ城の説明板があり、土塁が残っていました。

大井城
佐久市
=作成中=
伴野城
佐久市
=作成中=
平賀城
佐久市


撮影していない為
画像はありません
=作成中=
稲荷山城
佐久市

築城年代と歴史は共に不詳ですが、武田信玄が佐久侵攻の際に駐屯したという記録が残っているそうです。稲荷山城は甲州街道沿いにあって千曲川が流れる丘陵地に築かれた天然の要害だったそうです。天正10年に武田氏が滅ぶと、信濃に入った徳川家康が松平家忠に命じて改修させたとき記録も残っているそうです。3年後に起きた上田合戦では、上田城に立て篭もった2千の真田昌幸に敗れた8千の徳川家康が稲荷山城に引き上げたそうです。戦後、小諸城に入った芦田康国は稲荷山城の破却を命じたので幕を閉じたそうです。麓には稲荷山神社があり、赤い建物が目を引いたのですが、山頂にズドドーンと立つロケット型の展望台が佐久市内のどこに行っても見えたのが別の意味で印象的でした。

荒砥城
千曲市

戦国時代に葛尾城の村上氏の支族・山田氏が構えた山城があったそうです。武田信玄と上杉謙信の勢力下にあったため、城主がめまぐるしく変わったそうです。千曲川の対岸にある上山田温泉街の裏手に城山史跡公園として荒砥城がありました。熊本城や姫路城のような近世城郭と違って、中世の山城はなかなかイメージが沸きにくいのですが、こういった建物のお陰で「こんな山の上に本当にお城があったの?!」という疑問が吹き飛んでしまいました。同じ山城でも、愛知県にある足助城と、静岡県にある高根城とは、また違った趣向なのも面白いなと思いました。この日は天気が良くて360度見渡すことが出来ました。見学が終わると、城山を下りて荒砥城の本城・葛尾城に向かいました。

和合城
坂城町

室町時代に葛尾城の村上義清の家臣・林常重が構えた城で、埴科郡と小県郡の国境にある虚空蔵山の上に和合城あり、真下を通る街道に睨みを利かせていたそうです。国道18号の「鼠橋通り」交差点を曲がってベイシア坂城店というスーパーマーケットの裏に行くと、写真の標柱「和合城跡登山口」がありました。先ほど行った荒砥城のような石垣が残っていて、説明板があるというので本当は行ってみたかったのですが、標柱から虚空蔵山は遠くに見えたのと、標柱の横にあったハイキング案内板によれば1時間を要することが分かったので、登山を諦めました。

村上氏館
坂城町

南北朝時代に村上氏が村上郷からこの地に館を築いて移転したのがはじまりだそうです。同時に詰めの城として葛尾城と姫城も築きました。村上義清のときに武田信玄によって追われるまで、約160年間村上氏の居館であったそうです。葛尾城の登城口がある坂城神社から真っ直ぐ下って行くと左側に写真の石碑を見つけることが出来ます。そこから進んで突き当たったところに曹洞宗・満泉寺(村上氏館跡/村上氏の菩提寺)にたどり着くことが出来ます。立派な門構えを持つお寺で、本堂の屋根には村上氏の紋が付いていました。満泉寺には鎌倉時代の後期に製作された御本尊・釈迦如来坐像が安置されており、長野県では唯一の石造りだそうです。

姫城
坂城町

築城の時期は不詳なのですが、葛尾城に関する資料によれば南北朝時代から村上氏歴代の居城として存在していたそうなので、その頃に葛尾城の南側を固めるために築かれたものと思われます。姫城と葛尾城に行くには坂城神社の裏にある登城口から入るのですが、葛尾城とは同じ尾根続きあるので、姫城を横切らないと行けないそうです。インターネットで葛尾城&姫城について調べていると、なんと熊が居ることが分かりました。姫城と葛尾城には石垣が残っており、説明板も設置されているそうなので興味があるのですが、熊が出没するようでは仮に熊除けの鈴を持っていたとしても怖くて行けないです。写真は葛尾城の支城・荒砥城の主郭から眺めた城山で、下を千曲川が流れていました。

葛尾城
坂城町

築城の時期は不詳なのですが、資料によれば南北朝時代から村上氏歴代の居城として存在していたそうです。北信濃最大の豪族として栄えたのは村上義清のときで、小県や佐久にも勢力をのばしていたそうです。武田晴信(後の信玄)が小県や佐久に侵攻すると、義清は周囲の豪族と連携して上田原の戦いと砥石城の戦いで晴信を打ち負かしたものの、直ぐに立て直した晴信によって居城の葛尾城を追われてしまいました。義清は越後の上杉謙信を頼ったのがキッカケで、世に有名な川中島で武田軍と上杉軍が衝突するようになりました。写真は城山の麓にある坂城神社の裏にあった石碑で、「村上氏城館跡」と登城「葛尾城跡口」と「葛尾城登山案内図」が設置されていました。今回は家族が一緒なので登らなかったのですが、葛尾城と姫城へはここから入ると行けるそうです。

上田城
上田市

天正11年(豊臣秀吉と徳川家康が対立して小牧・長久手の戦いが起きた年)に、真田昌幸(幸隆の3男)が千曲川に面した尼ヶ淵に上田城を築いたのがはじまりだそうです。沼田領や吾妻領を巡って第1次上田合戦が起きると、家康は鳥居元忠を総大将として1万の大軍を派遣しました。ゲリラ戦で大混乱を起こした上に、3千の兵を失って敗走したそうです。関ヶ原の戦いの直前に起きた第2次上田合戦では、徳川秀忠を総大将として3万8千の大軍で攻撃しました。わずか2千の兵で徳川の精鋭を二度も破った昌幸は、さすが武田信玄の奥近習だった知将だなと思いました。真田時代の土塁の上に立つと、大混乱を起こしている徳川の精鋭に向かって大笑いしている昌幸の姿が目に浮かんできました。

米山城
上田市

室町時代に葛尾城の支城として機能していたそうです。米山城は砥石城とは同じ尾根続きに築かれた城郭だそうです。砥石城&米山城を目指したのは今回で二度目になります。最初に行ったときは、城山は分かるのだけど、登城口が見つからなくて引き返してしまいました。今回は、国道144号沿いにある伊勢山郵便局のある交差点を曲がり、金剛寺に向かう坂を上がった所にある交差点付近に「砥石・米山城跡」という道路標識を見つけることが出来ました。標識従って曲がって突き当たった先に新しく造られたばかりの遊歩道(登城口)があり、そこから米山城と砥石城に行けることが分かりました。今回は家族が一緒だったので上まで行きませんでした。藪が枯れて歩きやすくなる季節になったらば、そのときは城山に登ってみたいと思いました。

砥石城
上田市
室町時代に葛尾城の支城として機能していたそうです。砥石城は米山城と共に、尾根続きに築かれた大城郭でした。武田晴信(後の信玄)が唯一落とせなかったのが砥石城で、1千の武田兵を失った戦いが「砥石崩れ」でした。晴信は上田原の戦いで村上義清に大敗したものの、勢力を盛り返して佐久地方と小県地方を平定すると、砥石城に向かって駒を進めたそうです。新田次郎の「風林火山」を読むと、砥石城を落とせなかっただけではなく、はるかに兵力が劣る村上軍によって武田軍は大混乱に陥ったことが書かれていました。その後、砥石城は真田幸隆の策略によって1兵も損することなく落城したそうです。麓には曹洞宗・陽泰寺があり、古い建物がとても良かったです。陽泰寺に使われている石垣は、大正時代に城跡に散乱していた石垣を集めて積んだものだそうです。
根小屋城
上田市

根古谷城については時代と歴史ともに不詳ですが、近くには真田氏の城砦群に囲まれたところにあるので、真田氏の属城として機能していたのではないかと思います。根古谷城は洗馬川に沿っている断崖絶壁に築かれた城で、主郭に登ると低い石垣が残っていました。写真は根古谷城の登口前にあった標識で、先に寄った尾引城とは同じハイキングコース上にありましたが、ここには説明板はありませんでした。

長尾城
上田市

写真の「長尾城」という標識は、尾引城に行くときに偶然に見つけました。尾引城に行くには、正面コースと北まわりコースの2つがあり、秋葉神社に直接行ける正面コースの前に車を停める場所が無かったので、北まわりコースの登口前にレンタカー停めたのがキッカケでした。尾引城に行くコース(秋葉神社)は整備されていて通れる状態になっていたのに、長尾城に行くコースは藪が凄くて標識より先に進めない状態でした。帰宅してインターネットで長尾城について検索してみたのですが、全然ヒットしませんでした。尾引城を守る同じ尾根続きに築かれた砦という役割だったのではないかと思いました。

尾引城
上田市

この地を支配していた豪族・横尾氏の属城があったそうです。室町時代に小県郡に侵攻してきた武田軍に対して、豪族達(横尾氏・海野氏・根津氏)が抵抗して海野平の合戦が起き、この戦いで内小屋が落城すると、支城の尾引城も落城したそうです。この戦いで海野幸隆(後の真田幸隆)は上州箕輪城の長野業正を頼って落ち延びたそうです。尾引城(別名:横尾城)に行くには、正面コースと北まわりコースの2つがあり、秋葉神社に直接行ける正面コースの前に車を停める場所が無かったので、北まわりコースの登口前にある広場に停めました。「遠回りになるなあ…」と思いながら、標識に従って山の奥に入り、秋葉神社の裏側に出ました。秋葉神社が主郭に当たる部分で、そこから内小屋城のある城山が見えました。

内小屋城
上田市

この地を支配していた豪族・横尾氏の城があったそうです。室町時代に小県郡に侵攻してきた武田軍に対して、豪族達(横尾氏・海野氏・根津氏)が対立して海野平の合戦が起き、この戦いで内小屋城は落城したそうです。写真は曹洞宗・信綱寺の本堂で、内小屋城の麓にあります。長篠の合戦で真田信綱と真田昌輝が戦死した後、家督を継いだ真田昌幸が二人の兄の菩提を弔うために、大柏寺から信綱寺に改称したそうです。信綱寺には、信綱の首を包んだという血染陣羽織や、血染めの鎧、書状などを展示している無料の宝物館(お寺さんに声をかければ開錠して中に入れてもらえるそうです)があるのですが、時間の関係で入りませんでした。

真田本城
上田市

佐久地方を平定して小県郡を脅かしてきた武田信玄に対し、海野氏をはじめとする小県郡の豪族達は村上氏の援助を得て抵抗してきました。真田幸隆は早くから信玄に仕官していたそうです。村上氏の支城である砥石城の攻略で信玄は1千の兵を失ってしまいましたが、幸隆は謀略で1兵も失うことなく、あっという間に陥落させてしまったそうです。この戦いで旧領を回復した幸隆は、居館として真田氏館を築いたときに、詰めの城として背後に築いた山城が真田本城だそうです。写真はの高台にあった城址碑で、そこからは砥石城のある城山が近くに見えました。真田本城跡は整備が行き届いている上に、城址碑と説明板が3つずつ設置されていて楽しかったです。今回は行かなかったのですが、真田本城の麓には曹洞宗・長谷寺があり、幸隆夫妻のお墓があるそうです。

真田氏館
上田市

室町末期に村上義清の属城である砥石城の攻略に失敗した武田信玄のところに、真田幸隆が攻略を申し出ました。幸隆は村上氏を見限って武田氏に仕官したばかりだったので、武田家臣達は反対したそうです。その中で信玄の実弟・信繁は幸隆を後押ししたそうです(これがキッカケで後に幸隆は信繁の家臣として働くようになったそうです)。信玄が落とせなかった砥石城を調略で落した幸隆は、その恩賞で真田氏館を築いたそうです(館跡には皇大神宮があり、土塁と石垣と空堀が残っていました)。武田軍の先鋒対として数々の戦いで活躍をしてきた幸隆は外様でありながら、譜代並みの待遇を受けていたそうです。北側に300メートル行ったところに真田氏歴史館があり、大河ドラマ「真田太平記」で使用された三代(幸隆・昌幸・幸村)の甲冑が展示されていました。

矢沢陣屋
上田市

江戸時代に仙石政勝(上田城主を務めた仙石忠政の甥)が上田藩・仙石家の分家として矢沢に陣屋を置いたのがはじまりだそうです。上田藩の仙石政明が出石に移封になってからも、矢沢陣屋の仙石氏は7代続いて明治維新を迎えたそうです。矢沢陣屋は戦国時代の矢沢城の麓にあり、小さくて古い街並みの中にありました。

矢沢城
上田市

矢沢城が築かれた時期や歴史ははっきりしないのですが、真田幸隆の実弟・矢沢頼綱(真田幸隆の実弟)の居城だったことは確実のようです。矢沢氏は諏訪神社上社の神事奉仕などをはじめとして、諏訪上社の神使御頭を務めている名門でした。総領家・諏訪氏が武田信玄によって滅ぼされてしまったときに、小県郡は信玄の家臣・幸隆の領地になった過程で頼綱が矢沢家を相続したそうです。矢沢頼康(頼綱の長男)のときに関ヶ原の戦いが起きると、真田昌幸(頼綱の従兄)と真田幸村(昌幸の次男)は西軍に味方をし、頼康は真田信之(昌幸の長男)に従って東軍に味方をしました。東軍が勝利を収めると、信之は松代藩の藩主となると頼康は松代藩の家老となり、以降明治維新まで続きました。松代市内には、矢沢家の重厚な表門が残っているので、一見の価値はあります。

高島城
諏訪市

豊臣秀吉の天下統一が終わると、この地を治めていた諏訪頼忠(頼重の従兄)が諏訪を離れると、豊臣氏の家臣・日根野高吉が諏訪湖のほとりに高島城を築いたのがはじまりだそうです。高吉は6年かけて完成させましたが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れると下野の壬生に転封されてしまいました。入れ替わるようにして江戸城の留守居をしていた大役を果たした諏訪頼水(頼忠の子)が旧領に復帰しました。以後、改易されることなく明治維新を迎えたそうです。高吉が築いた天守閣をはじめとする建物は、明治8年に取り壊されてしまいましたが、昭和45年に古写真を基に復活しました。この日は犬山城に日帰りドライブに行く途中に高島城に寄りました。諏訪湖の水を引いた水城なのに、諏訪湖の水はかなた向こうに見え、住宅街で埋まっていてビックリしてしまいました。

37ケ所を紹介しています。 (^^)/

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