仙台城
仙台市・青葉区

仙台城は、言わずと知れた伊達政宗と仙台藩14代の居城です。政宗は新城の候補地として4つの土地を選び、徳川家康に認可を求めたそうです。その結果、千代の地が許可され、慶長6年(関ヶ原の役の翌年)から千代の青葉山に築城を開始し、千代の地名を中国の故事にちなんで仙台と改めたそうです。伊達家に保管されている記録によると、本丸御殿内に政宗の構想による五重の天守閣の木製模型が明治初年まで安置されていたそうです(天守閣の造営は家康が認めなかったので幻となりました)。昭和20年7月10日の仙台大空襲で唯一残っていた隅櫓と大手門が焼失してしまったのは口惜しいことだと思いました。写真は33年振り(最後に行ったのは中学の時)に訪れた仙台城の隅櫓です。

茂庭氏屋敷
仙台市・青葉区
伊達政宗が仙台城を築いた際、重臣・茂庭綱元が屋敷を構えた場所です。茂庭氏(鬼庭氏)は伊達朝宗(伊達氏の始祖)の時から代々が仕えていた重臣の家柄です。綱元は伊達氏の筆頭奉行を務めていたので、政宗は安心して戦いに明け暮れることが出来たほどの優秀な人物でした。綱元は非常に優秀だったらしく、天下の豊臣秀吉や徳川家康から仕官の声がかかっていましたが、仕えることはありませんでした。鬼庭の姓が茂庭に替わったのは名護屋城内で、留守居役だった綱元を呼び寄せた秀吉が「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で改められたものです。余談ですが、綱元を先祖に持つ父方の叔父が居るので、写真の仙台大神宮(綱元の屋敷跡)にお参りしたときに夫婦お守りをお土産として渡したところ、非常に喜んでいただいてとても嬉しかったです。
片倉氏屋敷
仙台市・青葉区

伊達政宗が仙台城を築いた際、重臣・片倉景綱が屋敷を構えた場所です。片倉氏は信州国の豪族でしたが、景綱の時に政宗に仕えるようになった家臣の1人です。景綱は戦の駆け引きに優れた武将だったので、政宗は安心して景綱と共に戦いに明け暮れることが出来ました。景綱の母は直子といい、元々は鬼庭良直の正室でした。良直の側室が跡継ぎ(茂庭綱元)を産んだので、娘の喜多を連れて片倉景重(景綱の父)に再嫁して景綱を産みました。景綱と綱元は義理の兄弟で、綱元と喜多は実の兄弟に当たります。喜多は政宗の教育係を務めていましたが、優秀な女性だったらしく天下人の豊臣秀吉から「少納言」と評されたほどです。写真は仙台城を眺めながら広瀬川を渡った左手にあった景綱の屋敷跡です。

三澤氏屋敷
仙台市・青葉区

伊達氏に仕えていた家臣・三澤氏の屋敷があった場所です。三澤氏は毛利氏に代々仕えていた家柄でしたが、江戸初期に三澤為基が毛利氏を出奔して伊達氏に仕えるようになりました。三澤清長(為基の息子)の娘・初子が仙台2代藩主・伊達綱宗(政宗の孫)の側室として跡継ぎ(仙台3代藩主・伊達綱村)を産んだことから、三沢氏は重臣に格上げされています。余談ですが、毛利氏を出奔した為基の父・為虎は尼子経久の玄孫に当たる人物でありながら、尼子晴久(経久の嫡男)を見限って毛利元就に仕えました。写真は広瀬川を渡る前の青葉通り沿いにあった三澤氏の屋敷跡です。

水沢伊達屋敷
仙台市・青葉区
水沢伊達氏は留守政景を始祖として置いたのがはじまりです。政景は伊達晴宗の3男で、伊達政宗の父・輝宗の実弟に当たります。政景の実妹は宝寿院といい、佐竹義重の正室となって佐竹義宣を産んでいます。水沢伊達氏は仙台藩領内にある水沢要害(旧水沢城)を居城にした伊達一門で、明治時代に行なわれた廃藩置県を迎えるまで13代続きました。写真は仙台国際センター沿いの入口付近にあった水沢伊達氏の家紋(留守氏の家紋)が入ったモニュメントで、東側にあった登米伊達氏の屋敷跡とは青葉通りに沿って並ぶようにして位置していました。
登米伊達屋敷
仙台市・青葉区

登米伊達氏は白石宗直を始祖として置いたのがはじまりです。宗直は伊達稙宗の8男で、伊達政宗の祖父・晴宗の実弟に当たります。登米伊達氏は仙台藩領内にある登米要害(旧寺池城)を居城にした伊達一門で、明治時代に行なわれた廃藩置県を迎えるまで14代続きました。写真は仙台国際センター沿いの入口付近にあった登米伊達氏の家紋が入ったモニュメントで、西側にあった水沢伊達氏の屋敷跡とは青葉通りに沿って並ぶようにして位置していました。

多賀城
多賀城市

奈良時代(724年)に陸奥国の国府として置かれた政庁だそうです。802年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が入城して蝦夷の地を統制した事があるそうです。南北朝時代には北畠親房・顕家の親子が義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて入城して東北における南朝勢力の拠点として利用された事もあるそうです。現在は、国指定特別史跡となり、政庁跡の基壇石や城址碑、復元された塀などがあって見応えがありました。写真は「壷の碑」と呼ばれる城址碑を納めたお堂で、奈良時代に製作された物だそうです。知らなかったのですが坂上田村麻呂の娘・春子は桓武天皇に嫁いでいたそうで、子は居なかったそうです。小さい頃は「太平記」を夢中になって読んでいました。特に南朝のファンだったので、「ここで北畠親子が治めていたんだ…」と思うと、感動してしまいました。

石巻城
石巻市

鎌倉時代に平泉の藤原氏を滅ぼした源頼朝が家臣・葛西清重に恩賞としてこの地を与えて以来、約400年間葛西氏の居城があった場所だそうです。南北朝時代には葛西清貞は南朝方・北畠顕家の有力配下として活躍をしていた時期があり、足利尊氏を九州に追い詰めたそうです。江戸時代には仙台藩領となったそうです。伊達政宗の命を受けた支倉常長ら一行を乗せた慶長遣欧使節船(サンファンバウチスタ号)がローマに向けて石巻港を出発し、ヴァチカン宮殿でローマ法王と謁見を果たしたそうです。この日は天気が良かったので、城址のある日和ケ丘公園からは石巻港と太平洋を見渡すことが出来ました。石巻港を眺めていると、慶長遣欧使節を乗せたサンファンバウチスタ号がローマに向けて出向している様子が目に浮かんできそうでした。

白石城
白石市

伊達政宗の重臣・片倉景綱が大改修したのが現在の姿になりました。景綱は「伊達家にこの人あり」といわれていた人物で、長男の重長は父に劣らない器の持ち主だったそうです。余談ですが重長の妻は真田幸村の娘だそうです。江戸幕府の一国一城令の対象外とされ、仙台藩の支藩として代々片倉氏が支配していました。戊辰戦争のときは東北諸藩の代表が白石城に集まって会議を開き、奥羽越列藩同盟が締結されたことがあります。明治7年に取り壊されてしまいましたが、平成7年に天守閣が木造で復元されました。前回は平成10年に行っているので、今回の訪城は8年振りになります。再建されてまだ10年しか経っていない天守閣ですが、木造というのは本当にいいものだなと〜思いました。

大衡城
大衡村

室町時代に大崎一族・大衡宗氏がこの地に城を築いたのがはじまりだそうです。豊臣秀吉による奥州仕置きで一旦廃城になったそうですが、奥州仕置きに反発した旧領主だった葛西大崎義隆と葛西晴信が起こした葛西大崎一揆で大衡城が占領されたそうです。一揆軍は伊達政宗によって扇動されたといわれているのですが、奥州に派遣された蒲生氏郷に疑惑をかけられた政宗は新領主の木村吉清を救出し、証拠を消すために一揆軍を全滅させてしまったそうです。一揆軍を扇動するために送った政宗の密書は秀吉の手に渡り、上洛した政宗は「密告した自分の家臣が勝手に書いた物で、本物の自分の書状は鶺鴒の花押の目の部分に針で穴を開けている」と主張して事なきを得たという逸話が残っています。秀吉は政宗の主張を認めましたが、本当は気がついていたそうです。

大窪城
大郷町

戦国時代に伊達一族・宮沢吉実が築いたのがはじまりだそうです。宮沢氏は伊達氏の抵抗していた近辺の葛西氏と大崎氏に対する北の守りとして大窪城に居たそうです。伊達政宗の時代には宮沢元実が当主で、葛西大崎一揆の鎮圧、相馬氏との戦いなどでは常に先鋒と務め、朝鮮出兵にも従軍して功を挙げたため、政宗から大松沢氏を名乗るよう命ぜられ、改めて伊達一族に列せられたそうです。戊辰戦争では15代の大松沢衡実が13代の伊達慶邦に従軍し、白河口軍事総督を務めたそうです。写真は登城口にあった大窪城址碑です。

岩切城
仙台市・宮城野区

鎌倉時代に平泉の藤原氏を滅ぼした源頼朝が家臣の伊沢家景に命じて陸奥国・留守職に任じたのがはじまりだそうです。家景は岩切城を築いて留守姓を名乗るようになったそうです。鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇による建武の新政がはじまると、近くの多賀城に義良親王と北畠顕家が入城すると、留守家任は南朝側についたそうです。南朝が滅んで足利尊氏と直義(尊氏の弟)の対立が激しくなると、家任は尊氏方についたために直義方の奥州管領・吉良貞家に攻められて落城したそうです。室町後期には13代・留守持家のときに伊達持宗によって乗っ取られてしまい、持宗の次男・郡宗が留守家14代を相続したそうです。まもなくして利府城に移ると岩切城は廃城になったそうです。岩切城は国指定史跡になっていて、高森山公園として整備されていたので良かったです。

長喜城
仙台市・若林区

室町時代にこの地を治めていた豪族・沖野氏が館を築いたのがはじまりだそうです。「喜びに満ちた不朽の城であるように」との願いを込めてして築いた城で、現在は地名として残っています。近辺は‘いぐね’に囲まれた数軒の家が点在しています。‘いぐね’とは、風雪から家屋敷を守るためや、食料や建材、燃料として利用するために敷地を取り囲むように植えられた屋敷林のことをいい、仙台を中心とした東北地方の太平洋側で広く使われている呼び名だそうです。家を表す「い」と地境の「くね」から屋敷境を表したことが語源だと言われているそうで、屋敷林を備えた家が多いな〜と、仙台市内をドライブしていて感じました。写真は城址だと云われている場所にあった小さな児童公園です。

松森城
仙台市・泉区

戦国時代に国分盛重が約20年間在城していたそうです。伊達晴宗の5男で、国分家に養子として送り込んで乗っ取ったそうです。甥の伊達政宗とは折り合いが悪かったそうです。葛西大崎一揆で政宗が豊臣秀吉に疑いをかけられると、伊達成実(政宗の従弟)と盛重を人質に差し出したのですが、それが原因となって盛重は伊達家を離れて姉の嫁ぎ先である佐竹氏に身を寄せたそうです。江戸時代には仙台藩の正月行事「野初(のぞめ)」の舞台として利用されたそうです。野初というのは、狩猟と称した軍事訓練で、その様子を描いた絵馬が仙台城下にある青葉神社に残っています。写真は城山の麓にある駐車場前にあった説明板です。

若林城
仙台市・若林区

寛永5年に伊達政宗が家督を譲ると、隠居城として築かせたのが若林城です。政宗が死去と共に廃城になったそうです(9年の在城)。写真は宮城刑務所の駐車場前にある城址碑です。横に説明板がありました。駐車場に車を停めたら、刑務官が守衛所から飛び出して来て「君〜っ、どきなさい!」。「駐車場前にある城址碑と説明板を撮影したら直ぐ出ます。5分もかからないので迷惑をおかけすることはありません」と説明したら分かってもらえました。宮城刑務所を一周すると、土塁が比較的良好な状態で残っていることが分かりました。ある意味で現在の難攻不落の城です。刑務所が耐久年数に達したらば、取り壊して桜木をたくさん植えて城址公園として解放して欲しいです。余談ですが、近くにある曹洞宗・松音寺の山門は旧若林城の正門だと云われているそうです。

涌谷城
涌谷町

室町時代に大崎一族・涌谷広胤の居館があった場所だそうです。豊臣秀吉による奥州仕置きで亘理城から亘理重宗(伊達政宗の従兄弟)が涌谷館を大改修して移ると、伊達姓を名乗るようになったそうです。江戸時代になると一国一城令で破却されるところでしたが、要害と称して伊達一門の居城として277年間続いたそうです。幕府による一国一城の令というのは、家臣は藩の城下に居住することが建前そうです。しかし、仙台藩では「要害」には一門や重臣を、交通商業の要衝「所」には上級家臣をそれぞれ配置して、支配させていたそうです。言葉の解釈で「要害」と名乗っているのですが、実際には小さな城下町まで形成させていた「城」でした。写真に写っている太鼓櫓は東北地方では唯一現存している二重櫓だそうです。

涌谷館
涌谷町

室町時代に大崎一族・涌谷広胤の居館があった場所だそうです。西南には江合川が流れ、東には深い沢がある要害だったそうです。豊臣秀吉による奥州仕置きで亘理城から亘理重宗(伊達政宗の従兄弟)が涌谷館を大改修して移ったそうです。亘理氏は下総国・千葉常胤を先祖に持つ名門ですが、重宗の父・元宗は政宗の叔父に当たるために、伊達姓を名乗ることが許されたそうです。写真は涌谷城内(正確には涌谷要害)に設置されていた涌谷館の説明板です。城内に桜の木がたくさん植えてあったので、春に行けばキレイだっただろうなと思いました。

利府城
利府町

鎌倉末期に藤原道兼の流れをくむ留守一族・村岡氏によって築かれたのがはじまりだそうです。道兼は藤原氏摂関政治の全盛時代を築いた道長の兄に当たるそうです。室町後期には13代・留守持家のときに伊達持宗によって乗っ取られてしまい、持宗の次男・郡宗が留守家14代を相続したそうです。それ以来、代々伊達氏から入嗣が行われていたそうです。留守家17代を相続した政景(伊達政宗の叔父)のときに、古くからの留守氏の一族だった村岡氏が挙兵して、滅ぼされてしまったそうです。政景は利府城を改修すると、後に隠居して一ノ関城に移り住むまで20年間政宗の重臣として活躍をしていたそうです。

18ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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