二条城
京都市

慶長8年(1603年/関ヶ原の戦いのあった年)に徳川家康の命により、京都における拠点および将軍上洛時の宿舎として造営され、徳川家光の時に増築されて現在の姿になりました。徳川家康と豊臣秀頼との会見、大坂の陣での参謀本部、慶応3年(1867年)での徳川慶喜による大政奉還は二条城で行なわれました。本丸御殿は京都御所内にあった旧桂宮御所を移したもので、大正天皇の即位礼にも利用されました。豪華絢爛な桃山時代の建築と内装は目をみはるものがあります。余談ですが、織田信長が足利義昭のために築いたという二条城(上京区椹木町室町)は別の場所にありました。二条城は家族旅行や修学旅行を通じて行きましたが、何度行っても本当に素晴らしいです。

二条陣屋
京都市
江戸初期の豪商・萬屋平右衛門の邸宅で、京都に屋敷を持たない大名の上洛中の宿泊所として利用されていました。平右衛門は豊臣秀吉の家臣だった小川祐忠(関ヶ原では小早川秀秋と共に西軍を裏切った武将で、徳川家康の命令で改易されてしまいました)の子・祐滋が改名して商人として身を起したといわれています。しかし、大和国の小川郷にある豪族・小川氏の末裔だという異説もあって定かではありません。写真の邸宅は数寄屋造り&書院造りを折衷した特異な町家建築で、主屋と土蔵の2棟が国の重要文化財に指定されています。そこから二条城の天守台の石垣が見えました。
勝竜寺城
長岡京市

勝竜城の築城者と築城時期には諸説があるそうです。戦国時代には織田信長から細川藤孝(忠興の父)が勝竜城を与えられたそうです。この城で忠興のもとにお玉(明智光秀の娘で、後のガラシャ)が嫁いだ城だそうで、忠興とお玉の像が城内にありました。細川氏の城になって11年後に起きた山崎の合戦では、光秀の陣地が一時的に置かれたこともありました。その後、淀城の築城に石材が転用されるなどして荒廃してしまったそうです。平成4年に勝竜寺城公園として整備されたのですが、当時とは全く関係の無い新しく造られた土塁と石垣の上に、お城風の建物が建てられてしまいました。新しくなってしまった勝竜城ですが、周囲にある山々は昔とは変わっていないので、「ここで忠興とお玉が一緒になったんだなあ〜」と思うと、戦国のロマンに浸ることが出来ました。

淀城
京都市
淀城は2つ(2ヶ所)あったそうです。1つ目は豊臣秀吉が茶々のために築いた淀城で、淀城に住んだ茶々は淀殿(淀君というのは江戸時代に広められた侮辱呼称であり、正しくは淀殿と呼びます)と呼ばれるようになりました。2つ目は徳川幕府が新たに築いた淀城で、近代城郭として現在の姿になったそうです。慶応4年に起きた後鳥羽・伏見の戦いでは、城主の稲葉正邦は老中であったのに薩長軍に寝返ったため、怒った幕府軍によって落城し、城下町を焼かれたそうです。淀城は勝竜寺城から歩いて行きました。1時間もかけて着いたときは外が薄暗くなってしまいましたが、見学には余り時間がかからなかったです。天守台石垣の目の前にある京阪線淀駅で切符を買って10分後に電車が入ってきたので、辺りが真っ暗になって見えなくなった淀城を後にしました。
伏見桃山城
京都市

伏見城は3つ(3ヶ所)あったそうです。1つ目は室町時代に三淵藤英(細川幽斎の)が構えた伏見城がありました。2つ目は豊臣秀吉が指月山に築いた伏見城で、4年後に起きた地震で崩壊してしまいました。3つ目は同じく秀吉によって木幡山に再建された伏見城(現在は伏見桃山城キャッスルランドと、明治天皇の桃山御陵に変貌)で、秀吉が息を引き取った城となりました。大坂の夏の陣で豊臣秀頼が滅ぶと、伏見城の役割は徳川氏が再建した大坂城に移り、徳川幕府によって取り壊されてしまいました。不要になった沢山の建物は全国各地にある城や寺院などに移築され、それを偲ぶことが出来ます。伏見城は中学の修学旅行のときの走るバスの窓から眺めただけなので写真は無く、お土産の伏見城キーホールダーを撮りました。

5ケ所を紹介しています。 (^^)/

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