細川勝久邸
京都市・上京区
=作成中=
対馬藩邸
京都市・中京区
=作成中=
佐賀藩邸
京都市・下京区
=作成中=
平清盛屋敷
京都市・東山区
=作成中=
平頼盛屋敷
京都市・東山区
=作成中=
平教盛屋敷
京都市・東山区
=作成中=
平重盛屋敷
京都市・東山区
=作成中=
松代藩邸
京都市・東山区
=作成中=
聚楽第
京都市・上京区
=作成中=
旧二条城
京都市・上京区
=作成中=
上杉景勝邸
京都市・上京区
=作成中=
黒田如水邸
京都市・上京区
=作成中=
唐津藩邸
京都市・上京区
=作成中=
水戸藩邸
京都市・上京区
=作成中=
柳川藩邸
京都市・上京区
=作成中=
薩摩藩邸
京都市・上京区
=作成中=
山名宗全邸
京都市・上京区
=作成中=
足利義輝邸
京都市・上京区
=作成中=
足利室町第
京都市・上京区
=作成中=
藤原基家邸
京都市・上京区
=作成中=
足利義満邸
京都市・上京区
=作成中=
足利義満別邸
京都市・上京区
=作成中=
菅原是喜邸
京都市・上京区
=作成中=
京都守護職邸
京都市・上京区
=作成中=
京都所司代
京都市・上京区
=作成中=
織田&加藤邸
京都市・中京区
=作成中=
足利尊氏邸
京都市・中京区
=作成中=
二条良基邸
京都市・中京区
=作成中=
源高明邸
京都市・中京区
=作成中=
在原業平邸
京都市・中京区
=作成中=
東町奉行所
京都市・中京区
=作成中=
西町奉行所
京都市・中京区
=作成中=
福井藩邸
京都市・中京区
=作成中=
小浜藩邸
京都市・中京区
=作成中=
津藩邸
京都市・中京区
=作成中=
源高房邸
京都市・中京区
=作成中=
藤原兼家邸
京都市・中京区
=作成中=
藤原定家邸
京都市・中京区
=作成中=
妙顕寺城
京都市・中京区
=作成中=
土井利勝邸
京都市・中京区
=作成中=
長州藩邸
京都市・中京区
=作成中=
金沢藩邸
京都市・中京区
=作成中=
彦根藩邸
京都市・中京区
=作成中=
土佐藩邸
京都市・中京区
=作成中=
六波羅探題
京都市・東山区
=作成中=
北政所御殿
京都市・東山区
=作成中=
佐藤氏屋敷
京都市・東山区
=作成中=
白河南殿
京都市・左京区
=作成中=
菅原道真邸
京都市・下京区
=作成中=
亀山藩邸
京都市・下京区
=作成中=
熊本藩邸
京都市・下京区
=作成中=
船岡山城
京都市・北区
=作成中=
伏見城
京都市・伏見区

伏見城は3つ(3ヶ所)あったそうです。1つ目は室町時代に三淵藤英(細川藤孝)が構えた伏見城がありました。2つ目は豊臣秀吉が指月山に築いた伏見城で、4年後に起きた地震で崩壊してしまいました。3つ目は同じく秀吉によって木幡山に再建された伏見城(現在は伏見桃山城キャッスルランド跡と、明治天皇の桃山御陵に変貌)で、秀吉が息を引き取った城となりました。大坂の夏の陣で豊臣秀頼が滅ぶと、伏見城の役割は徳川氏が再建した大坂城に移り、徳川幕府によって取り壊されてしまいました。不要になった沢山の建物は全国各地にある城や寺院などに移築され、それを偲ぶことが出来ます。写真は伏見桃山城キャッスルランド跡にあった伏見城の模擬天守閣で、見た目以上に大きな建物でした。閉館されてから年数が経っており、どこか寂しそうでした。

前田利家邸
京都市・伏見区

戦国時代に豊臣秀吉の伏見城が築かれた際、前田利家の邸宅があった場所だそうです。この周辺は桃山町松平筑前が地名として残っていました。秀吉が関白になって伏見城に入城した際、伏見邸に居た利家は筑前守・左近衛権少将に任官されていたことから付いた地名です。その頃の利家は多忙を極め、後に小田原の陣では北国勢の総指揮官として関東に出兵したり、聚楽第行幸に参列したり、朝鮮出兵の準備をしたりしていました。あまりにも忙しくて、伏見に滞在していた期間は短かったといわれています。写真は利家の邸宅があったと云われている場所にあった松平筑前公園で、公園の前は桃山御陵参道が通っていて、沢山の車が通過していました。

島津義弘邸
京都市・伏見区

戦国時代に豊臣秀吉の伏見城が築かれた際、島津義弘の邸宅があった場所だそうです。この周辺は桃山島津が地名として残っていました。今までは古地図から島津右馬頭の記述があったことから、島津以久(義弘の甥)の邸宅があったと云われていましたが、去年の10月に行なわれた発掘で金箔瓦が出てきたことから、島津氏本家の邸宅跡だったと断定されました。伏見城の周囲は金箔瓦を押した豪華な武家屋敷が建ち並んでいたのでしょうか。写真は義弘の邸宅があったと云われている場所にあった桃山島津児童公園で、周囲は静かな住宅街に埋もれていて面影は何もありませんでした。

福島正則邸
京都市・伏見区

戦国時代に豊臣秀吉の伏見城が築かれた際、福島正則の邸宅があった場所だそうです。この周辺は桃山福島太夫が地名として残っていました。秀吉が関白になって伏見城に入城した際、伏見邸に居た正則は左衛門大夫という官職を名乗っていたことから付いた地名です。余談ですが、秀吉の死後に正則や加藤清正らの7名による武闘派集団が石田三成を襲った事件は、正則の伏見にある邸宅からだったそうです。襲われた三成は徳川家康の邸宅に逃げ込み、仲裁に乗り出した家康によって和談が成立したものの、それが後の関ヶ原の戦いを左右しました。写真は正則の邸宅があったと云われている場所にあった福島児童公園で、呉竹総合支援学校の向かいにありました。

南部信直邸
京都市・伏見区

戦国時代に豊臣秀吉の伏見城が築かれた際、南部信直の邸宅があった場所だそうです。この周辺は南部町が地名として残っていました。信直は南部家の26代当主で、中興の祖といわれた人物です。豊臣政権下では伏見城御用材の調達や朝鮮出兵への軍馬の供用など忙しかったと思われます。なお、信直の妻子は伏見にある邸宅に人質として過ごしていました。写真は信直の邸宅があったと云われている場所にあった南部児童公園で、周囲はマンションが建ち並んでいて面影はありませんでした。

金森長近邸
京都市・伏見区

戦国時代に豊臣秀吉の伏見城が築かれた際、金森長近の邸宅があった場所だそうです。この周辺は桃山町金森出雲が地名として残っていました。長近は美濃国の名門・土岐氏の支族で織田信長の重臣として仕えていましたが、禅宗と茶道に造詣が深かったことから、豊臣政権下では御伽衆として秀吉を支えていました。千利休の事件では、長男の千道安は長近の邸宅に謹慎を命じられたことがありました。江戸時代になっても伏見にある邸宅は残っていたらしく、そこで長近は病死したそうです。写真は長近の邸宅があったと云われている場所にあった金森出雲児童公園で、近くには御香宮という大きなお宮がありました。

浅野長政邸
京都市・伏見区

戦国時代に豊臣秀吉の伏見城が築かれた際、浅野長政の邸宅があった場所だそうです。この周辺は桃山羽柴長吉が地名として残っていました。長吉というのは長政の初名で、おね(秀吉の正室)の一族として、五奉行の筆頭として、豊臣政権を支えていた官僚です。五大老の筆頭をしていた前田利家の邸宅跡とは隣接していました。おそらく大きな御殿が建ち並んでいたと思われます。写真は長政の邸宅があったと云われている場所にあった羽柴児童公園で、周囲は静かな住宅街で面影は何もありませんでした。

伏見奉行所
京都市・伏見区
=作成中=
薩摩藩屋敷
京都市・伏見区
=作成中=
長州藩屋敷
京都市・伏見区
=作成中=
土佐藩屋敷
京都市・伏見区
=作成中=
二条城
京都市・中京区

慶長8年(1603年/関ヶ原の戦いのあった年)に徳川家康の命により、京都における拠点および将軍上洛時の宿舎として造営され、徳川家光の時に増築されて現在の姿になりました。徳川家康と豊臣秀頼との会見、大坂の陣での参謀本部、慶応3年(1867年)での徳川慶喜による大政奉還は二条城で行なわれました。本丸御殿は京都御所内にあった旧桂宮御所を移したもので、大正天皇の即位礼にも利用されました。豪華絢爛な桃山時代の建築と内装は目をみはるものがあります。余談ですが、織田信長が足利義昭のために築いたという二条城(上京区椹木町室町)は別の場所にありました。二条城は家族旅行や修学旅行を通じて行きましたが、何度行っても本当に素晴らしいです。

二条陣屋
京都市・中京区
江戸初期の豪商・萬屋平右衛門の邸宅で、京都に屋敷を持たない大名の上洛中の宿泊所として利用されていました。平右衛門は豊臣秀吉の家臣だった小川祐忠(関ヶ原では小早川秀秋と共に西軍を裏切った武将で、徳川家康の命令で改易されてしまいました)の子・祐滋が改名して商人として身を起したといわれています。しかし、大和国の小川郷にある豪族・小川氏の末裔だという異説もあって定かではありません。写真の邸宅は数寄屋造り&書院造りを折衷した特異な町家建築で、主屋と土蔵の2棟が国の重要文化財に指定されています。そこから二条城の天守台の石垣が見えました。
勝竜寺城
長岡京市

勝竜城の築城者と築城時期には諸説があるそうです。戦国時代には織田信長から細川藤孝(忠興の父)が勝竜城を与えられたそうです。この城で忠興のもとにお玉(明智光秀の娘で、後のガラシャ)が嫁いだ城だそうで、忠興とお玉の像が城内にありました。細川氏の城になって11年後に起きた山崎の合戦では、光秀の陣地が一時的に置かれたこともありました。その後、淀城の築城に石材が転用されるなどして荒廃してしまったそうです。平成4年に勝竜寺城公園として整備されたのですが、当時とは全く関係の無い新しく造られた土塁と石垣の上に、お城風の建物が建てられてしまいました。新しくなってしまった勝竜城ですが、周囲にある山々は昔とは変わっていないので、「ここで忠興とお玉が一緒になったんだなあ〜」と思うと、戦国のロマンに浸ることが出来ました。

淀城
京都市
淀城は2つ(2ヶ所)あったそうです。1つ目は豊臣秀吉が茶々のために築いた淀城で、淀城に住んだ茶々は淀殿(淀君というのは江戸時代に広められた侮辱呼称であり、正しくは淀殿と呼びます)と呼ばれるようになりました。2つ目は徳川幕府が新たに築いた淀城で、近代城郭として現在の姿になったそうです。慶応4年に起きた後鳥羽・伏見の戦いでは、城主の稲葉正邦は老中であったのに薩長軍に寝返ったため、怒った幕府軍によって落城し、城下町を焼かれたそうです。淀城は勝竜寺城から歩いて行きました。1時間もかけて着いたときは外が薄暗くなってしまいましたが、見学には余り時間がかからなかったです。天守台石垣の目の前にある京阪線淀駅で切符を買って10分後に電車が入ってきたので、辺りが真っ暗になって見えなくなった淀城を後にしました。

67ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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