熊本城
熊本市
熊本城は加藤清正が築いた城として有名なので、由来を書くのは省略します。明治10年に起きた西南戦争で、天守閣をはじめとする大部分の建物を焼失したといわれていますが、それは現存している多数の古写真で間違いであることはあまり知られていません。熊本城は高校の修学旅行(1987年3月)のときに寄るはずでしたが、天候不順と道路渋滞によって寄る時間が無くなってしまったために中止になってしまい、夕食の時に夜のライトアップで浮かび上がった大天守閣をホテルの窓越しに見ただけでした。この日は22年振りに見た熊本城で、それも自分の誕生日に念願の訪城を果たすことが出来ました。一番好きな城でもあるので、熊本城内を隅々までじっくり散策しました。
隈本古城
熊本市
明応5年(1496年)に大友一族・鹿子木親員が茶臼山の西南麓に築いたのがはじまりです。ここでは「隈本古城」として説明します。戦国時代(天文19年)には竜造寺氏と島津氏と菊池氏との戦乱を制した大友宗麟の家臣・城親冬が入城したことがあります。天正15年(1587年)に豊臣秀吉による九州平定により肥後国を与えられた佐々成政(織田信長の旧臣)が入城したものの、領内で起きた一揆に対する内政失敗を責められて切腹してしまいました。翌年に肥後国は北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に分け与えられることになりました。隈本に入った清正は呼称を熊本に改めると、茶臼山に巨大な新城を築きました。隈本古城は熊本城の二ノ丸の一部として組み込まれました。写真は古城堀端公園(隈本古城跡)にあったモニュメントです。
千葉城
熊本市
応仁3年(1470年)に菊池一族・出田秀信が茶臼山の東端に築いたのがはじまりです。明応5年(1496年)に大友一族・鹿子木親員が茶臼山の西南麓に新城(隈本古城)を築いて移ると、千葉城は廃城になりました。寛永17年(1640年)に熊本藩主・細川忠利に招かれて客分として入った宮本武蔵の屋敷があった場所です。武蔵は同じ客分である足利義辰(室町将軍・足利義輝の子)と共に、家老と同じ待遇を得ていました。写真は由来の入った千葉城跡の石碑で、NHK千葉放送局の入口にありました。そこから坪井川のほうに下りると千葉城址公園がありました。そこから見上げると、見事な石垣の上に東十八間櫓と北十八間櫓と五間櫓が連なって見えました。
宇土城
宇土市
豊臣秀吉の九州平定の翌年に、肥後南半国を与えられた小西行長が築いたのが始まりです。関ヶ原の戦いでは、行長は西軍として石田三成と共に美濃に居たので、熊本城の加藤清正の軍勢によって城主不在の宇土城が落城したそうです。戦後処理で行長の旧領を清正が領すると、清正の隠居城として修復されました。一国一城令で廃城となり、20年後に起きた島原の乱後は宇土城を含む島原・天草の諸城は幕府により徹底的に破壊されてしまいました。2004年に古文書などを扱う入札会で、宇土城の落城について書かれた古文書が見つかったそうです。清正が家臣宛に出した書状で「慶長510月13日に宇土城が落城し、14日に接収した」という内容だそうです。写真は宇土城の本丸跡にあった行長の銅像で十字架のペンダントが首にかかっていました。
宇土古城
宇土市
南北朝時代に菊池一族・宇土為光がこの地に城を築いたのがはじまりだそうです。ここでは宇土氏の宇土城を「宇土古城」として説明します。守護の地位を狙った為光は、宗家・菊池重朝(為光の甥)の隈府城を襲撃したものの、逆襲にあって宇土古城を捨てて逃亡してしまいました。後に宇土古城を取り返した為光は、再び宗家・菊池能運(重朝の子)隈府城を襲撃して陥落させると守護を手中に入れました。3年後に周囲の支族の支持を得た能運は、2万の大軍を引き連れて為光を撃ち破ると、為光とその一族の全てを処刑してしまいました。その後は名和氏が代々居城していたものの、戦国時代に小西行長が入封すると、追放されてしまいました。まもなくして行長は東側に大規模な新城を築くと、宇土古城は廃城になりました。写真は宇土古城にあった模擬の城門と柵です。
宇土陣屋
宇土市
正保3年(1646年/徳川家光の時代)に宇土郡を拝領した細川行孝(忠興の4男)が宇土城下に宇土藩を興して陣屋を構えたのがはじまりです。8年前の寛永14年(1637年)に起きた島原の乱で反乱一揆軍が原城のような立て篭もりを未然に防ぐために、九州北部にある城跡の破却の一環として宇土城が破却されてしまったので、轟水路による上水道の設置が発達している旧城下町の中心部に陣屋を置いたそうです。宇土陣屋は224年間、細川氏11代の藩政庁として明治まで続きました。写真は宇土陣屋内にあった藩校・温知館があった場所に設置されていた標柱と説明板です。観光パンフレットには宇土陣屋跡の記載があるのだから、同じように設置して欲しかったなと思いました。
轟御殿
宇土市
文久2年(1862年)に宇土藩の11代藩主・細川立則の隠居所として轟水源という湧き水の直ぐ裏に造営したのがはじまりだそうです。御殿跡は泰雲寺跡でもあり、歴代藩主の墓が立ち並んでいました。余談ですが、江戸時代の宇土は海に近かったので水質が悪く、初代藩主・細川行孝(細川忠興の孫)の命令で元禄3年(1690年)に轟水源から上水道を引いて領民の飲用水として人々の生活を潤したそうです。そういう歴史背景もあって轟水源は日本名水百選にも選定されています。
隈庄城
城南町
室町時代に菊池一族・甲斐氏の居城があった場所です。肥後国における交通の要衝だったので、大友氏による侵略と島津氏による侵略を受けるなど、隈庄城を舞台にした攻防戦が長い間繰り広げられてきました。豊臣秀吉による九州征伐の時に、撤退する島津軍を追って南下中の秀吉が宿泊した事もあります。翌年に肥後国の南半分を拝領した小西行長が宇土城に入城すると、隈庄城には行長の庶兄・主殿介が入城しました。文禄の役では宗義智(行長の娘婿)と共に朝鮮の梁山城の攻略で活躍をしたものの、慶長の役による撤退戦では行長を無事に逃がすために兵500名で殿を務めて戦死してしまいました。写真は隈庄幼稚園の裏にある城山にあった説明板です。本丸跡に立っていると城内に駐屯している数十万という規模の秀吉本隊の兵馬と軍旗が、目に浮かんできました。

8ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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