潮田氏館
横浜市・鶴見区

戦国時代にこの地域を支配していた潮田光永の居館があった場所だそうです。光永は小田原城の北条氏に仕えていた武将で、小机衆を従えていました。入野氏は入野俊氏(今川氏を興した今川国氏の3男)を先祖に持つ名門の出で、宗家は今川氏の一門衆の一人として浜松の地域を支配していました。写真はJR鶴見駅から20分かけて歩いた所にあった曹洞宗・光永寺で、この地域を支配していた光永の名前を寺名にしていました。

磯部城
相模原市

室町時代に関東管領・上杉憲法忠に仕えていた父・長尾景信を殺された長尾景春が法忠を暗殺して鎌倉公方・足利持氏に寝返ったことで起きた乱で、景春に付いた金子掃部助が居城・小沢城の支城として磯部城を築いたのが始まりです。しかし、関東管領に付いた太田道灌によって落城してしまいました。この戦いで景春に付いた豊島泰経の小机城も落城しています。磯部城は相模川に沿って築かれた城で、写真の「上磯部の土塁」と書かれた案内板が設置されていました。中心的な郭があった場所は能徳寺(曹洞宗)や御嶽神社の一帯であろうと云われています。

座間城
座間市

室町時代に座間七村の地頭を務め、座間七騎に数えられた白井是房の居館があった場所です。座間城と紹介されているホームページが多いのですが、正確には是房の居館、もしくは屋敷ではないかと思われます。写真は座間城があったと伝わる場所にあった石碑「開基白井織部是房氏之舊跡」で、「星の谷観音坂下」交差点にありました。余談ですが、そこから数分坂を登った所に是房が開祖の星谷寺(真言宗)があり、そこは北条氏照(氏康の次男)がこの地域を攻略した際に置いたという陣地跡だったそうです。

北条氏照陣
座間市

戦国時代にこの地域を侵攻していた北条氏照(氏康の次男)が置いた陣地があった場所です。星谷城と紹介されているホームページが多いのですが、正確には氏照の臨時の陣地だったのではないかと思われます。写真は座間城を攻撃する際に氏照が本陣を置いたと伝わっている星谷寺(曹洞宗)の本堂です。そこから数分坂を降りた所に地頭職を務めていた白井是房の居館跡だったと伝わる場所があり、「開基白井織部是房氏之舊跡」と彫られた石碑がありました。余談ですが、自民党広報版が設置した衆議院議員・甘利明氏の看板設置されていました。彼の先祖は武田二十四将の一人に数えられた甘利虎康の嫡男・甘利昌忠の末裔に当たります。昌忠は飯富虎昌(山県昌景の兄)に可愛がられたので、武田家では赤備え軍団を引き連れて活躍した優秀な侍大将でした。

海老名氏館
海老名市
この地域を治めていた海老名氏の館があった場所です。海老名氏は武蔵七党の1つ・横山党の流れを組む名門で、横山秀兼(源有鹿の養子)が海老名氏を名乗ったのがはじまりです。秀兼の息子・秀定は源氏方の御家人として一之谷合戦や壇ノ浦合戦で活躍ました。室町時代には永享の乱(鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実が対立した戦い)で鎌倉公方・足利基氏(尊氏の4男)に従った為に、足利義教(室町幕府の4代将軍)に滅ぼされてしまいました。写真は海老名氏の館跡にあった宝篋印塔で、住宅街の入口には「海老名氏墳墓入口」と彫られた石柱が建てられていました。由来板には海老名氏の菩提寺・宝樹寺があった場所である事が書かれていました。余談ですが、海老名氏を名乗った秀兼の父・有鹿の名前を取った有鹿神社と有鹿小学校が近くにありました。
衣笠城
横須賀市
=作成中=
新井城
三浦市
=作成中=
三崎城
三浦市
=作成中=
富士山砦
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に石垣山城を築いた際、この地に細川細川幽斎と忠興の陣が置かれました。元々は小田原城の東西の守りを固めるために、北条氏によって標高110メートルの小山に砦が築かれましたが、伊豆国にある北条氏の属城・韮山城を攻撃していた細川軍が陣を解いて小田原に到着した際、秀吉の命令によって3千を超える軍勢によって占領しました。この日は友達と小田原城の御土居を一周しながら巡っている最中、三の丸外郭から眺めた富士山砦があった小山を撮影した時の写真です

花岳城
小田原市

応仁年間(室町10代将軍・足利義稙の時代)に相模国足柄下郡に所領を与えられた大森頼春が駿河国から移ってきた際、居城として初期の小田原城が築かれたのがはじまりです。玄孫に当たる大森藤頼が城主の時に、伊豆国から勢力を拡大して来た北条早雲によって小田原城を奪われてしまいました。北条氏によって小田原城は拡大され、花岳城跡には城源寺が建てられました。余談ですが、小田原城を追われた大森一族は後に北条家に仕えるようになりました。北条家が滅亡した後は幕府の旗本となって続いています。写真は城源寺(浄土宗)の参道沿いに造られた花畑にあった花岳城の由来碑で、最初見当たらなかったときに城源寺で庭仕事をしていた住職の奥様に訊ねたところ、作業を止めて由来碑まで連れて行っていただきました。どうもありがとうございました。

加瀬城
川崎市・幸区

鎌倉時代に加瀬資親が築いたのがはじまりだそうです。加瀬城は西には矢上川、東には鶴見川を天然の水堀として利用した城です。室町時代には太田道灌が鎌倉街道を抑えるのを目的として築城を計画しましたが、ある日鷲が自分の兜をくわえて城の南の丘に落とすという夢を見たことで、加瀬城の再利用を断念して江戸城を築いたという伝説があることから、加瀬城跡は夢見ヶ崎動物公園と名づけられました。公園の入口には了源寺(日蓮宗)があり、赤穂浪士への協力者だった軽部五兵衛の墓がありました。五兵衛は平間村の豪農で村年寄役を務めていた人物で、浅野邸と吉良邸に自由に出入りが出来た人物です。赤穂浪士による討ち入りがあった際に吉良邸の情報を漏らす間者として働いた卑怯者でした。写真は夢見ヶ崎動物公園にあった由来板です。

矢上城
横浜市・港北区

戦国時代にこの地を支配していた中田氏の居城があった場所です。中田氏は小田原城の北条氏に仕える小机衆の一人です。鶴見川と矢上川に挟まれた丘陵の上に築かれた城でした。写真は「保福寺開基 中田加賀守累代墳墓之地」と刻まれた石碑で、慶應義塾高校アーチェリー場の入口にありました。近くには中田氏の菩提寺である保福禅寺(曹洞宗)がありました。

磯子城
横浜市・磯子区

この地を支配していた平子氏が平子郷に居城を築いたのがはじまりだそうです。平子氏は坂東平氏・三浦氏の一族の流れを組む名門です。鎌倉時代は平子有長が城主で、弟の経長は石川氏を名乗るようになりました。平子氏は関東公方・足利氏や扇谷上杉氏に仕えることで栄え、石川氏は越後国の上杉氏に仕えることで栄えていきました。戦国時代は平子房長が当主で、小田原城の北条氏綱(北条早雲の嫡男)の力が及ぶようになると家中は分裂し、北条氏の家臣になる者と、分家の石川氏が仕えている上杉氏の家臣になる者に分かれてしまいました。写真は磯子城があったことを示す上屋敷という地名にあった真言宗・真照寺(磯子七福神)で、正門の前に磯子城と真照寺の沿革が書かれていました。

篠原城
横浜市・港北区

戦国時代に小田原城の北条氏の命によって家臣の金子出雲守が築いたのがはじまりで、小机城の支城として機能していました。金子氏武蔵七党・村山党の金子家忠を先祖に持つ家柄です。北条氏が滅亡した後は、江戸時代を通して代官を務めました。篠原城は2011年に行なわれた発掘で、5m程の深さを持つ空堀をはじめ、本丸の土塁や土橋、虎口などの遺構が確認されましたが、住宅地の開発によって飲み込まれてしまいました。写真はJR新横浜駅から歩いて約10分歩いた所にある曹洞宗・正覚の背後にある台地にあった篠原城の由来板です。

和田氏館
鎌倉市

鎌倉御家人・和田義盛の居館(屋敷)のあった場所だそうです。義盛は坂東八平氏の流れをくむ三浦氏の一族です。義盛は坂東八平氏の流れをくむ三浦氏の一族です。源頼朝に信頼されていた鎌倉武士で、鎌倉幕府の創立時は初代侍所別当を務めていました。北条氏による武家政権の確立と執権政治確立を狙っていた二代目執権・北条義時の挑発によって、挙兵に追い込まれた義盛は鎌倉で市街戦を展開しました。鶴岡八幡宮の付近にあった居館を放火された義盛は、由比ガ浜にある居館に撤退して和田軍を挙げて抵抗しましたが、ここで義盛や義盛の一族は滅ぼされてしまいました。写真は和田塚の上に「和田一族戦没地」と記された石碑で、かつては義盛の居館があった場所です。お袋と鎌倉に行ったときに寄り道したのですが、お袋は懐かしそうに石碑を見ていました。

鎌倉景正館
鎌倉市

鎌倉御家人・鎌倉景正の居館(屋敷)のあった場所だそうです。景正は坂東八平氏の流れをくむ名門です。景正は源義家に従って奥州征伐に赴き、目に傷を受けて知行地だった下総の目吹城に戻って治療をしたという話が残っています。写真は景正の居館跡に建てられた御霊神社にあった景正公弓立の松です。御霊神社は関東平氏五家の始祖(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏)の霊を祀った神社です。

四条頼基館
鎌倉市

鎌倉幕府の御家人・四条頼基の居館があった場所です。頼基は父・四条頼員の代から北条一族・名越朝時(北条政子の甥)の執事を務めていました。日蓮が腰越龍ノ口刑場にて処刑されそうになり、処刑を中止にさせたのは日蓮宗の熱烈な信者だった頼基によるものだったそうです。写真は頼基の居館跡にある収玄寺(日蓮宗)に建てられていた大きな石碑「四条金吾邸址」です。

宿谷光則館
鎌倉市
鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の側近・宿谷光則の居館(屋敷)のあった場所だそうです。妙法蓮華経で有名な日蓮が、立正安国論を時頼あてに送り、地震・洪水・飢饉・疫病が続くのは鎌倉幕府にあると非難しました。時頼の怒りを買った日蓮は弟子の日郎と共に光則の居館の裏山にある土牢に幽閉されてしまいました。腰越龍ノ口刑場で処刑されかけた日蓮は落雷によって命拾いをし、佐渡に流されてしまいました。佐渡に流された日蓮と土牢に入れられた日郎が手紙のやり取りをしたという「土の牢御書」という話が残っていて、その影響を受けた光則は日蓮宗の信者となり、しばらくして放免されて鎌倉に戻った日蓮と日郎を迎えると、自分の屋敷を提供して光則寺に改築してしまったそうです。写真は3年振りに訪れた光則寺(日蓮宗)の門の手前にあった石碑です。
石垣山一夜城
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に城を築いたのがはじまりだそうです。2ケ月の突貫工事で石垣だけでなく三層の天守閣まで築かれた本格的な築城だったそうです。頃を見計らって周囲の木を切り倒したので一夜で城が出現したように見せかけたことから、世にいう‘一夜城’と呼ばれるようになりました。秀吉のパフォーマンスによって小田原城の北条軍は一気に戦意を失ってしまったそうです。石垣山城は大正時代の関東大震災では地震源に近かったため、ほとんどの石垣が崩れてしまいましたが、それでも規模の大きさは凄いものがありました。近年の発掘調査では大量の瓦が出土したので、天守閣まであったという通説が立証されました。本丸跡からは小田原城が良く見えたので、高笑いをしている秀吉の姿が目に浮かんできました。

堀秀政陣
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に石垣山城を築いた際、海蔵寺(曹洞宗)の敷地内に堀秀政の陣が置かれたのがはじまりだそうです。石垣山城が2ケ月の突貫工事で完成した頃に、秀政の陣もやや遅れて完成し、3千名を超える秀政の軍勢が駐屯しました。父親は斎藤道三に仕えていた堀秀重で、秀政は織田信長と秀吉に仕えていました。秀吉から「天下の三陪臣(直江兼続、小早川隆景、秀政」と言わせるほど優秀な人物でした。写真はJR早川駅から石垣山一夜城歴史公園へ向かう途中にある太閤通り沿いにあった秀政陣の説明板です。秀政は疫病にかかり、わずか38歳の若さで陣中没してしまったので、海蔵寺に葬られました。秀政陣の説明板から少し下に300メートルほど降りた所にある海蔵寺の墓地園に秀政の墓がありました。

伊達政宗陣
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に石垣山城を築いた際、この地に伊達政宗の陣が築かれたのがはじまりだそうです。小田原城攻めの3年前の天正15年に政宗に対して惣無事令(私戦禁止令)を発令していますが、政宗は無視して約2年間も戦いを続けていました。秀吉が天正18年4月5日に箱根湯本にある早雲寺に一時的に陣を構えても政宗は催促を無視して出てきませんでした。5月に入って秀吉の側近・浅野長政から催促を受けるとやっと出立して小田原へ向かいました。6月9日に政宗は秀吉に謁見を果たしたのですが、遅参したにもかかわらず伊達家の本領72万石のみ安堵されました写真はJR早川駅から石垣山一夜城歴史公園へ向かう途中にある太閤通り沿いにあった政宗陣の説明板です。

宇喜多秀家陣
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に石垣山城を築いた際、この地に宇喜多秀家の陣が築かれたのがはじまりだそうです。石垣山城が2ケ月の突貫工事で完成した頃に、秀家の陣もやや遅れて完成し、1千名を超える秀家の軍勢が駐屯しました。秀家は水軍まで引き連れて相模湾を1千1百の軍勢で包囲しています。小田原城に籠城していた岩槻城主・北条氏房(5代目・北条氏直の異母弟)が蒲生氏郷の軍勢に夜襲をかけるなど北条側では唯一の攻勢をしたので、秀家が氏房に酒を贈って籠城の苦労を慰め、氏房から秀家に伊豆の酒・江川酒を返礼として贈られてきたという話が残っています。写真はJR早川駅から石垣山一夜城歴史公園へ向かう途中にある太閤通り沿いにあった秀家陣の説明板です。

徳川家康陣
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に石垣山城を築いた際、この地に徳川家康の陣が築かれたのがはじまりだそうです。石垣山城が2ケ月の突貫工事で完成した頃に、家康の陣もやや遅れて完成し、2万名を超える家康の軍勢が駐屯しました。内心滅ぼしておきたいと思う相手だった秀吉が動員した20万名を大軍が小田原城を囲む様子を見て、家康はまだ時期ではないと思い知らされたのではないだろうか。写真はJR早川駅から石垣山一夜城歴史公園へ向かう途中にある太閤通り沿いにあった家康陣の説明板です。

豊臣秀次陣
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に石垣山城を築いた際、この地に豊臣秀次(秀吉の甥)の陣が築かれたのがはじまりだそうです。石垣山城が2ケ月の突貫工事で完成した頃に、秀次の陣もやや遅れて完成し、1万5千名を超える秀次の軍勢が駐屯しました。小田原へ参陣する前は、豊臣方の副将として小田原への玄関口に当たる山中城を半日で陥落させるなどの活躍をしました。写真はJR早川駅から石垣山一夜城歴史公園へ向かう途中にある太閤通り沿いにあった秀次陣の説明板です。そこからは小田原城と市街地、そして相模の海がよく見えました。

淀殿陣
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に石垣山城を築いた際、この地に秀吉の側室・淀殿の陣が築かれたのがはじまりだそうです。石垣山城が2ケ月の突貫工事で完成した頃に、淀殿の陣も同時に完成したと思われます。淀殿が小田原に来たのは24歳の時でした。夫・秀吉が動員した大軍が小田原城を囲む様子を見て、どう感じたのだろうか。写真はJR早川駅から石垣山一夜城歴史公園へ向かう途中にある太閤通り沿いにあった淀殿陣の説明板です。

豊臣秀吉陣
小田原市

天正18年に豊臣秀吉が小田原城攻めで笠懸山に石垣山城を築いた際、大手口を少し下った広い平地部分に広大な豊臣秀吉の陣が築かれたのがはじまりだそうです。石垣山城が2ケ月の突貫工事で完成した頃に、秀吉の陣も同時に完成し、8千名を超える秀吉の旗本の軍勢が駐屯しました。秀吉自身が動員した20万を超える大軍が小田原城を取り囲む様子を、どんな気持ちで眺めたのだろうか。写真はJR早川駅から石垣山一夜城歴史公園へ向かう途中にある太閤通り沿いにあった秀吉陣の説明板です。小田原城を眺めながら秀吉が徳川家康と連れ小便をしたという話は、この陣地での話だそうです。

小田原城
小田原市

室町時代に伊勢早雲は鹿追いと称して大軍を引き連れ大森藤頼から小田原城を騙し取って以来、関東に勢力を誇った北条5代の居城として栄えました。現在見られる小田原城の姿は徳川家康の家臣・大久保忠世が入城して整備された時のもので、北条時代とは違います。以後、大久保氏、阿部氏、稲葉氏が藩主となりました。歴代藩主には老中を4名、大阪城代を1名、京都所司代を1名それぞれ輩出しています。4代目の藩主になった稲葉正勝は徳川家光の乳母・春日局の子供で、老中まで出世したので親の七光りです。写真は小田原城の復興天守閣で、銅門と馬出門が木造で復元されました。天守閣からは八幡山古郭公園(北条氏時代の主郭跡)と石垣山城跡(豊臣秀吉が築いた陣城)がよく見えました。

小田原古城
小田原市

平安時代に土肥遠平が居城を構えたのが始まりです。土肥氏は桓武平氏の流れを持つ名門です。上杉禅秀の乱(禅秀と鎌倉公方の足利持氏が対立した戦い)で、足利方に付いた大森氏によって土肥氏は居城を追われてしまいました。戦国時代は大森藤頼が城主で、鼠が大虎に化けたという夢をみた伊勢早雲は、小田原周辺での鹿追いを藤頼に申し出て承諾を得ると、鹿追いの大軍を引き連れて小田原城を騙し取ってしまいました。以後関東に勢力を誇った北条5代の居城として栄えました。写真は東海道新幹線を挟んだ向かいにある八幡山古郭公園にあった巨大な土塁で、そこが北条時代の小田原城の主郭部分に当たるそうです。かつては小田原城下全体を取り囲む惣構えの居城で現在も惣構えの遺構が点在して残っています。八幡山古郭公園から小田原城の天守閣が良く見えました。

杉浦屋敷
小田原市

江戸時代末期の小田原藩の城代・杉浦平太夫の屋敷があった場所です。平太夫は1500石の城代で、屋敷は三ノ丸に位置していました。平太夫がどんな人物だったのかは城代であったこと以外分かりませんでした。家老・大久保弥六郎の屋敷とは隣接していました。小田原市による発掘調査で、北条氏時代の掘立建物や方形竪穴遺構、井戸、高級磁器の欠片などが確認されています。写真は平太夫の屋敷があった場所にあった地方裁判所の建物です。

大久保屋敷
小田原市

江戸時代末期の小田原藩の家老・大久保弥六郎の屋敷があった場所です。弥六郎は1000石の家老で、屋敷は三ノ丸に位置していました。弥六郎がどんな人物だったのかは家老であったこと以外分かりませんでした。城代・杉浦平太夫の屋敷とは隣接していました。小田原市による発掘調査で、北条氏時代の掘立建物や方形竪穴遺構、井戸、高級磁器の欠片などが確認されています。写真は弥六郎の屋敷があった場所にあった東京電力小田原支店の建物です。

幸田屋敷
小田原市

戦国時代に築かれた小田原城の北条氏の重臣・幸田氏の屋敷があった場所です。幸田氏は御馬廻衆をしていた家臣で、小田原城の蓮池門を守備していました。永禄3年に上杉謙信と上杉憲政(関東管領)の連合軍が10万の兵で、永禄12年に武田信玄が2万の兵で小田原城を攻めたときに、幸田氏が守備する蓮池門が破られることはありませんでした。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めでは降伏する際、蓮池門を開いて開城したと云われています。江戸時代になると、蓮池門があった場所は幸田門と呼ばれるようになりました。写真は栄町一丁目交差点にあった石碑「上幸田」で、幸田氏の屋敷があったことを伝えていました。

永島氏屋敷
横須賀市

戦国時代から江戸時代にかけて三浦半島の総名主を務めていた永島氏の屋敷があった場所です。永島氏は桓武平氏の流れをくむ三浦氏の庶流です。ここは同じ横須賀市内にある神金城跡(室町時代に永島正澄が築いた城)に行った時に写真の長屋門の存在を初めて知りました。夏休みを利用して横須賀軍港に行く機会があった時に寄り道したのですが、かつては横須賀街道が傍を通っていたので、それを示す道標が門の右手にありました。上級武家以外で功労のあった名主に対しても許されていた寄棟(よせむね)造りの重厚な建築法を持つ長屋門で、朱塗りであったことから地元では赤門と呼ばれています。余談ですが、徳川家康の側室になった養珠院(通称:お万の方)は安房国の里見義堯の娘婿・正木頼忠(勝浦城主)の娘で、その正木氏も三浦氏の庶流です。

笹下城
横浜市・磯子区
戦国時代に小田原城の北条氏に仕えていた間宮信元が居城を築いたのが始まりです。日野川と笹下川に挟まれた台地の上に築かれた城です。間宮氏は近江源氏・佐々木氏の流れを組む名門です。当初は川崎方面に居館を構えていましたが、房総を治めている里見氏の水軍がしばしば金沢海岸や磯子海岸に上陸するようになったので、陸地の奥に後退していきました。余談ですが、豊臣秀吉の小田原攻めでは、山中城主・松田康長の元に援軍に駆けつけた間宮康俊(信元の子)は、秀吉の黄母衣衆の一人・一柳直末を討ち取る活躍をしたものの、戦死してしまいました。秀吉の大軍を前に一歩も引かずに山中城を守った間宮軍勢の働きが見事だった為、感銘を受けた徳川家康は旧臣達を旗本として取り立てました。写真は真言宗・成就院の本堂で、土塁の一部が周辺に残っていました。
間宮氏館
川崎市・川崎区
戦国時代に小田原城の北条早雲と氏綱の2代に仕えていた間宮信盛が居館を構えたのが始まりです。間宮氏は近江源氏・佐々木氏の流れを組む名門です。信盛は相模衆14家の筆頭として、仕えていた武将です。早雲と扇谷上杉朝良が激突した権現山の合戦では、まだ若者だった信盛は、派手な甲冑を身に着けて単身で扇谷上杉軍の陣へ突進して開戦の火ぶたが切られたという言い伝えが残っています。信盛の子・信元が笹下城を築いて移ると、川崎郷の居館は廃止されました。信元の嫡男・康俊は北条氏綱(氏康の娘婿)に仕え、次男・綱信は北条氏照(氏康の3男)に仕えるなど、一族を挙げて北条氏を支えていました。余談ですが、幕末に活躍した間宮林蔵(間宮海峡)と杉田玄白(蘭学医者)は間宮一族の出身です。写真は居館跡に建てられた宗三寺(曹洞宗)の本堂です。
橋本屋敷
横浜市・中区
戦国時代に橋本綱高の屋敷があったところと云われています。綱高は小田原城の2代目・北条氏綱(早雲の嫡男)から偏諱を受けた武将で、戦さのときは氏綱の本陣を守る馬廻衆を率いる組頭でした。写真は屋敷跡にあった北方皇太神宮で、昔は海が見渡せたであろう高台にありました。余談ですが、近くの本牧山頂公園でバラクーダというショップ主催のクラシックカーのイベントがあって行ってきました。旧車が50台超も集まっていて非常に見応えがありました。ベースは自分が所有しているのと同じY30型セドリック・ワゴンで、フロントは130型セドリック後期のパーツで、後ろはA30型グロリア(縦グロ)のパーツを上手に使って純正モデルっぽく仕上げられた車を見たときは、とても衝撃を受けました。こういうのが本当のカスタム車だなと思いました。
富士塚城
横浜市・泉区

平安時代に源頼朝より飯田郷を与えられた渋谷家義が居城を築いて飯田姓を名乗ったのがはじまりです。家義は渋谷重国(桓武平氏・秩父党)の5男で、大庭景親(桓武平氏・鎌倉党)に仕えていた武将です。家義は石橋山の戦い(平氏の景親と源氏の頼朝の間で起きた戦い)に敗れた頼朝を安房国へ逃れる手引きをした武将として有名ですが、個人的には非常に嫌いな武将です。余談ですが、その石橋山の戦いで敗れた頼朝が洞窟に隠れていたときに、頼朝を見逃した梶原景時(桓武平氏・鎌倉党)は、2代目執権・北条義時(北条政子の弟)の命を受けた家義によって滅ぼされてしまいました。家義は頼朝から拝領した薬師如来像の前に手を合わせながら80歳で往生したそうです。写真は富士塚公園にあった石碑「富士塚城跡」で、その横には由来板がありました。

泉親衡館
横浜市・泉区

鎌倉御家人・泉親衡の居館があったところです。親衡は信濃源氏を興した源満快(清和天皇の孫)流れを組む名門の出です。源氏の勢力を排除しようと企んでいる鎌倉幕府の2代目執権・北条義時(北条政子の弟)に不満を持っている御家人達に源氏再興の挙兵の協力を求めていたが、企てが露見したために失敗して川越の豊田源兵衛を頼って逃げ、名前を静海に改めました。余談ですが、静海の末裔は戸泉家の25代当主で川越に住んでいるそうです。写真は親衡の居館跡(泉中央公園)にあった「馬洗いの池」で、今でも湧水が出ています。某ホームページでは中和田城として紹介されていましたが、城山の麓にある長福寺(禅宗)にある由来板には泉小次郎館で記載されていたので、ここでは泉親衡館として紹介しています。

大津陣屋
横須賀市

天保14年(12代将軍・徳川家慶の時代)に幕命で江戸湾防備を受けた川越藩の松平斉典によって築かれた陣屋です。2万坪の正方形の敷地に御殿や役所、長屋や馬場などの建物が配置されました。その後、熊本藩の細川家、忍藩の奥平家、佐倉藩の堀田家などの諸藩と交代し、多いときには1500名の代官や関係者が陣屋に詰めていました。25年後の明治元年に取り壊されてしまいました。横須賀大津中学校の正門をくぐったところに旧陣屋の石橋があり、その横にあったのが写真の由来板です。中学校だけでなく、横須賀大津高等学校や大津運動公園も敷地に入っていたというので、広大だったことがうかがえました。

怒田城
横須賀市

平安時代には三浦半島を所有していた平為道(後に三浦姓を名乗りました)の命令で築かれたのがはじまりです。怒田城は平作川を望む台地の上に築かれた要害で、大矢部城,小矢部城,佐原城,平作城と共に本城の衣笠城を守る支城として機能していました。鎌倉時代に三浦泰村と5代執権・北条時頼が対立して起きた宝治合戦で、衣笠城が落城して泰村一族が滅ぼされると、怒田城も歴史の舞台から消えてしまいました。写真は怒田城の本郭を囲む土塁の前にあった由来板で、怒田城についての説明が書かれていました。余談ですが、縄文時代の遺跡があった場所でもあり、土塁を築くときに貝塚の一部が崩れ、その貝を抜き取って土を新たに埋め込んで補強した痕跡が発掘調査で見つかり、難工事だったことが判明しました。そこから衣笠城のある城山がよく見えました。

佐原城
横須賀市

平安末期に三浦義連が居城を築いて佐原氏を名乗ったのがはじまりです。義連は衣笠城主・三浦義明(桓武平氏)の7男で、甥に畠山重忠が居ます。義連は弓の名手で、一ノ谷の戦いにおける鵯越えでは真っ先に崖を駆け下りて一番乗りの手柄を立てた勇者だそうです。源頼朝と北条政子からの信頼が厚く、頼朝寝所の警護を任せられたり、北条時房(政子の異母弟)が元服のときは烏帽子親を勤めたりしました。義連は奥州征伐の恩賞によって会津にも所領を持っていたので、後に三浦半島における佐原氏は滅亡したものの、会津を支配していた義連の子孫は蘆名氏を名乗り、戦国時代では伊達氏と並ぶ大名に成長しました。写真は本丸跡にあった城址碑と説明板で、なかなか見つからなくて苦労してしまいました。

神金城
横須賀市

築城の時期と築城者は不明ですが、「三浦古尋録」という古文書によれば室町時代に永島正澄の居城があったと云われています。永島氏は、桓武平氏の流れを持つ三浦一族です。神金城は、三浦宗家の衣笠城と古東海道を押える役割を持っていました。写真は公郷4丁目公園にあった石碑で、なかなか見つからなくて付近を1時間も歩き回ってしまいました。東側に位置する妙真寺の背後にあるのが城山で、ずいぶん離れた場所にあるのだなと思いました。永島氏についての補足ですが、戦国時代には小田原城の北条氏に仕えて代官となり、江戸時代には三浦半島の総名主として幅広い権限を持って支配していました。永島氏の当主は代々が庄兵衛を名乗っていました。市内にある浄土宗・聖徳寺の脇には江戸時代に建てられた永島氏の屋敷門(赤い長屋門)が残っているそうです。

六浦陣屋
横浜市・金沢区

享保4年(8代将軍・徳川吉宗の時代)に米倉忠仰が下野国の皆川から移封して六浦藩を起こして陣屋を構えたのがはじまりです。米倉家は甲斐源氏の流れをくむ名門ですが、純粋な米倉家の血を受け継いているのは8人の歴代藩主の中では誰一人居なくて、全て他家から養子縁組で入ってきた者ばかりでした。初代の忠仰(吉保の6男)と2代の里矩柳沢家から、3代の昌晴と4代の昌賢は長田家から、5代の昌賢は奥田家から、6代の昌俊は水野家から、7代の昌寿と8代の昌言(最後の藩主)は朽木家からとなっています。写真は六浦陣屋の石段で、子孫が住んでいるという屋敷の周囲は土塁が良好に残っていました。ここは金沢八景駅から徒歩5分程度の場所にありましたが、住宅街が密集していたところで、道路も狭くて怖かったです。

浦賀城
横須賀市

戦国時代に三浦道寸が居城・新井城の支城として浦賀城を築いたのが始まりです。道寸が宿敵の北条早雲によって滅ぼされると、浦賀城は廃城になりました。後に北条氏康(早雲の孫)の命令で北条氏規(氏康の5男)が城主をしている三崎城の支城として大改修されました。浦賀城は安房国の里見義堯による海上からの来襲に備えた城で、里見水軍との海戦で敗れて三崎城と三浦城が落城したものの、玉縄衆(氏康の妹婿・北条綱成の軍勢)の活躍があって浦賀城は落城を免れました。里見氏が滅亡すると、北条水軍の基地として整備されました。しかし、豊臣秀吉の関東征伐のときに豊臣水軍の前に落城し、北条水軍の軍船は豊臣軍に接収されてしまいました。写真は明神山の山頂にあった本丸跡(東叶神社)で、眼下には江戸湾が広がっていました。

茅ヶ崎城
横浜市・都築区
平安末期に多田行綱(源頼盛の子)が早渕川の畔にある丘の上に居城を築いたのが始まりだそうです。これには異説があり、発掘調査の結果、室町時代に関東管領の山内上杉氏の命によって築かれた可能性が高いそうです。戦国時代には、小机城の支城として座間氏が城番を務めていましたが、この地に豊臣軍の攻撃を受ける前に北条氏の小田原城が開城してしまった為、茅ヶ崎城は小机城と共に戦う事なく豊臣軍によって接収されました。写真は、発掘調査を経て約3年前に設置されたばかりの茅ヶ崎城址公園にあった高さ10メートルを超える土塁の前にあった説明板です。開発が押し寄せている横浜市では、中世の姿を良好に残っている城跡の1つで、4つの郭で構成された土塁と空堀が見事で、由来板や郭ごとにあった説明板が多くて楽しむ事が出来ました。
深見城
綾瀬市
宝徳4年(室町8代将軍・足利義政の時代)に、山田経光(藤原一族)によって築かれたそうです。深見城は境川に面した台地の上に築かれ、北側と東側は15メートルの崖に囲まれています。大和市内で最も保存状態のよい城跡です。発掘調査結果から、戦国時代に構築された二重の空堀と土塁で2ケ所を虎口(門などの出入口)で綿密に構築されていることが判明しています。余談ですが、つる舞の里歴史資料館に行けば深見城の模型が見られるそうです。散策して気づいたのですが、深見歴史の森として深見城跡が残されています。しかし、大和市が建てた「この森は、土地所有者のご好意により、大和市と賃貸契約を結び、保全しています」という看板を読んだときは、土地所有者は遺跡の保全より、お金が欲しいんだなと思うと、とても残念な気持ちになりました。
高麗山城
平塚市
室町時代に起きた永享の乱(鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立で起きた戦い)を発端に、関東では長い戦乱の幕開けとなりました。この混乱に乗じて、扇谷上杉家と山上杉家に合戦に挑んだ北条早雲が高麗山にある古城跡に布陣しました。しかし、扇谷上杉家と山上杉家の大軍によって大敗し、韮山城に撤退しました。時代が変わって戦国時代に入ると、高麗山城は北条家の本城・小田原城と支城群を結ぶ狼煙台として活用されました。余談ですが、江戸時代には山全体が高麗寺の霊域として栄えましたが、明治維新にあった神仏分離令によって堂塔が破壊され、高来神社だけが残りました。写真は城山の麓にあった高麗寺の子寺・慶覚院(天台宗)の本堂で、神仏分離から免れた旧高麗寺の観音堂本尊・千手観音像と、地蔵堂本尊・地蔵菩薩像が納められています。
小磯城
大磯町
室町時代の古文書・鎌倉大草紙に登場する地侍・越後五郎四郎の居城だと伝えられています。長尾景春の乱(下剋上を狙って鎌倉公方・足利成氏に付いて、元主家だった関東管領・上杉顕定と対立して起きた戦いで20年近く続いた乱)で、景春の挙兵に周辺の国人と地侍と共に呼応した五郎四郎は小磯城に立て籠ったものの、扇谷上杉定正の家臣・太田道灌(景春のイトコ)に攻められて落城しました。余談ですが、明治31年に三井財閥が別荘を構えると、庭園として整備されました。昭和12年に都内から茶室・如庵(元々は京都の建仁寺にあった旧国宝で、織田有楽斎が建造)が移築されましたが、戦後に再び犬山の有楽苑に移築されて落ち着きました。大磯城山公園の近くには、漏電で邸宅が全焼した吉田茂の別荘地があります(防火器具未設置による消火遅れが原因)。
小杉御殿
川崎市・中原区
慶長13年(1608年)に徳川将軍家の御鷹場として小杉御殿が造営されました。それと同時に平塚にも中原御殿が造営されました。将軍職を徳川秀忠に譲ったものの、実権を握っていた徳川家康は駿府城と江戸城との往復に宿舎として度々利用していたそうです。徳川家光のときに品川宿に東海寺(曹洞宗)を造営するときの建材として、小杉御殿が取り壊されてしまったそうです。かつての東海寺は将軍家と関わりの深い寛永寺(天台宗)と増上寺(浄土宗)と並ぶ大寺院だったそうです。小杉御殿の跡には西明寺(真言宗)が建てられ、門前道の入口付近に「徳川将軍小杉御殿跡」という石碑がありました。写真はその門前道付近にある住宅街の中に入ったところにあった神社で、その前に「小杉御殿の御主殿跡」と書かれた説明板がありました。
小杉陣屋
川崎市・中原区
慶長2年(1597年)、徳川家康よって用水奉行を命じられた小泉吉次(今川家の旧臣)が小杉陣屋を置いたのがはじまりです。武蔵国の稲毛領と川崎領を流れる農業用水の開拓工事は14年の歳月をかけて完成すると、吉次は旗本を命じられて天領代官として当地を治め続けました。写真は小杉陣屋のあった付近にある「小杉陣屋町児童公園」で、小杉陣屋と隣接するようにして幕府が築いた小杉御殿がありました。余談ですが、小泉氏は元々の姓を植松といい、文治2年(壇ノ浦で平家が滅んだ翌年)に初代の植村信継が潤井川から分水する鷹岡伝法用水路の開拓と維持管理をするために樋代官になっていました。代々が今川家に仕えて開拓携わっていた家柄で、今川家没落後は家康に登用されると、小泉姓を名乗るようになったそうです。
池辺陣屋
横浜市・都築区
江戸時代初期に小笠原宗忠が都筑1500石を統治するために陣屋を構えたのがはじまりです。松平忠吉(徳川家康の4男)が忍城の城主になったときに、家康の命令で忠吉の筆頭家老を務めた人物で、利根川の分水という巨大な治水工事を担当しました。写真の宗忠寺(浄土宗)は、宗忠が父・長隆の菩提を弔うために陣屋の敷地内に建立した寺で、唐門の横に寺と陣屋の由来が書かれた赤い御影石が建っていました。JR横浜線の鴨居駅から40分かけて行ったのですが、特に宗忠寺の周辺は道が狭いのに車の通りが激しくて怖かったです。
川和城
横浜市・都筑区
鎌倉時代に源義経の家臣・熊井忠基が構えたという伝承が最初のようです。川和城は恩田川に臨む大地の上に築かれた城で、一帯は非常に見晴らしの良い場所にありました。忠基は義経に従って、一ノ谷の戦い、奥州の戦いなどに転戦しましたが、義経が兄の源頼朝に追われると、平泉の衣川の戦いで義経を守って戦死してしまったそうです。余談ですが、忠基は弁慶と共に歌舞伎でも登場する武将です。戦国時代は北条綱成(北条氏康の義弟)の領地となり、小田原城と小机城の支城として機能していました。写真は「城野山」という地名にあった日蓮宗・妙蓮寺です。近くには城野山郵便局まであって、城跡があったことを地名で伝えていたのが良かったです。
榎下城
横浜市・緑区
室町初期に上杉憲清が築いたのがはじまりです。恩田川を見下ろす武蔵丘陵の上に築かれた城で、内外に空堀を巡らした堅固な構えでした。上杉憲直(憲清の子)が永亨の乱で足利持氏(4代目の鎌倉公方)に味方をしたものの、室町幕府軍と上杉憲実(関東管領)に攻められて、近くにある称名寺で自決してしまいました。戦国時代は北条綱成(北条氏康の義弟)の領地となり、小田原城と小机城の支城として機能していました。写真は大きな土塁に囲まれた城郭内にあった旧城寺(真言宗)で、江戸時代に建てられた寺でした。
長津田陣屋
横浜市・緑区
天正18年(1590年)に徳川家康の命令で長津田村に入った岡野房恒が陣屋を築いたのが始まりです。房恒は小田原城の北条氏康と氏政に仕えていた板部岡江雪斎を父に持ち、房恒のイトコは徳川家康の側室・養珠院(紀州藩祖・徳川頼宣の母)を持つ人物です。写真は陣屋跡にあった王子神社の本殿です。近くには岡野氏が建立した菩提寺・大林寺があって寄り道したら、3年前に新築されたばかりの本堂と仁王門がありました。江雪斎(房恒の父)についでですが、北条氏の内政と外交に長けていた人物で、武田氏と同盟を結んだ時や徳川氏と同盟を結んだ時は全権使者として赴いた事がありました。豊臣秀吉の小田原役では、北条氏房(氏康の四男)を補佐して岩槻城に籠城した事もあります。戦後は手腕を買われて秀吉の御伽衆に加えられたという優秀な人物でした。
今井城
横浜市・保土ヶ谷区

平安末期に木曽義仲の家臣・今井兼平の居城があり、麓を通る鎌倉街道の押さえとして機能していたそうです。義仲の妻・巴御前は兼平の妹に当たります。戦国時代には小田原城の北条氏の支配下にあり、家臣の清水氏が城代をしていたそうです。江戸時代には有田氏の陣屋が置かれていました。今年(2009年)の大河ドラマ「天地人」の主人公として登場する直江兼続は、兼平と巴御前の長兄である樋口兼光の末裔に当たります。写真は金剛寺の裏手にある城山稲荷の境内にあった今井城址の石碑で、そこに辿り着くまでのルートを詳細に載せていた某ホームページのお陰で無事に行くことが出来ました。余談ですが、東京都港区(赤坂氷川神社)にも兼平が築いた今井城跡がありますが、伝承の域を出ていないそうです。

萩原代官所
横浜市・保土ヶ谷区
江戸時代に幕府の旗本・杉浦氏の代官職として荻原氏の代官所がありました。代官所は旧東海道沿いにあり、保土ヶ谷宿を管轄していました。東海道に宿駅伝馬制度が始められたとき、戸塚町(保土ヶ谷)は伝馬宿(問屋には馬や人足が常備され、御定賃銭で提供する幕府が定めた公共機関制度)に指定されていました。しかし、保土ヶ谷と藤沢の区間は起伏が多い権太坂という距離もある難所があっため、無許可で馬や人足を提供して御定賃銭を稼いだり、無許可で旅人を宿泊させたりしていました。荻原代官は禁止する通達を出したものの、戸塚町は幕府に嘆願した結果認められて、正式な宿場町として保土ヶ谷宿が出来ました。写真は境木地蔵尊から南のほうに下ったところにあった代官跡の森の中にあった看板で、非常に分かりづらい場所にありました。
蒔田城
横浜市・南区
戦国時代に吉良頼康の居城があった場所です。吉良氏は三河国を発祥とした足利一族で、武蔵国に住み着いた関東系の吉良氏です。頼康は小田原城・北条氏綱の娘婿で、頼康の嫡男・氏朝も北条氏康の娘・香林院を迎えている北条一門です。江戸時代には徳川家康の命令で蒔田氏を名乗って宗家の吉良氏と共に重きを成しました。しかし、赤穂事件によって宗家が断絶したのを契機に、徳川綱吉の許可で吉良氏に復姓しました。写真は横浜英和女子院の正門の横にあった説明板で、縄文時代から弥生時代にかけてあった集落の跡でもあるそうで、発掘によって縄文時代から弥生時代の物と戦国時代の物が同時に出土したという説明が入っていました。なお、麓には菩提寺・勝国寺があり、吉良一族の供養塔がありました。
津久井城
津久井町
鎌倉時代に甲州街道の押さえとして三浦一族・筑井為行が築いたのがはじまりです。戦国時代には北条早雲の家臣・内藤景定が城主で、津久井城を大改修して津久井衆を組織して甲斐国を監視していました。小田原の役では、城主・内藤綱秀は中白根に駐屯していた豊臣勢に奇襲を仕掛けて混乱させたりしたものの、各地を転戦中に戦死してしまいました。子の内藤直行は津久井衆を引き連れて小田原城に籠城し、津久井城はわずか150騎で守備していました。津久井城は本多忠勝,平岩親吉,鳥居元忠の大軍に囲まれ、降伏勧告によって明け渡しました。戦後、直行は北条氏直(北条5代目)が高野山に幽閉されるときに同行したそうです。なお、直行の妻は北条為昌(氏康の実弟)の孫に当たります。写真は津久井城の本丸跡にあった説明板で、津久井湖が眼下に見えました。
守屋氏陣屋
津久井町
江戸時代に甲州街道の小原宿や幕府直轄領だった津久井湖周辺を支配していた守屋氏の陣屋がありました。守屋行重と行広の親子は津久井城主・内藤綱秀(松田憲秀の娘婿)に仕えていたのですが、津久井城が落城すると武士を辞めて帰農しました。まもなくして徳川幕府から津久井地方の代官に任命されると、37年間2代に渡って支配していました。行広のときに駿河国に転封されると陣屋は廃止され、その後は名主・島崎氏代々が支配していました。写真は城山公園パークセンター(陣屋があった場所)で、背後には津久井城の城山が見えました。
小松城
城山町
室町時代に片倉城主・永井広秀が出城として築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には小田原城の北条氏の支配下に置かれていて、八王子城と片倉城と津久井城を繋ぐ中継点の城として、北条氏に仕えていた大石氏が管理していました。小松城の付近に評議原という場所があり、それは豊臣秀吉の小田原攻めのときに、小松衆と片倉衆と津久井衆の武将が集まって今後についての評議を行なったと云われているそうです。写真は真言宗・宝泉寺の門の前にあった大きな石碑です。宝泉寺は小松城の麓にあり、築城前からあったそうです。宝泉寺の本堂は近年になって昔ながらの木造で建て替えられたらしく、キレイでした。
北条幻庵館
小田原市
北条幻庵は隠居した後の名前で、本名は長綱といい、北条早雲の三男に当たります。そして二代目・氏綱の弟です。幼少時は京都・三井寺に修行していた関係で、尺八の芸、和歌や連歌、茶道や造園にも長けていた文化人で、更に戦の駆け引きや外交、武芸(馬術や弓術)にも優れていた武人でもありました。氏綱が病死した後は、氏康(三代目)、氏政(四代目)の後見人となり、良き相談役もしていた北条氏の長老で、なんと97歳まで長生きしたそうです。写真は久野保育園の前を通る市道の前にあった久野屋敷跡を示す石碑と看板です。そこから脇道に入ったところに屋敷跡にあったという庭園の一部(小さな池)があり、そこに歴史解説板が設置されていました。
徳川陣城
小田原市
天正18年(1590年)の小田原の役の際に徳川家康が陣を敷いた場所だそうです。家康は豊臣軍の先鋒隊として3万の軍勢を引き連れて出陣しました。箱根に差し掛かったところで軍勢を3つに分けて、三島から久野諏訪原に侵攻した軍、箱根から湯坂に侵攻した軍、山下から足柄に侵攻した軍が合流して小田原城の東方のこの地に布陣したということが写真の説明板に書いてありました。北条氏が降伏して開城するまでの約110日間滞在していたそうです。ここから小田原城は2キロメートルしか離れていないので、小田原城から家康の軍勢が良く見えたのではないかと思いました。
荒井城
真鶴町
平安時代に荒井実継が真鶴半島の絶壁に居城を築いたのがはじまりだそうです。実継は源氏の棟梁・頼家の家臣だそうです。源頼朝が鎌倉に幕府を開府した頃には、鎌倉御家人・土肥氏の属城となっていたようです。戦国時代に小田原城の北条氏の領土になると、狼煙台として利用されていたそうです。写真は東海道線のJR真鶴駅の前にあった荒井城址公園の入口にあった石碑です。土塁が残っているそうですが、ピクニック広場やアスレチック広場としてすっかり改変されてしまい、ほとんど旧態をとどめていませんでした。桜の木がたくさんあったので、季節になると公園全体がキレイだろうなと思いました。
土肥城
湯河原町
鎌倉御家人・土肥実平のときに詰めの城として土肥城を築いたのがはじまりだそうです。土肥氏は平良文の流れをくむ平氏一門でありながら、源頼朝が挙兵すると源氏に付くようになりました。戦国時代には小田原城の北条氏の属城となりました。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めでは箱根峠を固めていた山中城が陥落すると、土肥城の守備兵は戦うことなく小田原城に撤退したそうです。写真は城山の頂上にあった石碑で、土肥城からは湯河原温泉の街並みと、相模湾が見えました。往路ではタクシーを利用し、復路では歩いて下山して麓に土肥一族の墓所があるという城願寺に寄り道をしてから、湯河原駅に戻りました。
土肥氏館
湯河原町
平安末期に湯河原を支配していた豪族・土肥氏によって築かれたのがはじまりです。土肥実平のときに詰めの城として土肥城が築かれました。土肥氏は坂東平氏・平良文(後に村岡姓を名乗りました)の流れをくむ名門でしたが、源頼朝が挙兵すると源氏に付くようになりました。関東に散らばっている平氏一門の取りまとめ役もして、後に鎌倉幕府の開府に大きな役割を果たしました。余談ですが、実平の子・遠平は相模国にある小早川庄を治めていたことから、小早川姓を称するようになったそうです。そして遠平は安芸国に移住して地頭職になり、360年後の戦国時代には毛利元就の3男・隆景を迎えることになります。写真は湯河原駅(居館址)の前にあった土肥実平夫妻の像です。
懐嶋館
茅ヶ崎市
平安末期に鎌倉御家人・大庭景義が居館を築いて懐嶋氏を名乗ったのがはじまりだそうです。懐嶋氏(大庭氏)は坂東八平氏の一つである鎌倉氏の支族です。保元の乱(崇徳上皇と後白河天皇が対立して全国の武士を巻き込んだ大乱)では天皇派の源頼朝に従い、上皇派の源為朝(頼朝の叔父で弓矢の名人)によって足を射抜かれて歩行困難の身となり、弟の大庭景親に家督を譲って隠居したそうです。平治の乱(院近臣の派閥争い)で弟の景親が平家に従って対立するという悲劇が起きたものの、景義は頼朝の元に留まっていました。一旦隠居したものの、奥州征伐で軍功をあげるなど頼朝からの信任が厚く、幕府では長老格を長きにわたって務めていたそうです。写真は神明大宮にあった石碑「懐嶋館址」と懐嶋景義の像です。
梶原景時館
寒川町
平安末期に鎌倉御家人・梶原景時の居館があった場所です。梶原氏は坂東八平氏の一つである鎌倉氏の支族で、大庭氏(懐嶋氏)とは同族です。石橋山の戦い(源頼朝と大庭景親などの平家が衝突した戦い)で頼朝が敗れて土肥の山中に逃げ込むと、景親による厳しい残党狩りで次第に追い詰められました。岩屋の臥木の洞窟に隠れていた時に、大庭軍の景時が洞窟の中に入って隠れていた頼朝と合わせました。観念した頼朝が切腹しようとするが、景時がそれを制止して自分の名前を静かに名乗ると洞窟を出たそうです。文武両道の武士で頼朝からの信任が厚かったらしく、鎌倉幕府では要職に就いていました。写真は頼朝を助けた頃にあったという景時の館址公園にあった石碑です余談ですが、洞窟の伝説は景時が助けたのではなく、同族の熊谷直実だったという異説があります。
三浦義村館
平塚市
平安末期に鎌倉御家人・三浦義村の居館があった場所です。三浦氏は桓武平氏の流れを組む名門です。義村は父・義澄とともに源頼朝に信頼が厚かった人物で、鎌倉幕府では評定衆(行政・司法・立法に相当する政務機関)の一人に数えられていました。頼朝が亡くなると、同じ桓武平氏一族である梶原景時と畠山重忠と和田義盛を、北条政子と組んで滅ぼしてしまいました。三代将軍・源実朝が弟の公暁によって暗殺されると、直後に公暁も義村によって殺されてしまいました。義村の妻が実朝の乳母をしていたので、行動が筒抜けだったそうです。義村の息子・泰村は北条泰時の娘を迎えて北条一門衆となり、権勢をふるったそうです。写真は義村の居館跡があったという場所に建てられた石碑「三浦義村の田村ノ館の跡」で、宮ノ前団地の前にありました。
中原御殿
平塚市
慶長13年(1608年)に徳川家康の命令で中原街道に中原御殿が造営されました。それと同時に川崎宿にも小杉御殿が造営されました。鷹狩りや、江戸と駿府の往来に度々利用されました。明暦6年の大火(1657年に起きた振袖火事)で江戸城が全焼してしまったとき、本丸御殿が再建するまでの将軍居所として、二ノ丸御殿の建材として、中原御殿が取り壊されてしまいました。余談ですが、武蔵にあった越ヶ谷御殿も同じ事情で取り壊されています。中原御殿跡地には、小さな東照宮が建てられ、檜や松の木がたくさん植えられたので、中原御林と呼ばれるようになりました。明治時代には神奈川県内にある東海道線の駅舎建築や煉瓦を焼くための薪として刈りつくされてしまいました。写真は御殿跡に建てられた中原小学校の敷地内にあった石碑と解説板です。
小沢城
川崎市・多摩区
鎌倉御家人・稲毛重成が鎌倉街道の多摩川にかかる矢野口の渡しを抑える要衝として小沢氏館を築くと同時に、詰城として背後にある山に小沢城を築いたのがはじまりです。南北朝時代には、足利直義(尊氏の実弟)の城だったので、鎌倉公方の足利基氏(尊氏の3男)によって攻め落とされました。戦国時代には、小田原城の北条氏の属城になっていました。江戸城の城主・扇谷上杉朝興が侵攻したので、それを迎え撃つべくして起きた小沢原の戦いで北条氏康が大勝利を収めました。初陣を飾った15歳の氏康は小沢城の本丸に登って多摩丘陵を見渡したそうなので、本丸跡に立つと氏康の気分になった気分で戦国の浪漫に浸ってしまいました。小沢城跡へは妙覚寺から読売ランドを横切って、穴澤神社から入ったのですが、石碑や説明板がいくつか設置されていて良かったです。
枡形城
川崎市・多摩区
鎌倉御家人・稲毛重成が居館を築くと同時に、詰城として背後にある山に枡形城を築いたのが始まりです。永正元年(1504年)に起きた立河原の合戦では、上杉顕定と足利政氏(古河公方)の連合軍と、上杉朝良が対陣すると、朝良側に付いた北条早雲と今川氏親(義元の実父)が枡形城に本陣を置きました。この戦いで早雲と氏親の援軍を得た朝良が勝利を収めました。永禄12年(1569年)、武田信玄が碓氷峠を越えて小田原城を攻める時に、多摩川沿いにある北条方の城群を次々と攻め落とした山県昌景と小幡昌盛の別働隊は枡形城にも軍馬を進めました。城主の横山弘成が村人達を保護して立て篭もった事を知った昌景は、枡形城を素通りしました。写真は枡形城の展望台の横にあった石碑です。展望台からは日本民家園にある合掌造りの屋根がいくつか見えました
稲毛館
川崎市・多摩区
平安時代末期に武蔵七党の一つである秩父党の小山田重成が稲毛庄に居館を構えるとともに、稲毛姓を名乗るようになりました。同時に詰めの城として枡形城も築きました。重成は畠山重能の甥に当たり、なおかつ北条政子の妹婿に当たるので鎌倉御家人としての地位は高かったそうです。現在、稲毛館があった場所には廣福寺(真言宗)が建てられていて、枡形城へと続く枡形山の中腹にありました。写真は廣福寺の門にあった看板で「稲毛領主・稲毛館跡」と書かれていました。なお、門の前にある花壇には稲毛館の由来を書いた説明板や重成の墓がありました。
作延城
川崎市・高津区
鎌倉御家人・稲毛重成が多摩川の右岸にそってのびる多摩丘陵の上に城を築いたのがはじまりだそうです。作延城は鎌倉の外側を守る防衛線に張り巡らされた城砦群の1つで、多摩丘陵を見渡せる要害として機能していました。麓には源氏の祈願所・妙楽寺があり、源全成(源頼朝の実弟)が院主となっていました。重成は畠山重能の甥に当たり、重成の妻は北条政子の妹でした。重成の妻が病死すると重成は非常に落ち込んだそうで、亡き妻のために相模川に大きな橋をかけ、その橋供養を行ないました。遠征から戻ってきた主君の頼朝は橋供養に出席したのですが、その帰路の途中に落馬して怪我をしたのが原因で亡くなったと云われています。後に北条時政と政子の陰謀によって、伯父の重能とその一族が滅ぼされると、重成とその一族も滅ぼされてしまいました。
神奈川御殿
横浜市・神奈川区
江戸時代に将軍の宿泊所として神奈川御殿が造営されました。横浜市内には東海道の神奈川宿・戸塚宿・保土ヶ谷宿の3つの宿場町が存在していました。なかでも神奈川宿は東京湾有数の湊であった神奈川湊が近くにあり、中世より海陸交通の要所として物資集散の地だったので、神奈川御殿や神奈川陣屋、石井本陣などの幕府の管理施設が集まっていました。写真は京浜急行の「仲木戸駅」で、仲木戸という地名は神奈川御殿の木戸があったことに因んでいるそうです。東京都八王子に「平山城址公園駅」が、千葉県松戸に「小金城址駅」がそれぞれあるのですが、「神奈川御殿駅」にして欲しかったなと思いました。
観音堂砦
横浜市・神奈川区
戦国時代に北条氏の家臣・間宮四郎左衛門が観音堂山の山頂に砦を築いたのがはじまりだそうです。観音堂山の麓には曹洞宗・宗興寺があり、幕末における横浜開港のときに、アメリカ人の宣教師で医者であったヘボン博士が宗興寺の敷地内に施療所を開いたそうです。同時に日本語の研究も進め、日本で最初の和英辞典「和英語林集成」を完成させ、聖書の翻訳も行なったそうです。また明治学院大学の創立にも尽力、初代学長に就任しているそうです。写真は宗興寺の境内にあったヘボン博士を記念する石碑です。
神奈川台場
横浜市・神奈川区
安政6年(1859年)に、幕府は伊予松山藩の松平勝成に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を築いたのがはじまりです。神奈川台場は海に突き出た8千坪の敷地を持つ扇形で、約7万両の費用と約1年の工期をかけて築かれ、14門の大砲が置かれていました。明治32年に廃止され、大正10年頃から埋め立てられて、現在は写真のようにほんの一部の石垣しか残っていませんでした(明治年間に撮影された古写真が残されています)。かつては海に突き出ていたのに、住宅地などの開発の波に飲まれて、海は500メートル先の向こうに遠のいてしまいました。
権現山砦
横浜市・神奈川区
戦国時代に北条早雲が扇谷上杉朝良の家臣・上田蔵人を味方にして権現山に砦を築かせたのがはじまりです。蔵人の謀反に激怒した朝良は2万の大軍を引き連れて、蔵人が立て籠もる砦を包囲したそうです。権現山の合戦は10日間も続き、多勢に無勢で上田郎党は滅ぼされてしまいました。幕末から明治時代にかけては、神奈川台場と鉄道用地の用土に権現山が削られて低くなったそうです。写真は権現山(砦跡)にあった幸ヶ谷公園で、神奈川宿50選看板と、権現山合戦の解説板が設置されていました。幸ヶ谷公園からは京浜急行の神奈川駅が見え、その向こうには北条氏の家臣・多米元益が築いた青木城(本覚寺)が見えました。
青木城
横浜市・神奈川区
戦国時代に北条早雲の家臣・多米元益が青木の台地に所領を得て居城を築いたのがはじまりだそうです。元益は三河国の豊橋出身の豪族でありながら、早雲の側近として信頼が厚かったそうです。多米元興(元益の子)が当主のときは北条氏康の代で、北条氏の七家老の一家に数えられていました。武田信玄が小田原城を攻めたときに、元興は居城を捨てて北条氏綱の娘婿・蒔田頼康(三河の吉良一族)の御所に駆けつけて死守したそうです。豊臣秀吉の小田原攻めでは城主の多米長定は箱根の山中城の守備に加勢して戦死し、青木城に残った多米左近(長定の子)は城と運命を共にしたそうです。写真は青木城址に建てられた本覚寺(曹洞宗)で、まるでお城のように見えました。余談ですが、横浜開港のときに本覚寺にはアメリカ領事館が置かれていたことがあるそうです。
玉縄城
鎌倉市
戦国時代に鎌倉を守る要塞として北条早雲によって築かれたのがはじまりです。北条氏時(早雲の次男)・北条為昌(氏綱の子)・北条綱成(氏綱の娘婿)・北条氏繁(綱成の子)・北条氏舜(氏繁の嫡男)・北条氏勝(氏繁の次男)の北条一門が城主になりました。玉縄城主で有名なのは綱成で、元々は今川家の重臣・福島正成の遺児でした。北条氏綱からは氏綱の娘と北条の姓をもらうほど信頼が厚く、あとを継いだ北条氏康からは名代として外交や軍事などの全権を任されていました。合戦になると常に北条軍の先頭に立って負けたことが一度もなかったそうです。上杉氏との河越夜戦、里見氏との国府台合戦、武田氏との深沢城籠城戦などの主要な戦いに北条軍が勝てたのは綱成の働きがあったからだそうです。写真はJR大船駅の近くにある清泉女学院の付近にあった標識です。
玉縄陣屋
鎌倉市
小田原役で北条氏が滅ぶと、豊臣秀吉の命令で徳川家康が関東に入部したときに、重臣の本多正信が玉縄城址内に陣屋を置いたのがはじまりだそうです。正信の子・正純が宇都宮城に移封すると、松平正綱が玉縄藩を興しました。正綱が玉縄藩主のときに、3代将軍・徳川家光の命令で日光東照宮を造営に携わりました。あと日光参道に杉の木の植樹を24年かけて実施し、それが現在見られる日光杉並木になりました。正綱は兄・松平久綱から養子を一人迎えており、後の有名な松平信綱(知恵伊豆守)です。松平正久(正綱の孫)のときに大多喜城に移封すると、玉縄陣屋は廃止されました。写真は陣屋坂と呼ばれている玉縄陣屋(玉縄城址)に通じる急な坂道の入口にあった不動産の看板です。
仁伝寺砦
藤沢市
戦国時代に北条早雲によって玉縄城が築かれると、支城として仁伝寺に砦が同時に築かれたのがはじまりだそうです。近くを藤沢から鎌倉に通じる古道があり、小田原城の北条氏による鎌倉防衛の役割をも合わせ持っていました。写真は真言宗・仁伝寺の本堂で、北条氏の家紋が付いていました。平安時代には村岡郷に荘園を所有していた平良文(桓武天皇から数えて5代目に当たり、関東における平氏一門の棟梁)と、平忠光&平忠道(良文の子達で、平将門の従兄弟に当たる)の五輪塔が裏山にありました。
村岡城
藤沢市
平安時代には村岡郷に荘園を所有していた平良文(後に村岡姓を名乗りました)の居城があった場所だそうです。戦国時代には玉縄城を守る砦(高谷砦)が置かれていたそうです。写真は村岡城址公園の入口にあった看板で、公園内には石碑がありました。公園は高台になっていて、住宅街を見渡すことが出来ました。近くに仁伝寺(真言宗)があり、平良文と、良文の子供達(平忠光&平忠道)の五輪塔がありました。余談ですが、平良文には異説があり、武蔵国の熊谷にも村岡郷があって、そこを本拠地にしていたとも云われています。
藤沢御殿
藤沢市
慶長5年(1600年)に徳川家康の命令で東海道沿いに宿泊施設として造営されたのがはじまりだそうです。ちょうど関ヶ原の合戦が起きた年で、天下の動きが大きく変わろうとしていた時期に築かれたということになります。藤沢御殿は6000坪の広さを持ち、家康・秀忠・家光の3代が宿泊したという記録が残っています。天和2年(1682年/6代将軍・徳川家宣)に藤沢宿に堀内本陣が置かれると藤沢御殿は廃止されました。写真は境川の上にかかる「御殿橋」から眺めた藤沢御殿跡です。
大庭城
藤沢市
平安時代にこの地を治めていた大庭景宗の居城があったと云われているそうです。大庭氏は坂東八平氏の一つである鎌倉氏の支族です。戦国時代には太田道灌が江戸城の支城として大庭城を大改修しました。道灌が主君の扇谷上杉定正によって暗殺されると、その後相模国を侵攻した北条早雲によって落城しました。早雲が鎌倉を守る要塞として玉縄城を築くと、大庭城は支城として役割を持っていたそうです。豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅ぶと、大庭城は廃城になりました。写真は大庭城址公園にあった石碑「大庭城址」で、戦国時代の土塁が良好に残っていました。市民の憩いの場として開放されている城址が多い中、大庭城はランニングをしている市民や学生が多かったのにはビックリしました。
諏訪氏館
横浜市・鶴見区
南北朝時代に信州諏訪氏の一族・諏訪頼重が築いたのがはじまりだそうです。戦国時代は諏訪右馬之助(馬之助とも呼ぶ)が城主で、小田原城の北条氏の旗本として、この居館と寺尾城を守備していたそうです。近くにある寺尾城の説明板によれば、関東に侵入した武田信玄の大軍が小田原城に向かう途中に、寺尾城を攻撃しないで通り過ぎて行ったそうですが、この諏訪氏館の説明板では武田軍の猛攻を受けて滅び去ったと書いてあって伝承がハッキリしていないんだなと思いました。住宅街のあっちこっちで見かける家庭ゴミの集積場と、注意書きの入った看板かと思いきや、写真の諏訪氏館の説明板でした。説明板の前にあった家庭ゴミが入らないよう工夫して撮りました。
寺尾城
横浜市・鶴見区
南北朝時代に信州諏訪氏の一族・諏訪頼重が築いたのがはじまりだそうです。頼重は北条時行(最後の執権・高時の遺児)を守り立てて中先代の乱を起こすと、足利直義(尊氏の弟)の軍勢を破って鎌倉を占拠しましたが、京都から駆けつけた尊氏によって滅ぼされてしまいました。戦国時代は諏訪右馬之助が城主で、小田原城の北条氏の旗本として寺尾城を守備していたそうです。関東に侵入した武田信玄の大軍が小田原城に向かう途中に、寺尾城を攻撃しないで通り過ぎて行ったそうです。県道85号線沿いにあるバス停「殿山」の背後にある坂に説明板があり、寺尾城の歴史が詳しく書かれていました。その坂をぐんぐん上がって住宅街に入った角に、写真の石碑「寺尾城址」がありました。近くにある上寺尾小学校の校章は、諏訪氏の紋‘かじの葉’が使われているそうです。
鶴見氏館
横浜市・鶴見区
吾妻鏡に登場する鎌倉御家人・鶴見平次の居館だと伝えられています。主君・畠山重忠に従い、北条義時と対決した二俣川合戦で戦死したという意味合いの内容が残っているそうです。鎌倉末期に新田義貞の鎌倉攻めでは、北条高時(鎌倉幕府最後の執権)の一族・北条貞将と、義貞方の千葉貞胤が対立した鶴見合戦は直ぐ近くであったそうで、敗走した貞将はいったん東勝寺に引き返して高時に報告した後、新田軍に切りかかって全滅したそうです。現在は鶴見氏館跡に曹洞宗・総持寺が建てられていました。総持寺は明治時代に全焼した後、現在の場所に再建しているので新しいお寺なのですが、写真の向唐門だけは藁葺きで良かったので撮りました。総持寺の墓地には「太陽にほえろ」で有名な石原裕次郎のお墓があるそうです。
河崎氏館
川崎市・川崎区
平安末期にこの地を治めていた河崎基家・重家親子の館があったそうです。河崎氏は坂東平氏・秩父党の流れをくむ名門だそうで、川崎という地名の語源となりました。河崎氏館跡は稲毛神社の境内になっていて、東海道の川崎宿の惣鎮守として栄えていたそうで、敷地内には宿場時代の唯一の木造建築物・子神社が残っていました。余談ですが、日露戦争で大活躍をした戦艦三笠の艦長・東郷平八郎は、薩摩に移住した東郷実重(重家の曾孫)を先祖に持つ人物だそうです。
小机城
横浜市・港北区
室町時代に築かれたそうですが正確には判明していないようです。小机城が歴史に登場したのは山内上杉氏の重臣・長尾景春の乱で、景春の家臣・小机弾正が守備する小机城を扇谷上杉氏の重臣・太田道灌が攻めました。小机城には道灌によって豊島城を追われた豊島泰経も立て篭もっていましたが、一緒に滅ぼされてしまったそうです。関東に勢力を伸ばした小田原の北条氏綱(早雲の長男)は小机城を大改修し、弟の北条長綱(後の幻庵)を派遣し重要拠点として支配するところとなりました。幻庵は北条氏の最長老として歴代の当主(氏康・氏政・氏直)の後見人を務めただけではなく、戦の駆け引きや馬術&弓術にも優れ、尺八の芸や連歌にも優れていた文武両道の武将だったそうです。北条五代の菩提寺・早雲寺の庭園も手がけるなど、造園技術にも長けていたそうです。
天秀尼邸
鎌倉市
大坂城が落城する時に、豊臣秀頼の武将・堀内氏久(九鬼義隆の養外孫)の護衛を受けて、千姫(秀頼の正室)と奈阿姫(秀頼の娘)と甲斐姫(太閤秀吉の側室)の三人が徳川秀忠の陣に送り届けられました。徳川家康に謁見した時、望みを聞かれた奈阿姫は鎌倉にある東慶寺に入る事を希望しました。養育係の甲斐姫と共に出家した奈阿姫は天秀尼を名乗ると、縁切り法を強化させました。天秀尼の時に会津藩主・加藤明成が出奔した家臣の妻子を追って東慶寺の敷地に入ってしまった事件で、明成は家康の逆鱗に触れて改易されました。天秀尼が外出すると、大名行列でも道を譲ったそうです。写真は東慶寺(臨済宗)の裏山にあった天秀尼の墓です。墓地には歴代の尼住職の墓が立ち並んでいて、覚山尼(開祖で北条時宗の夫人)と用堂尼(後醍醐天皇の5女)の墓もありました。
和田義盛館
鎌倉市
鎌倉御家人・和田義盛の居館(屋敷)のあった場所だそうです。義盛は坂東八平氏の流れをくむ三浦氏の一族です。源頼朝に信頼されていた鎌倉武士で、鎌倉幕府の創立時は初代侍所別当を務めていました。平氏討伐では源範頼の軍奉行として従軍したり、奥州征伐では義経の軍勢を破ったりと数々の武功をたてていました。頼朝が亡くなった後は、梶原景時の弾劾、比企能員の変、武山重忠の乱といった一連の御家人の反乱では執権・北条氏に組みして討伐するなどの働きをしていました。北条氏による武家政権の確立と執権政治確立を狙っていた二代目執権・北条義時の挑発によって、挙兵に追い込まれた義盛は鎌倉で市街戦を展開しました。居館を放火された義盛は由比ガ浜で戦死してしまいました。由比ガ浜には「和田塚」があります。写真は義盛の居館があった場所です。
太田道灌館
鎌倉市
山吹伝説で有名な室町時代の武将・太田道灌の屋敷(居館)のあった場所だそうです。道灌は関東管領・扇谷上杉持朝と定正の2代に仕えていた武将で、剃髪する前は持資と名乗っていました(主君の一字「持」をもらっています)。道灌は幼少から英才で、鎌倉にあったこの屋敷から臨済宗・建長寺に通っていたそうです。また、足利学校(栃木県足利市)に通っていた事もあるそうです。道灌は主君よりも優れていたので、定正によって暗殺されてしまいました。江戸時代には、英勝院(道灌の一族)が徳川家康の11男・頼房の乳母となった縁で、道灌の屋敷跡に浄土宗・英勝寺(鎌倉では唯一の尼寺)が建てられました。余談ですが、道灌の銅像は全国で8ケ所もあります。一武将の銅像でこれだけの数があるのは他にもあまり例がなく、さすが伝説多き名将だと思いました。
比企能員館
鎌倉市
鎌倉御家人・比企能員の居館(屋敷)のあった場所だそうです。能員は源頼朝の乳母・比企禅尼の養子だそうです。能員の娘・若狭局は頼朝と北条政子の間に生まれた長男・頼家(二代将軍)の正室になっているそうです。頼朝が病気になると、北条時政と政子は関東の地頭職を源一幡(頼家の長男)に、関西の地頭職を源千幡(頼家の弟で後の三代将軍になった実朝)に与えられた為、それに反発した頼家は側近の能員と共に反乱を起こしたそうです(比企の乱)。先手を打った時政によって能員は暗殺され、能員館は時政の軍勢に攻められて、比企一族と若狭局と一幡は焼け死んだそうです。首謀者の頼家は伊豆の修善寺に幽閉された後、時政から放たれた刺客によって亡くなりました(余談ですが、公暁は頼家の次男です)。写真は日蓮宗・妙本寺の総門の前にあった石碑です。
土佐坊昌俊館
鎌倉市
鎌倉御家人・土佐坊昌俊の居館(屋敷)のあった場所だそうです。土佐坊氏は桓武平氏・渋谷氏の一族です。源頼朝と、弟義経が不仲になると、頼朝は義経追討の会合を開きました。誰一人引き受ける者が居なかったので、昌俊が引き受けたそうです。昌俊は83騎の手勢を率いて京都に入ると、堀川にある義経屋敷に夜襲をかけたそうです。静御前にたたき起こされた義経は家臣の佐藤兄弟と共にそれを撃退したそうです。敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込むと、義経ゆかりの僧兵達に囲まれて捕らえられ、六条河原で斬られたそうです。異説があって、平治の乱で敗走した父義朝に最期まで従った忠臣であることを知っていた義経は、昌俊を斬ることが出来ず、逃がしたそうです。写真は天台宗・宝戒寺(北条執権館跡)から50メートル歩いた付近にある民家の前にあった石碑です。
青砥藤綱館
鎌倉市
鎌倉御家人・青砥藤綱の居館(屋敷)のあった場所だそうです。藤綱は5代目執権・北条時頼(時宗の実父)に仕えていた判官(現在でいう裁判官)をしていました。写真の石碑は滑川の「青砥橋」の前にある民家の垣根にありました。藤綱にまつわる東勝寺橋の伝説があるそうです。『ある夜のこと、役所に登庁すべく夜中に屋敷出た藤綱は、道中の東勝寺橋で過って十文を滑川に落してしまいました。たいまつを五十文で買って、なんとか落とした十文を見つけ出しました。人々は、「小利の大損だ」と大笑いをしました。それを聞いた藤綱は、十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くしたのと同じだ。私は、たいまつで五十文を失ってしまったが、五十文は人々のためになっていると諭したので、笑っていた人々は恥ずかしさのあまり押し黙ってしまった。』
畠山重忠館
鎌倉市
鎌倉御家人・畠山重忠の居館(屋敷)のあった場所だそうです。畠山氏板東八平氏の一つ秩父氏の嫡流です重忠は源頼朝に最も信頼されていた鎌倉武士で、源平合戦に多くの功績を残し、鎌倉幕府成立後も御家人の重鎮として活躍していたそうです。頼朝が亡くなると重忠は北条時政(政子の父)に疎まれ、謀略をもって駿河国の二俣川で討ち取られてしまったそうです。写真は鶴岡八幡宮の東門の手前にある民家の角にあった石碑です。重忠には、一ノ谷の合戦の‘ひよどり越え’で愛馬・三日月を担いで崖を駆け降りたという豪快な伝説があるのですが、埼玉県の川本町に「畠山氏館跡(畠山重忠公史跡公園)」があり、駐車場に愛馬を担いでいる重忠の像があります。同じく埼玉県の嵐山町にも「菅谷館跡(埼玉県立歴史資料館)」があり、正装姿の重忠の像があります。
上杉朝宗館
鎌倉市
南北朝時代の武将・上杉朝宗の居館(屋敷)のあった場所だそうです。朝宗は関東管領を務めた人物で、歴代の鎌倉公方が室町幕府と対立しようとしたときに度々諌言して思いとどまらせた実力者だったそうです。朝宗が亡くなると、4代の鎌倉公方・足利持氏が、3代目の室町将軍・足利義教(義満の3男)と対立して滅ぼされてしまったそうです。朝宗の子には、室町時代に起きた‘禅秀の乱で有名な上杉氏憲(後の禅秀)が居て、この居館で氏憲は生まれたそうです。皮肉なことに、氏憲が挙兵に失敗して追い詰められて自刃してしまった場所でもあるそうです。写真は天台宗・杉本寺の手前を流れる滑川の「犬懸橋」を渡った先にある坂を登った最初の交差点にあった石碑です。
足利公方館
鎌倉市
鎌倉御家人・足利義兼の居館(屋敷)のあった場所だそうです。義兼の父は足利義家(足利氏の祖)です。母は源頼朝の母の妹に当たるので、頼朝とは従兄弟の関係になるそうです。頼朝の亡きあと鎌倉幕府創設時の武将達が北条氏によって討たれていくのを見てきた義兼は隠居して3男・義氏に家督を譲ったそうです。義兼の正室は北条政子の妹だったので、義氏は2代目執権・北条義時(政子の弟)と3代目執権・北条泰時(御成敗式目を制定)の直臣として仕えていきました。室町時代から戦国時代にかけて、この居館から5つの公方(篠川,稲村,堀越,古河,小弓)が派生し、足利一族は戦乱の渦に周囲を巻き込んでいきました。江戸時代には古河公方系統の喜連川公方が唯一残りました。写真は滑川の「泉水橋」の手前にある民家の駐車場の真横にあった石碑です。
大江廣元館
鎌倉市
鎌倉御家人・大江廣元の居館(屋敷)のあった場所だそうです。廣元は源頼朝に信頼されていた鎌倉武士で、鎌倉幕府の創立時は初代別当(政所の長官)を務めていました。頼朝が守護と地頭の職制を設置したのは廣元の進言によるものだといわれているそうです。余談ですが廣元の四男・秀光は相模国にある毛利庄を治めていたことから、毛利姓を称するようになったそうです。有力御家人・三浦時村の反乱で三浦側に付いた秀光は、敗走して一族のほとんどを誅殺されてしまったそうです。生き残った子孫は安芸国に逃れて移住するようになり、中国地方の覇者・毛利元就を輩出することになります。写真は滑川の「明石橋」の付近にある民家の角にあった石碑です。
北条執権館
鎌倉市
鎌倉幕府・北条執権の居館(屋敷)のあった場所だそうです。坂東平氏の流れをくむ北条時政(政子の父)が、治承4年(1180年)に伊豆国から移住して鎌倉に屋敷を構えて以来、150年間北条氏による鎌倉幕府の本拠地として栄えたそうです。元弘3年(1333年)5月22日に新田義貞の大軍が鎌倉に攻めこむと、北条高時は屋敷を出て先祖代々の菩提寺・東勝寺に入り、800名余の一族郎党と共に自害してしまったそうです。天台宗・宝戒寺の開祖は後醍醐天皇で、建武2年(1335年)に北条高時の菩提を弔うため、足利尊氏に命じて屋敷跡に建立しました(写真の石碑は宝戒寺の門の前にありました)。本尊は国重要文化財に指定され、境内には四季を通じて花が咲き、毎年9月には白い萩の花で埋め尽くされる「萩の寺」として有名だそうです。
千葉胤貞館
鎌倉市
鎌倉幕府の最後の執権・北条高時の御家人・千葉胤貞の居館(屋敷)のあった場所だそうです。胤貞は九州の肥後国に領地を持つ武将で、千葉宗胤の子だそうです。宗胤と胤貞の親子は熱心な日蓮宗の信者だったそうで、日英を迎えて居館の敷地内に妙隆寺(日蓮宗)を建立したそうです。日英は千葉一族・埴谷重継の次男・日新の甥に当たります。胤貞の父・宗胤は下総国の千葉宗家の当主でしたが、蒙古来襲による博多港の守備のために九州に出向し、幕府の命令によって他の関東御家人達と同様、そのまま住み着いてしまったそうです。そういうことがあったので、宗胤の弟・胤宗が千葉宗家を継いでしまったそうです。室町時代には少弐氏と並ぶ肥前国における有力豪族に成長したそうです。写真は妙隆寺の新しくなった本堂で、手前に説明板がありました。
佐竹秀義館
鎌倉市

鎌倉御家人・佐竹秀義の居館(屋敷)のあった場所だそうです。常陸佐竹氏3代目の当主です。父・隆義が平治の乱の以降から平清盛に仕えていて、源頼朝が伊豆で挙兵した後も親子で常陸における頼朝の動きを牽制していたそうです。隆義が老齢で亡くなって秀義が家督を継ぐと、再び頼朝に攻められて奥州に落ち延びてしまったそうです。その後宇都宮で頼朝に臣礼を誓って許されたそうです。6年後に起きた奥州藤原征伐で軍功を挙げたので、鎌倉御家人として認められたそうです。その時に屋敷を建てた場所だと云われているそうです。写真は日蓮宗・大宝寺の入口の手前にあった石碑です。余談ですが、末裔に現在の秋田市長(平成19年/2007年の時点)・佐竹敬久が居るそうです。

畠山重保館
鎌倉市
鎌倉御家人・畠山重保の居館(屋敷)のあった場所だそうです。重保の父は重忠で、母は北条政子の妹です。頼朝が亡くなると、京都守護の平賀朝雅(北条時政の娘婿)との確執で謀反の疑いをかけられた重保は、時政の軍勢に居館を急襲されて討ち死にしてしまったそうです。父・重忠も時政(政子の父)に疎まれ、駿河国で討ち取られてしまったそうです。未亡人となった重保の母は足利義兼と再婚して足利義氏(足利氏3代目)をもうけています。重保と義氏は従兄弟同士でありながら、重保は平氏で義氏は源氏というずいぶん複雑な関係になっています。写真は若宮大路に面している鶴岡八幡宮の大鳥居の横にあった石碑です。
安達盛長館
鎌倉市
鎌倉御家人・安達盛長の居館(屋敷)のあった場所だそうです。盛長は源頼朝が伊豆に流されていた頃から仕えていた古参でした。頼朝に信頼されていた武将でしたが、頼朝が亡くなると出家して蓮西と名乗ったそうです。二代将軍・源頼家のときは、鎌倉御家人13人の一人として幕政に参画していたそうです。写真は甘縄神明社の長い石段の手前にあった石碑です。
山内上杉館
鎌倉市
室町時代の武将・山内上杉氏の居館(屋敷)のあった場所だそうです。関東管領になった上杉憲顕は山内に屋敷を建てたので、山内上杉の姓を名乗る様になりました。憲顕と足利尊氏&直義兄弟とはイトコ同士だそうです。戦国時代には上杉憲政が当主で、越後の長尾景虎が北条氏康の小田原城を攻めたときに、鎌倉にある鶴岡八幡宮で関東管領職を譲り渡したそうです。景虎は上杉姓と「政」の字を下賜ったので、上杉政虎と名乗るようになりました。余談ですが、上杉禅秀の乱で有名な上杉氏憲は山内上杉氏の出です。写真は臨済宗・明月院の正面にあった石碑「深谷上杉氏ゆかりの寺」と説明板です。明月院はアジサイ寺として有名で、季節になると観光客で賑わっています。明月院の周辺はオシャレな珈琲店が立ち並んでいて、歩いていると珈琲の香りでいっぱいでした。
扇谷上杉館
鎌倉市
室町時代の武将・扇谷上杉氏の居館(屋敷)のあった場所だそうです。鎌倉執権・北条時頼の要請によって、京都から後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王(鎌倉6代将軍)が迎えられた時、丹波国の上杉庄を治めていた藤原重房も同行して鎌倉に入りました。鎌倉に入った重房は扇谷に屋敷を建てたので、扇谷上杉の姓を名乗る様になりました。南北朝時代には、足利尊氏の母・清子の祖父が重房に当たる為、扇谷上杉氏は一族をあげて北朝側として働き、尊氏が室町幕府を開府すると、鎌倉公方の足利氏を支えていきました。太田道灌を暗殺した11代当主・上杉定正はこの屋敷で生まれたそうです。写真は浄土宗・英勝寺の正面にある踏切を渡った左側に50メートルほど歩いた所の民家にあった石碑です。横の電柱には「扇ガ谷二丁目3」と書いてある青色の住所札がありました。

105ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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