関ヶ原の戦いがあった翌年に島津家久によって築かれたのがはじまりだそうです。島津義久(九州を平定した16代当主)と島津義弘(17代当主)の兄弟は伊作城に居ましたが、家久に家督を譲ったのには訳があったそうです。関ヶ原の戦いで義弘は西軍に従軍していたのですが、東軍の包囲網を撃破して薩摩に逃げ帰ると、息子の家久に家督を譲って隠居してしまいました。徳川家康による出頭命令や脅かしには動じる事なく「既に家久が当主なので関知しない」と突っぱねてしまいました。島津氏は琉球を属国にして莫大な貿易利益を得ていたのと、地理的に遠い所にあった事から、家康でも手が出せなかったという史実が残っています。写真は高校の修学旅行で私学校跡と城山公園に行った時の西郷隆盛像で、隣接していた鹿児島城跡は時間の関係で石垣しか見ていません。
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