11ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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金沢城
金沢市

戦国時代に加賀国における一向宗の拠点だった尾山御坊を織田信長の家臣・佐久間盛政が攻め落として金沢城と改称したのがはじまりです。金沢城は金沢平野の中央を流れる犀川と浅野川に挟まれた小立野台地に築かれた要害です。信長亡き後に起きた賤ヶ岳の戦い(柴田勝家と羽柴秀吉が対立した戦い)では勝家に付いた盛政が秀吉によって討たれると、秀吉に付いた前田利家が入城して大改修をしたのか現在の金沢城です。以後、金沢城は前田家14代の居城として栄えました。現在は金沢大学が移転して金沢公園として整備され、全国でも類を見ない大型の櫓と城門が復元されました。写真は復元され菱櫓と五十間長屋と橋爪門続櫓で、明治初年に撮影された古写真の通りとなりました。グルッと周ったのですが、規模の大きさに圧倒されてしまいました。

堅田城
金沢市

築城の時期と城主は不詳ですが、標高113メートルの丘陵先端部に築かれた山城です。眼下には森下川が天然の水堀の役割を持ち、曲台からは北陸街道を監視出来る要衝でした。発掘調査によって室町時代から戦国時代にかけて築かれた中世の特徴を残した土塁が残っていただけでなく、弥生時代や飛鳥時代、鎌倉時代の土器なども出土しており、様々な時代にこの場所が利用されていたことが分かっています。「石川県中世城館跡調査報告書T」によれば、堅田城は加賀一向一揆衆によって戦国期に改修された城なのではないかということでしたが、中国産高級陶磁器や国産土器・漆器などが多量に出土していたことから、加賀一向一揆衆は土豪の力を取り込んだ強力な勢力を誇っていたのだろうと思いました。写真は堅田城の麓にあった標識で、その手前には由来板がありました。

亀田氏館
金沢市

南北朝時代に清和源氏の流れを組む亀田岳信の居館があったそうです。北国街道と森下川が交差する位置にありました。岳信は一向一揆の首領で、織田信長に北陸の支配を任された柴田勝家に最後まで抵抗した武将です。最終的には勝家の家臣団として組み込まれました。江戸時代には代々十村役を務めていたそうです。余談ですが、金沢のお菓子で有名な森八は加賀藩御用達菓子司でした。創造者は田宗兵衛といい、金沢城下で森下屋として酒造業を営んだのがはじまりで、名前を八左衛門に改めました(森八という商は森下屋の「森」と八左衛門の「八」に由しています)。商標「蛇玉」は、岳信の祖父・田小三郎周の甲冑に描かれていた紋章だそうです。写真は旧亀田家の家屋で、敷地内には案内板があり、門脇には明治天皇御巡幸の記念石碑が建っていました。

七尾城
七尾市

室町時代に能登国の守護・畠山満慶が居城を築いたのがはじまりだそうです。以後、150年間畠山氏15代の居城として続きました。最後の城主は畠山春王丸で、上杉謙信による第二次七尾城の攻略で、畠山氏の譜代の重臣の内応によって落城してしまいました。七尾城が落城したわずか8日後に織田信長の4万の援軍が加賀国に入って手取川を渡河すると、大雨を利用した謙信の8千の軍勢の攻撃をうけて信長は大敗してしまいました。勝利後の謙信は「信長は大したことなかった」という詩を読んでいます。七尾合戦の翌年の3月に謙信が春日山城内で脳出血で倒れてしまいましたが、謙信が最後に攻め落としたのが七尾城となりました。写真は桜馬場にあった見事な四段の石垣です。余談ですが、安土桃山時代に国宝「松林図屏風」を描いた長谷川等伯は、七尾の出身です。

遊佐屋敷
七尾市

戦国時代に七尾城主・畠山氏(能登国の守護)の家臣・遊佐続光(能登国の守護代)の屋敷があったところです。続光は下野国・小山氏(宇都宮氏の支族)の流れを組む名門の出で、畠山氏の八臣の一人に数えられていました。畠山家を支える守護代という要職でありながら、上杉謙信が七尾城を包囲すると、温井景隆と三宅長盛(景隆の弟)と共に内応して義兄の長続連(織田派)を殺して降伏してしまいました。七尾城が落城した後に謙信が陣中で病死すると、七尾城を攻略した織田信長によって続光と続光の家族は処刑されてしまいました。写真は七尾城跡にあった遊佐氏の屋敷跡にあった由来板で、近くにある石垣が守護代としての実力を誇示していました。

温井屋敷
七尾市

戦国時代に七尾城主・畠山氏に仕えていた温井景隆(輪島・天堂城の城主の屋敷があったところです。景隆は清和源氏・足利氏の流れを組む名門の出で、畠山氏の四家老の一人に数えられていました。畠山家の要職に就いた家臣でありながら、上杉謙信が七尾城を包囲すると、弟の三宅長盛と遊佐続光と共に内応して織田派長続連を殺して降伏してしまいました。七尾城が落城した後に謙信が陣中で病死すると、能登国に侵攻した織田信長によって追われてしまいました。信長が京都の本能寺で明智光秀によって討たれると、復権を目指して上杉景勝(謙信の甥)の支援のもと能登に入りましたが、信長の家臣・佐久間盛政と前田利家の反撃によって、弟の長盛と共に戦死してしまいました。写真はニノ丸跡にあった温井氏の屋敷跡にあった由来板です。

小松城
小松市

戦国時代に若林長門(加賀一向一揆の武将)によって築かれたのがはじまりです。梯川の水を引き入れ、周囲は湿原地帯や水田に囲まれた水城でした。その後、柴田勝家、村上頼勝、丹羽長重が城主になりました。江戸時代になって幕府が出した一国一城令によって廃城になったものの、前田利常(前田利家の4男)によって隠居城という名目で再建しました。石垣や水堀、天守の代用となった御三階櫓まで築かれたので、新城建設に似た大規模な工事でした。以後明治5年まで続いたので、古写真が残っています。市内にある真宗・来生寺に鰻橋御門(小松城の唯一の遺構である)が移築されて残っています。写真は小松城の天主台の石垣で、写真を撮っていたら小松空港に着陸しようと車輪を出したボーイング旅客機が轟音をたてて真上を通過していきました。

今江城
小松市

築城の時期は不明ですが、室町時代に加賀国の守護・富樫泰高が居城としていた時期がありました。富樫氏は藤原利仁を祖先に持つ名門です。戦国時代には加賀一向一揆によって富樫氏は滅亡しました。加賀国に攻めてきた織田信長の重臣・佐久間盛政に攻められて落城しました。関ヶ原の戦いでは、前田氏の家臣・山崎長徳や長連龍が5千の兵を引き連れて陣地が置かれ、西軍の丹羽長重が籠る小松城と対峙しました。今江城は一旦廃城となったものの、加賀藩の2代藩主・前田利常(利家の次男で徳川秀忠の娘婿)が隠居城として小松城を修復すると、今江城跡は加賀藩の収納蔵として残りました写真は、今江小学校の裏手にあった石碑「今江城跡」で、土塁が良好に残っていました。

大聖寺城
加賀市
鎌倉時代に狩野氏によって築かれたのがはじまりだそうです。南北朝時代には津葉氏が城主で、北朝方に付いたために南朝方の敷地氏と山岸氏の軍勢に攻められたことがあります。戦国時代には一向一揆の拠点になったり、朝倉氏の持ち城になったりしました。その後、戸次広正(織田信長の家臣)佐久間盛政(佐久間信盛の従叔父)、拝郷家嘉(柴田勝家の家臣)、溝口秀勝(丹羽長秀の家臣)、山口宗永(小早川秀秋の家臣)などが城主になりました。関ヶ原の戦いの後、金沢藩から城代が送りこまれましたが、前田利治(前田利家や徳川秀忠の孫)が初代藩主として大聖寺藩を興すと、前田分家14代の陣屋として230年間続いて明治維新を迎えました。写真は大聖寺川に面して建てられた数寄屋風の茶室・長流亭で、唯一残っている大聖寺城の建物です。
勅使館
加賀市

平安時代から南北朝時代にかけて支配していた豪族が築いた居館だそうです。領主は勅使河原四郎左衛門、もしくは河原右京だとの伝えられていて、定かではないそうです。勅使小学校の建設で遺構が発見され、その後の発掘調査によって南北180メートル、東西160メートルの連郭式居館で、主郭を中心とする4つの郭で構成されていたことが分かっています。大型の建物跡、土坑、井戸などが出土したものの、埋め戻されてしまいました。写真は勅使小学校の校舎とプールの間にあった由来板です。

打越城
加賀市

築城の時期は不明ですが、戦国時代は桂田中務が城主で加賀一向一揆の将として統率していたそうです。織田信長の重臣・柴田勝家が加賀国の平定の際、中務を招いて謀殺しようと画策し、それに気づいた中務は姿をくらましたそうです。その後廃城となると、勝光寺が(浄土真宗)が建てられました。関ヶ原の戦いが起きると、この地方にも飛び火しました。西軍方の山口宗永(小早川秀秋の補佐官でしたが主君と折り合いが悪くて出奔)が守る大聖寺城に、東軍方の前田利長(利家の嫡男)が攻撃をした際に、当時の勝光寺の住職・祐賢上人が利長に援軍を出して出兵して戦死してしまったそうです。写真は打越城址の高台に建てられた勝光寺で、お城の物見櫓風の建物が印象的でした。