尼崎城
尼崎市
応仁の乱のときに細川勝元の息子・高国が築いて従兄弟の細川尹賢を置いたのがはじまりだそうです。戦国時代には有岡城の荒木村重の勢力がこの地におよぶと、息子の村次が入城したことがあります。関ヶ原の合戦後には大垣藩から戸田氏鉄(徳川家康の近習)が入封して尼崎城を築いたのがはじまりです。以後、青山氏4代、松平氏7代の居城として続きました。明治初期に撮影された古写真では4層の立派な天守閣が写っていましたが、廃藩置県によって建物は競売後に全て取り壊され、石垣は尼崎港の防波堤への転用や第二阪神国道の建設によって剥ぎ取られ、更に水堀まで埋め立てられて跡形も無く消滅してしまいました。写真は尼崎城跡公園に模造された石垣と城壁ですが、完全に逆光になってしまいました。
契沖邸
尼崎市
江戸中期に活躍した古典学者・契沖(けいちゅう)の屋敷があったところです。契沖は尼崎藩に仕えていた家臣・下川氏で、戦国時代には加藤清正の家老だった祖父・元宜を持つ家柄です。著書には徳川光圀(水戸徳川家の2代目で家康の孫)から委託された万葉代匠記(万葉集の注釈書)をはじめ、百人一首改観抄(百人一首の注釈書)、勢語臆断(伊勢物語の注釈書)、古今余材抄(古今集の注釈書)等の古典や古歌があり、国学の発展に大きな影響を与えました。写真は市立中央図書館の前にあった邸宅跡の石碑とモニュメントです。余談ですが、向かいにあった桜井神社に尼崎城の旧天守閣に使われたという棟瓦があり、高さ1メートルを超える大きなものでした。
姫路城
姫路市
南北朝時代に赤松貞徳(円心の次男)が姫山に城を築いたのがはじまりだそうです。慶長5年(関ヶ原の戦いの翌年)に池田輝政が戦功で入封すると、52万石の居城に相応しい大城郭として8年かけて大改修し、現在の姿になったそうです。大改修をする前は豊臣秀吉が築いた城郭と建物があったのですが、昭和の大修理で天守閣に使われていた建材の一部に、秀吉時代の姫路城の遺材が転用されていたことが明らかになったそうです。姫路城は4回行ったのですが、石垣のつなぎ目(拡張した部分)が各所で見られ、秀吉時代と輝政時代の石垣の部分が良く分かるのが面白かったです。あと、天守閣群をはじめとする多数の建物が残されているので見こたえがあり、何度行っても本当に素晴らしいです。
御着城
姫路市
室町時代に播磨の守護・赤松氏の一族・小寺政隆が築いたのが始まりだそうです。御着城は天川の水を引いた4重の水掘と家中屋敷、そして山陽道や城下町を取り込んだ惣構えの城でした。小寺政職が城主のときに羽柴秀吉による播磨攻めで落城しました。政職の遺児・政則は戦後小寺の姓を改めて天川久兵衛と名乗りました。天川家は代々庄屋を務めて明治維新を迎えました。写真は姫路市東出張所にあった城址碑です。近くには小寺氏の家臣・黒田重隆夫妻の廟屋がありました。重隆は黒田官兵衛(後の如水)の祖父に当たる人物で、御着城の支城だった姫路城の城主でした。余談ですが中世の播磨では英賀城と三木城と共に「播磨三大城」の1つに数えられています。
英賀城
姫路市
室町時代に播磨の赤松祐尚によって築かれたのが始まりだそうです。英賀城(あがじょう)は東西を夢前川と水尾川に挟まれた要害でした。祐尚は実如(本願寺・蓮如の実子)を迎えて、城内に英賀御坊を建てたそうです。祐尚が没したあとは一族の三木道近が城主になりました。三木通武が城主のときに三木城の別所長治と同盟を結んだために、羽柴秀吉による播磨攻めで落城しました。「英賀千軒はては西の京」といわれるほどの栄華を誇った英賀城は廃城となりました。広大な敷地を持った英賀城でしたが、今は静かな住宅街に変貌してしまいました。写真は英賀神社の裏にかろうじて残っていた土塁の上にあった石碑です。余談ですが中世の播磨では御着城と三木城と共に「播磨三大城」の1つに数えられています。
妻鹿城
姫路市
室町時代に赤松氏の一族・妻鹿長宗によって築かれたのがはじまりだそうです。「太平記」によると、元弘の戦で北朝方に付いた赤松円心に属して軍功を立て、恩賞として妻鹿地方を与えられました。戦国時代には小寺氏の被官・黒田職隆(孝高の父)が、姫路城から居城を妻鹿城に移しました。黒田孝高(後の如水)が城主のときに居城を姫路城に移し直しました。羽柴秀吉による播磨攻めで三木城の別所長治が滅ぼされると、秀吉は三木城に入城しました。孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言して姫路城を秀吉に譲ると、再び居城を妻鹿城に戻しました。秀吉が天下統一を果たすと、黒田家は九州の福岡に入封しました。写真は荒神社にあった石碑「妻鹿城址」で、その横には説明板がありました。
国府山城
姫路市
赤松氏の一族・妻鹿長宗が、麓に妻鹿城を築いたときに、同時に詰城として甲山に国府山城を築いたのがはじまりだそうです。国府山城は左岸を流れる市川を天然の水堀とした山城でした。戦国時代には黒田親子(職隆・孝高)が居城として構えていた時期がありました。今回は時間の関係で甲山を登らなかったのですが、荒神社にあった説明板によると石垣や土塁が残っているそうです。写真は妻鹿駅から眺めた国府山城がある城山です。
的形城
姫路市
築城年代は不明ですが、戦国時代に的形領を治めていた長尾重朝が城主をしていたそうです。国道20号から見上げた崖の上にある円光寺の古い本堂は、まるで砦のような雰囲気でした。写真は円光寺の境内にあった石碑で「的形城砦の址」という不思議な表現でした。「的形城」または「的形砦」のどちらかにするべきだと思いました。この日の城巡りは的形城が最後の6城址目で、埼玉からの日帰りで、しかもローカル列車と徒歩でよく巡ることが出来たなと思いました。
明石城
明石市

江戸時代初期に小笠原忠真が信州松本城から移って赤松山に明石城を築いたのがはじまりだそうです。最初は明石川の西側にあった船上城(一国一城令で建物の大部分が破却された後だったので、陣屋程度だったそうです)に居たのですが、忠真の母は松平信康(徳川家康の嫡男)の娘・峯高院に当たることから、将軍・徳川秀忠の命令で明石城を築き、それが現在の姿になったそうです。昭和32年に巽櫓と坤櫓が国指定重要文化財に指定されたそうです。友人と姫路城に行き、そこから大阪市に向かう途中の山陰本線の列車の窓から2棟の櫓が見えたのですが、前の年に起きた阪神淡路大震災で漆喰壁が剥離していて痛々しかったです。

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