2019年5月19日(日) |
尼崎市 |
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応仁の乱のときに細川勝元の息子・高国が築いて従兄弟の細川尹賢を置いたのがはじまりだそうです。戦国時代には有岡城の荒木村重の勢力がこの地におよぶと、息子の村次が入城したことがあります。関ヶ原の合戦後には大垣藩から戸田氏鉄(徳川家康の近習)が入封して尼崎城を築いたのがはじまりです。以後、青山氏4代、松平氏7代の居城として続きました。明治初期に撮影された古写真では4層の立派な天守閣が写っていましたが、廃藩置県によって建物は競売後に全て取り壊され、石垣は尼崎港の防波堤への転用や第二阪神国道の建設によって剥ぎ取られ、更に水堀まで埋め立てられて跡形も無く消滅してしまいました。写真は尼崎城跡公園に模造された石垣と城壁ですが、完全に逆光になってしまいました。 |
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契沖邸 |
尼篠市 |
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江戸中期に活躍した古典学者・契沖(けいちゅう)の屋敷があったところです。契沖は尼崎藩に仕えていた家臣・下川氏で、戦国時代には加藤清正の家老だった祖父・元宜を持つ家柄です。著書には徳川光圀(水戸徳川家の2代目で家康の孫)から委託された万葉代匠記(万葉集の注釈書)をはじめ、百人一首改観抄(百人一首の注釈書)、勢語臆断(伊勢物語の注釈書)、古今余材抄(古今集の注釈書)等の古典や古歌があり、国学の発展に大きな影響を与えました。写真は市立中央図書館の前にあった邸宅跡の石碑とモニュメントです。余談ですが、向かいにあった桜井神社に尼崎城の旧天守閣に使われたという棟瓦があり、高さ1メートルを超える大きなものでした。 |
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三日月陣屋 |
佐用市 |
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=作成中= |
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上月城 |
佐用市 |
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鎌倉時代に赤松氏の一族・上月景盛によって築かれたのが始まりです。戦国時代は赤松政元が入城すると、赤松氏の持城になりました。政元の子・政範が城主の時に織田信長の家臣・羽柴秀吉によって落城すると、尼子勝久(経久の玄孫)と山中幸盛が入城しました。毛利方の宇喜多直家が攻めてくると、勝久と幸盛は上月城を手放した為に、直家の家臣・上月景貞(黒田官兵衛とは相婿)が城主になりました。まもなくして秀吉の命を受けた官兵衛によって落城し、景貞は自刃してしまいました。上月城を取り返した勝久と幸盛でしたが、秀吉が播磨の豪族・別所長治と小寺政職の制圧に手を焼いている最中に、毛利輝元の率いる3万の大軍によって上月城は落城し、勝久は自刃、幸盛は殺害されてしまいました。写真は上月城資料館の駐車場にあった登城口の標識です。
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飯野山城 |
佐用市 |
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=作成中= |
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浅瀬山城 |
佐用市 |
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=作成中= |
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佐用城 |
佐用市 |
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=作成中= |
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利神城 |
佐用市 |
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=作成中= |
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平福陣屋 |
佐用市 |
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=作成中= |
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龍野城 |
たつの市 |
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=作成中= |
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鶏籠山城 |
たつの市 |
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=作成中= |
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脇坂氏邸 |
たつの市 |
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=作成中= |
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城山城 |
たつの市 |
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=作成中= |
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新宮陣屋 |
たつの市 |
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=作成中= |
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林田陣屋 |
姫路市 |
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江戸時代に建部政長が大坂の陣の功によって廃城になっていた窪山城のあった場所に陣屋を置いたのがはじまりです。以後、建部家10代の陣屋として254年間続いて明治時代を迎えました。前身である窪山城ですが、室町時代の豪族・谷沢国氏が築いたのですが、置塩城の赤松晴政に背いたために攻められて滅亡しています。余談ですが、初代藩主・政長は福島正則が改易されたときの広島城の受け取り処理、一族の池田輝澄(輝政の4男で徳川家康の外孫)が改易されたときの山崎陣屋の受け取り処理を務めています。林田小学校の近くに藩校・敬業館講堂の建物が残り、林田小学校の背後にある聖ヶ岡公園に林田陣屋の石垣が残っていました。写真は聖ヶ岡公園にあった林田陣屋の石碑と由来板で、推定復元絵図を見ると、三日月陣屋とは建物の特徴がそっくりでした。 |
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置塩城 |
姫路市 |
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応仁の乱で赤松政則(8代目)は東軍に付いて播磨国へ攻め込んで旧領を回復したため、白旗城からこの地に新城を築いて移ってきたのがはじまりです。置塩城は標高380メートルの山頂に築かれた城で、本丸、二ノ丸、北曲輪を配置し、石垣で固めた堅固な城でした。赤松氏5代(政則、義村、晴政、義祐、則房)の居城として栄えていましたが、戦国時代に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の中国攻めで則房が降伏すると、置塩城は城割りの対象となって、廃城になりました。置塩小学校から県道80号に入り、橋を渡った直後の夢前川沿いにある道を北上したところに、写真の城址碑と由来板が設置されていました。山頂には石垣もあり、戦国大名・赤松氏の居城らしい遺構でした。 |
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書写坂本城 |
姫路市 |
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南北朝時代に村上源氏の流れを組む赤松円心が守護所として天神山の麓に居城を構えたのがはじまりです。赤松満祐(円心の玄孫)が城主のときに6代将軍・足利義教を京にある赤松邸で暗殺すると、7代将軍に就任した足利義勝(義教の嫡男)の命で山名宗全や細川持常や赤松貞村(義教の義兄)らが率いる幕府軍によって坂本城は落城してしまいました。坂本城を追われた満祐は城山城に逃げ込んで自刃してしまいました。応仁の乱時の坂本城は赤松政則の持城となり、山名氏と播磨国を巡って度々戦いが起きました。政則が白旗城から置塩城に居城を移すと、坂本城は廃城になりました。写真は姫路城から姫路書写キャンパスに向かう途中にある県道545号沿いにあった石碑と由来板で、そこに土塁の一部が残っていました。 |
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若狭野陣屋 |
相生市 |
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寛文11年(4代将軍・徳川家綱の時代)に浅野長恒が三千石を分知されて旗本となると、若狭野陣屋が築かれました。長恒は大石良重の嫡男で、赤穂藩主・浅野長直(豊臣秀吉の家臣・浅野長政の孫)の養子になっていた人物です。しかし、長恒の孫・浅野長矩が殿中刃傷で出仕禁止となりました。翌年に又従兄弟の大石良雄が愚かにも吉良義央を逆恨みで討ち取ってしまった為、再び出仕禁止となりましたが、後に堺奉行となると幕府の為に必至になって働いたそうです。写真は札座(藩札の発行をつかさどった役所)の建物であった法界庵で、市内にある西法寺(浄土真宗)には陣屋門が移築されて残っていました。 |
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感状山城 |
相生市 |
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=作成中= |
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尼子山城 |
赤穂市 |
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永禄年間(15代将軍・足利義昭の時代)に尼子義久(尼子経久の玄孫)によって築かれたのがはじまりだそうです。後に毛利元就に攻められて落城してしまいました。尼子山城の攻防戦で、なかなか攻め落とせなかった毛利軍が包囲している最中に、高野集落に住む老婆から城の裏手にある間道がある事を知らされ、老婆の案内によって裏手から攻め寄せて落城させたという話が残っているそうです。その為、高野集落と周囲の集落との不和は続いたそうです。写真は千種川が流れる堤防の上から撮った尼子山城のある城山です。余談ですが、撮影したポイントの付近は「上高野銅鐸鋳型出土地」と書かれた標柱が設置されていて、発見当時の大正5年頃の時点では、姫路・名古山と茨木・東奈良の2例が知られていたのみだったので、考古学会では大騒ぎになりました。 |
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茶臼山城 |
赤穂市 |
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=作成中= |
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坂越浦城 |
赤穂市 |
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南北朝時代に山名宗全によって茶臼山城と共に築かれたのがはじまりです。戦国時代は鶏籠山城主・赤松村秀の支配下となり、坂越港を出入りする船を監視する城として機能していたそうです。江戸時代には廃城になった場所に赤穂藩の御番所が置かれ、引き続き坂越港を出入りする船を監視していました。写真は麓にある大避神社から少し登った台地の上にある公園にあった由来で、そこからは坂越港と瀬戸内海が見渡せました。見学が終わってレンタカーに乗り込むと、赤穂城に向かいました。 |
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赤穂城 |
赤穂市 |
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=作成中= |
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大石氏邸 |
赤穂市 |
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=作成中= |
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近藤氏邸 |
赤穂市 |
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=作成中= |
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明石城 |
明石市 |
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江戸時代初期に小笠原忠真が信州松本城から移って赤松山に明石城を築いて明石藩を興したのがはじまりです。明石藩は譜代大名の小笠原家、戸田家、大久保家、藤井家、本多家、松平家が藩主を務めました。明石藩からは戸田光重(大坂城代)と藤井信之(老中)の2名を輩出しています。最初は明石川の西側にあった船上城(一国一城令で建物の大部分が破却された後だったので、陣屋程度だったそうです)に居たのですが、忠真の母は松平信康(徳川家康の嫡男)の娘・峯高院に当たることから、将軍・徳川秀忠の命令で明石城を築き、それが現在の姿になったそうです。昭和32年に写真の巽櫓(右側)と坤櫓(左側)が国指定重要文化財に指定されました。行ったときには巽櫓の内部を無料公開していたので、見学しました。その後、船上城跡にレンタル自転車で向かいました。
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林ノ城 |
明石市 |
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=作成中= |
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船上城 |
明石市 |
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=作成中= |
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織田氏邸 |
明石市 |
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=作成中= |
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花隈城 |
神戸市・中央区 |
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=作成中= |
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滝山城 |
神戸市中央区 |
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=作成中= |
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兵庫城 |
神戸市・兵庫区 |
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=作成中= |
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枝吉城 |
神戸市・西区 |
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=作成中= |
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加古川城 |
神戸市・ |
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=作成中= |
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神吉城 |
加古川市 |
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=作成中= |
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石弾城 |
加古川市 |
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=作成中= |
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小松原城 |
高砂市 |
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=作成中= |
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豊地城 |
小野市 |
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=作成中= |
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小田城 |
小野市 |
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=作成中= |
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屋口城 |
小野市 |
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=作成中= |
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金鑵城 |
小野市 |
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=作成中= |
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小野陣屋 |
小野市 |
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=作成中= |
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小沢城 |
加東市 |
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=作成中= |
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三草藩陣屋 |
加東市 |
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=作成中= |
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上久米陣屋 |
加東市 |
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=作成中= |
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姫路城 |
姫路市 |
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南北朝時代に赤松貞徳(円心の次男)が姫山に城を築いたのがはじまりだそうです。慶長5年(関ヶ原の戦いの翌年)に池田輝政が戦功で入封すると、52万石の居城に相応しい大城郭として8年かけて大改修し、現在の姿になったそうです。大改修をする前は豊臣秀吉が築いた城郭と建物があったのですが、昭和の大修理で天守閣に使われていた建材の一部に、秀吉時代の姫路城の遺材が転用されていたことが明らかになったそうです。姫路城は4回行ったのですが、石垣のつなぎ目(拡張した部分)が各所で見られ、秀吉時代と輝政時代の石垣の部分が良く分かるのが面白かったです。あと、天守閣群をはじめとする多数の建物が残されているので見こたえがあり、何度行っても本当に素晴らしいです。 |
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秀吉の陣 |
姫路市 |
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=作成中= |
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八上城 |
篠山市 |
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=作成中= |
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前田茂勝屋敷 |
篠山市 |
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=作成中= |
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法光寺城 |
篠山市 |
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=作成中= |
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奥谷城 |
篠山市 |
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=作成中= |
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般若寺城 |
篠山市 |
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=作成中= |
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澤田城 |
篠山市 |
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=作成中= |
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笛吹山城 |
篠山市 |
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=作成中= |
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八百里城 |
篠山市 |
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=作成中= |
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野間砦 |
篠山市 |
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=作成中= |
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王地山砦 |
篠山市 |
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=作成中= |
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篠山城 |
篠山市 |
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=作成中= |
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青山氏邸 |
篠山市 |
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=作成中= |
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安間氏邸 |
篠山市 |
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=作成中= |
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小林氏邸 |
篠山市 |
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=作成中= |
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御着城 |
姫路市 |
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室町時代に播磨の守護・赤松氏の一族・小寺政隆が築いたのが始まりだそうです。御着城は天川の水を引いた4重の水掘と家中屋敷、そして山陽道や城下町を取り込んだ惣構えの城でした。小寺政職が城主のときに羽柴秀吉による播磨攻めで落城しました。政職の遺児・政則は戦後小寺の姓を改めて天川久兵衛と名乗りました。天川家は代々庄屋を務めて明治維新を迎えました。写真は姫路市東出張所にあった城址碑です。近くには小寺氏の家臣・黒田重隆夫妻の廟屋がありました。重隆は黒田官兵衛(後の如水)の祖父に当たる人物で、御着城の支城だった姫路城の城主でした。余談ですが中世の播磨では英賀城と三木城と共に「播磨三大城」の1つに数えられています。 |
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英賀城 |
姫路市 |
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室町時代に播磨の赤松祐尚によって築かれたのが始まりだそうです。英賀城(あがじょう)は東西を夢前川と水尾川に挟まれた要害でした。祐尚は実如(本願寺・蓮如の実子)を迎えて、城内に英賀御坊を建てたそうです。祐尚が没したあとは一族の三木道近が城主になりました。三木通武が城主のときに三木城の別所長治と同盟を結んだために、羽柴秀吉による播磨攻めで落城しました。「英賀千軒はては西の京」といわれるほどの栄華を誇った英賀城は廃城となりました。広大な敷地を持った英賀城でしたが、今は静かな住宅街に変貌してしまいました。写真は英賀神社の裏にかろうじて残っていた土塁の上にあった石碑です。余談ですが中世の播磨では御着城と三木城と共に「播磨三大城」の1つに数えられています。 |
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妻鹿城 |
姫路市 |
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室町時代に赤松氏の一族・妻鹿長宗によって築かれたのがはじまりだそうです。「太平記」によると、元弘の戦で北朝方に付いた赤松円心に属して軍功を立て、恩賞として妻鹿地方を与えられました。戦国時代には小寺氏の被官・黒田職隆(孝高の父)が、姫路城から居城を妻鹿城に移しました。黒田孝高(後の如水)が城主のときに居城を姫路城に移し直しました。羽柴秀吉による播磨攻めで三木城の別所長治が滅ぼされると、秀吉は三木城に入城しました。孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言して姫路城を秀吉に譲ると、再び居城を妻鹿城に戻しました。秀吉が天下統一を果たすと、黒田家は九州の福岡に入封しました。写真は荒神社にあった石碑「妻鹿城址」で、その横には説明板がありました。 |
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国府山城 |
姫路市 |
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赤松氏の一族・妻鹿長宗が、麓に妻鹿城を築いたときに、同時に詰城として甲山に国府山城を築いたのがはじまりだそうです。国府山城は左岸を流れる市川を天然の水堀とした山城でした。戦国時代には黒田親子(職隆・孝高)が居城として構えていた時期がありました。今回は時間の関係で甲山を登らなかったのですが、荒神社にあった説明板によると石垣や土塁が残っているそうです。写真は妻鹿駅から眺めた国府山城がある城山です。 |
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的形城 |
姫路市 |
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築城年代は不明ですが、戦国時代に的形領を治めていた長尾重朝が城主をしていたそうです。国道20号から見上げた崖の上にある円光寺の古い本堂は、まるで砦のような雰囲気でした。写真は円光寺の境内にあった石碑で「的形城砦の址」という不思議な表現でした。「的形城」または「的形砦」のどちらかにするべきだと思いました。この日の城巡りは的形城が最後の6城址目で、埼玉からの日帰りで、しかもローカル列車と徒歩でよく巡ることが出来たなと思いました。 |
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