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■ 14ヶ所を紹介しています。 (^^)/

松前藩戸切地陣屋
北斗市
安政2年(13代将軍・徳川家定の時代)に、幕府の命によって松前藩が蝦夷地防衛の為に築いたのがはじまりです。日本国内初の洋式城塞で、松前藩士の藤原主馬の設計によって縄張りされました。函館市内にある四稜郭と同様、五稜郭と違って石垣はない土塁だけの洋式城塞です。6基の砲座が設置され、郭内には17棟の建物があり、約150名の松前藩士で守備されました。明治元年に起きた箱館戦争で、幕府軍が戸切地陣屋を攻撃して来ると、ほとんど防戦することなく自ら火を放ったので、わずか13年で歴史から幕を閉じてしまいました。写真は戸切地陣屋史跡公園にあった陣屋の由来板で、後ろに見えるのは復元された城門と柵です。
矢不来台場
北斗市

寛政年間(11代将軍・徳川家斉の時代)に、南部藩が箱館湾を守る為に築いたのがはじまりです。安政元年(13代将軍・徳川家定の時代)箱館奉行の竹内保徳によって矢不来台場は幕府の管理下に置かれました。明治2年の箱館戦争では、五稜郭に入城した榎本武明が大鳥圭介に命じて矢不来台場を修理させ、500名の幕府軍が守備しました。しかし、官軍による激しい砲撃と艦砲射撃を受け、幕府軍は七重浜に撤退してしまいました。その後、矢不来台場は廃止されました。写真は国道228号にあった「矢不来バス停」からJRのガードをくぐって、林道を約800メートル走ったところにあった説明板で、函館戦争では最大の激戦地だったことが書かれていました。

茂別館
北斗市

嘉吉3年(室町6代将軍・足利義教の時代)、南部氏との戦いに敗れた十三湊城主・安東盛季が蝦夷地に渡った時に居館を築いたのがはじまりです。茂別館は茂辺地川の左岸の丘の上に築かれた要害で、大館と小館を土塁で囲っていました。2年後にアイヌ民族の首長・コシャマインが反乱を起こすと、道南にあった12の諸館は攻め落とされてしまいましたが、茂別館と花沢館の2つは陥落しなかったそうです。まもなくして蠣崎氏(後の松前氏)の支配下に置かれたものの、直ぐに廃止されてしまいました。写真は矢不来台場跡から約3キロメートルの所にある矢不来天満宮の参道にあった城址碑と由来板です。

松前城
松前町

慶長11年(2代将軍・徳川秀忠の時代)に蠣崎家(後の松前家)が大館より福山に居館を移したのが前身となりました。12代藩主・松前崇広の時に幕府からロシア艦隊などに対する来航北方警備強化を命ぜられたので、福山館の拡張と改築を行ない、3重の天守閣まで築きました。明治元年に起きた戊辰戦争では、海からの榎本武明の艦砲射撃の援護を受けた土方歳三の軍勢によって数刻で落城してしまいました。明治2年に幕府の最大拠点だった五稜郭が陥落すると、松前城は松前氏が取り戻しました。しかし廃藩置県の施行によって松前城は明治政府の領有となると、天守閣などを除いて取り壊されてしまいました。昭和16年に国宝に指定されたものの、松前町役場の当直員による失火で焼失してしまいました。写真は二ノ丸から撮影した復興天守閣と現存の本丸御門です。

松前奉行所
松前町

寛永年間(3代将軍・徳川家光の時代)に松前村を支配するために幕府によって遠国奉行が置かれたのがはじまりです。遠国奉行とは江戸幕府が設置した役職の1つです。幕末に蠣崎氏(後の松前氏)が居館の福山館を拡張して新たに松前城を築く246年も前になります。松前奉行所の建物は函館戦争が終結した翌年(明治3年)の火災で焼失してしまいました。写真は松前町役場にあった石碑「松前奉行所跡」で、手前に置かれた黄色いお花がとてもキレイでした。

四稜郭
函館市

明治2年の函館戦争中に幕府軍が本拠地の五稜郭の北側の守りとして権現台場と一緒に築いたのがはじまりです。洋式築城法により築かれたのですが、五稜郭と違って石垣はない土塁だけの洋式城塞です。北斗市にある松前藩戸切地陣屋も四稜郭のような洋式城塞です。建設には幕府兵卒200人および近隣住民100人が徴用され、昼夜兼行の突貫工事で造り上げたと言われているのですが、立て籠もるために必要な井戸や建物が無く、野戦で使われる陣地並みでした。函館戦争では幕府軍が守備していましたが、政府軍によって近くにあった権現台場は攻略されると、四稜郭を守備していた守備兵は夜間に紛れて五稜郭へ撤退してしまいました。写真は四稜郭跡に設置されていた由来板で、背後に低い土塁が広がっていました。

権現台場
函館市
明治2年の函館戦争中に幕府軍が本拠地の五稜郭の北側の守りとして四稜郭を築いた際、中間地点にあたる函館東照宮の敷地内に台場も一緒に築かれたのがはじまりです。函館戦争で転戦していた岡四郎次郎の約200名の軍勢が守備していましたが、毛利軍と池田軍と阿部軍で構成された新政府軍の攻撃を受け、権現台場は攻略され、函館東照宮の社殿も焼失してしまいました。権現台場が落ちたことで四稜郭を守備していた守備兵は五稜郭へ撤退した為に、四稜郭は自落してしまいました。権現台場は台地に築かれており、五稜郭が南側に見えました。写真は四稜郭から南下する途中にあった権現台場の跡で、由来板が設置されていました。
千代ヶ岡陣屋
函館市

文化5年(11代将軍・徳川家斉)に幕府の命令で蝦夷地の守備を命じられた仙台藩が亀田村に陣屋を築いたのがはじまりで、五稜郭の南側に位置していました。14年後の明治2年に起きた箱館戦争では、中島氏が率いる砲隊のほか、小彰義隊や会津遊撃隊などが守備につきました。同年の5月15日に幕府側の弁天台場が降伏すると、残るは千代ヶ岡陣屋と五稜郭のみとなりました。翌日の16日に新政府軍の攻撃によって千代ヶ岡陣屋が陥落し、18日には五稜郭が陥落して函館戦争が終結しました。写真は千代台公園(函館市千代台公園野球場&函館市千代台公園陸上競技場)の周囲にあった千代ヶ岡陣屋の説明板です。

志苔館
函館市

志苔館が文献に出てくるのは長禄元年(室町6代将軍・足利義政の時代)で古く、志海苔漁港を眼下に見渡せる標高25メートル程の海岸段丘に築かれた館で、背後には志苔川が流れていて、天然の水堀としていました。志苔館は室町時代に2度に渡ってアイヌ民族との戦いで陥落しているそうです。昭和58年に函館市教育委員会による発掘調査で、4棟の建物跡、塀跡と柵跡、井戸跡などの遺構と、中国製と国産製の陶器を主とする生活用具類が発見されています。なお、合計38万枚の古銭が詰められた3つの大壺が発見されていたことから、この地域において海運流通が盛んだったことが分かりました。写真は陸上自衛隊の函館駐屯地を抜けて函館空港の南側に入った所にあった志苔館跡の石碑と由来板で、土塁と空堀がほぼ完全な状態で残っていました。

五稜郭
函館市

安政元年(13代将軍・徳川家定の時代)に函館山の麓付近にあった函館奉行所を移転する意見書を老中阿部正弘に出して受理されて五稜郭の建設が始まり、慶応2年に完成しました。当初は土塁で建設をしたものの、地盤が脆弱だった為に石垣が築かれました。それが現在に見られる姿となりました。明治2年に起きた函館戦争では北海道に駐屯する幕府軍の本隊を集約させた榎本武明が籠城したものの、弁天岬台場や一本木台場、千代ヶ岡陣屋や権現台場、松前藩戸切地陣屋や矢不来台場などの周囲の防衛拠点が次々と陥落してしまい、開戦後わずか7日の5月18日に五稜郭が降伏し、新政府軍に引き渡されました。写真は平成22年に一部だけ復元された函館奉行所の建物です。近くには五稜郭タワーがあり、五稜郭の特徴である星形の洋式城塞を上から眺めて楽しみました。

一本木台場
函館市

明治2年の函館戦争で一本木関門の辺海岸に一本木台場を築いたのがはじまりです。5月11日に箱館が新政府軍によって落ちた時に、一本木台場に籠城していた土方歳三(元新撰組の副長)は50名の兵を率いて一本木の関門を出て箱館奪回を目指したが、銃弾に当たって倒れて34歳の生涯を閉じてしまいました。榎本武明が守っていた五稜郭が陥落したのは、一本木台場が落ちた6日後でした。画像は函館市内の観光で最後に巡ったのが一本木台場で、函館市総合福祉センター内の公園にあったのが、写真の土方歳三最期の地碑と冠木門です。

南部藩陣屋
函館市

寛政11年(11代将軍・徳川家斉の時代)に函館の警護を命じられた南部藩が陣屋を設置したのがはじまりです。安政2年(12代将軍・徳川家茂)に箱館が開港されると、函館山岬から幌別までの沿岸警備として土塁が拡張され、210名の南部藩の警護兵が駐屯しました。戊辰戦争が開戦すると南部藩は新政府側に付いてしまいました。秋田戦争で南部軍は久保田藩の佐竹軍に敗れたため、南部藩は新政府に函館の守備を命じられていたにもかかわらず、警備兵を盛岡に呼び戻してしまいました。警備兵は撤退する際に陣屋を放火してしまったので、後に新政府に断罪されてしまいました。写真は、函館山ロープウェイ「山麓駅」駐車場にあった由来板です。陣屋跡には石垣が残っていて、その石垣の麓に石碑もありました。

宇須岸河野館
函館市

享徳3年(室町6代将軍・足利義政の時代)に、蝦夷地に渡来した伊予国の豪族・河野政通によって宇須岸に居館が築かれたのがはじまりです。河野季通(政通の息子)の時にアイヌ民族の首長・コシャマインの反乱で陥落してしまいました。陥落する直前に、季通は3歳の娘を家臣に託して逃がした後に自刃してしまいました。3歳の娘は後に蠣崎季広の正室・伝妙院となって蠣崎慶広(松前藩の始祖)を産んでいます。幕末になると、宇須岸河野館があった場所に函館奉行所が置かれたものの、外国の軍艦からは格好の標的になりかねないことから、箱館奉行所の移転先として亀田御役所土塁(後の五稜郭)が同年に造営されました。写真は元町公園の角にあった宇須岸河野館の由来板です。元町公園内に箱館奉行所跡の標柱があったのですが、見落としてしまいました。

弁天岬台場
函館市

文久3年(12代将軍・徳川家茂の時代)に外国船襲来に備えて幕府の命令で武田斐三郎が設計し築いたのがはじまりです。武田斐三郎は五稜郭も設計した人物です。不等辺六角形で、上から見ると将棋の駒のような形をした台場で、石垣を持つ土塁で囲まれていました。明治2年の函館戦争では新選組で構成された幕府軍が守備していましたが、同年5月15日に新政府軍の攻撃によって弁天岬台場が陥落し、18日には五稜郭が陥落して函館戦争が終結しました。弁天岬台場は明治30年頃に取り壊され、石垣は函館漁港の護岸として転用されてしまいました。画像は函館ドック入口前にポツンと建っていた碑です。余談ですが、弁天岬台場の古写真が数枚残っていて、入口はアーチ型になっていて、石垣を持つ土塁はまるで五稜郭のようでした。