広島城
広島市・中区
戦国時代に毛利輝元(元就の孫)によって築かれた平城です。古写真に残る大天守閣は慶長3年(1598年)に竣工されたといわれ、かつては南と東に三階の小天守閣を連結させていた巨城でした。太閤(豊臣秀吉)の聚楽第を模したそうで、豊臣家の大坂城の天守閣よりも大きかったそうです。広島城の築城時期は太閤の朝鮮出兵の時期と重なっていて、前線基地である肥前名護屋城に向かう途中で広島城に立ち寄った太閤から誉められたという記録が残っています。太閤も登閣したであろう天守閣は原爆で惜しくも倒壊してしまいました。もし残っていたらば日本最古の天守閣になるはずでした。広島城の古写真は非常に少なく、最近に発見された東小天守閣を連ねた古写真を見たときは血眼になりました。
三原城
三原市

天正8年に小早川隆景(毛利元就の3男)によって沼田川の河口の中州に築かれたのがはじまりだそうです。小早川家のあとは、広島藩の藩主になった福島家、浅野家の支藩として続いたそうです。明治初年に撮影されたという古写真を見ると複数の櫓や城門が写っていて、石垣が海に浮かんでいるように見えたので、「浮城」とも呼ばれていたそうです。なるほど、豊臣秀吉や徳川家康が三原城を見て、隆景の縄張りの素晴らしさに関心をしたという話が残っているそうです。これは意外と知られていないのですが、春日局が徳川家光の乳母になる前に、豊臣秀吉の命令で小早川秀秋(秀吉の甥)の補佐役として仕えていた夫・稲葉正成と共に三原城で過ごしていた青年期があったそうです。写真は三原城の天守台の石垣で、石垣の真上に新幹線が通っていたのは衝撃的でした。

櫻山城
三原市

築城の年代は定かではないのですが、鎌倉時代には山名氏正が居城していたそうです。南北朝時代には桜山慈俊が城主で、楠正成は河内国・赤坂城で挙兵すると慈俊も呼応しましたが、北朝方の軍勢によって落城しました。室町時代には三原広吉が城主のときに、当時川手村と称していたのを三原村と改められました。山陽新幹線&山陽本線のJR三原駅を降りて、三原城の天主台の石垣を眺めながら歩いていると、三原浮城ライオンズクラブが設置した「桜山登山道」という大きな案内板があり、そこには山名氏の城跡がある城山へのハイキングコースの説明と、名前の通りの桜山にするために1998年11月に約1000名の三原市民が600本の桜の苗木を植えたという説明の2つが書いてありました。写真は三原城の本丸跡から眺めた櫻山城跡がある城山です。

福山城
福山市
江戸時代に徳川家康の命令で西日本の有力外様大名への抑えとして水野勝成が築いたのが始まりだそうです。家康の生母・於大の方は水野忠重(勝成の父)の姉にあたるので、家康と勝成は従兄弟の関係になるそうです。福山城は一国一城令が敷かれた後に築かれた近世城郭で、異例の存在だったそうです。4年に近い歳月を要して元和8年(1622年)に完成したのですが、建物と縄張りは若干の改修はあったものの、基本的には藩廃置県までそのまま維持されたそうです。明治維新の廃城後も天守閣をはじめとする多数の建物群が残っていたのですが、時代の流れで次々と取り壊されてしまい、残っていた天守閣は昭和20年8月8日の福山空襲で焼失してしまいました。写真は本丸御殿跡の広場から撮影した福山城の外観のみ復元されたコンクリート製の天守閣です。
宮尾城
廿日市市

戦国時代に毛利元就が陶晴賢をおびき寄せる為に築いた囮の城だそうです。陶晴賢は大内氏の一族でありながら、主君・大内義隆を滅ぼして大内義長(大友義鑑に嫁いだ義隆の姉が産んだ子で宗麟の異母弟)を擁立する事で大内家での実権を握ると、隣国の毛利元就の領土を脅かしはじめました。厳島は瀬戸内海における海水路の要衝で、厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を晴賢は3万の兵で上陸して襲いかかりました。宮尾城への攻め口が狭くて攻めあぐんでいると、嵐の中の夜陰に紛れて反対側から上陸した元就の5千の兵に挟み撃ちにされ、陶軍は大混乱に陥ったそうです。更に海からは村上水軍によって逃げ道を絶たれてしまった晴賢は自刃してしまいました。宮尾城跡からは平清盛が造営した厳島神社と、五重塔と千畳閣(晴賢の陣城跡)を見渡す事が出来ました。

陶陣城
廿日市市

厳島合戦で宮尾城を築いた毛利元就に対抗して陶晴賢が塔の岡に本陣を置いた場所だそうです。写真は厳島神社から眺めた五重塔と千畳閣(晴賢の陣城跡)です。厳島合戦で毛利氏の宮尾城を晴賢は3万の兵で襲いかかりました。宮尾城への攻め口が狭くて攻めあぐんでいると、嵐の中の夜陰に紛れて反対側から上陸した元就の5千の兵に挟み撃ちにされ、陶軍は大混乱に陥ったそうです。更に海からは村上水軍によって逃げ道を絶たれてしまった晴賢は自刃してしまいました。晴賢の陣城跡からは平清盛が造営した厳島神社の赤い建物と、元就が本陣を置いた宮尾城跡を見渡すことが出来ました。余談ですが、千畳閣は桃山様式の建物で、宮島を訪れた豊臣秀吉が造営を指示したものです。秀吉が亡くなると工事が中断されてしまったので、天井や壁がないのはそのためです。

勝山城
廿日市市

大永4年(1524年)に大内義興が瀬戸内海に覇権を広げる途中、宮島を支配していた友田興基を攻略したときに、厳島神社の背後にある山に勝山城を築いたのがはじまりだそうです。勝山城で年越しをした義興は、瀬戸内海を挟んだ対岸にある山に門山城を築くと、安芸国を攻める拠点としました。義興が勝山城に滞在したのは2〜3ケ月程度だったようで、城というよりは陣城という程度の規模だったのではないかと思います。写真は厳島合戦で毛利元就が本陣を置いた宮尾城から遠望で撮った多宝塔(勝山城跡)です。そこは春になると櫻の名所として、全国からの観光客で賑わうそうです。余談ですが、義興は大内家30代当主として全盛期を築いた人物で、周防国・長門国・石見国・安芸国・筑前国・豊前国・山城国の7ケ所を支配した太守です(大内義隆の実父)。

7ケ所を紹介しています。 (^^)/

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