福山市
福山市

江戸時代に徳川家康の命令で西日本の有力外様大名への抑えとして水野勝成が築いたのが始まりだそうです。家康の生母・於大の方は水野忠重(勝成の父)の姉にあたるので、家康と勝成は従兄弟の関係になるそうです。福山城は一国一城令が敷かれた後に築かれた近世城郭で、異例の存在だったそうです。4年に近い歳月を要して元和8年(1622年)に完成しました。福山藩からは大坂城代になった阿部正福と、老中になった阿部正倫と阿部正精と阿部正弘を輩出しています。明治維新の廃城後も天守閣をはじめとする多数の建物群が残っていたのですが、時代の流れで次々と取り壊されてしまい、残っていた天守閣は昭和20年8月8日の福山空襲で焼失してしまいました。写真は本丸御殿跡の広場から撮影した福山城の外観復元された天守閣で、約10年振りの訪城です。

神辺城
福山市

南北朝時代に朝山景連によって築かれたのがはじまりだそうですが、近年の研究によって現在の場所から700メートルに位置する古城山にあったのではないかと考えられています。正確には備後国の守護代に就いた山名氏によって築かれたという説が有力になってきています。余談ですが末次元康(毛利元就の8男)が城主として在城していた時期がありました。最盛期には天守閣や石垣まであった神辺城でしたが、江戸時代に入って水野勝成(徳川家康の従兄弟)が福山城を築くときに、建物や石垣のほとんどが転用されてしまいました。写真は吉野山公園にあった神辺城への標識で、その横に神辺城の想像図がありました。山頂には福山市神辺歴史民俗資料館があるのですが、建設業者が無届で建設しようとして、遺構の大部分が記録されることなく破壊されてしまいました。

串山城
広島市・東区

築城の時期と城主は不詳で、標高139メートルの二葉山の山頂に中世の山城があったということ以外、何も分かりませんでした。二葉山は七福神をそれぞれ祀っている7つの社寺(聖光寺・國前寺・尾長天満宮・広島東照宮・鶴羽根神社・明星院・饒津神社)があり、地元では非常に人気の登山コースになっています。写真はJR広島駅の新幹線ホームから撮影した二葉山平和塔(串山城跡)です。

有崎城
呉市

戦国時代に水軍衆の石田氏の居城があったそうです。有崎城は、八巻山から海にのびた尾根の先端に築かれた城で、かつては海岸に突き出た岬になっていました。当時は山本氏、野間氏、及美氏、警固屋氏などの水軍衆が割拠していました。現在の有崎城跡は大歳神社になっており、鳥居の前に写真の石碑「有崎城址」がありました。二ノ丸跡は金毘羅公園になっており、城主や家族の居住するための建物を置くには十分な広さを持っていました。そこから海上自衛隊の呉軍港と瀬戸内海を見渡すことが出来ました。ちょうどお昼になったので、呉駅前にある呉阪急ホテルで海上自衛隊の護衛艦「うみぎり」で提供されている軍艦カレーを食べに、戦艦大和ミュージアムで借りたレンタル自転車のペダルを漕ぎました。

城山城
呉市

戦国時代に石見国の尼子氏に仕えていた野間氏が呉へ進出した際に拠点として築かれたのがはじまりだそうです。尼子氏が滅んで毛利氏の支配下となると、呉衆によって奪還されました。写真は海上自衛隊呉地方総監部の正門の右手にあった城山城跡です。正門を守備していた自衛官に「城山を撮らせてもらえませんでしょうか?」と頼んでみましたが、空しく追っ払われてしまいました。この日は呉市内の観光における最後の城跡で、戦艦大和ミュージアムで借りたレンタル自転車を返却するためにペダルを漕ぎました。

杉迫城
呉市

戦国時代に陶氏(周防国の大内氏の一族)の家臣・山本房勝が和庄村に居城を築いたのがはじまりです。房勝は大内氏の水軍衆で、能島を支配している村上水軍衆と共に反大内海賊衆への攻撃を担当していました。時代が変わり、大内氏と尼子氏が滅んで毛利氏の支配下になると、呉は毛利一族の小早川氏の領地になり、因島を支配している村上氏の家臣・末永氏が城番となりました。写真は明法寺(浄土真宗)で、呉衆では最大の勢力を誇っていた水軍衆を引き連れていた山本氏の居城のあった場所で、そこからは海上自衛隊の呉軍港が良く見えました。

堀城
呉市

戦国時代に大内氏と尼子氏が滅んで毛利氏の支配下になると、呉は小早川隆景(毛利元就の3男)の領地になり、山本氏の居城だった杉迫城を拡張した新しい曲郭が堀城です。毛利隆元(隆景の長兄)が隆景に堀城と呉港の水軍衆の拠点の普請を命じたという文献が残っています。元就と陶晴賢との決戦を控えて、隆景が家臣の乃美宗勝に堀城と杉迫城の両城の城番として誰を置くか相談した結果、因島を支配している村上氏の家臣・末永氏が入城しました。写真は明法寺(浄土真宗)の隣にあった寺迫公園で、そこが堀城だとのことです。

広島城
広島市・中区
戦国時代に毛利輝元(元就の孫)によって築かれた平城です。古写真に残る大天守閣は慶長3年(1598年)に竣工されたといわれ、かつては南と東に三階の小天守閣を連結させていた巨城でした。太閤(豊臣秀吉)の聚楽第を模したそうで、豊臣家の大坂城の天守閣よりも大きかったそうです。広島城の築城時期は太閤の朝鮮出兵の時期と重なっていて、前線基地である肥前名護屋城に向かう途中で広島城に立ち寄った太閤から誉められたという記録が残っています。太閤も登閣したであろう天守閣は原爆で惜しくも倒壊してしまいました。もし残っていたらば日本最古の天守閣になるはずでした。広島城の古写真は非常に少なく、最近に発見された東小天守閣を連ねた古写真を見たときは血眼になりました。
三原城
三原市

天正8年に小早川隆景(毛利元就の3男)によって沼田川の河口の中州に築かれたのがはじまりだそうです。小早川家のあとは、広島藩の藩主になった福島家、浅野家の支藩として続いたそうです。明治初年に撮影されたという古写真を見ると複数の櫓や城門が写っていて、石垣が海に浮かんでいるように見えたので、「浮城」とも呼ばれていたそうです。なるほど、豊臣秀吉や徳川家康が三原城を見て、隆景の縄張りの素晴らしさに関心をしたという話が残っているそうです。これは意外と知られていないのですが、春日局が徳川家光の乳母になる前に、豊臣秀吉の命令で小早川秀秋(秀吉の甥)の補佐役として仕えていた夫・稲葉正成と共に三原城で過ごしていた青年期があったそうです。写真は三原城の天守台の石垣で、石垣の真上に新幹線が通っていたのは衝撃的でした。

櫻山城
三原市

築城の年代は定かではないのですが、鎌倉時代には山名氏正が居城していたそうです。南北朝時代には桜山慈俊が城主で、楠正成は河内国・赤坂城で挙兵すると慈俊も呼応しましたが、北朝方の軍勢によって落城しました。室町時代には三原広吉が城主のときに、当時川手村と称していたのを三原村と改められました。山陽新幹線&山陽本線のJR三原駅を降りて、三原城の天主台の石垣を眺めながら歩いていると、三原浮城ライオンズクラブが設置した「桜山登山道」という大きな案内板があり、そこには山名氏の城跡がある城山へのハイキングコースの説明と、名前の通りの桜山にするために1998年11月に約1000名の三原市民が600本の桜の苗木を植えたという説明の2つが書いてありました。写真は三原城の本丸跡から眺めた櫻山城跡がある城山です。

福山城
福山市
江戸時代に徳川家康の命令で西日本の有力外様大名への抑えとして水野勝成が築いたのが始まりだそうです。家康の生母・於大の方は水野忠重(勝成の父)の姉にあたるので、家康と勝成は従兄弟の関係になるそうです。福山城は一国一城令が敷かれた後に築かれた近世城郭で、異例の存在だったそうです。4年に近い歳月を要して元和8年(1622年)に完成したのですが、建物と縄張りは若干の改修はあったものの、基本的には藩廃置県までそのまま維持されたそうです。明治維新の廃城後も天守閣をはじめとする多数の建物群が残っていたのですが、時代の流れで次々と取り壊されてしまい、残っていた天守閣は昭和20年8月8日の福山空襲で焼失してしまいました。写真は本丸御殿跡の広場から撮影した福山城の外観のみ復元されたコンクリート製の天守閣です。
宮尾城
廿日市市

戦国時代に毛利元就が陶晴賢をおびき寄せる為に築いた囮の城だそうです。陶晴賢は大内氏の一族でありながら、主君・大内義隆を滅ぼして大内義長(大友義鑑に嫁いだ義隆の姉が産んだ子で宗麟の異母弟)を擁立する事で大内家での実権を握ると、隣国の毛利元就の領土を脅かしはじめました。厳島は瀬戸内海における海水路の要衝で、厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を晴賢は3万の兵で上陸して襲いかかりました。宮尾城への攻め口が狭くて攻めあぐんでいると、嵐の中の夜陰に紛れて反対側から上陸した元就の5千の兵に挟み撃ちにされ、陶軍は大混乱に陥ったそうです。更に海からは村上水軍によって逃げ道を絶たれてしまった晴賢は自刃してしまいました。宮尾城跡からは平清盛が造営した厳島神社と、五重塔と千畳閣(晴賢の陣城跡)を見渡す事が出来ました。

陶陣城
廿日市市

厳島合戦で宮尾城を築いた毛利元就に対抗して陶晴賢が塔の岡に本陣を置いた場所だそうです。写真は厳島神社から眺めた五重塔と千畳閣(晴賢の陣城跡)です。厳島合戦で毛利氏の宮尾城を晴賢は3万の兵で襲いかかりました。宮尾城への攻め口が狭くて攻めあぐんでいると、嵐の中の夜陰に紛れて反対側から上陸した元就の5千の兵に挟み撃ちにされ、陶軍は大混乱に陥ったそうです。更に海からは村上水軍によって逃げ道を絶たれてしまった晴賢は自刃してしまいました。晴賢の陣城跡からは平清盛が造営した厳島神社の赤い建物と、元就が本陣を置いた宮尾城跡を見渡すことが出来ました。余談ですが、千畳閣は桃山様式の建物で、宮島を訪れた豊臣秀吉が造営を指示したものです。秀吉が亡くなると工事が中断されてしまったので、天井や壁がないのはそのためです。

勝山城
廿日市市

大永4年(1524年)に大内義興が瀬戸内海に覇権を広げる途中、宮島を支配していた友田興基を攻略したときに、厳島神社の背後にある山に勝山城を築いたのがはじまりだそうです。勝山城で年越しをした義興は、瀬戸内海を挟んだ対岸にある山に門山城を築くと、安芸国を攻める拠点としました。義興が勝山城に滞在したのは2〜3ケ月程度だったようで、城というよりは陣城という程度の規模だったのではないかと思います。写真は厳島合戦で毛利元就が本陣を置いた宮尾城から遠望で撮った多宝塔(勝山城跡)です。そこは春になると櫻の名所として、全国からの観光客で賑わうそうです。余談ですが、義興は大内家30代当主として全盛期を築いた人物で、周防国・長門国・石見国・安芸国・筑前国・豊前国・山城国の7ケ所を支配した太守です(大内義隆の実父)。

13ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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