花沢城
桐生市

築城の時期は不明ですが、戦国時代には阿久沢氏が城主で上杉謙信によって近くにある五覧田城と共に落城してしまいました。その後、上杉氏と北条氏との協定によって北条方の由良国繁が支配するようになりました。国繁と北条氏が対立するようになると、北条氏政の命を受けた深沢城の前城主だった阿久沢氏と、前原氏や目黒氏の軍勢によって再び落城し、阿久沢氏が城主に返り咲きました。豊臣秀吉の小田原役で北条氏が滅亡すると、深沢城は廃城になると、阿久沢氏は武士を辞めて帰農してしまいました。深沢城は深沢川に面した断崖絶壁に築かれた城で、天台宗・正圓寺の前に高さ8メートルを超える大きな土塁と本丸跡の石碑、そして由来板がありました。

五覧田城
みどり市

築城の時期は不明ですが、戦国時代に上杉謙信によって近くにある深沢城と共に落城してしまいました。その後、上杉氏と北条氏との協定によって由良国繁が支配するようになりました。国繁と北条氏が対立するようになると、北条氏政の命を受けた深沢城の前城主だった阿久沢氏と、前原氏や目黒氏の軍勢によって再び落城してしまいました。その後普請されたものの、豊臣秀吉の小田原役で北条氏が滅亡すると、五覧田城は廃城になりました。五覧田城は渡良瀬川と小黒川と田沢川に囲まれた山に築かれた城で、登城口に城址碑と由来板がありました。

高津戸城
みどり市

平安時代の末期にこの地域を支配していた土豪・山田平吉之によって築かれたのがはじまりだそうです。室町時代は山田則之が城主のときに桐生城の桐生国綱によって攻め滅ぼされてしまいました。戦国時代は桐生氏に仕えていた赤萩城の城主・里見勝政と里見勝安の兄弟が上杉謙信の援助を受けて高津戸城に入城して城主となりました。しかし、太田金山城の由良国繁によって再び落城してしまいました。その後、国繁と小田原城の北条氏政が対立するようになると、氏政の命を受けた深沢城の前城主だった阿久沢氏らの軍勢によって再び高津戸城は落城し、深沢城の城主に返り咲いた阿久沢氏の持ち城となりました。写真は18年振りに訪れた要害神社(高津戸城の本丸跡)で、その右側に由来板がありました。

箕輪城
箕郷町

室町末期に関東管領上杉顕定の家臣・長野業尚(業正の祖父)によって築かれたのが始まりです。戦国時代は関東管領上杉憲政が北条氏康によって追われると、代わりに西上州を支配したのが長野業正です。武田信玄が唯一勝てなかった武将が業正で、合計8回に渡って上州に侵攻しましたが、ゲリラ戦や夜営の急襲などを繰り返して都度撃退されました。業正の子・業盛が家督を継ぐと、再び侵攻した信玄によって箕輪城が落城しました。信玄は重臣の内藤昌豊を置いて西上野経営を任せました。城主は滝川一益(織田信長の家臣)、北条氏邦(氏康の4男)、井伊直政(徳川家康の家臣)と変わり、直政が和田宿を高崎と改名して高崎城を築くと、箕輪城は72年の歴史を終えました。善龍寺に箕輪城主だった昌豊&昌月親子の墓があります。写真は復元された郭馬出西虎口門です。

桐生陣屋
桐生市

天正年間に豊臣秀吉の命令で徳川家康が関東に入封した際、大久保長安(勘定奉行)の家臣・大野八右衛門が桐生に配置されて陣屋を築いたのがはじまりだそうです。江戸時代には出羽国・松山藩の酒井忠休が五千石の加増を受けて桐生の地を領したときに新築して現在の姿になったそうです。在りし日の桐生陣屋を写したという絵図面が残っています。写真は寂光院(日蓮宗)から坂道を車で登った場所に建てられたたちばな保育園の敷地内にあった看板で、桐生陣屋の空堀の跡があったことを伝えていました。

彦部屋敷
桐生市

鎌倉時代に高階信勝が彦部郷を与えられて屋敷を構えたのがはじまりだそうです。信勝は高市皇子(天武天皇の皇子)を祖先に持つ名門で、彦部姓を名乗るようになりました。余談ですが、足利尊氏の執事として活躍した高師直は彦部氏と同じ祖先・高階氏の出身です。主屋や長屋門、倉庫5棟や回遊式庭園など江戸時代の建造物が残っていて、周囲を石垣と水堀で囲まれていました。写真は福厳寺(真言宗)の東側にあった彦部屋敷の長屋門で、威風堂々としていました。

梅原館
桐生市

平安時代に桐生の地を支配していた足利俊綱(藤姓足利氏の4代当主)の家臣・桐生六郎が居館を築いたのがはじまりだそうです。梅原館は桐生川を天然の水堀として利用した居館でした。室町時代に桐生国綱が柄杓山城を新たに築くと、梅原館は平時における桐生氏の居館として機能していました。写真は居館跡に建てられていた梅原薬師堂で、案内板が設置されていました。

柄杓山城
桐生市

室町時代に桐生国綱によって梅原館の後詰として山城を築いたのがはじまりだそうです。桐生川に沿って伸びていた峰の頂上に築かれ、本丸と二ノ丸と三ノ丸の3つの郭が並ぶようにして配置した要害でした。戦国時代は桐生親綱が城主で、上野国の太田地方を支配していた由良成繁によって桐生氏は追われてしまいました。成繁の嫡男・由良国繁の時に桐生の城下町を整備し、住民が暮らしやすい政治に徹していたそうです。余談ですが、国繁の妻・妙印尼輝子は太田地方に侵攻した北条軍に攻撃された際、72歳の高齢でありながら金山城で篭城戦を指揮して防いだそうです。また豊臣秀吉の小田原攻めでは孫・由良貞繁の軍勢に加わって、北条方の大道寺政繁が守る松井田城を攻めたりしています。写真は柄杓山城への案内看板です。

矢田堀城
太田市

戦国時代に由良氏の太田金山城の支城として由良一族・泉基国が城主としてこの地域を支配していました。50メートルの正方形の小さな単一城郭で、現在は土塁の一部が残っていました。写真は矢田堀城があった場所に設置されていた石碑と由来板です。そこからは本城の太田金山城がある城山が良く見えました。

松井田城
松井田町
箕輪城の長野業正が病死して武田信玄による西上野への侵攻が激しくなってくると、安中忠政(業正の娘婿)は碓氷峠を守るために松井田城を築いて移りました。武田軍との戦いで徹底抗戦をしたので、降伏開城したものの許されなかったので、忠政は切腹してしまいました。武田氏が滅ぶと上州に侵攻した織田信長の家臣・滝川一益によって松井田城は占領されてしまいました。信長が本能寺で横死して一益が上州から引き上げると、小田原城から北条氏政の家臣・大道寺政繁が派遣されると碓氷峠を押さえるに相応しい大城郭に改修をしました。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めで前田利家と真田昌幸の軍勢によって包囲されてしまいました。政繁は徹底抗戦をしたので、降伏開城したものの許されなかったので、前城主・忠政と同様、政繁も同じ運命で切腹し果ててしまいました。
大道寺屋敷
松井田町
戦国時代に小田原城の北条氏の三家老に数えられた大道寺政繁(川越城主・大道寺重興の子)が派遣されると碓氷峠を押さえる松井田城を築いた際、平時の居館として屋敷を城山の麓に置いたのがはじまりです。小田原の役では、豊臣の大軍(前田利家上杉景勝真田昌幸と松平康国の合計3万8千)が信濃国から碓氷峠を通過したときに、政繁が籠る松井田城と麓の屋敷を同時に攻撃しました。攻防戦は1ヶ月も続いたので多数の家臣や妻や娘が井戸に身を投げるなど悲惨を極めました。後に政繁は利家の降伏の誘いに応じて開城して武器を置きました。写真は松井田城の麓にあった補陀寺(曹洞宗)の本堂で、政繁の屋敷があったと云われています。余談ですが松井田城の攻防戦で真田幸村(昌幸の次男)が初陣を果たしたそうです。
碓氷城
松井田町

戦国時代に起きた小田井原の合戦(武田晴信と笠原清繁が衝突した戦い)で、関東管領・上杉憲政が家臣の高田憲頼(笠原氏とは縁戚関係)を志賀城に先に派遣し、憲政が武蔵国と上野国の国衆をかき集めて構成した大軍を引き連れて碓氷峠を越えてきました。晴信は家臣の板垣信方と甘利虎泰に命じてゲリラ戦で撃破してしまいました。敗れた上杉軍が碓氷峠を越えて逃げる際、追跡した武田軍によって多数の兵を失ったので、陣場ヶ原として言い伝えられるようになりました。上杉軍を佐久平野から一掃した晴信は狼煙台として、旧中山道が通る尾根にある標高70メートルの愛宕山に初めて築きました。小田井原の合戦で清繁が籠城する志賀城が陥落して佐久平野は武田氏の支配下となり、上野国への侵攻の足掛かりとなりました。写真は碓氷城がある愛宕山です。

小幡陣屋
甘楽町

元和元年(1615年)に織田信雄(信長の次男)が大和国3万石を与えられたときに、甘楽郡2万石を4男の信良に与えたのがはじまりだそうです。信良は小幡氏の屋敷跡の陣屋を築くと、織田氏7代の城下町として栄えました。織田氏は信長の直系なので、江戸時代を通じて国主並みの待遇を得ていました。後に松平忠恒が入封し、4代目の松平忠恕のときに明治維新を迎えました。現在見られる小幡藩の陣屋と城下町は、織田時代に形成されたものです。数十年に及ぶ発掘調査が終了し、近年になって大名庭園・楽山園と茶屋、周辺の石垣と土塁、長屋、陣屋門が復元されました。今回で4度目の訪問ですが、整備されていて良かったです。写真は大名庭園・楽山園と茶屋で、代金を払えば温かい抹茶をいただけるようになっていました。その後国峰城跡に向かいました。=作成中=

高橋邸
甘楽町

江戸時代に甘楽郡2万石を支配していた小幡藩・織田家の勘定奉行をしていた高橋家の屋敷がありました。写真は高橋家の大きくて立派な長屋で、長屋の前にあった説明板によれば、屋敷内には庭園や月見灯篭が残っているとのことです。現在も小幡城下の武家屋敷街に勘定奉行の末裔が住んでおり、高橋家の好意で庭園を散策することが出来るようになっていましたが、遠慮して入りませんでした。

国峰城
甘楽町
平安時代に武蔵七党の一つである児玉党の小幡行頼が山城を築いたのが始まりです。小幡憲重が当主の時に箕輪城の長野業政の娘を迎えましたが、主家の関東管領・上杉憲政が武田信玄によって平井城を追われると、信玄に従う様になりました。憲重は先方衆として上州を転戦している隙に婿の業政によって奪われた事がありましたが、再び取り返しました。信実(憲重の子)の時は武田信廉(信玄の実弟)の赤備え部隊として活躍をしていましたが、武田氏が滅ぶと北条氏に属しました。小田原役では上杉景勝の軍勢に攻められて落城しました。信実の遺児・信秀の時に徳川氏が関東に入封すると、箕輪城に入った井伊直政の誘いで、信秀は井伊氏に仕える様になりました。写真は国峰城跡がある城山に向かう道沿いにあった標識で、興厳寺(曹洞宗)の手前にある城橋にありました。
桃井城
榛東村

北朝時代にこの地を支配していた桃井直常と桃井直信の兄弟によって築かれたのが始まりです。桃井氏は下野国の足利氏の一族に当たります。午王頭川と南城寺川を天然の水堀として利用した城で、東城と西城から成っていました。直常と直信の兄弟は足利直義(尊氏の弟)に従って京都の六波羅探題を滅ぼした人物です。現在見られる遺構は戦国期のもので、長野氏の箕輪城の支城として機能していたと思われます。写真は東城の位置にあった由来板で、そこは「やぐらすみ」の呼称が残っている場所です。西城の位置には物見台跡があり、標柱と由来板があるということで2度行きながら見つけることが出来なかったので、今回は東城のほうに行って見つけることが出来て嬉しかったです。そこからは榛名山が大きく見えて歓迎してくれているようにも見えました。

勝保沢城
渋川市

小田原城の北条氏に仕えていた斎藤安清が赤城山の西麓の築いたのがはじまりです。主郭は楕円形の珍しい城で、現在は渋川市赤城歴史資料館の敷地内として良好に残っていました。安清は義父の狩野安元と共に勇猛な武将だったそうです。しかし、天正18年に豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、開安清は武士を辞めて浪人になってしまいました。近くには安清が寄進した安玄寺(曹洞宗)があり、安清の墓がありました。写真は渋川市赤城歴史資料館の駐車場から入ったところにあった主郭の土塁で高さが4メートルを超えるものでした。勝保沢城を示す碑や由来板は無く、渋川市赤城歴史資料館の地図に「勝保沢城跡主郭遊歩道」という文字が入っているだけでした。渋川市教育委員会が勝保沢城を示すものを設置して欲しいものです。

井熊砦
渋川市

築城の時期は不明ですが戦国時代に白井城の支城として荒木主水祐が守っていたそうです。利根川に突き出した断崖に築かれた単郭の砦で、利根川の渡河点を抑える役割を持っていました。また北国街道も抑えていました。写真は城跡にあった伊熊神明宮で、鳥居の横に立派な石碑があり、石碑に井熊砦があったことが記されていました。そこから船着き場に行けるとのことでしたが、藪が凄くて道が分からなくて退散しました。

不動山城
渋川市

戦国時代に白井城の長尾氏の家臣・見立権太郎が築いたのがはじまりで、見立城と呼ぶほうが正確だそうです。利根川を眼下に望む断崖に築かれた城です。不動山城は白井城の支城だったことで、2度も落城しています。1度目は、上州国に侵攻した武田信玄の家臣・海野幸義(海野棟綱の子で信玄の次男・信親の養父)の7百騎の軍勢によって落城しました。2度目は、豊臣秀吉の小田原攻めで上杉景勝と前田利家の2万5千騎の軍勢によって落城しました。写真は刀川小学校のプール脇にあった説明板で、藪が凄かったので、遠くからデジタルカメラのレンズをアップして撮りました。

渋川城
渋川市

戦国時代に武田信玄の家臣・真田幸隆(幸村の祖父)が渋川衆に命じて白井城攻略の拠点の1つとして築かせたのがはじまりです。渋川城は別名で渋川寄居城とも呼ばれていました。現在は城跡に正蓮寺(真宗)が建立されていて、かつて水堀だったところは用水として流れていて面影を残していました。写真は境内にあった説明入りの石碑です。正蓮寺(真宗)は別名ボタン寺といい、4月下旬から5月上旬になると境内にある500株の花がきれいに咲かせるそうです。

剣城
渋川市

鎌倉初期に比企氏の居城があり、単郭で土塁を巡らせただけの城でした。比企氏は白井城の長尾氏に仕えていた家臣でした。戦国時代は長尾景俊が城主でした。写真は住宅街にある桃園の角にあった手製の看板「剣城」です。近くを通るJR上越線の踏切の名前は「剣城踏切」、その横に電車用の標識の名前は「37剣城」、近くを流れる唐沢橋の名前は「剣城歩道橋」となっていて、いずれも好感が持てました。写真を撮った食後に、JR上越線の3両構成の古い列車が音を立てて通過して行きました。

八崎城
渋川市

築城の時期は不明ですが、戦国時代に上野国の守護代・白井長尾氏の居城・白井城の支城として機能していました。この城も利根川を眼下に望む崖の上に築かれています。関東で起きた動乱で長尾景春(関東管領・上杉顕定の家臣)と長尾景仲(景春の叔父で上野国の守護代)が在城していた事があります。戦国時代の白井城は長尾憲景が城主で、上杉謙信のバックアップを受けて上野国に侵攻した武田信玄に対抗し続けました。しかし、信玄の重臣・真田幸隆(幸村の祖父)に敗れると八崎城に逃れて、次男の輝景に家督を譲りました。豊臣秀吉の小田原攻めでは、豊臣方の大軍によって落城しました。余談ですが、八崎城の城主をしていたことのある景仲の木像が市内にある雙林寺(曹洞宗)に安置されているそうです。写真は雙林寺の近くにある畑の中にあった説明板です。

真壁城
渋川市

戦国時代に上野国の守護代・白井長尾氏の重臣・神谷氏が築いたのがはじまりです。利根川を眼下に望む丘陵の山頂部を削平した単郭の縄張りで、土居・横矢溝・安土馬出しなどを配置した城です。近くには同じ単郭の縄張りを持つ箱田城があります。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めでは、前田利家と上杉景勝の軍勢によって本城の白井城と共に落城しました。今回の訪城は3度目の正直になります。城主の菩提寺・桂昌寺(曹洞宗)から入ったところにある目印であるゲートボール場が見つからなかったためで、今回は新しい道路標識があったので、無事に写真の説明板にたどり着くことが出来ました。

引越山ノ砦
渋川市

ネットサーフィンしていたら偶然見つけたのが引越山ノ砦です。築城者や城についての由来が全く不明の砦なのに、入沢集落に入った道の脇に写真の立派な石碑「史跡・引越山ノ砦跡」がありました。近くには渋川氏が築いた渋川城跡(現在、正蓮寺)があるので、支城としての機能があったのではないかと勝手に想像しています。そこからわずかですが赤城山が見えました。

入沢城
渋川市

戦国時代に武田家による上州・白井城攻めに従軍した入沢氏が戦功によってこの地を与えられたときに居城を構えたのがはじまりです。入沢氏は信州の豪族・村上氏に仕えていた佐久衆で、佐久郡にも同じ地名の入沢郷に入沢城があります。しかし、異説があり、清和源氏・足利氏の流れを組む渋川氏が居城を築いたそうでハッキリしないのですが、写真の石碑には「渋川城址」と彫られています。しかし、ここから東側に2キロメートル行った先にも渋川城址(正蓮寺)があるのですが、そちらは真田氏によって新規に築かれた城なので関わりがありません。自分なりの結論ですが、入沢城の前身が渋川氏によって築かれた渋川城であり、入沢氏が入ってきたときに渋川城址を改修して入沢城になったという歴史の流れだったのではないかと思います。

箱田城
渋川市

戦国時代に上野国の守護代・白井長尾氏の居城・白井城の出城として、箱田衆によって築かれたのがはじまりだそうです。箱田衆は木曽義仲に仕えていた家臣の末裔だそうです。丘陵の山頂部を削平した単郭の縄張りで、高い土塁と深い空堀があり、2ヶ所の虎口を配置し、虎口の内側には武者屯、北角には櫓台を配置した中世末期の築城法が分かる資料だそうです。施設の破壊からかろうじて残った土塁の上に写真の説明板が設置されていたのは良かったと思います。利根川に架かる坂東橋からは天守閣風の建物が見えるので、主郭跡まで迷うことなく車で行くことが出来ます。実は今回で2回目の訪城で、元々は「ばんどうの湯」だったのですが、久しぶりに再訪したときは「たちばなの郷」として再出発していました。

下田邸
箕郷町

戦国時代に西上州を支配していた長野業正の居城・箕輪城の南西側を守る出城として上芝砦がありました。業正は関東管領上杉顕定の家臣で、8度におよぶ武田信玄の侵攻に対してゲリラ戦や夜営の急襲などを繰り返して都度撃退させた武将でした。信玄による最後の箕輪城攻めでは、下田正勝の配下が上芝砦を守備して全滅してしまいました。正勝は、落城時に長野業盛(業正の子)に殉じています。天和2年(5代将軍・徳川綱吉の時代)に安房国の勝山藩の白川陣屋が置かれると、正勝の末裔が代官として任命されると、かつて下田兵が守備していた砦跡に屋敷を構えました。現在は書院(県指定重要文化財)と庭園(県内唯一の武家庭園)が残っていて、見応えがありました。写真は下田邸の門と塀で、とても良い雰囲気でした。。=作成中=

丸戸張砦
箕郷町

戦国時代に西上州を支配していた長野業正の居城・箕輪城の南西側を守る出城として丸戸張砦がありました。業正は関東管領上杉顕定の家臣で、8度におよぶ武田信玄の侵攻に対してゲリラ戦や夜営の急襲などを繰り返して都度撃退させた武将でした。写真は特別非営利活動法人・箕輪城元気隊が設置した手作りの説明板で、大手尾根口の入口を固めていた土塁の前にありました。箕輪城址公園に入る前に周辺を車でグルッと1周してから入るのですが、今まで気が付きませんでした。余談ですが、丸戸張砦の手前は内宿といい、徳川家康の関東入封に従って箕輪城主になった井伊直政(徳川四天王)の時代に整備された武家屋敷街がありました。

生原砦
箕郷町

戦国時代に西上州を支配していた長野業正の居城・箕輪城の南東側を守る出城として生原砦がありました。業正は関東管領上杉顕定の家臣で、8度におよぶ武田信玄の侵攻に対してゲリラ戦や夜営の急襲などを繰り返して都度撃退させた武将でした。写真は砦跡にあった北野神社で、土塁と空堀が良く残っていました。信玄による最後の箕輪城攻めでは、道寺則兼が生原砦を守備して戦死してしまいました。武田軍によって最初に落とされた砦で、武田軍の陣地となりました。一族に長野業盛(業正の子)の家老を務めた道寺信貞が居て、落城時に殉じています。「箕輪軍旗」によると、落城後に箕輪城主となった内藤昌豊(武田二十四将の一人)から、生原砦を道寺久助(信貞の遺児)に与えられたという記録が残っている事から、内藤時代にはしばらく利用されていたそうです。

椿山砦
箕郷町
戦国時代に西上州を支配していた長野業正の居城・箕輪城の東側を守る出城として椿山砦がありました。業正は関東管領上杉顕定の家臣で、8度におよぶ武田信玄の侵攻に対してゲリラ戦や夜営の急襲などを繰り返して都度撃退させた武将でした。写真は箕輪小学校から見た椿山砦跡で、市道で分断されていますが元々は尾根続きの曲郭でした。箕輪小学校より低い位置にある校庭や、箕輪幼稚園のある一帯はかつて榛名沼が広がっていたそうで、信玄を何度も退けた広大な難攻不落の名城だったのだなと、改めて思いました。あと、箕輪小学校の入口に「箕輪城址入口」と彫られた石碑があり、昔はそこが本丸に通じる旧登城口でした。余談ですが、周囲の地形が「箕」の形をしていたことから、「箕輪」という地名が起こったそうです。
和田山館
箕郷町

鎌倉時代に北条義時(2代目執権)との戦いで和田義盛(桓武平氏の流れを組む三浦一族)が戦死すると、和田一族は全国に飛散しました。義盛の5男・和田義信は家臣に守られて上州のこの地に潜伏して住まいを構えたのが始まりです。その後、和田一族は勢力を拡大していきました。戦国時代は和田業繁が和田城(高崎城の前身だった城)を築いて移ると、箕輪城の長野業の娘を迎えています。長野氏が滅んだ後は武田氏に仕える様になり、業繁は川窪信実(信玄の弟)の配下となりました。長篠合戦では信実の守る鳶ヶ巣山の隣に築いた君ヶ臥戸砦を守備していましたが、酒井軍の銃弾を受けて信州駒場で亡くなりました。その後武田信玄の側近・跡部勝資の嫡男・信業が家督を継いでいるので、平安時代から続いた上州和田氏の血が業繁で途絶えてしまった事になります。

白川陣屋
箕郷町

天和2年(5代将軍・徳川綱吉の時代)に安房国の勝山藩・酒井忠国の出張陣屋が置かれました。忠国の正室は毛利輝隆(毛利輝元の次男)の娘だそうです。白川陣屋は7ケ所の村(白川村・和田山村・西明屋村・富岡村・上高浜村・下高浜村・本郷村)を統治しました。最初の代官は下田政広で、明治3年に廃止されるまでの188年間、下田氏(長野氏の旧臣)が代々代官を務めていました。写真は陣屋があった場所に建てられていた陣屋址碑と説明板です。余談ですが、明屋村には2つがあり、東明屋一帯は下田邸と武家屋敷があり、西明屋一帯は、伊香保街道の宿場町として栄えていました。箕郷町役場に下田邸書院と庭園が無料で見られ、旧街道には商家建築や農家屋敷が数棟残っていて楽しいところでした。

白川砦
箕郷町

戦国時代に西上州を支配していた長野業正の居城・箕輪城の南側を守る出城として白川砦がありました。業正は関東管領上杉顕定の家臣で、8度におよぶ武田信玄の侵攻に対してゲリラ戦や夜営の急襲などを繰り返して都度撃退させた武将でした。写真は砦跡にあった白川神社で、土塁と空堀が社殿の裏側に良く残っていました。信玄による最後の箕輪城攻めでは、白川満勝の配下が白川砦を守備して全滅してしまいました。満勝(長野十六槍の一人)は、落城時に長野業盛(業正の子)に殉じています。同じ長野十六槍の一人に上泉信綱が居て、落城後は信玄による仕官要請を断り、弟子を連れて諸国流浪の旅に出てしまいました。余談ですが、信綱に試合を申し出た幕府の剣豪・柳生宗厳(柳生宗矩の父)を一瞬で下し、己の未熟さを知った宗厳は信綱の弟子になりました。

高浜砦
榛名町

戦国時代に西上州を支配していた長野業正の居城・箕輪城の出城として高浜砦がありました。烏川と鳥居沢川の合流地点に築かれた単郭で、箕輪城の南西側を守っていました。その後、匂坂長信が城主となりました。武田信玄による最後の箕輪城攻めでは、信玄の命を受けた那波宗安の軍勢に攻められて長信の配下は全滅してしまいました。高浜砦の陥落を聞いた安藤勝道は宗安を討とうと箕輪城を出たものの、勝道も那波軍によって討たれてしまいました。城主の長信は、落城時に長野業盛(業正の子)に殉じています。写真は烏川を眺める砦跡に建てられた赤い稲荷神社です。高浜砦を攻め落とした宗安ですが、宗安の実家は上杉謙信に攻め滅ぼされた那波城です。15年後に起きた長篠合戦では川窪信実(信玄の弟)に従って、鳶ヶ巣山砦で信実と共に戦死してしまいました。

住吉城
高崎市

戦国時代に長野氏の家臣・住吉玄蕃によって築かれたのがはじまりです。烏川と白川の合流地点に築かれた要害で、箕輪城の南西側を守る支城として機能していました。その後、清水正智が城主となりました。武田信玄による最後の箕輪城攻めでは、正智の配下が住吉城を守備して全滅してしまいました。城主の正智は、落城時に長野業盛(業正の子)に殉じています。写真は白川沿いにある民家にあった城址碑です。付近にある沖町郵便局と岡田動物病院の付近に、大きな土塁が残っていました。

永泉寺砦
高崎

戦国時代に倉賀野城主・金井秀景の命令で北側を守る支城として築かせたのがはじまりだそうです。秀景の主君は倉賀野城主・倉賀野尚行(桓武平氏の一派・児玉氏)といい、上杉謙信に付いたために武田信玄の猛攻を受け、倉賀野城の落城寸前に謙信を頼って越後に逃げてしまいました。倉賀野城の落城後、信玄に降伏した秀景は信玄の命で倉賀野城を改修すると城主になったという経緯のある武将でした。写真は倉賀野宿から1本道に入った所にあった永泉寺(曹洞宗)の本堂で、周囲を囲む水路は砦時代の水堀の跡ではないかと云われているそうです。なお、境内には秀景の墓がありました。

沼田城
沼田市

戦国時代に沼田顕泰(箕輪城・長野業正の娘婿)が築いたのが始まりです。上杉氏、武田氏、北条氏によって沼田氏は翻弄され続ける事になりました。沼田氏滅亡後は真田氏が入り、江戸時代に沼田藩が立藩されると本多氏、黒田氏、土岐氏が支配して明治を迎えました。真田信利(武田二十四将・真田信綱の孫)の時に5重の天守閣が建てられましたが、改易と同時に破却されてしまいました。沼田藩からは老中になった土岐頼稔と、大坂城代になった土岐定経が居ます。余談ですが小松姫(徳川家康の側近・本多忠勝の娘)の逸話があり、夫の真田信之が留守の時に、真田昌幸が孫の顔を見たさに沼田城に立ち寄りました。武装した小松姫は「舅であっても敵である」と言って城門を開けなかったものの、城下にある正覚寺で自ら子供を連れて昌幸を喜ばせたということです。

荘田城
沼田市

平安時代に利根平八郎が平将門征伐の恩賞で荘田郷を与えられて居館を築いたのがはじまりです。鎌倉創建期における利根家は経家が当主で、娘の利根姫が居て、源頼朝の側室となって能直をもうけました。余談ですが、能直は後に豊後国への下向を命じられて大友家の祖となり、21代の末裔に宗麟を輩出することになります。宝治の乱で北条時頼(5代目執権)との戦いに敗れた三浦泰村(2代目執権・北条泰時の娘婿)と光村の兄弟は自刃し、上州に逃れた泰村の遺児は沼田景泰と名前を変えました。室町時代に8代目・沼田景朝が小沢城に移るまでの158年間沼田家代々の居城となりました。写真は荘田城跡公園の中腹にあった熊野神社で、建物がまるでお城のように見えました。一帯は熊が出るらしく「熊出没注意」という注意板がたくさん立ててありました。

小沢城
沼田市

室町時代に沼田景朝(8代)が、小沢川と四釜川に挟まれた断崖の上に居城を築いたのがはじまりです。以来、沼田氏4代の居城として114年間この地を支配しました。法城院(曹洞宗)の裏に沼田景義の墓がありました。景義は沼田顕泰(12代)の次男ですが、母・ゆのみと共謀して兄の沼田朝憲(13代)を天神城で殺してしまいました。激怒した沼田城兵に攻められて落城し、景義は尾瀬を越えて会津の芦名氏を頼って逃げてしまいました。やがて景義は女渕城で沼田城奪回の兵を挙げましたが、当時の沼田城主・真田昌幸(幸村の父)によって滅ぼされてしまいました。沼田氏旧臣の離反を恐れた昌幸は、法城院を建てて景義の遺骸を葬って弔いました。写真は法城院の本堂に横にあった城跡標柱と説明板で、裏にまわると大きな土塁が囲むようにして残っていました。

幕岩城
沼田市

戦国時代に沼田泰輝が、薄根川の断崖の上に居城を築いたのがはじまりだそうです。沼田氏は桓武平氏の流れをくむ三浦景泰を祖としています。泰輝の子・沼田顕泰が城主のときに蔵内城(後の沼田城)を築いて居城を移すと、幕岩城は廃城になりました。余談ですが、顕泰は、関東管領・上杉顕定を同じ主君に持つ箕輪城主長野業政の娘を迎えています。写真は歓楽院で、沼田城主・真田信利が沼田城の鬼門除けとして月夜野にあった法成寺を幕岩城跡に移し、京都から求めた千手観音を御本尊として安置しました。本当は「幕岩城二ノ丸跡」と彫られた小さな石が住宅地にあるそうですが、庭石とは区別が付かないものだったので、どうしても見つからなくて断念しました。

名胡桃城
みなかみ市

室町時代に沼田景久が次男の景冬に築かせたのが始まりです。景冬が名胡桃氏を称して以来、名胡桃氏の居城として代々この地を支配しました。利根川と赤谷川の合流地点に築かれた城で、断崖絶壁に囲まれた要害でした。戦国時代における沼田領は北条氏政、上杉謙信、武田勝頼(信玄の4男)、真田昌幸(幸村の父)の順で支配するところとなりました。豊臣秀吉の調停によって利根川を境に真田領と北条領に分割されました。しかし、大名間の私闘を禁じた惣無事令を破った猪俣邦憲(北条氏の家臣)が名胡桃城を奪取し、城代の鈴木主水(真田氏の家臣)を切腹に追い込んでしまいました。この事件が発端で激怒した秀吉による小田原征伐へとつながりました。写真は本丸に建てられた巨大な城址碑で、高さ5〜10メートルを超える土塁や複数の曲郭が良好に残っていました。

明徳寺城
みなかみ市

南北朝時代に荘田城主・沼田氏の命によって前身である天神山砦が築かれたのが始まりです。室町時代には城跡に松庵という僧が明徳寺を開山した事から、明徳寺という地名に変わりました。戦国時代には利根川渡河点を押さえる交通の要衝だったので、沼田城主・藤田信吉の命によって家臣の沢浦氏、渡辺氏、西山氏が守備していました。しかし、信吉は北条氏に付いた為に真田昌幸(幸村の父)に攻められて落城してしまいました。昌幸は沼田城を攻める包囲網の1つとして改修させると、家臣の根津氏と出浦氏を置きました。豊臣秀吉によって関東制覇が終わると廃城になりました。写真は、みねの湯月夜野館の敷地に入る手前にあった城跡標識です。城跡の入口にも城跡の標柱と説明板があったのですが、「熊注意」という注意板があってビックリしてしまいました。

小川城
みなかみ市
室町時代に沼田景久が次男の景秋に命じて築かせたのが始まりです。景秋は小川氏を称して以来、小川氏5代の居城として88年間この地を支配しました。最後の城主は小川可遊斎(赤松孫五郎)で、播磨国・赤松則村(通称:赤松円心)の流れを組む人物です。小田原城から北条氏邦(北条氏康の4男)の軍勢が度々侵攻すると、沼田衆の筆頭家老として都度撃退したそうです。しかし、氏那が大軍を引き連れて小川城を包囲しました。籠城戦は1ヶ月ほど続きましたが、ついに落城し遊斎は越後国の上杉謙信を頼って逃げてしまいました。可遊斎ですが、同じ上野国内にある勝山城を築いた関口能亮も同じ赤松一族です。写真は久しぶりに訪れた小川城跡で、赤い幟が賑やかに立てられていました。相変わらず土塁と空堀が見事で楽しませてくれました。
小川陣屋
みなかみ市
寛永16年(3代将軍・徳川家光の時代)に小川城跡に入った真田信利によって陣屋が置かれたのがはじまりで、明暦3年(4代将軍・徳川家綱の時代)までの18年間居住していたそうです。その後、お家騒動を起こした信利は、沼田藩として本家・松代藩から独立を果たし、沼田城を改築して5重の天守閣を築くと、小川陣屋は廃止されました。余談ですが、沼田藩主となった信利は23年後に治世不良を理由に改易されてしまったのですが、父・信吉(真田信之の庶子)も大した人物ではなかったらしく、大坂夏の陣では叔父の真田幸村の軍勢に追われて戦わずに逃げまくったそうです。写真は真田氏の陣屋があった場所(小川城の二ノ丸跡一帯)にあった看板です。それとは別に「真田伊賀守陣屋跡」と書かれた看板があるそうですが、見つけることが出来ませんでした。
石倉城
みなかみ市
室町時代に関東管領・山内上杉顕定の命で清水街道を押さえる要衝として築かせたのがはじまりです。その頃、越後では守護・上杉房能(顕定の弟)と守護代・長尾為景(上杉謙信の父)との対立が続き、直峰城で為景に敗れ、追撃を受けた房能は三国峠に逃れる途中の天水越で戦死してしまいました。激怒した顕定は、養子の憲房と共に越後に侵攻して為景と定実(為景の妹婿で房能の養子)を越中に追放しました。しかし、越後では強硬な統治を行なったために国人の反発を生み、勢力を盛り返した為景の大反撃を受けた顕定は、為景に付いた高梨政盛(謙信の曽祖父)の追撃を受けた越後長森原で戦死してしまいました。城主・顕定を失った石倉城は廃城になり、歴史の舞台から消えてしまいました。写真は、城址碑と由来板で、深い藪を掻き分けて何とか撮影したものです。
宮野城
みなかみ市
戦国時代に尻高義隆が三国往還の関所の手前に居城を築いたのが始まりです。尻高氏は桓武平氏の流れをくんでいます。義隆は上杉謙信に仕えていましたが、後に北条氏政に仕える様になりました。沼田地方に進出した真田昌幸の命を受けた海野輝幸(昌幸の遠戚)に攻められると、城兵の助命を条件に開城した義隆は城下にある恩林寺で自刃しました。武田氏が滅び、後に織田氏の家臣・滝川一益の支配下に置かれた宮野城ですが、混乱に乗じて上杉景勝(謙信の甥)の攻撃を受けて落城しました。景勝は家臣・栗林憲景を城代に置いたものの、矢沢頼綱(昌幸の叔父)が攻撃を仕掛ける前に越後に逃げ帰ってしまいました。余談ですが、関東出兵で三国峠を越えた謙信が宮野城に度々入った事があり、猿ヶ京温泉に入って行軍の疲れを取る為に1泊したという話が残っています。
箱崎城
みなかみ市

明応年間(11代将軍・足利義澄の時代に名胡桃景冬の命令によって赤谷川と須川川が合流するところに突き出た台地の上に築かれたのがはじまりだそうです。戦国時代には沼田城の真田昌幸の家臣・原沢大蔵が箱崎城を守備していたそうです。2つの曲郭で構成された小城だったことから、三国峠,大道峠,切ヶ久保峠の3峠に通じる中間街道を押さえる働きを持っていたと思われます。写真は、みなかみ市新治支所(旧新治村役場)にあった庭園で、まるで平時における城主の居館跡のような雰囲気が出ていて面白かったです。しかし、役場の背後にある箱崎城は整備されていないのか藪が凄く、石碑や由来板が無かったのが残念でした。小さな由来板で構わないので、みなかみ市新治支所の職員がボランティアで設置して歴史の履歴として後世に伝えて欲しいと思いました。

見城
みなかみ市

戦国時代に小川城主・小川可遊斎(播磨国の赤松一族)が北条氏邦(北条氏康の4男)を迎え撃つ為に築いた山城です。北条軍によって小川城が落城しても尚、この見城に籠城して防いだそうです。「見城の柵」と呼ばれているそうですが、「城柵」という言葉は古代日本において大和朝廷が築いた多賀城や胆沢城のような軍事的防御施設を指しています。ここでは戦国時代に築かれたので「見城」として紹介しています。写真は見城の麓にあった曹洞宗・嶽林寺で、小川景祐(小川城の2代目城主)が開祖です。そこから見城へアクセスが出来るのですが、岩山だという事で登山は諦めてしまいました。山頂が岩山になっている見城なので、さすがの北条軍も山頂まで攻め落とす気持ちになれなかったのか、それが幸いして可遊斎は越後に逃げる事が出来たのではないかと思いました。

館林城
館林市
鎌倉時代に赤井照によって築かれたのが始まりです。利根川と渡良瀬川に挟まれた湿原地帯に築かれた要害でした。戦国時代には上杉謙信によって落城、豊臣秀吉の小田原攻めでは石田三成によって和議開城するなど、度々落城を経験しています。江戸時代には3階の天守閣と2階の隅櫓が3基建てられ、徳川譜代の大名が城主を務めて明治時代を迎えました。松平綱吉(後の5代将軍)が19年間居城していた時期がありました。写真は昭和58年に復元された土橋門です。最初、城跡内にあった館林市立文化会館の職員に土橋門へのルートを尋ねてみた所、1人目は「分かりません…」と言われてしまい、2人目は丁寧に教えてくれたものの遠回りでした。結局自分の勘を頼りに館林市立文化会館の勝手口を出てみたところ、目の前に土橋門があったので呆れてしまいました。
牛沢城
太田市
鎌倉時代に平安時代に里見重基新田義重の玄孫)が居城を築いて牛沢姓を名乗るようになりました。牛沢城は蛇川の左岸に築かれた城で、周辺には新田一族の城館が点在している地域でした。牛沢氏11代の居城として続きましたが、戦国時代に最後の当主・牛沢光基は上州金山城の由良成繁に仕えていたため、小田原の役では前田利家の軍勢に上州金山城と共に攻められ落城しました。写真は居館跡にあった牛沢神社です。
岩松城
太田市
江戸時代に交代寄合旗本をしていた新田一族・岩松守純が岩松城を構えたのが始まりだそうです。守純は岩松氏14代目の当主で、戦国時代に上州金山城の由良成繁の下克上によって追われた上、桐生で幽閉されてしまいました。豊臣秀吉の天下統一により、関東に入封した徳川家康に新田氏系図の譲渡を求められましたが、それを拒否した為に僅か20石しか与えられませんでした。後に100石を加増されて120石の禄高になると、戦国時代に築かれた下田島城跡に岩松城(正確には陣屋程度の小さな規模)を築いたという事でした。明治時代になると、最後の当主となった岩松俊純は新田姓に復姓し、男爵となりました。余談ですが、俊純の娘婿は長州出身の井上馨(伊藤博文内閣の官僚)だそうです。写真は県立太田フレックス高校のフェンスにあった小さな看板です。
今井城
太田市
室町初期に上州金山城の由良氏に仕えていた大沢氏の城がありました。大沢氏は下野国の小山朝氏の3男・大沢忠秀を祖先に持つ家柄で、今井郷を治める土豪でした。江戸時代には陣屋が置かれていたそうですが、その陣屋には誰が入封したのかは分かりませんでした。写真は世良田生涯学習センターの裏側にあった記念碑で、『城跡に里見一族の菩提寺・宝積院が建てられたものの、室町中期に起きた火災で木造地蔵像が難を逃れました。しかし、移管先の普門寺が近年の火災で焼失して木造地蔵像を失ってしまいました。宝積院跡にあった里見氏の墓地を総持寺に移転したことを記します。』という意味の内容が彫られていました。
細谷館
邑楽町
南北朝時代に新田一族・細谷秀国によって築かれたのがはじまりだそうです。細谷氏は細谷国氏を祖に持つ家柄で、国氏の兄・新田基氏は新田義貞の祖父に当たります。秀国は義貞に従って共に各地を転戦し、加賀攻略戦では大将として戦功をあげたものの、足利尊氏方に付いた斯波高経が籠もる黒丸城の攻城戦では攻め切れませんでした。まもなくして、越前藤島において主君の義貞が戦死すると、秀国は上州に戻りました。戦国時代には9代目の細谷義長が当主で、豊臣秀吉による小田原役では細谷館も降伏し、戦後細谷一族は帰農しました。写真は民家の前にあった説明板で、撮影中に奥にある家屋から飼い犬の鳴き声が聞こえてきました。
片岡城
邑楽町
平安時代には片岡郷に荘園を所有していた平国繁(後に片岡姓を名乗りました)の居城があった場所だそうです。国繁は桓武平氏の一族で、息子の経繁は平清盛に仕えていました。坂東で源頼朝をはじめとする源氏が勢力を巻き返してくると、窮地に立たれました。壇ノ浦で平家が滅亡すると、経繁は土佐に逃亡しました。経繁は土佐で勢力を築いて黒岩城主となると、長男の経俊と次男の経政は帰農して母の菩提を供養するために残り、3男の経氏は土佐に渡って家督を継ぎました。写真は居城があったという場所にある民家の前にあった説明板です。余談ですが、ここは清和源氏の一族・新田氏と足利氏に囲まれた地域なので、片岡郷を治めていた頃の国繁と経繁の親子は不安な気持ちだったに違いないと思いました。
勝山城
前橋市
南北朝時代に関口能亮が利根川の畔に築いたのが始まりです。関口氏は播磨国・赤松則村(通称:赤松円心)の流れを組む名門で、本家と共に南朝方に付いていました。戦国時代には関口清房が城主で、上州に侵攻した武田勝頼(信玄の4男)に攻められて落城しました。勝山城址は元景寺(曹洞宗)の敷地になっていて、側を利根川が流れていました。元景寺は総社城主・秋元家の菩提寺で、境内には秋元景朝夫妻のお墓がありました。景朝は深谷城の上杉憲賢と憲盛の二代にわたって仕えていた上杉三宿老の一人でした。写真は元景寺の裏にある墓地内の一角に地面に埋もれるようにして捨てられていた勝山城の説明板です。起こしてみると、すっかり錆びてほとんどが読めなくなっていました。元景寺に対しては非常に残念な気持ちと怒りの気持ちでいっぱいになりました。
蒼海城
前橋市
室町時代に上野国守護代・長尾忠房の居城がありました。戦国時代には10代目・長尾景総が城主で上州に侵攻した武田信玄によって落城し、越後国の上杉謙信を頼って落ち延びてしまいました。徳川家康が豊臣秀吉の命令で関東八州に入封すると、諏訪頼忠(信玄に滅ぼされた宗家・諏訪頼重の従弟)と頼水の親子が蒼海城に入りました。まもなくして旧領・諏訪に帰り咲くと、関が原の合戦後に上杉景勝に降伏を受け入れさせた恩賞で秋元長朝が入城しました。しかし、信玄によって落城して以来荒廃に任せていた蒼海城を廃城にして、関口氏の勝山城跡の敷地を再利用して築いた新城(総社城)に移ってしまいました。写真は宮鍋神社にあった高さ3メートルを超える大きな看板です。
総社城
前橋市
関ヶ原の合戦で東軍が勝利を収めると、秋元長朝は徳川家康の命で会津に赴いて上杉景勝に降伏を勧め、これを受け入れさせた。この功績によって1万石の所領を与えられた長朝は蒼海城に入りました。しかし、武田信玄によって落城して以来荒廃に任せていた蒼海城を廃城にして、関口氏の勝山城跡の敷地を再利用して新城を築いたのが総社城です。余談ですが、長朝の父は景朝といい上杉三宿老の一人でした。長朝は豊臣秀吉の小田原攻めでは深谷城を死守し、本城の小田原城が落城してから開城して浪人になったものの、高崎城主になった井伊直政の推薦で家康に仕えるようになりました。子の泰朝のときに甲斐に移封されると総社城は廃城になりました。写真はかつて本丸があった場所に建てられた総社大明神です。
上泉城
前橋市
室町時代に大胡氏の支族・上泉義秀によって藤沢川と桃ノ木川の合流地点に築かれました。戦国時代には上泉秀綱が当主で、本家・大胡氏を再興する働きをしました。箕輪城の長野業正に仕えていた頃は、「長野16本の槍」の筆頭として活躍をしていました。長野家が武田信玄によって滅ぼされると、信玄の要請を受けて武田家に一旦仕官したものの、京都に出て剣術流派を広めたいと願い出たそうです。そのとき信玄から偏諱を受けて‘’の一字を貰うと信綱と名乗るようになりました。写真は上泉町自治会館(上泉城の二ノ丸跡)にあった上泉城の説明板で、その横には信綱が誕生して500年を記念して製作された信綱の銅像がありました。
寺尾中城
高崎市
吾妻鏡によると、源頼朝になかなか従おうとしなかった新田義重(源義家の孫で新田氏の祖)が、兵を寺尾中城に集めて動かなかったと伝えられています。南北朝時代には尹良親王(後醍醐天皇の孫)が新田一族の世良田政義の支援を受けて寺尾中城に立て篭もったそうです。しかし、平井城の上杉憲定(関東管領で北朝方)に攻略されて落城し、尹良親王は信州諏訪に逃れたと伝えられています。寺尾中城は観音山ファミリーパークの南コース内にあり、そこには尹良親王の御座所があったという郭跡もありました。写真は寺尾中城跡にあった説明板で、土塁が良好に残っていました。その奥に進むと木製の城址碑「寺尾中城・本城」もありました。
東明屋砦
箕郷町
戦国時代に西上州を支配していた長野業正の居城・箕輪城の東側を守る出城として東明屋砦がありました。業正は関東管領上杉顕定の家臣で、8度におよぶ武田信玄の侵攻に対してゲリラ戦や夜営の急襲などを繰り返して都度撃退させた武将でした。写真は特別非営利活動法人・箕輪城元気隊が設置した手作りの説明板で、上州の名物・梅園の中にありました。箕輪城址公園に入るときに最初に曲郭跡(東明屋砦跡)があって、そこを通過して本丸跡と二ノ丸跡の中間位置にある駐車場に入るのですが、箕輪城を何度も訪れていながら今まで気が付きませんでした。
里見城
榛名町
平安時代に新田義重(源義家の孫で新田氏の祖)の子・義俊が里見郷を与えられて里見氏を名乗りました。室町時代には関東公方の足利氏と関東管領の上杉氏との対立が激しくなると、里見氏も動乱の渦に引き込まれてしまいました。里見家基が当主のときに結城合戦が起きると、関東公方側に付いた家基は一族を引き連れて結城城に籠城しました。この戦いで家基は戦死し、幼かった里見義実は家臣と共に落ち延びると、安房に渡ったそうです。義実は白浜城を本拠に安房を統一し、房総の戦国大名・里見氏の祖となりました。戦国時代には長野氏の箕輪城の支城でしたが、武田信玄が西上州に侵攻すると、武田軍の別働隊を引き連れた小宮山昌友の軍勢によってわずか数時間で落城しました。写真は城址にある城山稲荷社に入る手前の交差点の角にあった案内標識です。
鷹留城
榛名町
室町時代に箕輪城の支城として、長野業の命によって松山城と共に整備されたのがはじまりだそうです。長野業通(業の甥)は弟たち(業勝と業固)と一緒に鷹留城と松山城を守備していたそうです。箕輪城の業が病死して子の業盛が継ぐと、上州に侵攻した武田信玄は国峰城,安中城,松井田城を次々と陥落させました。鷹留城と松山城は山県昌景と内藤昌豊と馬場信房と小山田信茂と穴山信君に命じて攻略させたそうです。2城の陥落から2日後に箕輪城が落城しました。写真は駐在所の付近にあった案内標識です。
松山城
榛名町
室町時代に箕輪城の支城として、長野業正の命によって鷹留城と共に整備されたのがはじまりだそうです。長野業通(業正の甥)は弟たち(業勝と業固)と一緒に松山城と鷹留城を守備していたそうです。箕輪城の業正が病死して子の業盛が継ぐと、上州に侵攻した武田信玄は国峰城、安中城、松井田城を次々と陥落させました。松山城と鷹留城は山県昌景と内藤昌豊と馬場信房と小山田信茂と穴山信君に命じて攻略させたそうです。2城の陥落から2日後に箕輪城が落城しました。城跡には金毘羅神社が建っていて、登城口の前には写真のように城址を示す標柱がありました。麓には長野家の菩提寺である曹洞宗・長年寺があり、墓地の中に長野家の墓がありました。業正の戒名は「一清長純居士」だそうです。
平井城
藤岡市
室町時代に関東管領・上杉憲実が家臣・長尾忠房に命じて築かせたのがはじまりです。鮎川に突き出た崖に築かれた堅固な平井城は、対抗していた鎌倉公方・足利持氏への勢力を意識していたといわれています。戦国時代には上杉憲政が当主で、上杉朝定と古河公方・足利晴氏で結成した8万の連合軍で、北条綱成(北条氏康の妹婿)の守備する川越城を攻めたものの、大敗してしまいました。権威回復のために佐久に出陣したものの、今度は武田信玄に大敗してしまいました。4年後に神流川の戦いで氏康に敗れた憲政は平井城を捨てて上杉謙信に頼って逃亡してしまいました。主の居なくなった平井城は北条長綱(氏康の叔父)が接収したものの、謙信が来襲すると小田原まで撤退しました。平井城を取り戻した謙信でしたが、謙信の命令によってついに廃城になりました。
平井金山城
藤岡市
室町時代に関東管領・上杉憲実が家臣・長尾忠房に命じて鮎川に突き出た崖の上に平井城を築いたときに、同時に詰城として平井金山城を築いたのがはじまりだそうです。平井金山城が廃城になったのは、おそらく本城の平井城が上杉謙信の命令によって廃城になった時期と重なっていると思われます。写真は日野小学校の対面にあった駐車場内にあった大きな看板で、駐車場から100メートル入ったところに登城口の石碑がありました。そこから20分かけて登山したところに主郭部分に出るのですが、そこには石垣の一部と城址碑と説明板がありました。城山は私有地らしくて、下山途中で道を間違えてキノコの畑(原木栽培)の中に入ってしまったときは本当に慌ててしまいました。
岡上氏陣屋
みどり市
寛文9年(1669年)に銅山街道の脇に代官・岡上影能が陣屋を置いたのがはじまりだそうです。影能は足尾銅山の奉行をしていただけではなく、渡良瀬川から取水した柳原用水や岡登用水などを開拓して、足利や伊勢崎で水田の水不足の解消や、新田の開発に業績を残した代官だったそうです。しかし、2つの用水の成功に対して、今までに対して水の流量が変わることにいい思いをしていなかった農民達が幕府に訴えたために、代官の役を解かれた影能は切腹を命ぜられてしまいました。陣屋跡は上毛鉄道が分断するように通っていて、写真の説明板は踏切の前にあった解説板です。
世良田氏館
太田市
平安時代に徳川頼氏(徳川義孝の嫡子)が館を築いて世良田姓を名乗りました。孫の世良田満義は新田義貞の鎌倉攻めに参加して軍功を立て、その後も一族の江田行義と共に各地を転戦しました。満義は南朝方として最後には信州の浪合村で戦死してしまいました。しかし、一族の世良田義政は北朝方(足利尊氏側)として軍功を挙げ、上州の守護になっています。写真は世良田氏館跡に建てられた天台宗・長楽寺の敷地内にあった新田義貞の銅像です。後方に見える白い建物は東毛歴史資料館で、長楽寺の寺宝(徳川氏所縁の物)や、中島飛行機(富士重工の前身だった戦前の軍事企業)の展示会をやっていました。
境城
伊勢崎市
室町時代にこの地を治めていた井上平左衛門の居城があったそうです。戦国時代には那波宗俊の家臣・小柴盛光が在城していたという記録が残っているそうです。宗俊が小田原城の北条氏康と手を結ぶと、境城は越後の上杉謙信の軍勢に攻められて、宗俊の那波城と共に落城しました。写真は境公園の弁天池で、かつての水堀だったと云われています。
西今井館
伊勢崎市
鎌倉時代に新田一族・今井惟氏の居館があった場所です。この地域は鎌倉時代から環豪集落が点在していて、それを守る城館も点在していました。惟氏は新田基氏(新田義貞の祖父)の6男です。茂木知貞のときに新田義貞が挙兵すると、義貞に従って各地を転戦したそうです。写真は真言宗・妙見寺の西側にある民家の門前にあった解説板です。今でも茂木氏の末裔が住んでいて、古記録や古地図が残されているそうです。
矢島館
伊勢崎市
鎌倉時代に矢島郷を拝領した新田信氏が居館を構えて矢島姓を名乗ったのがはじまりだそうです。信氏は新田宗家・新田政義の3男に当たります。矢島信幸のときに、新田義貞に従って各地を転戦したそうです。しかし、越前国藤島において主君の義貞と共に矢島郎党も散ってしまいました。戦国時代には由良成繁の家臣・南茂頼が治めていましたが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅ぶと、帰農したそうです。写真は矢島館跡に建てられた真言宗・徳蔵寺です。
久永氏陣屋
伊勢崎市
江戸時代に東小保方を治めていた旗本・久永重勝の陣屋がありました。久永氏は石見出身でしたが、上州だけではなく武蔵や常陸にも領地が点在する旗本だったそうです。南面には正門を配置し、更に南手前に大手枡形となり、内に木戸が設けられ、一重の水堀があった陣屋で、江戸時代の陣屋特有の縄張りでした。上州では吉井陣屋と岩鼻陣屋がこれと同じになっていました。明治維新後に主殿は小学校として改築されて使われたあと、解体されて大東神社が置かれました。写真は大東神社の横に設置されていた標柱と解説板です。土塁が大東神社をグルッと囲むようにして残っていました。
原之城
伊勢崎市
築城の時期と歴史は不明ですが、平安時代にこの地域を支配していた豪族の居館があったそうです。周辺は環豪集落が点在していて、それを守る城館も点在していました。昭和56年に土地改良事業にともなう事前発掘調査で移籍の規模や性格が明らかになったそうです。東西約110メートル、南北約170メートルのほぼ長方形で、幅約20メートルの水壕が巡らされていた、全国でも最大級の遺跡だったと、写真の解説板に書かれていました。周辺は何もなく、畑が広がっているのみでした。
今村城
伊勢崎市
戦国時代に斯波宗俊が家臣の長浜顕宗に命じて築かせたのがはじまりだそうです。今村城は川の畔にある稲荷山に築かれた平城でした。宗俊は赤石城を居城にしていましたが、金山城の由良成繁の攻略を受けて今村城に避難したそうです。上杉謙信が由良氏の金山城を攻略する時に、今村城に本陣を置いたことがありました。写真は農家の駐車場の前にあった石碑で、その横に解説板もありました。そこから上州赤城山がよく見えました。
大室城
前橋市
室町時代にこの地を治めていた豪族・大室氏によって東神沢川と西神沢川に挟まれた台地の上に新城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には長尾憲景の領土で、家臣の牧和弾正が城代として支配していました。徳川家康の関東入封に従って酒井重忠が前橋城の城主になると、重忠の家臣・石川一族が大室城に入りました。しかし、重忠が姫路に移封すると石川一族も従ったので、大室城は廃城になりました。写真は大室神社の脇にあった城址碑です。大室神社の正面に解説板があったそうですが、ちょうど大粒の雨が降りはじめたので、それに気を取られて見落としてしまいました。
山名氏館
高崎市
平安時代に源頼朝から恩賞として山名郷を与えられた新田義範が山名氏を名乗ったときに居館を構えたのがはじまりだそうです。同時に詰めの城として山名城も築きました。以後7代にわたってこの地を支配していました。室町時代には7代目の山名時氏のときに伯耆の守護職に命ぜられると、この地を離れたそうです。余談ですが、応仁の乱で有名な山名宗全は時氏の曾孫に当たります。写真は上信電鉄の山名駅前にあった山名八幡宮(山名氏館跡)です。境内には全国山名氏一族会が、先祖の宗全を記念して奉納した神馬像がありました。神馬の顔は、かつて支配した広大な領土があった西日本を向いているという説明の入った看板もありました。
山名城
高崎市
平安時代に新田義重(源義家の孫で新田氏の祖)の子・義範が山名郷を与えられて山名氏を名乗りました。その時に築いたのが山名城で、以後7代にわたってこの地を支配していました。室町時代には7代目の山名時氏のときに伯耆の守護職に命ぜられると、山名城を離れたそうです。時氏は山陰と山陽にある11ヶ国を支配した人物で、その領地は全国の6分の1に相当したので、幕府から「六分の一殿」と恐れられていました。尚、応仁の乱で有名な山名宗全は時氏の曾孫に当たります。高崎市の観音山と呼ばれる山の上に5ケ所の城が分布しており、そのうちの1つに山名城がありました。写真は上信電鉄の西山名駅を降りて、高崎自然歩道というハイキングコースの標識に誘われるようにして約20分登った所にあった石碑「山名城址」で、土塁の一部に囲まれていました。
根小屋城
高崎市
戦国時代に長野氏の箕輪城を滅ぼして西上州を手中におさめた武田信玄が山名城址のある尾根伝いにある高台に根小屋城を築いたのがはじまりだそうです。信玄は三国同盟を破棄して駿河国に侵攻して今川氏真を追放したため、北条氏康は越後国・上杉謙信と同盟を結んで武田氏と対抗していた時期で、信玄が西上州の各地に築いた狼煙台の1つとして機能していたそうです。写真は高崎自然歩道というハイキングコースの標識に沿って山名城址か更に約15分登ったところにあった説明板で、その付近には「根小屋城址」という標柱もありました。根小屋城址は甲州流の築城法を取り入れた搦手口と土塁が良好に残っていました。本丸跡に相当する削平地に立つと、西上州一帯が360度見渡すことが出来ました。
奥平城
吉井町

源頼朝が平家討伐の挙兵をすると、播磨国・赤松則景は源氏方に付き、子の氏行は鎌倉まで駆けつけたそうです。そのときに頼朝から甘楽郡司に命ぜられて、奥平村に居城を築いたのがはじまりだそうです。氏行には異説があって、武蔵七党・児玉党の児玉氏行が則景の養子になったとも云われていて定かではありません。南北朝時代は6代目の奥平定政が当主で、南朝方として新田義貞に従軍したそうです。戦国時代は8代目の奥平貞俊が当主で、三河国の作手に移住したそうで、その頃に廃城になりました。写真は搦手口付近にあった城址碑です。余談ですが、9代目の奥平信昌のときに、徳川家康の娘・亀姫を娶ると、武田勝頼を裏切って長篠城に篭城しました。信昌の篭城戦が、長篠の合戦(設楽原の決戦)における織田&徳川連合軍の大勝利につながったそうです。

大類城
高崎市

築城の時期は定かではないのですが、この地域は鎌倉時代から環豪集落が点在していて、それを守る城も点在していました。近くにあった大類公民館にあった説明板によると、大類城,矢島村西城,天田館,村北館が半径2キロメートル以内に集まっていましたが、石碑などの城跡や館跡などを示すものは写真の大類城だけでした。戦国時代に武田信玄によって長野氏の箕輪城が落城すると、和田城(高崎城の前身だった城)の和田業繁(長野業正の娘婿)は信玄の異母弟・川窪信実の配下になりました。そのときに大類城を築いて家臣の後閑右京亮を置いて守らせたそうです。武田氏が滅ぶと北条氏に従うようになりましたが、豊臣秀吉の小田原攻めで大類城は廃城になりました。この日は春一番が吹き荒れていた日で、その直後に雪まじりの雨に降られて散々な目にあいました。

北新波砦
高崎市
砦が築かれた時期は定かではないのですが、長野業正の家臣・新波新左衛門が箕輪城の砦として築いたという古文書が残っているそうです。武田信玄によって箕輪城が落城したときに、応援に駆け付けた新左衛門は武田軍によって討たれたそうです。この地域は鎌倉時代から環豪集落が点在していて、それを守る城や砦も点在していて北新波砦もその1つでした。環豪は軍事的目的だけではなく、平時にはかんがい用水の貯水池としての役割をも持っていたそうです。写真は北新波砦史跡公園にあった土塁と説明板です。中世の豪族の館跡が発掘されて土塁と空堀が復元されたケースは全国を見渡してもあまり例はなく、特に箕輪城の長野氏と周辺の武士団の深い関わりがあり、中世武士団成立の過程が見える貴重な遺跡なのだそうです。砦跡からは箕輪城のある城山が見えました。
御門城
高崎市
南北朝時代に長尾景忠によって築かれたのがはじまりだそうです。景忠は関東管領・上杉憲顕からの信任が厚く、上州と越後の守護代を兼任していたそうです。戦国時代は箕輪城の支城として機能していたそうです。城址は景忠寺(曹洞宗)になっていて、土塁が良く残っていました。そこから榛名山と、箕輪城のある城山が良く見えました。余談ですが、景忠の弟・景恒から数えて8代の子孫に長尾景虎(後の上杉謙信)を輩出しています。写真は景忠寺の大手口にあった城跡碑で、合併前の榛名町が建てたものでした。
鷹巣城
安中市
戦国時代に西上野に侵攻した武田信玄と箕輪城の長野業正の軍勢がたびたび小競り合いをしていたのが板鼻という場所で、その頃は城や砦などは無かったそうです。長野氏を滅ぼして西上野を手中におさめた信玄が真田昌幸に命じて板鼻に城を築かせたのが鷹巣城(別名:板鼻城)で、碓氷川に面した断崖絶壁の上にありました。江戸時代には里見義高が1万石で入封したときに陣屋が置かれていたのですが、まもなく廃止されてしまいました。写真は碓氷川にかかる鷹之巣橋から見た城山で、西上野に侵攻した武田軍は碓氷川をどのようにして渡河しただろうなと思うと、戦国のロマンに浸ってしまいました。
安中城
安中市
箕輪城の長野業正が病死して武田信玄による西上野への侵攻が激しくなってくると、安中忠成は中山道を守るために安中城を築きました。忠成は早くに降伏&開城をしたので、安中領を安堵され、信玄の重臣・甘利晴吉の妹を娶って信玄に仕えるようになったそうです。しかし長篠の戦いで安中勢は全滅してしまいました。江戸時代には中仙道の要衝として安中藩の陣屋が置かれ、井伊氏・堀田氏・板倉氏・内藤氏が支配して明治維新を迎えました。余談ですが、幕末期に最後の藩主・板倉勝明は藩士の心身鍛錬を目的に松井田を折り返し地点として安中藩士達を走らせたそうで、それが日本マラソン発祥の地となりました(それを記念する石碑がありました)。写真は安中小学校にあった安中城址碑です。
榎下城
安中市
戦国時代に越後の新発田から移った安中忠清(後嵯峨天皇の後裔)の居城がありました。戦国時代には息子の安中忠政が城主で、箕輪城の長野業正の娘婿として上州に侵攻した武田信玄をよく防いだそうです。まもなくして忠政は碓氷峠を守るために松井田城を築き、嫡男の忠成は中山道を守るために安中城を築くと、榎下城は廃城になりました。写真は榎下城址に建てられた曹洞宗・久昌寺で、門前に「鶴巻の里・榎下城址」という看板がありました。余談ですが、すぐ近くには公武合体によって徳川家茂に降嫁するために江戸に下る途中の和宮が宿泊したという板鼻本陣跡がありました。文久元年(1861年)11月10日での出来事だそうです。
簗瀬城
安中市
築城者と歴史は共に不詳ですが、残っている土塁や空堀の特徴から戦国時代に築かれた城址だということは分かっているそうです。しかし、安中忠政が守る松井田城と、安中忠成が守る安中城の中間地点に簗瀬城があることから、安中氏によって碓氷川と中山道の押さえとして築かれたのではないかと僕は思いました。写真は城山稲荷大明神にあった木製の城址碑「簗瀬城址」で、向こうには社殿が見えました。主郭は高さ5メートルを越える土塁がグルッと社殿を囲むように残っていたので、見る角度によっては社殿が簗瀬城の建物のようにも見えました。城山稲荷大明神からは碓氷川が真下に流れているのが見え、対岸には武田方の磯部城のある城山が目の前に見えました。
管沼城
安中市
徳川家康が豊臣秀吉の命令で関東に転封されたときに、この地を拝領した家臣の菅沼定清が築いたそうです。管沼城は碓氷川に突き出た断崖の上に築かれた城で、戦国時代には近くを通る中仙道を監視する城として機能していました。定清は関ヶ原の戦いで戦死者してしまったので菩提を弔うために海雲寺が建立されたそうです。写真は管沼城址にあった曹洞宗・海雲寺の本堂で、残念ながら石碑や説明板はありませんでした。この日は折り畳み自転車で高崎から巡ったので、最後の7城址目である管沼城址に着いたときには、すっかり夕方になっていました。海雲寺を出ると、上州磯部温泉で有名な温泉街に向かって自転車のペダルを漕ぎました。
吉良氏陣屋
藤岡市
延宝2年(1674年)から元禄15年(1703年)まで、吉良家の陣屋があったところです。吉良家は三河国に領土を持っていましたが、飛び地が白石(現・藤岡市)にあり、家臣の長船氏に治めさせていました。言い伝えによると、吉良義冬の正室が伊香保温泉からの帰途、この陣屋に立ち寄って、吉良義央(忠臣蔵で有名な吉良上野介)を産んだということになっていますが、史実では江戸鍛冶橋にある吉良邸で産まれたということになっています(義央は今川義元の長男・氏真の玄孫に当たります)。国道254号沿いにある西村製作所のある横道に入った最初の交差点のところに、写真の碑と説明板、そして井戸がありました。この日の城巡りは黄色の折り畳み自転車で巡ったのですが、とても暑い日で大変でした。
岩鼻陣屋
高崎市

寛政5年(1793年)に徳川幕府によってこの地に岩鼻陣屋が置かれたのがはじまりだそうです。南面には正門を配置し、更に南手前に大手枡形となり、内に木戸が設けられ、一重の水堀があった陣屋で、江戸時代の陣屋特有の縄張りでした。上州では吉井陣屋と久永陣屋がこれと同じになっていました。慶応4年(1868年)に岩鼻陣屋が廃止されると、同時に岩鼻県の県庁となりました。明治2年に吉井藩を併合しましたが、明治4年に第一次・群馬県が成立して県庁は高崎城内に移されると、岩鼻県が廃止されました。陣屋跡に建てられた岩鼻観音寺では、毎年8月中旬に納涼花火大会が行なわれるそうです。写真は観音寺の裏側にある天満神の鳥居の横にあった説明板で、櫓台跡と土塁の一部が残っていました。

川井城
玉村町
戦国時代に斉藤基盛によって烏川の対岸に築かれたのがはじまりだそうです。基盛は烏川の向こう岸にある金窪城主・斉藤定盛の弟で、川井城は金窪城の支城として機能していました。定盛と基盛の兄弟は源頼朝の家臣・斎藤実長を先祖に持つ家柄で、一族をあげて小田原城の北条氏政に従っていたそうです。神流川の合戦で織田信長の武将・滝川一益によって川井城と金窪城が落城し、定盛と基盛の兄弟は戦死してしまいました。後に長野家の旧臣・清水邦正が、定盛の長女を妻として迎えていた関係で、邦正が川井領を支配したそうです。写真は八千茅神社で、弘化2年(1845年)領民と斉藤氏の子孫が共同して川井城の楼台跡に「摩利支天」を祭ったものだそうです。八千茅神社の前に川井城の解説板がありました。
三ツ木城
藤岡市

室町時代に三ッ木信守が鎌倉街道の押さえとして築いたという記録が残っているそうです。三ッ木城は関東管領の上杉氏の居城・平井城の支城として機能していました。正確には通信の役割を持った砦に近かったように思いました。三ッ木城へは小径タイヤの折り畳み自転車でJR倉賀野駅から行ったのですが、4.5キロメートルと少し遠かったです。県道174号沿いにおしゃれな洋菓子屋さんがあったのですが、向かい側に「三ッ木城跡170メートル先」という標識があって迷うことなく行くことが出来ました。写真は豊受神社にあった説明板です。

多胡館
吉井町
平安時代に源義賢の居館があったと云われているそうです。義賢は木曾義仲の父で、近衛天皇が皇太子だった頃に帯刀の長をしていました。義賢は12年間住んでいた多胡館を離れて武蔵国に移住すると、大蔵館を構えました。畠山重隆(重忠の祖父)の娘を迎えて関東で勢力を拡大していきましたが、甥の源義平(義賢の兄・義朝の長男)によって大蔵館と菅谷館が急襲され、重隆と共に討たれてしまいました。写真は和銅4年(711年)に奈良朝廷が多胡郡を設置した旨を記した「多胡碑(これはレプリカだけど…)」をおさめた建物です。本物の石碑は日本の三古碑の1つに数えられ、近くにある多胡記念館に保管されていました。3年前に宮城県の多賀城に行ったときに「多賀城碑」を見ており、見ていないのは「那須国造碑」のみとなりました。
天久沢陣城
吉井町
永禄6年(1563年)に西上州を攻略した武田信玄が本陣を置いた場所です。この戦いで、新堀城と一郷山城、多比良城などが落城しました。陣城の滞在中に信玄の愛馬・天久(アマク)が病死していまい、その亡骸を葬って馬頭観世音菩薩のお堂を建立して冥福を祈ったことから、天久沢という地名が付いたそうです。陣城にしては土塁が良好に残っていたので、「ここで信玄が軍杯を振りかざしていたんだな〜」と思うと、戦国のロマンに浸ってしまいました。現在は天久沢公園になっていて、桜やツツジ、アジサイなどの四季折々の花が見られるそうです。写真は馬頭観世音菩薩のお堂の下にあった説明板で、そこからは牛伏山が見え、山頂に目を移すと模擬天守閣が小さく見えました。
吉井陣屋
吉井町

宝暦2年(1752年)に鷹司信清によって三度目の吉井陣屋として築かれました。信清は天皇に仕えていた関白・鷹司家の出身で、徳川家光の正室・本理院の実弟だそうです。信清の正室は徳川頼宣(家康の10男で紀伊徳川家の祖)の娘で、迎えたときに信清は松平姓を名乗るようになりました。1万石の小藩でありながら、徳川御三家と同格の御連枝松平家の待遇を得ていたそうです。陣屋の南面には正門を配置し、更に南手前に大手枡形となり、内に木戸が設けられ、一重の水堀がありました。上州の陣屋では久永陣屋と岩鼻陣屋がこれと同じ縄張りになっていました。写真は吉井中央公民館の敷地内にあった陣屋の門です。藩廃置県で民家に払い下げられていたのですが、寄付によって現在の場所に戻され、吉井陣屋の唯一の建造物として残ることになりました。

長根城
吉井町
戦国時代に関東管領上杉氏の家臣・長根氏の居城があったそうです。武田信玄が西上州に侵攻すると、武田氏に属するようになりました。武田信玄の家臣・浅利信種(武田一族)宛てに出したという、長根氏・神保氏・小笠原氏の連署で書いた起請文が残っています。2年前に行ったときは長根神社が城跡だということで行ったのですが、目当ての石碑と説明板がありませんでした。国道254号の「長根」交差点付近にあることが分かり、今回行ったのですが見当たらなくて焦ってしまいました。長根神社は小高い台地の上にあったのを思い出して辺りを見渡したら、坂になっている車が通れないような細くて急な坂道があり、登ってみたところ見つけることが出来ました。無事に写真におさめて折り畳み自転車にまたがると、小幡城下町に向かいました。
麻場城
甘楽町
築城の年代は定かではないのですが、この地を治めていた豪族・白倉氏の370年間の居城でした。戦国時代の白倉氏は山内上杉家の四宿老の1つに数えられ、上州八家にも数えられていました。山内上杉家が滅ぶと、北条氏の傘下に入りました。豊臣秀吉の小田原征伐では、前田利家の大軍に攻められて落城しました。城郭は整備されていて、本丸をめぐる土塁と空堀が良好に残っていて、土塁は深さもあって見こたえがありました。いくつかの説明板も設置されていて、楽しかったです。本丸からは左側に妙義山、中央に榛名山、右側に赤城山が良く見えました。
七日市陣屋
富岡市
大坂の陣で徳川方として戦功をあげた前田利孝(利家の5男)がこの地に陣屋を築いて七日市藩を立藩したのがはじまりだそうです。前田利家が亡くなると、前田家の断絶を画策した徳川家康と本多正信による「家康暗殺事件」の疑いが前田利長(利家の長男)にかなりました。前田家は芳春院(おまつ)と幼年期だった利孝が人質として江戸の家康のところに行ったそうです。七日市藩の歴代藩主は駿府城と大坂城の守備役をしていました。七日市藩領は加賀藩の前田本家が参勤交代するときの中継地点として以後重要な役割を果たしていたそうです。写真は御殿の玄関で、かつての3分の1しか残っていないものの、御殿が残るのは全国でも数少ない貴重な建造物です。
宮崎城
富岡市
築城時期や城主などについて不明な点が多いのですが、戦国時代には国峰城の小幡氏の家臣・宮崎氏の居城であったといわれています。小田原役では前田利家によって国峰城と共に落城しました。写真の説明板によれば、宮崎城址は西中学校の敷地内になっていて、中学校の建設によって大部分が破壊されてしまいました。建設する前に行なわれた発掘では建物跡や土塁が検出されていたのですが、それを保存する事なく埋められてしまったのは残念だなと思いました。宮崎城址に限らず、全国にある城址に対しても同じ事が言えるのですが…。ここの中学校には防犯カメラが沢山設置されていて、防犯カメラの下には「校舎内への無断侵入はただちに警察に通報する」という看板がありました。城址が学校になっている所は多いのですが、ここまでやる学校は初めて見ました…。
岩松氏館
太田市
平安末期に岩松郷を拝領した足利時兼が居館を構えて岩松姓を名乗ったのが始まりだそうです。時兼は足利義純(足利氏の祖・義康の孫)と、来王御前(新田氏の祖・義重の孫)との間に生まれた人で、足利一族でありながら新田党として名を連ねていたそうです。岩松経家の時に新田義貞の鎌倉攻めに従軍して手柄を立てたそうです。余談ですが、上州金山城を築いた横瀬国繁は岩松氏の支族です。写真は岩松氏の館跡に浄土真宗・青蓮寺が建てられていました。仁王門の前に岩松氏館跡に関する説明板が設置されていました。青蓮寺の屋根には新田氏の紋が付いていました。親父の親友に岩松氏の末裔・新田純弘という方が居ました。同じ大学出身で、同じ教師をしていた仲間だったそうです。彼が書いた本「埋み火はまた燃える」が家にあります。
堀口氏館
太田市
平安時代に新田家貞(新田義重の曾孫)が館を築いて堀口姓を名乗るようになりました。大舘家氏とは兄弟に当たります。堀口貞義のときに新田義貞に従って、弟の貞政と共に各地を転戦したそうです。しかし、越前国の金ヶ崎城で貞義が戦死し、北朝方の高師氏と大友氏と細川氏の大軍と決戦を挑んだ和泉国で、北畠顕家と配下の貞政は戦死してしまったそうです。義貞の子・貞満は義貞の側近として比叡山に避難していた後醍醐天皇を守備していたそうです。現在は正覚寺跡が館跡だとも云われていて、石碑と説明板が民家の裏にありました。その前は堤防になっていて、上にあがると早川が利根川と合流していました。
大舘陣屋
太田市
関ヶ原の戦いで東軍についた津軽為信は大舘村を拝領し、津軽藩の飛び地として津軽藩の陣屋(現在は天台宗・東揚寺)が置かれ、津軽藩の江戸出府の折には度々滞在したそうです。そういうことがあってか、境内には「元津軽藩代官足立氏之墓」という石碑と、歴代の代官の墓がありました。2代藩主・信の側室は大舘御前(辰姫)と呼ばれ、この大舘陣屋で誕生した信義は3代藩主となりました。信義の弟・信英は黒石藩を興すと、大舘は信英の分家が支配するようになったそうです。大舘御前は石田三成の3女だそうです(大舘御前の弟・石田重成は杉山八兵衛に改名して津軽家の家臣として続きました)。津軽藩はこの事実を徳川幕府に対し、ひたすら隠し続けていたそうです。このような歴史的なゆかりがあって、平成3年に旧尾島町と弘前市は友好都市となりました。
船田喜昌館
太田市
新田義貞の家臣・船田善昌の居館があった場所だそうです。あと、岩松陣屋と阿部氏陣屋のあった場所でもあるそうで、発掘調査と文献によって判明しているそうです。善昌は新田義貞の執事を務めた武将で、新田一族でもあるそうです。延元3年(1338年)越前国で義貞は北朝方の軍勢に敗れて戦死し、京の六条河原に晒されていた義貞の首を義貞の家臣が持ち帰り、それを善昌が上州桐生にある善昌寺(曹洞宗)に葬って五輪塔を建てたという話が残っています。しかし、太平記によると善昌も義貞と共に越前国で戦死しているそうなので、信憑性は分かりませんでした。写真は民家の門前にあった石碑です。
田中義清館
太田市
平安時代に上州の田中村に里見義清が居館を構えたのが始まりだそうです。その時に田中の姓を名乗るようになったそうです。義清の父は義成(新田氏の祖・義重の長男)といい、後に房総の覇者になった里見氏の祖になった人物です。田中氏は承久の乱の恩賞によって越後国に所領を与えられて移動したそうです。田中経村の時に新田義貞が挙兵すると、越後新田党を引き連れて鎌倉攻めに加わったそうです。その後も各地を転戦して一族郎党のほとんどが戦死してしまったそうです。余談ですが、安土桃山時代の茶人・千利休は堺の商人の出身として有名ですが、本名は田中宗易といい、新田一族・田中氏の流れを組んでいるそうです。そういうことがあってか、写真の真言宗・長慶寺にあった石碑には「田中義清之館址」と「茶聖千利休之祖」の文字が彫ってありました。
綿打氏館
太田市
平安時代に大舘為氏(新田一族)がこの地に館を築いて綿打の姓を名乗るようになったのがはじまりだそうです。時代は飛ぶのですが新田義貞は既に戦死し、南朝方の旗色が悪くなってきた頃、北畠顕家が足利尊氏討伐の兵を挙げると、綿打為氏は顕家と共に転戦しながら京都に迫ったそうです。北朝方の高師氏と大友氏と細川氏の大軍と決戦を挑んだ和泉国で、顕家と配下の為氏は戦死してしまったそうです。延元3年(1338年)5月22日の出来事でした。現在は真言宗・大慶寺(新田不動尊)になっていて、‘ぼたん寺’もしくは‘新田不動尊’として親しまれているそうです。大慶寺の正門の脇に、写真の石碑がありました。
村田氏館
太田市
平安末期に村田郷を拝領した岩松頼兼が居館を構えて村田姓を名乗ったのがはじまりだそうです。頼兼の父・時康は、足利義純と来王御前(新田一族)の間に生まれた人で、義純の祖父は足利義康(足利氏の祖)で、来王御前の祖父は新田義重(新田氏の祖)に当たります。すなわち義康と義重は実の兄弟になります。岩松氏と村田氏は、足利一族でありながら新田党として名を連ねていたそうです。その影響なのか、写真の真言宗・宝蔵寺の新しくなった本堂の屋根には、新田氏の紋が付いていました。宝蔵寺はすっかり開拓されてしまい、すぐ近くにある反町館と江田館で見られるような土塁や水堀、空堀といった遺構は全く残っていませんでした。余談ですが、母の知り合いに村田氏の末裔が居て、新田氏に関する史跡を求めて上州を中心に巡っていると聞きました
脇屋義助館
太田市

脇屋義助は新田義貞の実弟で、この地に居館を構えて脇屋の姓を名乗ったのがはじまりだそうです。兄・義貞に従って、鎌倉攻めをはじめとして各地を転戦したそうです。義貞が越前国で不慮の戦死をすると、指揮を引き継いで足利方と戦いを繰り広げたそうです。後に後醍醐天皇により中国と四国方面の総大将に任命されて四国に渡るのですが、伊予国における陣中で病気になり、そのまま帰らぬ人となったそうです。写真の大きな石碑は広い畑の中に建っていて、土塁や空堀などの遺構は全く残っていませんでした。

伊勢崎陣屋
伊勢崎市
江戸時代に徳川秀忠の家臣・稲垣長茂が伊勢崎に陣屋を構えたのがはじまりだそうです。その後大老・酒井忠世(母は石川数正の姉)が入封しましたが、前橋藩の藩主になると伊勢崎藩は前橋藩の支藩となったそうです。現在は曹洞宗・同聚院の敷地内となっていますが、門は旧伊勢崎陣屋の遺構だと思いきや、そうではありませんでした。市内には豪農・森村家(伊勢崎にある村々の総代を務めていた)の古家があり、旧伊勢崎陣屋の御殿の一部が玄関に移築されていたのですが、時間の関係で寄りませんでした。
茂呂氏館
伊勢崎市

藤原秀郷の末裔・茂呂氏が上州の茂呂庄に居住し、桃ノ木川に沿った丘陵に居館を築き、茂呂氏(毛呂氏)に改姓したのがはじまりだそうです。戦国時代には小田原城の北条氏の家臣になっていたそうです。真言宗・退魔寺の門の前にあった説明板によると、石田三成の逸話が書かれていました。豊臣秀吉の小田原役で中仙道から上州に入った三成が通過したとき、茂呂氏館内にあった退魔寺前の土橋付近に毎晩妖怪が現れて領民が難儀しているという話を聞き、三成は手勢を引き連れて妖怪を退治したという話でした。三成の徳を称えて寺号を改め、三成の紋・九曜を寺紋にしたそうです。近江では領民を大事にしたことで根強い人気が残っている三成らしい逸話だと思いました。妖怪退治をした三成は上州の館林城を攻略し、武州の忍城を攻略しています。

寺尾城
太田市
平安時代に源義重(源義家の孫で新田氏の祖)が新田の庄司となり新田氏を名乗ったのがはじまりだそうです。義重,義兼,義房の三代の居城となったのが寺尾城だそうです。ちなみに義重の実弟・義康は足利氏の祖となりました。房総の覇者・里見氏,山陰と山陽の覇者・山名氏,江戸幕府の徳川氏は新田氏系の名門です。現在は上州ほうとう専門店「新田乃庄(本店)」が建ち、外観は銅茸丸屋根の大玄関で、全体が兜造りの陣屋風の構えをした立派な建物が目を引きました。写真の石碑「新田庄寺尾城跡」は、お店の前(県道39号沿い)にあり、横に朽ち果てた説明板がありました。
高山城
藤岡市
築城の時期は定かではないのですが、高山氏は源平合戦では木曽義仲に従って各地を転戦したということが「吾妻鏡」に見え、信州だけではなく、上州にも勢力を誇っていたそうです。高山城は天屋城と百間築地砦と要害山城の3つの城郭から成り立っている大きな山城で、地豪の居城とは思えない規模でした。戦国時代には高山定重が城主で、関東管領・上杉憲政,北条氏康,武田信玄,滝川一益と情勢に応じて主君を次々と変えました。豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅ぶと、高山城は廃城になりました。百間築地砦跡に石垣の一部と説明板があるということで行ったのですが、ツインレイクスカントリー倶楽部というゴルフ場への道をどうしても見つけることが出来ず、平井金山城址の登城口がある付近にある日野東小学校の横にある駐車場から城山の写真を撮りました。
高山氏館
藤岡市
平安時代末期に武蔵七党の一つである児玉党の秩父行成上州高山の地に居館を構えて高山姓を名乗ったのが始まりだそうです。児玉党は桓武平氏の流れをくむ平将恒(平将門の従兄弟)を祖としている名門です。近くにある高山城を築いた高山氏とは同族だという文献もあれば、関連性は無いという文献もあって定かではないそうです。写真は県道176号沿いにあった高山氏の末裔が今でも住んでいる明治期に建てられた屋敷の長屋門で、明治時代には養蚕法の改良を行なった高山社の建物がありました。向かいにある駐車場には説明板とパンフレットが入っているポストが設置されていました。パンフレットを読むと、「世界遺産暫定一覧表追加・富岡製糸場と絹産業遺産群」の1つに「高山社発祥の地」が入っていることが分かりました。
子王山城
藤岡市
築城者は不明ですが、平安時代には子王山砦があったそうです。戦国時代には関東管領・上杉憲政が北条氏康によって、居城の平井城を追われてしまいました。翌年に平井城奪還のために上杉謙信が関東に出兵した際、子王山城には重臣・柿崎景家が布陣したことがあります。子王山城へは県道175号から県道176号に入ったのですが、二千階段入口までは道幅が狭くて、落石や折れた枝などで道路が汚れていたのですが、何とか走り抜いて目的地である見晴らし茶屋に出ることが出来ました。写真は二千階段入口(子王山城址登山道)にあった看板です。
徳川義孝館
太田市
平安時代に新田義孝が居館を構えたのがはじまりだそうです。そのときに徳川の姓を名乗るようになりました。義孝は義重(新田氏の祖)の4男です。義孝から数えて8代目の親氏のときに、上州を追われて各地を放浪した先の三河の松平郷の豪族の娘婿となると、松平の姓を名乗るようになりました。親氏から更に数えて9代目が松平元康(後の家康)で、元康のときに徳川に復姓しました。写真は、徳川氏の発祥の地・尾島町(現在は合併して太田市)にある徳川東照宮で、門の付近に石碑「徳川義孝公館址」がありました。近くには満徳寺(時宗)があり、鎌倉にある東慶寺とならんで、徳川幕府によって全国では2寺だけに認められた縁切り寺です。
力丸城
前橋市
室町時代に那波広宗がこの地に居館を築いて力丸に姓を変えたのがはじまりだそうです。広宗の祖先は那波政広といい、大江廣元の3男だそうです。ちなみに廣元の4男・秀光は安芸の毛利氏の祖となりました。戦国時代には箕輪城の長野業正の持城となりました。城址は昭和初年に下川渕村役場があったそうですが、現在は取り払われて公民館が建っていました。公民館の周囲に水堀(現在は用水路)と土塁の一部が残っていました。臨済宗・善昌寺の前を通る道を東側に向かって200メートル歩いて突き当たった付近に、写真の石碑「力丸古城跡」がありました。
人見城
松井田町

南北朝時代に足利尊氏の家臣・人見恩和の城があった場所だそうです。恩和は太平記絵巻にも登場する武将だそうです。人見城は横瀬川に突き出た断崖の上に築かれた城で、戦国時代には碓氷峠を監視する松井田城の支城として機能していたそうです。写真は人見城址に設置してあった説明板で、城址は個人の敷地内になっていたものの、地主の理解があったようで自由に土塁の散策が出来るようになっていました。余談ですが、吉良義央(忠臣蔵で有名な吉良上野介)の飛び地が人見(現・松井田町)と白石(現・藤岡市)にもあり、近くにある松岸寺には、江戸で討ち漏らした義央が上州に逃げたときに備えて配置された赤穂浪士・大野九郎兵衛のお墓があります。あと、彼が彫ったという四十七士の石像は安中市内にあるそうです。

長井坂城
昭和村
=作成中=
森下城
昭和村

戦国時代に沼田城の支城として加藤丹波守が守備したという記録が残っています。森下城は片品川を望む断崖絶壁の上に築かれた城で、近くには同じく沼田城の支城・阿岨城がありました。小田原城から北条氏那(氏康の4男)の家臣・荒木主税助と須田加賀守の手勢によって夜襲を受けて落城し、城主・加藤丹波守は自刃してしまいました。戦後に廃城になりました。写真は小さな集落の庭の一角にあった説明板で、横には木製の城址碑もありました。余談ですが、そこから500メートル行ったところに、村指定史跡「加藤丹波守腹切石」があり、森下城を出て最後の一戦を試みた後、その石に腰をかけた加藤丹波守は腹を十文字に掻っ切って見事に果ててしまったと言い伝えられているそうです。

阿岨城
昭和村

戦国時代に沼田城の支城として金子泰清(沼田城主・沼田顕泰の義父)が守備したという記録が残っています。阿岨城は片品川を望む断崖絶壁の上に築かれた城で、近くには同じく沼田城の支城・森下城がありました。小田原城から北条氏那が率いる3000兵によって夜襲を受けて落城し、城主・泰清は断崖を滑り落ちて脱出して本城の沼田城に逃げたそうです。戦後に廃城になりました。写真は畑が広がる中にある小さな公園にあった説明板で、横には木製の城址碑もありました。余談ですが、利根町の大楊には天下泰平の軍配を右手に弓矢を携え鎧と冑でまとった泰清の木像が残っているそうで、残っていることは資料として素晴らしいと思いました。

白井城
渋川市
=作成中=
中山城
高山村

築城の時期と築城者は不明ですが、戦国時代は徳川家康と北条氏政(氏康の嫡男)との間で、真田昌幸(幸村の父)の領土は分取り場となりました。それに抵抗した昌幸が改修したものの、結局北条氏によって奪われ、北条氏那(氏政の弟)の命を受けた尻高左馬助が入城したそうです。現在見られる遺構は、北条氏の普請によるもので、北条流築城法を駆使して築かれたもので、土塁や空堀などが良好に残されています。写真は国道145号線沿いにあった由来板の内容を拡大したもので、横には城址碑がありました。

尻高城
高山村

応永8年(4代将軍・足利義持の時代)に、白井城主・長尾重国の命を受けた尻高重儀(重国の3男)が非常時用の城塁として築いたのが尻高城です。同時に、平常時用として城山の麓に居館としての並木城も整備しました。戦国時代は尻高景家が城主で、上州に侵攻した武田信玄の命を受けた真田幸隆によって落城してしまいました。尻高義隆(景家の子)は小田原城の北条氏に仕えるようになったものの、信玄の命を受けた真田昌幸(幸隆の子)によって再び落城し、尻高氏は滅亡してしまいました。写真は村道の角にあった石碑「尻高城跡」で、その先には城山へのルートが書かれている案内板がありました。余談ですが、近くに尻高氏が築いた役原城の城址碑&由来板があることが分かったので、ロマンチック街道をドライブする機会があったら忘れずに行こうと思いました。

並木城
高山村

応永8年(4代将軍・足利義持の時代)に、白井城主・長尾重国の命を受けた尻高重儀(重国の3男)が平常時用の居館として築いたのが並木城です。同時に、非常時用として背後にある山に尻高城も整備しました。戦国時代は尻高景家が城主で、上州に侵攻した武田信玄の命を受けた真田幸隆によって落城してしまいました。尻高義隆(景家の子)は小田原城の北条氏に仕えるようになったものの、信玄の命を受けた真田昌幸(幸隆の子)によって再び落城し、尻高氏は滅亡してしまいました。写真は民家の敷地内にあった由来板で、玄関口で事情を話して入らせていただいて撮ったものです。

ロックハート城
高山村
1829年(文政12年/11代将軍・徳川家斉)に大英帝国のウィリアム・ロックハート伯爵がスコットランドに建てた城です。1988年(昭和63年)に解体され、大理石はシベリア鉄道を経由して日本に運び込まれました。当初は北海道の広尾で計画していた「夢の王国サンタ愛ランド」に移設する予定でしたが、その計画が頓挫してしまいました。1992年(平成4年)に沼田市にある石材業者・サンポウが買い取り、高山村に建設していたテーマパーク「大理石村」内で復元されました。中世ヨーロッパの町並みを再現した大理石村はとても素敵なところでした。日本を代表する俳優・津川雅彦が私費で買い取ったそうですが、外国にある文化財だったお城を購入して移築しまったことは複雑な気持ちを覚えました。スコットランドにあってこそ価値があると思います。
倉賀野城
高崎市
=作成中=
岩櫃城
吾妻町
=作成中=
一郷山城
吉井町
室町時代に鎌倉公方・足利持氏との争いに敗れて上州に退いた関東管領・上杉憲実は平井城を築きました。その平井城の支城群の1つとして牛伏山の山頂に砦を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には麓にある新堀城の城主・多比良友定(長野業政の従兄弟)が管理していましたが、武田信玄が西上州に侵攻すると、武田軍の別働隊を引き連れた内藤昌豊の猛攻によって新堀城と一郷山城は半日で落城しました。写真は模擬天守閣(牛伏山展望台)で、愛車と一緒に撮影しました。余談ですが、牛伏山の尾根伝いに父方の従兄の仕事場の1つである大きな施設があり、西上州に遊びに行くとどの角度からでも見えるので、「今日も一郷山城と兄さんの仕事場である施設が見えたよ」とメールするようになりました。
新堀城
吉井町
=作成中=
庭谷城
甘楽町
=作成中=
磯部城
安中市

鎌倉時代に源頼朝の側近・佐々木盛綱が築いたのがはじまりだと云われていますが疑問視されており、実際には西上野に侵攻した武田信玄によって拠点として築かれたのが史実だそうです。近くには文殊寺砦(狼煙台)があって、碓氷川の対岸にある安中忠成の安中城を監視する位置にありました。磯部城の鬼門に当たる甕尻ヶ原で、箕輪城の長野軍と磯部城の武田軍が小競り合いをしたという記録が残っているそうです。写真は本丸跡にあった木製の城址碑「磯部城本丸跡」で、別の場所には説明板がありました。余談ですが、磯部といえば磯部温泉として有名なのですが、万治4年(1661年)に作成された地図に温泉マークが付いたので、それが現在の地図で使われている温泉記号の発祥の地となりました(別府温泉が最初だったという異説もあります)。

後閑城
安中市
=作成中=
那波城
伊勢崎市
鎌倉時代に大江政広が那波郡の地頭職となり、この地を治めていた場所が那波城だそうです。政広は大江廣元の3男だそうです。室町時代に起きた永亨の乱(鎌倉公方の足利氏と室町幕府の足利氏が対立して起きた乱)で、那波氏は足利派と山内上杉派に分裂してしまったそうです。戦国時代には那波宗俊が城主で、金山城の横瀬泰繁と領土争いを繰り広げていたそうです。那波城の宗俊は小田原城の北条氏康と手を結ぶと、金山城の泰繁は長尾景虎(後の上杉謙信)と手を結んだそうです。関東に出兵した景虎の大軍の前に、宗俊の一族は奮戦したのですが、多勢に無勢で伊那波城は焼き払われてしまったそうです。現在は田んぼの中に写真の城址碑がポツンとあり、説明板や遺構はありませんでした。そこから赤城山は目の前に見えました。
芦田城
藤岡市

戦国末期にこの地に所領を得た芦田康勝によって築かれたのがはじまりだそうです。康勝は徳川旗本との人傷事件で領地没収となると、結城秀康(家康の次男)の元に預けられたそうです。康勝の父は依田信蕃で、武田信玄と勝頼に仕えていた武将でした。長篠の戦いで勝頼を見限る武将が続出している中、信蕃は二俣城を守備していました。元々徳川の属城だった二俣城を徳川家康によって包囲され、3ケ月に及ぶ攻防戦の末に開城したそうです。信蕃は織田信長から出頭命令があって出向くところを家康に制止され、そのまま徳川氏に仕えるようになったそうです。写真は15年前の3月に訪城したときの物ですが、今回行ったときには無かったです。藤岡第一小学校に長さ200メートルの土塁が残っていて、「芦田城址」という小さなパネルが埋め込まれていました。

篠塚城
邑楽町

鎌倉時代に新田義貞の家臣・篠塚重広が邑楽に築いたのがはじまりだそうです。畠山重忠を先祖に持つ重広は新田四天王の一人に数えられている忠臣です。重広の娘は後醍醐天皇の后に仕える女官で、伊賀局と呼ばれていたそうです。楠正儀(正成の三男)に嫁いだ伊賀局は、父譲りの怪力の娘だったそうで、伊賀局にまつわる伝説が残っています。
『吉野にあった御所が足利尊氏の家臣・高師直の襲撃を受けたとき、逃げる途中、橋の板が踏み落とされていて川を渡ることが出来ず、一行は立ちすくんでいました。そこに伊賀局が傍らの松や桜の大きな枝を折り取って向こうへ渡し、女院や他の人々を向こう岸に無事に渡らせたそうです。これを見た高師直が家臣に命じて伊賀局が折ったのと同じ太さの枝を折らせたが折ることが出来なかった、と伝えられています。』

中野城
邑楽町

鎌倉時代に新田一族・中野景継によって築かれたのがはじまりだそうです。跡を継いだ景継の子・藤内左衛門は越前国藤島において主君の新田義貞と共に戦死し、城主を失った中野城は廃城となったそうです。戦国時代には小泉城の支城として修復されましたが、小田原の役では豊臣秀吉の家臣・浅野長政に包囲され、小泉城と共に開城しました。城址に建てられた浄土宗・神光寺には「神光寺の大カヤ」と呼ばれている大きな大木(樹齢約750年)が門の脇にあり、景継が中野城を築いたときに植えたものだと云われています。毎年秋になるとたくさんの実がなるそうです。写真の説明板は神光寺の門の真正面にありました。

鶉古城
邑楽町

鎌倉時代に新田義貞の挙兵によって北条高時が東勝寺で滅んだとき、幕府御用鍛冶をしていた荒間冶康と朝春の兄弟が多々良沼の付近に逃れてきて、そこに城を築いたのがはじまりだそうです。そのときに脇差に「鶉古城打」という銘を残しているとこから、江戸初期には鶉古城と呼ばれるようになったそうです。戦国時代には館林城を築いた赤井照光の重臣・小曽根政義が館林城の支城として整備をして、小田原城の北条氏の侵攻に備えたが、館林城が落城して北条氏則(氏康の甥)が入城すると、鶉古城は廃城となりました。塁濠は多々良沼公園となって市民の憩いの場となっています。

小泉城
大泉町

戦国初期にこの地を治めていた富岡直光によって築かれた城で、小田原の役で廃城となるまで、100年間富岡氏の居城でした。富岡氏は藤原氏の流れをくむ結城氏の一族で、代々古河公方の足利氏に仕えていました。越後の上杉謙信が関東に出兵するようになると上杉氏に従い、相模の北条氏康が脅かすようになると北条氏に従うようになりました。富岡重朝のときに武田勝頼の攻撃を受け防衛に成功しましたが、小田原の役では豊臣秀吉の家臣・浅野長政に包囲されて開城しました。写真は本丸の土塁と水濠です。現在は城ノ内公園として整備され、土塁の上には桜の並木がありました。本丸の隅には城址碑があり、すぐ側をお年寄り達がゲートボールを楽しんでいました。

反町館
太田市

鎌倉時代に新田義重(新田氏の祖)が新田荘に館を築いたのがはじまりで、新田義貞が成人後に居住していた館跡だそうです。ちなみに新田義重の弟は足利義康(足利氏の祖)です。義貞が各地に転戦しているときは、新田一族・大館氏明が預かっていました。かつては三重の塁濠に囲まれた平城で、今でも本丸跡に面影を残しています。館跡には照明寺が建てられ、「厄除け薬師」の名で地元の人達に親しまれています。本堂の裏手には「鳴かずの池」と呼ばれる室町様式の庭園があります。この庭園は義貞が鎌倉攻めを思案しているとき、あまりに蛙の鳴き声がうるさいので一喝したらピタリと泣きやんだことから、こう呼ばれるようになりました。後醍醐天皇の綸旨を受けた義貞が鎌倉幕府を滅ぼすための兵を挙げた生品神社は、反町館から北に3キロ先のところにあります。

大舘氏館
太田市
新田家氏(新田義重の曾孫)が館を築いて大舘姓を名乗るようになりました。大舘氏明のときに新田義貞に従って、一族の江田行義と共に各地を転戦し、後醍醐天皇により伊予の守護職に命ぜられたそうです。義貞が越前国で戦死すると、氏明も伊予国で足利方の武将・細川頼春によって滅ぼされてしまったそうです。氏明の遺児・義冬は室町幕府に仕え、3代将軍・足利義満の親衛隊の組頭を務めたそうです。銀閣寺を建立した8代将軍・足利義政の乳母は今参局といい、義冬の曾孫に当たるそうです。義政の正室・日野富子との折り合いが悪かったそうで、義政によって追放されたとか、富子によって毒殺されたとも云われているそうです。新田義貞の一族が室町幕府の重要な地位に居たことがあったなんて知りませんでした。
新田館
太田市

平安時代に新田義重(源義家の孫で新田氏の祖)が新田荘の総領として建てた館があったところだそうです。鎌倉時代には新田義貞が中興して真光寺と号しましたが、後に総持寺となったそうです。江戸時代には真言宗の学問所となり、末寺36ケ寺を擁して栄えたそうです。旧尾島町(現在は太田市)には新田所縁と徳川所縁の館跡と寺院が数多く残っています。総持寺から東側に1キロ行ったところに徳川義季(義重の子で徳川氏の祖)の館跡があるのですが、その裏に鎌倉の東慶寺と並んで縁切寺として有名な満徳寺があります。徳川家康が大坂城の落城後に、豊臣秀頼の内室であった千姫を当寺に入山させ、豊臣家との縁を切って本多忠刻に再嫁させたそうですが、実際には千姫の身代わりとして侍女が入ったそうです。

江田館
太田市
鎌倉時代に新田一族・江田行義が築いた館だそうです。行義は新田義貞の鎌倉攻めに参加し、鎌倉七切通しの一つ「極楽寺坂口」攻めの大将として軍功を立て、その後も 義貞と共に各地を転戦しました。義貞が足利尊氏に滅ぼされると、備後国で悲報を聞いた行義は姓を「守下」にかえて、そのまま帰農したそうです。行義の子孫に江田行範(丹波国の綾部城主)が居て、丹波国の八上城主・波多野秀治の重臣だったそうです。江田館址の本丸跡の土塁の上には「義貞様(ぎていさま)」と呼ばれる祠があり、これは江戸時代になって備後国から戻ってきた江田氏代々の子孫が、義貞と行義を合祀した氏神だそうです。写真は土塁の前にあった館址碑で、地元の有志が整備しているお陰で、中世の館跡の土塁としては良好に残っていると思いました。
金山城
太田市

鎌倉末期に新田一族・岩松家純が家臣・横瀬国繁に命じて築かせたのがはじまりだそうです。戦国時代に入って横瀬家の内紛で金山城を乗っ取った由良成繁は、主家を関東管領・上杉憲政、上杉謙信、北条氏康、上杉景勝(謙信の養子)、北条氏政(氏康の長男)の順で渡り歩いていきました。小田原の役では前田利家の軍勢に攻められ落城しました。関東では珍しい総石垣の山城で、他には栃木県にある唐沢山城しかありません。社会人になったばかりの頃にドライブで金山城の主郭にある新田神社に行ったことがあるのですが、その頃は発掘前で石垣は埋もれていたらしく気がつきませんでした。平成6年に行なわれた発掘調査で石垣が出現し、現在でも発掘と石垣の復元が平行して続けられています。写真の石垣は馬場曲輪から見上げた石垣です。

大胡城
前橋市
室町時代に藤原秀郷の末裔・大胡重俊によっ荒砥川に突き出た台地に築かれました。戦国時代に大胡氏が滅び、支族の上泉信綱が大胡家を継ぐと、箕輪城の長野業正に仕える様になりました。戦いでは常に一番槍の手柄を立てて「上野国一本槍」の名声を残しました。その後も活躍を重ねた信綱は「長野16本の槍」の一人に数えられる様になりました。業正が病死して業盛が城主になると武田信玄によって滅ぼされてしまいました。いったん武田家に仕えたものの、信綱は京都に出て柳生家の師となりました。将軍足利義輝に軍配兵法を講じ、新影流剣法をも上覧に供したので、「兵法新影流軍法軍配天下第一」と称されたそうです。信綱の子供達は米沢上杉家,尾張徳川家,岡山池田家にそれぞれ召抱えられ、一刀流のほか玉心流総合武術も伝承し、子孫代々存続したそうです。
膳城
前橋市

室町時代に膳氏によって赤城山南麓を流れる兎川と童子川に挟まれた台地に築かれました。その後、城主は赤堀氏、桐生氏、由良氏、大胡氏と変わっていきました。膳城には「膳城の素肌攻め」という伝説があります。天正8年に東上州にある大胡城と山上城などの諸城を攻め落とした武田勝頼は、領民に不安を与えないよう平服のまま巡視していたそうです。膳城の近くを横切って通り過ぎたところ、武田軍の態度に腹を立てた城兵が討って出たそうです。武田軍はこれを迎え撃ち、そのまま城内に雪崩れ込んで城主・大胡民部左衛門を討ち取ってしまったことから、有名になったそうです。本丸跡に立つと、武田兵と共に駆け込んで来る勝頼の姿が脳裏に思い浮かびました。現在は国会議員・膳桂之助が本丸一帯を買い上げて地元に寄付し、地元の同志が保存しているそうです。

前橋城
前橋市

前橋は古くは厩橋といい、箕輪城の支城として長野方業(業の叔父)が築いたのがはじまりだそうです。小田原の北条氏の勢力が上州を脅かすようになると、長尾景虎(後の上杉謙信)が厩橋城にたびたび駐屯するようになり、関東に点在している北条方の属城を攻める本拠地となりました。江戸幕府の時代になると、平岩氏、酒井氏、松平氏と目まぐるしく城主が変わりました。松平氏のときに利根川の浸食によって城郭の破壊が進み、三層の天守閣が流失してしまったそうです。松平氏が川越城に移封されると、前橋は川越の支藩として陣屋が置かれました。幕末に松平直克が幕府の許可を得て城郭を再築し、城下町の再建を果たしたそうです。写真は酒井時代に築かれた天守閣があった場所で、眼下に利根川が音をたてて流れていました(対岸には石倉城址が見えました)。

石倉城
前橋市

室町時代に長尾憲景が築城したのがはじまりだそうです。長尾家は桓武平氏の流れをくんでいる名門で、白井長尾氏、惣社長尾氏、足利長尾氏、越後長尾氏の四家に分かれていました。石倉城の長尾氏は白井長尾氏で山内上杉憲政の家臣だったそうです。上州の白井長尾氏、惣社長尾氏、足利長尾氏の三家は同じ一族だったために内紛を繰り返していたそうです。内紛を平定したのは同じ山内上杉憲政の家臣・長野業政だそうです。戦国時代になると、上杉謙信、武田信玄、北条氏康の持城になったりするなど、目まぐるしく城主が変わったそうです。写真の石碑と説明板は「石倉城二ノ丸公園」の敷地内にあり、そこから厩橋城跡(現・前橋城跡)に建つ群馬県庁の大きな建物がよく見えました。

女渕城
前橋市
築城の時期は不明ですが、戦国時代に上州は武田氏と上杉氏と北条氏の侵攻をたびたび受け、めまぐるしく城主が変わりました。沼田景義(桓武平氏の流れを組む三浦氏の支族)が沼田城を奪回の兵を挙げるために入城したことがあり、沼田城を占領していた真田昌幸(幸村の父)に反撃を受けて戦死してしまいました。最後には北条氏の持城となり、北爪氏が最後の城主となりました。小田原の役で女渕城も豊臣軍に攻められて落城しました。写真の城址碑は本丸跡にあり、その周りを広い水濠がありました。土塁は無残にもきれいに削られて整地され、石垣の代わりに堤防用の近代タイルが張られていたので、お城に興味のない人が見ればただの遊水地だと勘違いしてしまいそうです。駐車場の前には女渕城の説明板と城址公園の案内板があり、それがせめての救いでした。
荻窪城
前橋市

室町時代に大胡城の出城として、足利尊氏の家臣・赤荻智宣が居城していたそうです。県道34号から荻窪公園に向かう途中の市道沿いに「荻窪城址」という標識が見えたので標識の前に路上駐車し、畑の中を横切って森の中に入りました。隣に牛小屋があって臭く、主郭の中に小さな城址碑と説明板がありました。森の中でうっそうとして薄暗く、蚊の大群が攻撃してきたので、説明板を撮ったらさっさと退散してしまいました。持っているデジカメは薄暗い程度でも明るく調整が出来るので、写真のように説明板に書いてあった復元図もうつっていました。説明板の写真を拡大して見ていると、全長15センチメートルは軽く超えるのであろう大きな茶色のカマキリが説明板の支柱にとまっていました。蚊の攻撃に気を取られていなければカマキリを捕って帰ったのに…。

舞木城
千代田町

平安時代に平将門を滅ぼした藤原秀郷によって築かれた城で、600年間に渡り藤原氏と藤原一族の居城でした。藤原氏は藤原鎌足を祖とする名門で、今年(2005年)の大河ドラマ「義経」に出てくる藤原秀衡は秀郷の子孫にあたります。室町時代に結城城の結城氏朝が足利持氏の遺児(春王丸と安王丸)を擁立して挙兵して起きた結城合戦では、城主・舞木持広は結城方として幕府軍と戦ったそうです。しかし持広は幕府軍の策略によって謀殺されてしまったそうです。写真の説明板には、舞木と館林の繋がりを浮き彫りにした伝説が書いてありました。
『大袋城主・赤井照光が大袋城から舞木城への年賀の道すがら子狐を助け、その小狐が導きによって館林城(当時は尾曳城)を築いた、伝えられています。(館林盛衰記より)』

赤岩城
千代田町

吾妻鏡に登場する鎌倉御家人・佐貫広綱が築いた居館だと伝えられています。吾妻鏡によると広綱は平家討伐や奥州追討などで大活躍をした猛将だったそうです。赤岩城に面して光恩寺が建てられていて、土塁の上には館林城を築いた赤井照光(佐貫氏の子孫)の墓碑と五輪塔がありました。写真の真言宗・光恩寺は弘法大師が密教弘通の場として再興開山したと伝えられている関東屈指の古刹だそうです。殿堂は結城合戦で焼失しましたが、後醍醐天皇の勅命によって、宇都宮公綱が奉行として再建したそうです。境内にある阿弥陀堂には「堂山焼け出しの弥陀」と呼ばれている阿弥陀三尊像が安置されています。結城合戦で炎上中の阿弥陀堂の中から僧衆が必死に運び出して難を逃れたことから、こう呼ばれるようになりました。尊像の背に焼け跡が残っているそうでです。

和田城
高崎市

鎌倉時代に桓武平氏の流れを組む三浦義盛の5男・和田義信が築城したのがはじまりだそうです。戦国時代は和田業繁が城主となると箕輪城の長野業の娘を迎えた上に、業繁の「業」は長野業の一字をもらっています(業繁の母は業の妹に当たります)。長野氏が滅ぶと武田信玄に従うようになりました。和田城は上杉謙信の猛攻を受けましたが、箕輪城の新しい城主・内藤昌豊(武田二十四将の一人)の援軍もあって厩橋城に退けることに成功したそうです。長篠の戦いでは武田信実の配下として従軍しましたが、鉄砲傷がもとで信州駒場にて命を落としたそうです。和田城は弟の正盛が和田家を継ぎましたが、小田原役で北条氏が滅ぶと和田城も廃城となったそうです。去年まで和田城の櫓台が残っていたそうですが、国道17号の拡張工事で完全に消滅してしまいました。

和田下之城
高崎市
室町時代に和田城(高崎城の前身)の支城として和田業繁の弟・正盛が築いたのが始まりです。和田一族(桓武平氏の流れを組む三浦一族)は箕輪城の長野氏の重臣として仕えていました。正盛の母は長野業正の妹にあたり、兄・業繁は業正の娘を迎えていました。箕輪城では業正が病死して子の業盛が城主となりましたが、武田信玄によって落城してしまいました。長野氏が滅ぶと和田一族は上州国衆として武田信玄の西上作戦や野田城の攻略に参加しました。川窪信実(信玄の弟)の配下だった兄の業繁が長篠役で受けた傷が原因で信州駒場で亡くなると、跡を継いだ信景が和田城に入りました。武田氏が滅ぶと小田原北条氏に仕える様になりましたが、北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、諸国を放浪して近江で亡くなりました。子孫は会津藩の家臣として続きました。
高崎城
高崎市

和田宿は中山道と三国街道の分岐点にあたる要衝であったため、徳川家康の命によって、箕輪城に封じられていた井伊直政(徳川四天王の一人)が、旧和田城を城地の一部に取り込んだ城を新たに築き、名を高崎と改めたのがはじまりだそうです。箕輪城から多くの構築物を移し、全ての城郭が完成したのは、築城を開始して70年後だったそうです。関ヶ原の功で直政が近江佐和山城に移ると、代々譜代の家臣が城主となりました。安藤重信が城主のときに三層の櫓を建てて天守閣の代用としたそうで、その古写真が残っています。重信は福島正則の改易のときに、広島城の明け渡し処理をしたそうです。高崎城は埋め立てによってほとんど城郭は残っていないのですが、市内に払い下げられていた写真の本丸乾櫓と城門が唯一の遺功として残っています。

山上城
桐生市

室町時代に藤原秀郷の末裔・山上高綱によっ築かれたのがはじまりだそうです。関東管領上杉氏の頃は東上州四家(山上氏・由良氏・薗田氏・桐生氏)の一つとして重きをなしていました。戦国時代末期には武田勝頼に攻められて落城しました。前回行ったときは芝生のある公園になっていた三ノ丸跡しか見ていなくて、帰ってから本丸跡にある城址碑と土塁の存在を知りました。今回は家族連れで賑わっている三ノ丸を素通りして本丸と二ノ丸に行きました。本丸には城址碑があり写真を撮ってきました。本丸はうっそうとしていて薄暗かったのですが、デジカメには便利な機能があって明るく撮ることが出来ました。「やったー!」と思っていたら、遠くで銃声が聞こえたので、慌てて脱出しました。そういえば付近は鉄砲薬きょうの専門店をいくつか見かけたっけ…。怖いなあ。

毒島城
伊勢崎市

室町時代に桐生氏の家臣・毒島長綱が在城したそうです。毒島城を遠くから眺めていると、田んぼ(昔は沼地)に浮かぶ島のようで、二段に重なった郭がよく見えました。写真の説明板には毒島城にまつわる伝説が書いてありました。
三浦謙庭が毒島城を攻めたとき、周囲の沼には1匹の大蛇が住みついており、寄せ手を苦しめました。そこで三浦謙庭は7つの石臼で毒を作り、それを沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれずに西に逃げてしまい、毒島城は落城したと伝えられています。』

道元三屋敷
伊勢崎市

戦国時代に赤堀景秀が廃城となった赤堀城の北側に館を構え、後に道元三屋敷と呼ばれるようになったそうです。子孫は江戸時代に酒造業で栄えて現在に至っています。赤堀氏の娘にまつわる伝説があるそうです。
赤城山麓にある赤堀の豪族、赤堀道元の娘は幼い時から赤城山にあこがれていました。16歳になったある日、お供の者を連れて赤城山に出かけました。途中、月田村で一休みしたところ馬が倒れてしまい、駕籠に乗り換えて出発しました。赤城山の小沼に到着しましたが、過って小沼に転落し龍になりました。その後、赤堀家では命日になると赤飯を重箱に入れ、小沼に供えるのです。すると重箱は波に誘われて小沼に沈み、やがて空になって返されますが、その中には龍の鱗が1枚入っていたからだ、と伝えられています。』

天幕城
伊勢崎市

室町時代に那波氏と桐生氏と由良氏の争奪があり、戦国時代は北条氏の持城となりました。小田原の役で北条氏が滅ぶと天幕城も廃城となったそうです。天幕城址は蕨沢川を天然の水堀とした要害で、外堀跡を利用した約2600平方メートルの植栽地「あかぼり蓮園」に、中国蓮(通称・日中友好大使蓮)約2万5千株が植えられています。特に午前中が美しく、8月中旬ころまで楽しめます。写真の説明板は平成16年8月に伊勢崎市と合併する前の赤堀町が設置したもので、まだ1年ちょっとしか経っていないのですが、これと同じ説明板が赤堀城と毒島城にも設置されていたので、お城を巡ったタイミングが良かったと思いました。

赤堀城
伊勢崎市
室町時代に藤原秀郷の末裔・赤堀氏によっ粕川と鏑木川との間に築かれました。その後由良氏の支配下になったり、北条氏の支配下になったりして、めまぐるしく城主が変わったそうですが、歴史ははっきり分かっていません。城址に駐車場が無いため、粕川の対岸にある陸送業事務所に駐車させてもらってから、県道76号沿いにある「赤堀城址」という小さな標識に向かって歩きました。従って折れると細い道があり、進むと畑の中に入るので、そこを見渡すと土塁に囲まれているのが分かります。そのまま真っ直ぐ歩くと、写真の城址碑と説明板のある大きな土塁がありました。前回行ったときは小さな標識の存在をも知らず、見つからなくて引き上げてしまったので、見つけたときは嬉しかったです。

156ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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