石田三成の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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島清興の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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蒲生郷舎の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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小西行長の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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宇喜多秀家の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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大谷吉継の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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島津義弘の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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徳川家康の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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本多忠勝の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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井伊直政&松平忠吉の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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藤堂高虎&京極高知の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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黒田長政&竹中重門の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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田中吉政の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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山内一豊の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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福島正則の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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小早川秀秋の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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脇坂安治の陣 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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松尾山城 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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山中城 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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今須城 |
関ヶ原町 |
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=作成中= |
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長曽我部盛親の陣 |
垂井町 |
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=作成中= |
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長束正家の陣 |
垂井町 |
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=作成中= |
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毛利秀元の陣 |
垂井町 |
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=作成中= |
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安国寺恵慶の陣 |
垂井町 |
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=作成中= |
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吉川広家の陣 |
垂井町 |
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=作成中= |
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池田輝政の陣 |
垂井町 |
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=作成中= |
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浅野幸長の陣 |
垂井町 |
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=作成中= |
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垂井城 |
垂井町 |
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=作成中= |
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長屋氏屋敷 |
垂井町 |
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=作成中= |
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喜多村屋敷 |
垂井町 |
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=作成中= |
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八神城 |
羽島市 |
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=作成中= |
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加賀野井城 |
羽島市 |
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=作成中= |
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石河屋敷 |
羽島市 |
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=作成中= |
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大垣城 |
羽島市 |
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築城年代は2つの説があってはっきりしないのですが、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となるなど、歴史的に有名な城となりました。伊藤祐盛が城主の時に天守閣が挙がり、祐盛の息子・盛宗の時に西軍に付いたそうです。関ヶ原の戦いが起きると、福原長堯(石田三成の女婿)が盛宗と共に大垣城を守備しましたが、東軍の水野勝成に攻められて落城したそうです。大垣城には城主を務めた戸田氏鉄の騎馬像があります。氏鉄は摂津国・尼崎城から入封した徳川家康の近習で、藩政においても新田開発や治水工事などに大きな成功を収め、大垣藩の藩政を安定に導いたとして、大垣市民に親しまれています。関ヶ原の戦いで残った天守閣は、昭和20年7月29日の大垣空襲で焼失してしまいました。写真は平成26年にリフォームを終えた天守閣です。
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稲葉屋敷 |
大垣市 |
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元和4年(3代将軍・徳川家光の時代)に幕府から所領を与えられた稲葉正次が青野藩を置いたのがはじまりです。正次は稲葉正成の嫡男で、春日局は継母に当たります。3代目の稲葉正休が藩主の時に、水害に悩まされていた淀川の治水工事を担当しました。しかし、治水費用が予定よりかかってしまったことを咎められ、いとこに当たる大老の堀田正俊によって淀川の治水工事の役目から外されてしまいました。恨みを持った正休は江戸城内で正俊を呼び出して刺殺し、その場に居合わせていた3人の老中達(大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌)によって正休は切り殺されてしまいました。その後に青野藩は廃藩となり、稲葉氏は断絶となりました。写真は青野藩の政庁があった場所に建てられていた大きな石碑「稲葉石見守正休公屋敷跡」です。
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高須城 |
大垣市 |
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=作成中=
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今尾城 |
海津市 |
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=作成中= |
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駒野城 |
海津市 |
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=作成中= |
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津屋城 |
海津市 |
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=作成中= |
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大塚城 |
養老町 |
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室町時代にこの地域を支配していた松井直清の居城がありました。大塚城は牧田川のほとりに築かれた平城です。丸毛氏は清和源氏の小笠原氏の流れを組む名門です。斎藤家、織田家、豊臣家、前田家、徳川家に仕えていました。織田家に仕えていた時は浅井氏の小谷城攻め、長島一向一揆攻め、足利義昭が逃げ込んだ槙島城攻め、三好攻め、長篠の合戦時の牛窪城の守備、安土城の留守居役などを務めていました。豊臣家に仕えていた時は九州攻めや小田原攻めに従軍していました。前田家と徳川家に仕えていた一族が旗本として残ったそうです。写真は牧田川にかかる多芸橋を渡った付近にあった石碑で、昭和年間まで荘福寺(臨済宗)がありましたが、牧田川の治水工事によって荘福寺と丸毛一族の墓が移転させられてしまいました。
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根古地城 |
養老町 |
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=作成中= |
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松倉城 |
各務原市 |
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戦国時代に犬山城主・織田信康(信長の叔父)の命令で坪内頼定が木曽川沿いに築いたのが始まりです。孫の坪内利定が城主の時に信長に仕える様になりました。利定は木曽川沿いを治めていた川並衆を束ねていた人物で、後に信長の命を受けた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が墨俣城を築く際、川並衆を動員して木曽山中より木材を流し、松倉にて陸揚げ、加工してから川に流して墨俣に送るという困難な任務を、利定が松倉城で果たしました。川並衆には蜂須賀小六(後の正勝)、松原内匠(斎藤道三の旧臣で墨俣築城では大工棟梁)などが居ました。信長に仕えていた茶坊主・拾阿弥を切り殺してしまった前田犬千代(後の利家)を松倉城で匿っていた事がありました。関ヶ原での功績で利定は加増で6500石の旗本になって新加納陣屋を築くと、松倉城は廃城になりました。
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墨俣城 |
瑞穂市 |
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織田信長の命令で木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が長良川と犀川の合流する地点に一夜城を築いたと云われています。実際には室町時代に土岐氏の奉行・斎藤利為の古城があった場所だそうです。写真は墨俣城の模擬天守閣で、展最上階からは長良川と稲葉山城がある金華山が良く見えました。墨俣城の手前には墨俣宿にあった墨俣本陣跡がありました。墨俣本陣には面白い話があって、慶長5年の関ヶ原の合戦の時、伊達政宗が宿泊した事があります。関ヶ原の合戦を目前に大変緊迫した天下の状況下で、政宗が墨俣本陣に入ったなんて、どんな慌ただしさだったのかな?とか、政宗が居る本陣を伊達兵がどのようにして守備していたのかな?とか、色々と浪漫というか想像に掻き立てられて尽きなかったです。ちなみにそこから墨俣城の模擬天守閣は目の前にありました。 |
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美江寺城 |
瑞穂市 |
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室町時代に守護・土岐氏の家臣・和田八郎が築いたのがはじまりです。美江寺城は犀川沿いに築かれた城で、中山道が近くを通る交通の要衝でした。戦国時代には、和田高行が城主で斎藤道三の攻撃を受けて周辺にある十九条城と十七条城と共に落城、その後廃城になりました。江戸時代の美江寺は中仙道の宿場町として栄え、城跡を囲うように北西隅で鉤の手に中仙道が折れていることが分かって面白かったです。写真は、中小学校のグランド隅にあった石碑と説明板です。石碑は石垣のモニュメントと松の木に囲まれ、背面には漆喰塀があって城跡だったことを強調していて非常に良いと思いました。 |
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十九条城 |
瑞穂市 |
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戦国時代に守護・土岐頼純の命によって川手城の支城として家臣の斎藤利良が築いたのがはじまりです。十九条城は犀川が西で半円を描いて流れている天然の要害でした。しかし、斉藤道三によって頼純が追われると、十九条城は廃城になりました。道三亡き後の美濃国を攻略すべく、攻略拠点の1つに十九条城跡を選んだ織田信長は、城跡を大改修して従兄弟の織田信益を城主に置きました。稲葉山城から斎藤龍興が大軍を引き連れると、軽海で両軍は激突しました。この戦いで信益は龍興方の野々村正成によって討たれ、十九条城は兵火にあって焼失、廃城になりました。写真は城跡にあった津島神社で、社殿の横に説明板がありました。 |
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十七条城 |
瑞穂市 |
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南北朝時代に守護・土岐頼貞の命によって4男・船木頼胤が築いたのが始まりです。その後、二階堂氏,仙石氏,和田氏が城主になりました。戦国時代には、斎藤道三の攻撃を受けて落城しました。その後、安藤守就(美濃三人衆の一人)の家臣・林正長の持城になりました。正長の孫・市助は、稲葉重通(一鉄の嫡男)の養子となって稲葉正成と改姓し、お福を迎えました。余談ですが、徳川家康の孫・竹千代(後の家光)の乳母が京都所司代板倉勝重によって募集された時に、お福が志願して採用されると、二人は離縁しました。お福は後に春日局となりました。写真は熊野神社にあった説明板です。十七条城跡の石碑は民家(本丸跡)の敷地内にあるそうで行きませんでした。この城で、正成とお福が住んでいた時期があったんだなと思うと、歴史の浪漫に浸ってしまいました。 |
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柳津城 |
岐阜市 |
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戦国時代に斎藤義龍(道三の養子)の武将・竹腰重吉が築いた城です。当時の柳津城は木曽川の本流が今の境川を天然の外堀にして築かれた城でした。重吉は長良川の合戦で斎藤道三の重臣・竹腰重綱(重吉の父)に討たれてしまいました。跡を継いだ一族の成吉尚光(重綱の弟)は、織田信長の台頭にともなって斎藤氏を見限る家臣が続出する中、最後まで義龍の側に留まっていましたが、義龍が滅ぶと佐波村まで逃げて帰農したそうです。余談ですが、一族に尾張藩の家老を務めた竹腰正信が居ます。正信の母・相応院は徳川家康の側室なので、藩主・徳川義直(家康の9男)とは従兄弟に当たります。正信は家康の側近になっていたことで、幼い義直の後見役を命じられただけではなく、名古屋城の天下普請を監督した人物だそうで、その頃はまだ22歳の青年でした。 |
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高桑城 |
岐阜市 |
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鎌倉時代にこの地を治めていた土豪・高桑次郎が築いた居城です。当時の高桑城は木曽川の本流が今の境川を天然の外堀にして築かれた城でした。境川の畔に築かれた城で、周囲を400メートルの土塁で囲っていました。室町時代には高桑大学が城主で、美濃国の守護・土岐頼益の軍門に下って以来、代々土岐氏に仕えるようになりました。戦国時代には斉藤道三によって土岐頼芸が居城を追われると、高桑一族は越前国に逃亡してしまいました。その後高桑城に留守居役の武山氏が入城したものの、織田信長の命を受けた嫡男・信忠の軍勢に攻められて落城してしまいました。高桑城跡は境川の堤防に改築されて遺構がほとんど残っていないそうですが、その堤防の上に写真の説明板が設置されていました。 |
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長松城 |
大垣市 |
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室町時代に竹中重利がこの地に封じられたときに大谷川の畔に居城を築いたのがはじまりです。重利は竹中重治(若き羽柴秀吉の軍師として活躍をした竹中半兵衛)の従兄弟で、重治と共に秀吉に仕えて各地を転戦し、その恩賞で豊後国・高田城を与えられて移りました。その後、秀吉の家臣・武光忠棟が入城すると、大垣城の西側を守る支城として整備しました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍が敗れると、長松城を抜け出して桑名に逃亡してしまいました。城主が居なくなった長松城を東軍の一柳監物が接収したものの、戦後に廃城となりました。写真は荒崎小学校の正門前にあった御影石で作られた大きな石碑です。 |
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御茶屋屋敷 |
大垣市 |
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慶長14年(1609年)に徳川家康の命令で中山道の要衝・赤坂宿の西側に将軍専用の休泊施設を天下普請によって造営したのがはじまりだそうです。岐阜城がある金華山の麓にある織田信長が築いた千畳敷御殿など60棟におよぶ建物が移築され、土塁や空堀を巡らせ、緊急時には城郭の要素を兼ね備えた厳重なものでした。しかし、赤坂宿の整備と共に重要性が薄れてくると、寛永年間(1630年頃)に全ての建物が取り壊されてしまいました。写真は御茶屋屋敷址(現在は赤坂ボタン園)にあった碑で、奥に進むと庭園がありました。そこは東海地方でも屈指のボタン園だそうで、季節になるとボタンの華で埋まるんだろうなと思いながら、ここを後にして大垣市内にある長松城跡に向かいました。 |
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美濃吉田城 |
大垣市 |
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南北朝時代に南朝方・吉田休三入道が北方城の支城として築いたのがはじまりだそうです。金ケ崎の戦いで新田義貞が戦死すると、美濃国まで撤退した堀口貞満(新田一族)に呼応して、休三入道は南朝方の豪族達と手を組んで、北朝方の土岐氏と戦ったそうです。戦国時代には安藤守就(美濃三人衆)が城主として居城していたことがありますが、本能寺の変の後に曽根城の稲葉一鉄に攻められて自害しました。余談ですが、守就の娘婿に竹中重治(若き羽柴秀吉の軍師として活躍をした竹中半兵衛)が居ます。写真は臨済宗・慈渓禅寺で、鐘堂の前に石碑がポツンと建っていました。 |
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曽根城 |
大垣市 |
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戦国時代に美濃三人衆・稲葉一鉄によって平野井川沿いに築かれたのがはじまりです。一鉄は伊予の名族・越智氏の末裔だそうです。斎藤氏が滅ぶと、織田信長と豊臣秀吉に仕えるようになりました。一鉄が清水城に移ると、西尾光教が入城しました。関ヶ原の戦いは大垣城攻めで戦功があった光教が揖斐城に移ると、曽根城は廃城になりました。写真は華渓寺(曹洞宗)の前にあった曽根城址の石碑と説明板です。華渓寺の敷地内に入ると曽根城本丸跡の石碑がありました。華渓寺は一鉄が母を弔うために城下に建立した菩提寺で、曽根城の廃城後に本丸跡に移築されました。余談ですが、華渓寺の近くには一鉄の重臣・斎藤利三(春日局の父)の屋敷跡の石碑がありました。 |
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梁川星巖邸 |
大垣市 |
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幕末に活躍した漢詩人・梁川星巖の屋敷があったところで、かつては広大な敷地に白壁造りの土蔵が建ち並んでいたそうです。星巖は曽根城の稲葉一鉄(美濃三人衆の一人)に仕えていた家臣・稲津氏の末裔で、戦国時代が終わると帰農した家柄だそうです。星巖は尊皇攘夷を唱えた人物で、吉田松陰や佐久間象山らと交流があったことから、幕府と井伊直弼からマークされて投獄の対象になりかけました。写真は曹洞宗・華渓寺の裏にあった屋敷跡碑と説明板で、曽根城址公園には星巖夫妻の像がありました。余談ですが、星巖と活動したという象山の妻は順といい、勝海舟の妹だそうです。 |
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斎藤利三邸 |
大垣市 |
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戦国時代に曽根城の稲葉一鉄(美濃三人衆の一人)に仕えていた家臣・斎藤利三の屋敷があったところです。斎藤氏は室町初期に美濃国の守護代だった家柄で、斎藤道三とは別系統です。後に3代将軍・徳川家光の乳母となる春日局は利三の娘で、この屋敷で産まれたそうです。あと、利三の異父妹・菜々は四国の覇者・長曽我部元親の正室となっているので、春日局から見れば叔父に当たります。写真は曹洞宗・華渓寺の裏にあった屋敷跡碑です。余談ですが、写真の石碑から見える華渓寺は瓦付きの白壁に囲まれており、下には曽根城址の水堀と崩れた石垣があったので、まるでお城のように見えました。 |
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北方城 |
北方町 |
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室町時代に伊賀光就が築いたのがはじまりだそうです。北方城は環濠集落の中に築かれた要害でした。光就は安藤守就(美濃三人衆の一人)の孫(曾孫ともいう説もあり)に当たります。斎藤氏が滅ぶと、守就は織田信長に仕えるようになりました。しかし、息子の尚就が武田勝頼に内通の疑いをかけられたため、信長の命令で同じ美濃三人衆の一人だった稲葉一鉄に居城を接収され、守就親子は谷口村に蟄居しました。信長が本能寺の変で横死すると、守就親子は一族旧臣を集めて北方城を取り戻しましたが、一鉄の大軍に取り囲まれて落城しました。写真は北方城跡にある小公園に建てられた説明板と石碑です。近くには江戸時代に築かれた戸田氏の北方陣屋跡があり、そこにも説明板がありました。 |
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北方陣屋 |
北方町 |
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寛文8年(1668年)に5000石を分かち与えられた戸田光賢(8代目の大坂城代・松平光重の3男)が北方城跡の一部に陣屋を置いたのがはじまりだそうです。陣屋の周囲には、道場,学問所,奉行所,代官所,家臣団の屋敷などが配置されました。それ以来戸田氏7代(201年間)の藩として明治を迎えました。写真は北方陣屋跡にある北方小学校のフェンス沿いにあった説明板です。近くには戦国時代に築かれた安藤氏の北方城跡があり、そこには石碑と説明板がありました。 |
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竹中氏陣屋 |
垂井町 |
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桃山時代に竹中重門(重冶の子(若き羽柴秀吉の軍師として活躍をした竹中半兵衛の子)が養父・羽柴秀吉の命令で岩手村に陣屋を構えたのがはじまりです。しかし、関ヶ原の戦いの後に西軍の将・小西行長を伊吹山中で捕らえる手柄を挙げ、恩賞で所領が拡大されたので、麓に陣屋を築いて、菩提山城は詰城としたという異説があります。江戸時代を通して竹中氏12代の陣屋として280年間続きました。写真は竹中氏陣屋に残っていた櫓門と石垣で、その横に竹中重治像がありました。余談ですが、重冶が若くして結核で亡くなってしまい、幼かった重門は秀吉に大事に育てられたという大恩があったにもかかわらず、関ヶ原の戦いでは東軍に寝返った上に、豊臣家の忠臣・行長を伊吹山中で捕らえるなど、二重の裏切り行為には呆れてしまいました。 |
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菩提山城 |
垂井町 |
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室町時代にこの地を支配していた岩手頼重の岩手城があった場所です。戦国時代には頼重を攻略した竹中重元が居城を置くと、菩提山城に改名しました。頼元が城の大改修の乗り出した翌年に病死すると、16歳の重治(若き羽柴秀吉の軍師として活躍をした竹中半兵衛)が家督を継ぎました。重治が20歳のときに、主君・斎藤龍興との不仲が決定的になると、美濃三人衆(稲葉一鉄,安藤守就,氏家直元)を含む同士の16名と共に、わずか1日で稲葉山城を乗っ取ってしまいました。後に龍興に稲葉山城を返却すると、斉藤氏の元を去りました。重治が秀吉に仕えるようになったのは、それから3年後のときです。秀吉の軍師として活躍をした重治の居城が菩提山城だったなんて知らなかったので嬉しかったです。写真は岩手小学校の角にあった菩提山城への標識板です。 |
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西保北方城 |
神戸町 |
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室町時代に不破道広が築城したのがはじまりだそうです。3代目の不破光治は元々斎藤道三に仕えていましたが、斎藤氏が滅亡すると、織田信長に仕えて戦さや外交で数々の手柄をたてていました。信長からの信頼の厚かった光治は、信長の居城・安土城の城代をしていました。信長が本能寺の変で討ち死にすると、光治は柴田勝家に従って越前に移りました。関ヶ原の合戦のときには、城主・木村重広は西軍として大垣城で討ち死にし、以後西保北方城は廃城になりました。写真は小さな部落内の交差点にあった小さな石碑で、かがんで撮影しました。 |
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軽海西城 |
本巣市 |
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築城の時期は不明ですが、戦国時代には西村正利が居城していました。土岐頼芸(美濃国の守護)の家臣・長井長弘に仕えていた頃に名乗っていた、若き頃の斎藤道三だったことが分かってビックリしました。織田信長が支配していたときは片桐俊元(池田恒興の家老)が城主をしていました。豊臣秀吉の時代には一柳直末が城主をしていました。直末は秀吉の小田原の役に従軍し、箱根街道にある北条方の山中城攻めで戦死してしまいました。直末は豊臣秀次の宿老でありながら、秀吉の黄母衣衆を兼任していたそうで、黒田如水(秀吉の軍師)から悲報を聞いた秀吉は涙を流したといわれています。写真は城跡にあった円長寺で、直末の後裔が菩提を弔って建てたお寺でした。 |
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笠松陣屋 |
笠松町 |
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寛文2年(6代将軍・徳川家宣の時代)に美濃郡代・名取長知が笠町を笠松村と改めて陣屋を置いたのが始まりです。笠松陣屋は幕府天領の支配と木曽川の治水事業を担当した役所でした。慶応4年に朝廷の命を受けた竹沢寛三郎が天朝御所と改め、後に笠松県庁と笠松裁判所が置かれました。明治4年に廃藩置県によって美濃国が岐阜県となると、岐阜県政の中心になっていました。2年後に県庁の機能が岐阜市に移された後も建物は取り壊されなかったのですが、明治24年に襲った濃尾地震で焼失してしまいました。写真は笠松陣屋の跡地に建てられた石碑と説明板で、小さな史跡広場になっていました。自分が住んでいる埼玉県旧岩槻市(現・さいたま市岩槻区)も、県庁が旧浦和市(現・さいたま市浦和区)に移される前は埼玉県政の中心になっていた時期がありました。 |
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竹ヶ鼻城 |
羽島市 |
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室町中期にこの地を支配していた土豪・竹腰尚隆が逆川を外堀として城を築いたのがはじまりです。戦国時代には、織田信雄(信長の次男)の家臣・不破広綱が城主で、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉の水攻めによって落城しました。関ヶ原の前哨戦では、織田秀信(信長の孫で清洲会議で有名な三法師)の家臣・杉浦重勝が城主で、東軍・福島正則の猛攻を受けて炎上し、重勝は自害してしまいました。その後、廃城になりました。写真は竹ヶ鼻城跡に建てられた羽島市立歴史民族資料館で、道路に面した駐車場に城址碑と説明板が設置されていました。余談ですが、つい最近まで秀吉による水攻めで築かれた土塁の一部が残っていたそうです。秀吉による水攻めといえば、備中高松城と武蔵忍城であった2つの水攻めが思い浮かぶのですが、他にもあったんですね。 |
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伊木山城 |
各務原市 |
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築城の時期は定かではないのですが、戦国時代に武功を挙げた香川忠次が、主君の織田信長から伊木山城を与えられると、伊木姓を名乗るようになりました。信長は東美濃国へ攻め込むための足がかりにしようとしたのですが、わずか2キロメートル先にある鵜沼城の大沢正信(斉藤家の勇将)の攻撃を度々受けて苦戦したそうです。善戦もむなしく、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)によって降伏しました。池田恒興が犬山城主になると、伊木山城の忠次は恒興に仕えるようになりました。恒興が戦死して子の輝政が家督を継ぎましたが、まもなくして三河国の吉田城に移封されると、伊木山城は廃城になりました。写真は国宝・犬山城の天守閣から眺めた伊木山城跡(中央にある小山)です。現在は「伊木の森」という市民の憩いの場になっていて、解説板があるそうです。 |
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鵜沼城 |
各務原市 |
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室町時代に土岐氏の家臣・大沢利治が木曽川の対岸にある岩山に城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には斉藤道三の支援を受けた大沢正信が、占有していた生駒道寿を追い払ったそうです。しかし、織田信長に攻略を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)によって降伏しました。池田恒興が犬山城主になると、鵜沼城には家臣の中川定成が入りましたが、まもなくして鵜沼城は廃城になりました。写真は国宝・犬山城の天守閣から眺めた鵜沼城跡(犬山橋を渡った木曽川の対岸にある小山)です。城山ホテルがあったのですが、倒産して以来城址は立ち入り禁止になっているそうです。城山の頂上には大沢一族の墓群があるそうで、そこだけでも入れるようにして欲しいと思いました。 |
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岐阜城 |
岐阜市 |
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鎌倉時代に幕府の政所執事をつとめた二階堂行政が金華山の山頂に城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代に長井規秀が美濃守護の土岐頼芸を追放すると、稲葉山城を築いて斉藤道三を名乗りました。NHK番組で道三を取り上げていたのですが、楽市楽座の制度,関所の廃止,鉄砲の三段構え戦法,専業武士の設置などは道三が先駆けたことで、それらを大規模に取り入れたのが信長だったそうです。信長は道三のコピーだったことはとても意外でした。道三は養子の義龍に家督を譲って鷺山城に隠居していたのですが、義龍(頼芸の遺児)によって不意を突かれて滅ぼされてしまいました。今回の岐阜城は二度目の訪問で、天気が良かったので岐阜市街地を見渡すことが出来ました。麓に目を移すと、北側には鷺山城址、南側には加納城址が見えました。
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鷺山城 |
岐阜市 |
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鎌倉時代に鎌倉御家人・佐竹秀義が築いたのが始まりだそうです。室町時代は土岐氏の居城として機能していました。戦国時代には養子の義龍(土岐頼芸の遺児)に家督と稲葉山城を譲った斉藤道三が濃姫(後に織田信長の正室)と共に鷺山城を隠居城として利用していました。2年後に義龍と対峙した長良川の戦いで道三が戦死すると、鷺山城は兵火によって焼かれてしまいました。余談ですが、鷺山城から東側に向かって約500メートルのところに天台宗・崇福寺(道三を弔うために建立したお寺)があるのですが、ここの住職は快川招喜です。招喜は61歳までこの寺に居て、後に武田信玄に招かれて武田家の菩提寺・恵林寺の住職になりました。今回は道三・大ファンのお袋が一緒なので「道三所縁の史跡」を中心に巡ったのですが、鷺山城でのお袋は満面の笑顔でした。 |
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黒野城 |
岐阜市 |
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文録3年(桃山時代)に甲斐・谷村城の加藤光泰が朝鮮出兵で戦死すると、幼少だった貞泰は減封されて美濃・黒野城を築いたのがはじまりだそうです。関ヶ原の戦いでは東軍として西軍方の大垣城を攻撃し、恩賞で伯耆・米子城の城主になると、黒野城は15年の短命で廃城となり、黒野城下町は加納城下町に移転されました。黒野城は斉藤道三の鷺山城から西側に10キロメートルの地点にあり、現在は黒野城址公園となっています。写真は本丸跡にあった石碑で、横には説明板がありました。本丸跡は高さ8メートルの土塁と空堀が完全に近い状態で残っていて、楽しかったです。 |
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加納城 |
岐阜市 |
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関ヶ原の戦いの翌年(慶長6年)に徳川家康の命令で奥平信昌(家康の娘婿)に築かせたのがはじまりだそうです。関ヶ原の戦いで西軍に属した織田秀信(豊臣秀吉と柴田勝家が対立した「清洲会議」に出てくることで有名な信長の孫に当たる三法師)が岐阜城を明け渡して高野山に蟄居すると、岐阜城にあった建物は加納城に転用されたそうです。金華山の山頂にあった天守閣は加納城の御三階櫓に転用されたそうです。奥平氏,大久保氏,戸田氏,安藤氏と城主が変わり、武蔵の岩槻城から移封してきた永井氏の時代に明治維新を迎えたそうです。加納城は13年前に岐阜に旅行したときに立ち寄ったことがあり、その頃は自衛隊駐屯地があって市道に面している石垣しか見ることが出来なかったのですが、現在は自衛隊が退去していて自由に入れるようになっていました。
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川手城 |
岐阜市 |
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室町時代に足利尊氏に命ぜられて、美濃国と尾張国と伊勢国の守護職となった土岐頼康が木曽川と荒田川に挟まれた中州に城を築いたのがはじまりだそうです。城内には七堂伽藍を備えた霊薬山正法寺と源氏守護神・八幡神社をはじめ、神社仏閣などが建てられたので、お城というよりは小さな都風の建物が立ち並んでいたという文献が残っています。応仁の乱によって京都が荒れると多くの公家達が土岐氏を頼り、都に帰る日を待ちながら詩歌・蹴鞠・能楽などを楽しんだといわれています。戦国時代には土岐頼芸を追放した斉藤道三によって栄華を誇った川手城は廃城となりました。現在は広大な田んぼと畑の真ん中に建てられた済美女子高校のグランド横に小さな公園があり、そこに川手城に関する石碑と説明板が設置されていました。 |
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上茜部城 |
岐阜市 |
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室町時代に堀利秀によって築城されたのがはじまりだそうです。堀氏は平安時代に活躍した伝説の武将といわれた藤原利仁の末裔だそうです。写真は国道157号の上茜部バス停前にあった石碑「上茜部城跡堀秀政誕生之地」と説明板で、織田信長の下で活躍をした秀政が産まれた城でもあるそうです。秀政は一向宗の信者でありながら信長の側近となり、羽柴秀吉が台頭してくると秀吉に仕えるようになりました。柴田勝家が秀吉に滅ぼされると、秀政は勝家の旧領を継ぐと北ノ庄城の城主になりました。この日の城巡りは上茜部城が最後の6城址目で、まもなく来たバスに乗ってJR岐阜駅に戻りました。 |
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岩村城 |
恵那市 |
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鎌倉時代に源頼朝の家臣・加藤景廉が遠山庄地頭に命ぜられた時に岩村城を築いたのが始まりだそうです。戦国時代に武田信玄が上洛を開始すると、秋山信友の軍勢が東美濃に侵攻し、岩村城を中心とする遠山一族の18城群はあっという間に落城してしまったそうです。織田信長は3万の大軍で救援に向かったのですが、信長の動きをさとった山県昌景の軍勢に背後を突かれてしまい、武田軍が得意とする山岳戦に引き込まれるのを恐れて慌てて岐阜城に逃げ帰ったそうです。3年後に長篠の戦いで大勝利を収めた信長はその足で東美濃に入って岩村城を取り戻したそうです。降伏した信友とお艶(信長の叔母)を許さなかった信長は処刑してしまいました。見事な段々に重なる石垣と復元された建物は良かったのですが、泊まった岩村山荘で食べた戦国料理も美味しかったです。 |
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明智城 |
恵那市 |
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鎌倉時代に遠山景重によって築かれたのがはじまりだそうです。景重の祖父・加藤景廉は源頼朝の重臣で、戦功によって遠山庄地頭になり、景重の父・景朝の時に遠山氏に改姓したそうです。戦国時代に遠山景行が城主のときに、武田勝頼の命令で美濃に侵攻した秋山信友の軍勢によって落城したそうです。明智城は、遠山氏の明智城(恵那市)と、明智光秀ゆかりの明智長山城(可児市)の2つがあり、行くまで後者だと思いこんでいました。明智城の麓には城下町の古い街並みが残っていて、大正村として保存されていました。大正路地は風情があってなかなか良かったです。大正の館(元庄屋であり医院だった旧家)にあった数百体もの‘土びな’が置いてあり、お袋の目が輝いていました。 |
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明智陣屋 |
恵那市 |
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関ヶ原の戦いで東美濃の平定に戦功のあった遠山利景(秋山信友によって落城した岩村城の元城主)が恵那と土岐郡内で6千7百石を与えられて旗本になって、明智城に入ったそうです。利景の息子・方景のときに一国一城令で明智城が廃城になり、城山の麓に新たに陣屋を築いたのがはじまりだそうです。陣屋内には代官所も置かれ、幕末まで統治していたそうです。テレビや那画でおなじみの「遠山の金さん」こと遠山景元は、明知遠山氏の末裔に当たるそうです。余談ですが、明智陣屋の近くには豊臣秀吉の家臣・加藤清正の末裔があるそうで、明智城址のある城山から明智陣屋址を通り、城下町の大正村に戻る途中に、同行していたガイドさんが指差して教えてくれてビックリしたことがありました。写真は明智陣屋址にあった黒塀です。 |
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高山陣屋 |
高山市 |
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文禄5年(1692年)に金森頼岩を出羽上山に転封して飛騨を幕府直轄領にしたときに陣屋を置いたのがはじまりだそうです。飛騨代官に命ぜられた関東郡代の伊奈忠篤が高山に入ると、金森氏の高山城を取り壊し、城山の麓にあった金森氏の家族が住んでいた向屋敷を代官所
兼 陣屋にしたそうです。全国で唯一の建築物が残る陣屋として貴重だそうです。あと、旧高山城の旧材を転用したという蔵も残っているそうです。家族旅行で高山祭を見に行ったときに、高山陣屋にも立ち寄ったと聞きました。写真は家にあったアルバムにあったもので、スキャナで読み取りました。行ったのは小学校の頃だったので全然記憶にないのですが、もし高山を再訪することがあったらば、高山城とセットで行ってみたいと思います。 |
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