須賀川城 |
須賀川市 |
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=作成中= |
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保土原館 |
須賀川市 |
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=作成中= |
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八幡崎城 |
須賀川市 |
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=作成中= |
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稲村御所 |
須賀川市 |
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=作成中= |
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岩瀬山城 |
須賀川市 |
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=作成中= |
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篠川城 |
郡山市 |
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=作成中= |
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守山城 |
郡山市 |
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=作成中= |
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守山陣屋 |
郡山市 |
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=作成中= |
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大槻城 |
郡山市 |
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=作成中= |
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江泉館 |
鏡石町 |
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=作成中= |
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大條城 |
桑折町 |
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室町時代に伊達宗遠(8代当主)の次男・宗行が居城を築いて大條氏を名乗ったのがはじまりです。大枝城は阿武隈川の畔にある丘陵の上に築かれた要害で、本丸・二ノ丸・三ノ丸で構成されていました。豊臣秀吉の奥州仕置において主君の伊達政宗が岩出山城に移封されると、大枝宗直はこれに従って大倉城に移ると、大枝城は廃城になりました。江戸時代に入ると大枝宗綱が坂元城に入城した後は、仙台藩の奉行職を歴任していたそうです。幕末に起きた戊申戦争で、大枝道徳が本家・伊達家の存続のために疾走した為、伊達姓に復姓しています。余談ですが、NHKのファミリーヒストリーで、お笑いコンビ・サンドウィッチマンの「伊達幹生」のことを取り上げていたのを見た際、彼が亘理伊達氏の出身だったことを知ったので、写真の大枝城跡に行けて良かったです。
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伊達崎城 |
桑折町 |
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=作成中= |
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桑折陣屋 |
桑折町 |
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=作成中= |
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桑折代官所 |
桑折町 |
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=作成中= |
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播磨館 |
桑折町 |
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=作成中= |
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下手渡陣屋 |
伊達市 |
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=作成中= |
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月見館 |
伊達市 |
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=作成中= |
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保原陣屋 |
伊達市 |
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=作成中= |
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石母田城 |
国見町 |
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=作成中= |
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藤田城 |
国見町 |
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=作成中= |
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阿津加志山防塁 |
国見町 |
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=作成中= |
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瀬上陣屋 |
福島市 |
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=作成中= |
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隅ヶ城 |
福島市 |
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=作成中= |
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宮代館 |
福島市 |
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=作成中= |
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鎌田館 |
福島市 |
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=作成中= |
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朝日館 |
福島市 |
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=作成中= |
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本内館 |
福島市 |
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=作成中= |
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椿館 |
福島市 |
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=作成中= |
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川俣代官所 |
川俣町 |
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=作成中= |
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懸田城 |
霊山町 |
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=作成中=
※この城で蜂に背中を刺されてしまいました・・・ |
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会津若松城 |
会津若松市 |
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南北朝時代に葦名直盛が前身である黒川城を築いたのが始まりです。葦名義広の時に伊達政宗によって滅ぼされるまでの205年間、葦名家20代の居城として栄えました。豊臣秀吉の奥州仕置きで蒲生氏郷が入城すると、屋根には金箔が押された望楼型の7階の巨大な天守閣が築かれました。その後は上杉氏,加藤氏,保科氏(会津松平氏)の居城となりました。現在見られる天守閣は、戊辰戦争で激しく破壊され、明治6年に取り壊されてしまった天守閣の古写真を元に外観復元された建物で、それは加藤嘉昭の時に会津を襲った地震で崩壊したのを築き直した建物でした。旧本丸内にあった麟閣(千利休の息子・少庵が氏郷の為に建てた茶室)が市内の阿弥陀寺に移築されて残っています。会津若松城は白虎隊の悲劇であまりにも有名な城で、今回で6回目の訪城です。 |
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西郷頼母邸 |
会津若松市 |
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幕末の会津藩主・松平容保に仕えていた家老・西郷頼母の屋敷があった場所です。西郷家は室町時代に三河国の守護代を務めた名家で、初代から数えて9代目が頼母でした。戊辰戦争では各地を転戦する容保を支えてきました。会津城下の郊外に飯盛山があり、その麓に復元された会津武家屋敷があるのですが、この屋敷の主が頼母でした。会津若松城が落城する直前に、官軍が武家屋敷を包囲したときに、頼母の母(58歳)、頼母の妻(34歳)、頼母の2人の妹達(26歳と23歳)、頼母の娘達(16歳と13歳)が辞世を残して見事に自刃してしまいました。城内で悲報を聞いた頼母は自刃が怖くて死にきれず、会津若松城から脱出して姿をくらましてしまいました。晩年は会津に戻って73歳まで生きていたそうです。武士にあるまじき行動で本当に情けないと思いました。
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小山田城 |
会津若松市 |
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平安末期に佐原義連が会津郷を拝領したときに居城を築いたのがはじまりだそうです。義連の父は桓武平氏の流れを組む三浦義明といい、源義朝(頼朝の父)の舅に当たります。戦国時代は葦名義広(義連から数えて20代目)が当主で、伊達政宗に敗れるまでの約400年間守護大名の居城として栄えていました。時代は明治になると、戊辰戦争で新政府方の島津軍、鍋島軍、真田軍、大村軍、山内軍、前田軍などの諸藩の軍勢が会津若松城を眼下に望める小山田城跡に砲台を築きました。小山田から会津若松城跡からは直線距離で約1600メートルしかない場所にあり、砲丸が城内まで届いたそうです。写真は会津武家屋敷から東山温泉に向かう国道325号から撮影した小山田城のあった城山です。
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鞍馬城 |
郡山市 |
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元亀2年(室町将軍・足利義昭の時代)に小倉城主・赤津時綱(伊東一族)の命によって支城として築いたのがはじまりです。鞍馬城は標高が30メートルの独立丘陵に築かれた城で、3つの曲郭で構成されていて、常見川の支流が天然の水堀の役割をしていました。最後の城主は不明ですが、戦国時代の伊東氏は葦名盛興に仕えるようになりましたが、伊達政宗の葦名氏攻めによって落城してしまいました。写真は国道294号を会津から郡山方面に走らせて常見川を渡った先を右側に大きくカーブした外側にあった舘山公園の登城口にあった由来板で、字が消えかかっていて余り読み取れませんでした。余談ですが、鞍馬城は別名で夕日城とも呼ばれているそうです。
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朝日城 |
郡山市 |
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平安時代にこの地方を支配していた土豪・栗森貞親によって築かれたのがはじまりだそうです。朝日城は猪苗代湖の南地区の要衝にあります。鎌倉時代に源頼朝に従って軍功をあげた伊東祐光(伊豆国から興った藤原系の工藤一族)が入城して朝日城を改築したそうです。写真は国道294号線を会津から郡山方面に走らせて赤津簡易郵便局を過ぎて大きくカーブした右手側の田んぼの中にポツンとあった石碑「朝日城跡」で、周囲を見渡したのですが、どこが城跡だったのかが良く分かりませんでした。
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小倉城 |
郡山市 |
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鎌倉時代にこの地方を支配していた土豪・束塚実恒によって築かれたのが始まりです。小倉城は標高が20メートルの独立した台地に築かれた単郭の城です。戦国時代は伊東盛恒(伊豆国から興った藤原系の工藤一族)が城主で、伊達政宗による蘆名氏攻めによって攻撃を受けています。豊臣秀吉の奥州仕置では、伊東盛恒が最後の城主でした。盛恒は会津若松に入封した蒲生氏郷に仕官する様になりました。しかし、葛西大崎の一揆(秀吉による奥州仕置によって改易された葛西氏と大崎氏の旧臣が蜂起して新領主・木村吉清の名生城を占拠した事件)が起きると、氏郷の命を受けた盛恒は蒲生軍の先鋒として鎮圧に向かった名生城攻めで戦死してしまい、城主を失った小倉城は廃城になりました。写真は城跡である小倉神社の麓にあった登城口で、鳥居の横に城址碑がありました。
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中畑陣屋 |
矢吹町 |
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天保年間に松平家済の代官陣屋がありました。家済は本家の松平康爵が入封した際に約5千石の分領を受けたときに、茨城街道の中畑宿を支配するために置いたのが中畑陣屋です。陣屋があった場所は矢吹町内にある白河結城氏の菩提寺である澄江寺(曹洞宗)の付近にあり、樹齢300年以上の二2本カヤの大木が目印になります。写真は会津武家屋敷に移築されていた旧中畑陣屋の主屋で、書院造りと奇数屋風の形態と地域名主住居の構造を織り交ぜた数少ない陣屋の遺構建築物です。
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松山城 |
須賀川市 |
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戦国時代にこの地方を支配していた二階堂氏によって須賀川城の支城として岩崎山に築かれた城です。葦名氏と田村氏によって攻め落とされたり、二階堂氏が奪還したりを繰り返した攻防戦の歴史があるそうです。最後は須賀川城の攻防戦(伊達氏&援軍の最上氏と、二階堂氏&岩瀬氏&須田氏&援軍の佐竹氏が対立した合戦)によって落城してしまいました。同盟を結んでいた田村氏の裏切りに遭い、伊達氏によって居城の須賀川城を追われた二階堂氏は滅亡してしまいました。写真は岩崎山史跡公園にあった沿革の案内板です。しかし、松山城についての説明は一切入っていないし、城址碑もなかったので、土塁が立派だったのにガッカリしてしまいました。
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横田陣屋 |
須賀川市 |
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元禄11年(5代将軍・徳川綱吉の時代)に溝口宣就によって築かれたのがはじまりです。宣就は新発田藩の藩主・溝口宣直の弟に当たります。写真は横田陣屋跡がある民家の前にあった「溝口藩横田陣屋跡」の碑と説明板です。奥にある民家の庭に、「横田陣屋御殿桜」の碑と、樹齢300年を超えるエドヒガシのシダレ桜の大きな木があるのですが、住民にお会いして断ってから敷地内に入って写真を撮らせていただきました。春になると濃いピンク色の桜が見事に咲いている様子が、説明板にある写真で分かりました。退出するときに住民に一礼すると、愛車のセドリックに乗り込むと、二階堂氏の松山城跡に向かいました。
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大舘城 |
いわき市 |
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室町時代に岩城常朝が長友館の支城として築いたのが始まりです。岩城隆忠の時に白土城に居城を移すと、大舘城には嫡男の親隆を置きました。親隆は一門の岩崎氏と樽葉氏を滅ぼし、結城氏と同盟を結んで相馬氏を圧倒させて勢力を拡大しました。嫡男の常隆は大舘城に居城を移し、その頃に起きた佐竹氏の内紛に介入して佐竹義舜を娘婿として支援し、やがて盟主だった結城氏の領土に侵攻して勢力を拡大するなど、岩城氏の全盛期を築きました。豊臣秀吉の小田原攻めではいち早く参陣した為に領地を安堵されましたが、病死してしまいました。佐竹氏から貞隆(義宣の弟)が迎えられたものの、関ケ原の役では西軍に付いた為に郎党は飛散し、貞隆は浪人になってしまいました。戦後徳川家康の家臣・鳥居忠政が大舘城に入ったものの、平城を築いて移ると廃城になりました。 |
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平城 |
いわき市 |
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室町時代に岩城常朝が築いたのが始まりです。関ヶ原の戦い後は鳥居忠政(元忠の子)が入封しました。忠政は仙台城の伊達氏の押さえとして12年の歳月をかけて築城し、現在見られる石垣もその時に完成しました。三層の櫓が築かれたので「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた程です。鳥居氏,内藤氏,井上氏,安藤氏と城主がめまぐるしく変わりました。江戸末期には公武合体で有名な老中・安藤信正の所領として知られています。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に与した為、官軍に攻められて落城しました。市内には明治時代に移築された城門が残っているそうです。写真は龍が城美術館の手前の公園入口にあった石垣で、4年半振りの訪城となりました。近くにある大舘城には立派な石碑があるので、平城にも同じ様に石碑を設置して欲しいと思いました。
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上遠野城 |
いわき市 |
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室町時代に上遠野秀時が上遠野郷に新城を築いたのがはじまりで、上遠野氏11代の居城として続きました。上遠野氏は下野国の小山一族で、小山政朝を祖に持つ名門です。室町時代には岩城氏と姻戚関係を持って領地を拡大していきました。戦国時代に入ると伊達氏の勢力拡大に屈してしまうと、惣領家の上遠野政秀は武士を辞めて帰農し、弟の上遠野隆秀は伊達政宗の配下になりました。写真は上遠野小学校の正門を入った右手にあった石碑で、そこはかつて江戸時代には棚倉藩の出張陣屋が置かれていた場所です。背後には標高110メートルの城山が見え、かつては200以上におよぶ大小の曲郭を配置した大きな山城でした。 |
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泉城 |
いわき市 |
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江戸初期に内藤忠興の居城があった場所です。泉城は釜戸川と藤原川の合流地点に築かれた城でした。忠興は徳川幕府の老中・井上正就に仕えていました。平城主・内藤政長(忠興の父)が病死すると、忠興は平城に入城し、弟の内藤政晴は泉城に入城しました。まもなくして政晴が平藩の支藩として泉藩を興すと、泉城を改めて泉陣屋としました。写真は泉町公民館に隣接していた小公園にあった城址碑と由来碑です。余談ですが、忠興は藩政や新田開発に成功して石高を倍増させ、その功績が認められて7代目の大坂城代を2年間勤めた幕府の実力者です。あと、忠興の側室は武田信玄のイトコに当たる小山田信茂の娘・香具姫です。 |
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泉陣屋 |
いわき市 |
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寛永11年(3代将軍・徳川家光の時代)に、平城主・内藤政長(忠興の父)が病死すると忠興は平城に入城し、弟の内藤政晴は泉城に入城しました。まもなくして政晴が平藩の支藩として泉藩を興すと、泉城を改めて泉陣屋としました。その後、内藤家2代,板倉家3代,本多家7代の陣屋として273年間続いて明治時代を迎えました。写真は泉町内にある個人宅に移築されていた旧陣屋門です。 |
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滝尻城 |
いわき市 |
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平安時代に奥州を平定した平政氏(後の岩城政氏)の居城があった場所です。写真は「滝尻城跡」の石碑で、その横面には「安寿姫厨子王ゆかりの地半官御所」とありました。安寿姫と厨子王は姉弟で、政氏の子供達に当たります。その2人にまつわる伝説があるそうです。
『奥州の半官だった父が家臣の奸計によって九州に流刑されると、父をたずね求めて家族と旅に出ましたが、山岡という人買いの手にかかって政氏の妻は佐渡という者の奴隷に、姉弟は山椒という者の奴隷になってしまいました。姉は厨子王を山椒の屋敷から逃がして殺されてしまいました。逃げ延びた厨子王は朝廷と繋がりがある摂津の天王寺を頼りました。和尚を介して父は許されて旧領を取り戻し、厨子王は家臣と山岡と佐渡と山椒を殺して、母と再会を果たしました、と伝えられています。』 |
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福島城 |
福島市 |
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室町時代に伊達晴宗の隠居城・杉目城があったそうです。杉目城は当時としては珍しい平城で、阿武隈川を天然の水堀とした要害だったそうです。晴宗は8年間も続いていた伊達家の内紛を平らげた武将で、政宗の祖父に当たります。奥州では米沢城の晴宗と、向羽黒山城の蘆名盛氏の2将だけが大名として、室町幕府から認可されていました。晴宗は家督を息子の輝宗に譲ると、米沢城を出て杉目城に隠居したそうです。豊臣秀吉の奥州仕置きでは、蒲生氏郷の家臣・木村吉清が入城すると福島城に改称されました。江戸時代は陣屋として機能していたそうです。この日は、福島県知事の談合事件で検察庁による強制家宅捜査があり、報道陣の車両が福島県庁の敷地内に所狭し陣取っていました。写真は県庁の玄関前にあった石碑で、後ろに報道車両が写っています。 |
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大森城 |
福島市 |
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南北朝時代に佐藤盛衡が平野を見下ろせる大森山の頂に城を築いたのがはじまりだそうです。大森山には鎌倉期の板碑が数多く残されているので、大森城が築かれる前は寺院があったことが判明しています。戦国時代には伊達成実が大森城で生まれたそうです。成実は伊達政宗の父・輝宗の従兄弟に当たり、政宗の片腕として伊達家を支えていたそうです。政宗が二本松城の畠山氏を滅ぼすと、成実は二本松城主となり、大森城には片倉景綱が入りましたが、豊臣秀吉の奥州仕置きで蒲生氏郷が会津若松城に入ると、大森城は廃城になったそうです。現在は大森城山公園となって、福島平野を見下ろすことが出来ました。今回で二度目の訪城なんですが、前回行ったときには無かった大きい石碑が新たに設置されていました。
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南沢又城 |
福島市 |
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室町時代に伊達成実の家臣・湯沢善兵衛が築いたのがはじまりだそうですが、歴史は不詳となっています。成実は伊達政宗の父・輝宗の従兄弟に当たるそうです。農園の中に、写真の城址碑がポツンと建っていました。近辺は道が非常に狭く、日産レンタカーの予約が前日だったこともあって軽車しか確保出来なかったのですが、そのお陰で行くことが出来ました。
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平野館 |
福島市 |
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築城年代と歴史は共に不詳ですが、岩井備中守の居館のあった所だといわれているそうです。福島市街地の郊外にある稲荷神社が館跡で、市の天然記念物に指定されている大ケヤキが土塁の上にありました。稲荷神社の神木として地元の人達に保護されてきたことが、説明板に書かれていました。
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大笹生城 |
福島市 |
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室町時代に瀬上康俊が大平山の麓に築いたのがはじまりだそうです。瀬上氏は伊達家の支族で、伊達宗綱の三男・行綱を祖としているそうです。城山はだいぶ向こうにあり、市道の手前に城址碑がポツンと建っていました。ただ、それが有るのと無いのとでは全然違うので、個人的には良かったと思いました。近くには曹洞宗・大福寺があり、藁葺きの屋根をした重要文化財の本堂がありました。
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大鳥城 |
福島市 |
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平安時代にこの地を治めていた豪族・佐藤基治の城があったそうです。基治は平泉の藤原清衡に従って南側の白河あたりまで勢力を拡大していたそうです。鞍馬山に流刑になっていた源義経が、兄・頼朝に呼応して挙兵すると、基治の子・継信と忠信が奥州から駆けつけたそうです。継信は屋島の合戦で戦死し、継信は頼朝と不和になった義経が吉野山をさまよっていたときに攻めてきた僧兵から身を挺して戦死したそうです。無事に奥州に入った義経は大鳥城の基治に会い、武勲を伝えると共に、追悼の法要を営んだそうです。頼朝によって平泉が陥落すると、大鳥城も落ちたそうです。大鳥城に向かう途中の山道と、舘ノ山公園に駐車場には「熊に注意」という看板が建てられていてビックリしました。本丸からは飯坂市街地が見えました。
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飯坂古城 |
福島市 |
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鎌倉時代に奥州合戦で軍功のあった伊達為家(伊達朝宗の4男)が源頼朝から飯坂の地を拝領すると、飯坂城を築いて飯坂氏を称するようになったそうです。飯坂氏14代目当主は宗康で、宗康の次女は伊達政宗の側室になっているそうです。側室は飯坂の局と呼ばれ、政宗の長男・秀宗(後の宇和島藩の初代)を産んでいます。秀宗は4歳のときに豊臣秀吉の人質となり、伏見城で元服すると秀吉から‘秀’の一字をもらって秀宗と名乗るようになったそうです。現在は古舘公園となり、写真の説明板と、標柱「城跡古館」が設置されていました。古舘公園には二人の孫を連れたおじいさんがベンチに座り、無邪気に走り回っている孫達を楽しそうに眺めていました。
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湯野陣屋 |
福島市 |
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幕末に三河刈谷藩の土井利制のときに領内で農民一揆が起き、幕命で伊達郡に国替えとなったときに置かれたのが湯野陣屋だそうです。湯野陣屋は飯坂温泉街の中にあり、日本武尊が東征の折に、また松尾芭蕉が奥の細道の途中に立ち寄り、その湯に浸かったといわれている名湯があるそうです。陣屋址には西根神社が建ち、入口の脇に石碑「三州刈谷藩分領湯野陣屋跡」が建てられていました。
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高子岡城 |
伊達市 |
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鎌倉初期に藤原朝宗が奥州における戦功で源頼朝から伊達郡を拝領したのを契機に、伊達氏に改姓すると共に、阿武隈川の畔にある台地に高子岡城を築いたのがはじまりだそうです。朝宗は常陸国の新治郡を支配していた豪族で、頼朝とは従兄弟の関係でした。源義経を追いつめて藤原泰衡(三代秀衡の子)を滅ぼした奥州合戦では、藤原方の佐藤基治を石那坂で生け捕るなどの活躍をしたそうです。阿武隈急行の高子駅の手前にある台地の上に八幡神社があり、市道の前にある鳥居に写真の説明板がありました。昔は阿武隈川が流れていたそうですが、西側に1キロメートルほど移動してしまったようです。本丸跡に立つと、稲刈りを控えた黄金色の田園風景に見とれてしまうと共に、「ここが仙台城の伊達家の始祖が治めていたんだなぁ」と、戦国のロマンに浸ってしまいました。
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梁川城 |
伊達市 |
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鎌倉時代に伊達朝宗が築いたのがはじまりだそうです(朝宗は伊達氏の祖)。それ以来、梁川城は伊達氏の本拠地として栄えたそうです。室町時代に戦国大名となった伊達稙宗が産まれた城です。稙宗は伊達政宗の曽祖父に当たります。稙宗は桑折西山城を築いて移ると、梁川城は桑折西山城の支城となったそうです。豊臣秀吉の奥州仕置きの後、会津川待つ城の城主となった蒲生氏郷と上杉景勝の支配を経て、江戸時代には天領となり、梁川陣屋が置かれたそうです。旧本丸跡は梁川小学校が建てられ、校庭には陣屋時代の石垣と、庭園「心字の池」が復元されていました。室町時代の庭園としては貴重なものだそうです。写真は庭園の前に設置されていた説明板で、後ろには庭園と石垣が見えます。
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住吉館 |
伊達市 |
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室町時代に大條氏が居館を構えていたところだそうです。大條氏は伊達家の支族で、伊達宗遠(8代当主)の次男・宗行を祖としていて、江戸時代では仙台藩の奉行職を歴任していたそうです。写真の説明板は、曹洞宗・徳本寺(大條氏の菩提寺)の門の脇にありました。梁川城から住吉館に向かう途中に大條氏の本城・大條城跡があり、インターネットによると県道320号沿いに大きな土塁が残っており、石碑や由来板などがあるみたいなのですが、気がつかないで通り過ぎてしまったことが分かり、とてもガッカリしてしまいました。余談ですが、お笑いコンビ・サンドウィッチマンの伊達幹生さんは、宗行(大條氏の祖)を先祖に持つ嫡流で、明治期に伊達姓に復姓した名家の出です。 |
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桑折西山城 |
桑折町 |
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室町時代に戦国大名となった伊達稙宗が梁川城から居城を新たに築いて移ったのが始まりだそうです。稙宗は伊達政宗の曽祖父に当たり、領国内を統治する為に制定した法律規範「国分法」を発効し、20名以上の子達が居たので近隣の諸大名との縁組を成立させ、巧みに勢力を拡大していったそうです。しかし、稙宗の三男・実元の越後上杉氏への入嗣問題を巡って内紛が起きてしまい、室町将軍・足利義輝の仲介によって稙宗の嫡男・晴宗が父を隠居させてしまいました。桑折西山城・登城口の前に「熊に注意」という看板があったので、レンタカーで本丸跡まで直接登ったのですが、正解でした!城山は深い森でうっそうとしていて怖いな〜と思っていたのですが、帰る時に熊に出くわしてビックリしてしまいました。車のホーンを鳴らしたら熊のほうが逃げてくれました。
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小峰城 |
白河市 |
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鎌倉末期に結城親朝が小峰ヶ岡に城を構えて小峰氏と称したことがはじまりだそうです。室町時代には一族の結城氏の持城となりました。12代目の結城義顕の時に、豊臣秀吉による奥州仕置きで改易されてしまいました。その後、蒲生氏郷と上杉景勝の支配を経て、丹羽長重(長秀の長男)の時に現在の姿になりました。更に榊原氏、本多氏、松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代がありました。白河大納言と呼ばれた松平定信は8代将軍・徳川吉宗の孫で、天明2年(1783年)に起きた大飢饉では領内から餓死者が一人も出なかったそうです。戊辰戦争では二本松城の丹羽長国が幕府側(戦時の白河藩は二本松藩の支藩になっていた)に付いた為、新政府軍によって小峰城の建物の大半を焼失してしまいました。写真は日本で最初に復元された木造の天守閣です。 |
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棚倉城 |
棚倉町 |
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寛永2年(1625年)に将軍・徳川秀忠の命令で丹羽長重によって築かれたのが始まりです。長重は織田信長の重臣・丹羽長秀の息子で、織田信長の甥に当たります。棚倉城は奥州の伊達氏に対する備えという使命を帯びた城で、三重の水堀で囲んだ要害でした。最後の藩主は阿部正靜で、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟した為、板垣退助の率いる官軍に攻められてわずか1日で落城してしまいました。それは慶応4年(1868年)6月24日の出来事でした。余談ですが、長重が入封する前は立花宗茂が棚倉藩を興して17年ほど支配していた時期があり、その頃は質素な居館だったそうです。それにしても、あの宗茂が棚倉に居たことがあったなんて知らなかったのでビックリしてしまいました。写真は棚倉城址内にあった説明板で、深い土塁と広い水堀が残っていました。 |
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青葉城 |
浅川町 |
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源頼朝の奥州攻めで戦功を挙げた浅利知義が当地の地頭職となって築城したのがはじまりだそうです。室町時代には同じ源氏一門の石川氏によって乗っ取られてしまいました。この地は佐竹氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、丹羽氏、松平氏、本多氏が支配し、最後に榊原氏が支配を経て幕末を迎えました。この日は良い天気で、本丸跡からは安達太良山、那須連峰などの美しい山並みが一望出来ました。城址公園には梅と桜と山ツツがたくさん植えてあり、季節になると城山が咲き乱れるそうです(福島県では有名な花名所みたいです)。写真は本丸跡に設置されていた説明板です。 |
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赤館 |
棚倉町 |
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築城年代や築城者は定かではないそうです。赤館は棚倉にある鹿子山に築かれた館で、関東と東北の分水領に当たる要衝だったことから、白河結城氏と伊達氏と佐竹氏と葦名氏が略奪を繰り広げていたそうです。豊臣秀吉の奥州仕置きで小峰城の結城義顕が改易されると、佐竹義宣の支配下になりました。関ヶ原の戦での勝利を境に徳川家の天下となると、立花宗茂が入封して13年間居館を構えたそうです。宗茂がかつての領地・柳川に帰り咲くと、入れ替わりで丹羽長重が入封しました。まもなくして長重は新しい城・棚倉城を築くと、赤館は廃止されました。写真は本丸跡にあった看板で、大規模な土塁は見こたえがありました。現在は説明板が新しく設置されたそうなので、機会があったら再訪したいと思います。 |
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牛ケ城 |
須賀川市 |
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室町時代に二階堂氏の家臣・矢田野安房守が築いたのがはじまりだそうです。天正18年(1590年)に伊達政宗が二階堂盛隆を須賀川城で滅ぼすと、桑名因幡守が守る牛ヶ城を家臣達に命じました。片倉景綱(政宗の重臣)と石川昭光(政宗の叔父)の1万人の大軍に攻略されたのですが、400人の桑名兵は良く防戦し、40日経っても落城しなかったそうです。余談ですが、須賀川城の盛隆に嫁いでいた後室で政宗の叔母に当たる女性(政宗の祖父・晴宗の妹)が居たそうです。政宗が須賀川城を攻めたときに降伏をすすめましたが、叔母は聞き入れず徹底抗戦をしたそうです。須賀川城が落城して二階堂氏が滅ぶと、伊達氏と敵対していた岩城氏に頼り、その後は佐竹氏に身を寄せたそうです。 |
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二本松城 |
二本松市 |
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室町幕府より奥州探題に任ぜられて田地ヶ岡に入った畠山高国が最初の居館を構えると共に地名を二本松と改称しました。曾孫に当たる畠山満泰のときに二本松氏を名乗りました。戦国時代には二本松義継が当主の時に伊達政宗によって滅ぼされ、二本松氏が滅亡しました。伊達政宗の支配下の時には片倉景綱(通称:小十郎)が城主になった事があります。江戸時代には奥州街道を押さえる要として機能していました。最後の藩主は丹羽長国で、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟して白河口に出向き、その隙を突いた官軍に攻められてわずか1日で落城してしまいました。この戦いで長国は敵前逃亡をしてしまい、二本松城を守備していた二本松少年隊は全滅してしまいました。写真は昭和57年に復元された箕輪門と附櫓で、山頂には天守台の石垣が平成7年に復元されました。 |
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長沼城 |
須賀川市 |
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室町時代に長沼隆時が日高見という名前の独立丘陵の頂に築いたのがはじまりです。二階堂氏,芦名氏,新国氏,伊達氏による支配下に置かれました。豊臣秀吉による奥州仕置き後は蒲生氏,上杉氏,玉井氏による支配下に置かれ、江戸幕府が制定した一国一城令によって長沼城は廃城になりました。余談ですが、奥州仕置きで秀吉が会津に向かう途中、長沼城に宿泊したことがあるそうです。御殿を新築して迎えたので大変喜ばれ、興永閣という名称を貰ったという話が残っています。あと、近くには勢至堂宿があり、会津に向かう途中に吉田松陰が宿泊したという記録が残っています。長沼小学校の背後に城跡があり、本丸跡である日高見神社に石垣が残っていて、そこに写真の城址碑がありました。秀吉が褒めるほどの御殿が建てられていたなんて想像がつかなかったです。 |
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小浜城 |
二本松市 |
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室町時代に大内宗政によって築かれたのがはじまりだそうです。戦国時代には大内定綱を滅ぼした伊達政宗が1年程度小浜城に居城していたことがありました。二本松城主・二本松義継による拉致事件が起きて伊達輝宗(政宗の父)が亡くなったのは小浜城に滞在期間中の出来事でした。9年後に豊臣秀吉の奥州仕置きによって塩松地方が蒲生氏郷の領土になると、石垣が築かれて現在の姿になりました。しかし、江戸幕府が制定した一国一城令によって小浜城は廃城になりました。写真は小浜城跡にあった石垣の一部で、麓には岩代町役場がありました。余談ですが、小浜城の南方約2キロメートルのところに輝宗が滞在していた宮森城があったのですが、二本松を再訪する機会があったらば寄ってみたいと思います。 |
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住吉山城 |
二本松市 |
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室町時代に足利一族の石橋氏(もしくは同族の塩松氏)のお城があったことが、文献「積達館基考」に載っているそうです。写真は四本松城から百目木城に向かう途中にある道沿いで偶然に見つけた案内板です。案内板の脇にある階段を登った先に住吉神社があり、石垣がありました。神社の本殿を建てるときに造った石垣なのか、住吉山城の石垣なのか、どちらなのか分かりませんでした。 |
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三春城 |
三春町 |
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室町時代に田村義顕が守山城から居城を移す際に三春山に新城を築いたのがはじまりだそうです。義顕は桓武天皇により征夷大将軍に任命されて蝦夷征伐で名を馳せた坂上田村麻呂の流れをくむ名門です。余談ですが、義顕の曾孫・愛姫は12歳で伊達政宗の正室になっています。田村宗顕(政宗の従弟)のときに、政宗と共に豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、奥州仕置きで改易されてしまったそうです。その後、三春城は蒲生氏,上杉氏,加藤氏,松下氏,秋田氏の支配を経て、秋田映季(秋田家11代当主)のときに明治維新を迎えました。廃藩置県のときに山頂にあった三層櫓と本丸御殿をはじめとする多数の建物と石垣が取り壊されてしまいました。日本さくら名所100選に、三春にある滝桜(日本三大桜)が選ばれていて、三春城跡の近くにあります。 |
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四本松城 |
二本松市 |
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平安末期に源義家の家臣・伴助兼によって口太川と安達太田川が合流する蛇ヶ淵の尾根に築かれた城です。室町時代には斯波詮持(足利一門)が初頭陸奥守になると、斯波一族の石橋棟義は奥州探題に命ぜられました。そのときに棟義四本松(昔は「塩松」と呼ばれていた)に領土を得ました。石橋久義が城主のときに伊達稙宗(政宗の曽祖父)の軍門に下りました。写真は山奥を通る町道沿いにあった説明板で、横にある道を登ると主郭跡があり、土塁の上に石碑「四本松城址」が設置されていました。 |
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百目木城 |
二本松市 |
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戦国時代に石川弾正が築いたと云われています。弾正は四本松城の石橋久義,小浜城の大内定綱,三春城の田村清顕,米沢城の伊達政宗,中村城の相馬義胤,会津若松城の上杉景勝の順で次々と主家を渡り歩いたそうです。写真は百目木保育所の前にあった説明板で、保育所背後の坂を上がって大手口跡と三ノ丸跡を経由したところにある本丸跡に石碑「石川家百目木城」がホツンと建てられていました。 |
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向羽黒山城 |
会津若松市 |
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室町時代に芦名盛氏が白鳳山に築いたのがはじまりだそうです。盛氏は黒川城(会津若松城の前身)の詰城として8年かけて築いたそうです。盛氏のときに一族の内紛を平定し、近隣の豪族、そして伊達氏と結城氏と婚姻を結ぶなど、奥州を代表する有力大名にまでのし上がったそうです。その後、伊達氏、蒲生氏の支配を経て、上杉景勝のときに徳川家康による攻撃に備えて増強されたのですが、関ヶ原で西軍が敗れると、向羽黒山城は廃城となりました。向羽黒山城は白鳳山の全体に曲郭を配置した大城郭で、東北地方では最大級だそうです。本丸跡からは会津若松城の天守閣が遠くに見えました。
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白川城 |
白河市 |
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鎌倉時代に源頼朝による奥州藤原氏の討伐で活躍した結城朝光が、白川荘の地頭に命ぜられた際に築いたのがはじまりだそうです。南北朝時代では南朝方として北畠親房・顕家親子に従い、足利尊氏と度々対決したそうです。12代目の結城義時のときに一族の小峰義親に追われて廃城となったそうです。白川城は阿武隈川を望む丘陵に築かれており、写真の石段を登ると本丸跡です。城址は白河市の郊外にあり、住宅街から離れた森の中なので誰も会わないだろうと思っていたら、数人の高校生が部活の練習で石段を登り降りしていました。
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中村城 |
相馬市 |
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平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に館を築いて菅原敬実を置いて守らせたのがはじまりだそうです。戦国時代に相馬密胤が本拠を小高城から中村城に移して近世城郭に大改修をして現在の姿になりました。関ヶ原の戦いでは中立の立場を取って徳川家康の怒りを買い、中村家存亡の危機に直面しましたが、土井利勝のとりなしで事なきを得たそうです。密胤が迎えた妻は徳川秀忠の養女で、土屋忠直の娘だそうです。忠直の実父・昌恒(武田一族・金丸虎義の五男)は天目山の戦いで武田勝頼の最後を見届けた忠臣です。相馬といえば「相馬野馬追い」という伝統があります。相馬家の遠祖・平将門が相馬御厨の官職だった頃、新しい軍事調練として野馬を放牧し、野馬を敵兵に見立て野馬を追い、捕らえた馬を神前に奉じ、妙見の祭礼として行なったのが始まりだそうです。
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神指城 |
会津若松市 |
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写真は、ニノ丸跡の隅の土塁上にある「高瀬の大木」です。遠くから撮影したので分かりづらいのですが、土塁の高さは崩れているものの、それでも6メートルはあります。手前に広がる田んぼは、かつての水堀の跡です。福島県による発掘調査から、堀底から土塁の上まで10メートルを超えていたことが判明しています(本丸跡は13メートル)。二ノ丸跡にある「高瀬の大木」に数個の大きな加工石が残っています。関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康の命令によって築城途中で取り壊されてしまったものの、西軍の石田三成に呼応して挙兵した上杉景勝の12万人の領民、そして常陸の佐竹義宣からの援助を受けて進められた工事の大きさを感じ取ることが出来ました。縄張りは直江兼続で、本城である会津若松城とは敷地面積がほぼ同じ規模の城でした。
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