久留米城
久留米市
築城年代は不詳ですが、この地を治めていた土豪の砦があったという記録があり定かではありません。本格的な築城は小早川秀包(毛利元就の9男で大友宗麟の娘婿)で、豊臣秀吉の九州平定後に近代城郭へと改修を行ないました。関ヶ原で毛利本家と共に西軍に付いて改易されると、田中吉信(田中吉政の次男)が入城しました。大坂の夏の陣で戦功のあった有馬豊氏が入城して以来、229年間有馬氏11代の居城として続きました。有馬氏は播磨国の名門・赤松氏の流れをくむ家柄で、島原半島を支配していた有馬氏とは違う別の系統のようです。余談ですが、久留米城跡に隣接してブリヂズトンの久留米工場があったのですが、久留米から興した会社だったのは知りませんでした。なお、民主党の鳩山由紀夫はブリヂズトンの創始者・石橋正二郎の孫に当たります。
柳川城
柳川市
室町時代に蓮池治久によって築かれたのが始まりです。蓮池氏は筑後十五城の筆頭として筑後に勢力を誇った武家で、大友氏とは盟友関係を持っていました。孫の蒲池鎮漣の時に柳川城の基を築きました。鎮漣は築城と戦いの名人だったらしく、竜造寺隆信や鍋島直茂の大軍に囲まれて3年間も籠城して守り通しましたが、隆信の謀略によって宴会に招かれた蓮池一族は佐賀城内で暗殺されてしまいました。現在の柳川城と城下町を築いたのは立花宗茂で、立花家12代の居城として明治時代まで続きました。宗茂が築いた5重の天守閣は、明治5年1月18日に原因不明の失火によって焼失してしまいました。江戸中期に御花(藩主別邸)と庭園(松濤園)が造営され、明治末期に西洋館(迎賓館)が建てられたのを見てきました。写真は天守台跡にあった石篭と標柱です。
門司城
北九州市・門司区
平安末期に平知盛(清盛の4男)が源氏との合戦に備えて家臣の紀伊通資に命じて築かせたのがはじまりです。写真は古城山公園(門司城跡)にあった城址碑で、眼下には壇ノ浦古戦場があった海峡を見渡すことが出来ました。特にウチは平家のファンなので、平家が築いた門司城に行ったときは感動しました。あと、めかり第二展望台には長さ44メートルに及ぶ屋外陶板で造られた「壇ノ浦合戦絵巻」の壁画がありました。壇ノ浦を眺めていると、赤い旗をなびかせた平家の船団と白い旗をなびかせた源氏の船団が浮かんできそうでした。戦国時代には門司城と三角山城の両城を巡って、大内氏と大友氏、毛利氏と大友氏との間で激しい奪い合いが十数年間も続いたそうです。江戸時代になって細川忠興が小倉城を築くと、一国一城令によって廃城になりました。
三角山城
北九州市・門司区


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てしまったために
画像はありません
鎌倉時代に源頼朝の命令で豊前の地に下向した中原親房は門司半島を拠点としました。門司城を本城とした親房は門司氏に改姓すると、領内に三角山城・足立城・寒竹城・若王子城・金山城の5支城を整備して、一族をそれぞれ配置しました。門司氏(中原氏)は安寧天皇の流れをくむ名門で、およそ350年間に渡って北九州の地を支配しました。JR門司港駅を降りると、目の前にピラミッドのように三角の形をした三角山(三角山城跡)が南側に見え、北東側には古城山(門司城跡)も目の前に見えました。山頂には毘沙門天を祭った祠があり、その付近には石垣の一部があるとのことでしたが、城跡を示す石碑もしくは説明板が無いことが分かっていたので登りませんでした。JR門司港駅から三角山を撮影したものの、操作ミスで画像を消去してしまったのでありません…。
小倉城
北九州市・北小倉区
鎌倉時代に緒方帷重が築いたのがはじまりだそうです。桃山時代には豊臣秀吉の家臣・毛利勝信(広島の毛利一族とは無関係で秀吉軍の黄母衣七騎衆の一人)が城主で、そのときに現在見られるような総石垣造りの縄張が出来上がりました。関ヶ原の合戦で東軍が勝利をおさめると、細川忠興が南蛮造の天守閣などを建て、城下町も整備しました。二代藩主の細川忠利(母は明智光秀の娘・ガラシャ)のときに熊本に国替えとなると、小笠原忠真が松本から入封しました。忠真の母・登久姫は、徳川家康の嫡男・松平信康(今川宗家の血筋を受け継ぐ)の娘で、なおかつ忠真は織田信長の孫に当たります。それ以来小笠原家10代の居城として239年間続きました。写真は小笠原庭園にある大書院から眺めた小倉城の模擬天守閣で、とてもマッチしていました。
足立城
北九州市・北小倉区


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画像はありません
鎌倉時代に源頼朝の命令で豊前の地に下向した中原親房は門司半島を拠点としました。門司城を本城とした親房は門司氏に改姓すると、領内に足立城・三角山城・寒竹城・若王子城・金山城の5支城を整備して、一族をそれぞれ配置しました。門司氏(中原氏)は安寧天皇の流れをくむ名門で、およそ350年間に渡って北九州の地を支配しました。小倉城の天守閣・展望台には、解説文が入ったパノラマ写真があり、そこには足立山(足立城跡)が載っていたので、天守閣・展望台ら見ることが出来ました。足立山は関東の名山・筑波山を反転したような形を持った城山で面白かったです。天守閣・展望台から足立山を撮影したものの、操作ミスで画像を消去してしまったのでありません…。
多良倉城
北九州市・八幡東区


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画像はありません
築城の時期と由来は定かではないのですが、この地を治めていた麻生氏の居城・花尾城の支城があったといわれています。小倉城の天守閣には、解説文が入ったパノラマ写真があり、そこには皿倉山(多良倉城跡)が載っていたのですが、パノラマ写真を撮影した時期が古いのか、その方角には大きなマンションが塞いで見えませんでした。天守閣を降りて勝山公園に出たところに、マンションと北九州市役所の間からNHKの大きな電波塔がある皿倉山を確認することが出来ました。天守閣から皿倉山を撮影したものの、操作ミスで画像を消去してしまったのでありません…。余談ですが、皿倉山は観光地としてホテルや展望台、ケーブルカーが整備されているそうです。展望台から見渡せる夜景は北九州市街を一望できるので、「新日本三大夜景」の1つに選定されています。
若松城
北九州市・若松区
関ヶ原の合戦の功によって福岡に入封した黒田長政は福岡城の築城にとりかかりました。同時に国境の守りを固めるために築いた六端城(若松城・黒崎城・大隈城・鷹取城・小石原城・左右良城)の1つで、家臣をそれぞれ配置しました。若松城は洞海湾の中ノ島に築かれた城で、家臣の三宅家義を置いて洞海湾を往来する船の取り締まりをしていました。しかし、わずか16年後に幕府から出された一国一城令によって若松城は役割を終えました。中ノ島の古写真を見ると、周囲540メートルもある島でしたが、昭和15年に行なわれた洞海湾航路改修によって大きく削り取られてしまいました。写真は舟渡の前にある小公園から撮った若戸大橋で、手前にある橋脚の土台がかつての中ノ島(若松城跡)です。小公園にせめて説明板でも設置して欲しいと思いました。
高塔山城
北九州市・若松区


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戦国時代に麻生氏の家臣・大庭景種が在城したという記録が残っているそうです。余談ですが、麻生氏は下野国の名門・宇都宮一族です。洞海湾を見下ろす高塔山の上に築かれた城です。戦時中には旧日本軍の高射砲の陣地だったそうです。そういえば門司城にも旧日本軍の高射砲の陣地があり、砲座が残っていました。現在は高塔山公園になっていて、4月になると桜、6月になるとアジサイの花が咲き乱れる名所になるそうです。JR戸畑駅を降りて若戸大橋(若松城跡)の橋脚の前にある舟渡まで行ったときに、戸畑港の対岸に高塔山公園(高塔山城跡)の目印である白い仏舎利塔が南西の方角に見えました。若戸大橋の橋脚付近にある舟渡の前にある小公園から高塔山を撮影したものの、操作ミスで画像を消去してしまったのでありません…。
花房山城
北九州市・若松区


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築城の時期は定かではないのですが、戦国時代には花尾城の支城として役割を果たしていたそうです。豊臣秀吉の九州平定にあたって、花尾城主・麻生家氏は重臣・船津氏忠を小倉に遣わして降伏し、花房山城に退いたそうです。花尾城が小早川隆景によって接収されると、花房山城も接収されているおですが、廃城も同様でした。許された家氏は島津討伐と朝鮮出兵に駆り出されました。帰国した家氏は武士を辞めて帰農しました。JR黒崎駅を降りて黒崎城跡がある城山緑地公園内にある見晴台に行ったときに、NHKの大きな電波塔がある岩尾山(花房山城跡)が北側に見えました。見晴台から岩尾山を撮影したものの、操作ミスで画像を消去してしまったのでありません…。
黒崎城
北九州市・八幡西区

関ヶ原の合戦の功によって福岡に入封した黒田長政は福岡城の築城にとりかかりました。同時に国境の守りを固めるために築いた六端城(黒崎城・若松城・大隈城・鷹取城・小石原城・左右良城)の1つで、黒崎城は家臣の井上之房を置いて守らせていました。黒崎城は道伯山に築かれた城で、東側は沼地で西側は海に面した要害でした。しかし、わずか16年後に幕府から出された一国一城令によって黒崎城は役割を終えました。城山公園(黒崎城跡)へはJR黒崎駅から旧長崎街道を通って200段もある階段を駆け登って本丸跡に到着しました。石垣は一部しか残ってなく、江戸時代の干拓事業や戦後の区画整理事業等によって多くの石垣が転用されてしまったそうです。写真は本丸跡にあった城址碑で、横には新しいもう1つの城址碑と説明板がありました。

花尾城
北九州市・八幡西区


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画像はありません
建久5年(1194年)に宇都宮重業が花尾山に築いたのがはじまりだそうです。曾孫の資時のときに麻生と名乗るようになると、麻生氏10代の居城として続きました。室町時代には麻生家信が城主で、領内に侵攻した大内政弘(山名宗全の娘婿)と3年間におよぶ攻防戦の末に落城しました。豊臣秀吉の九州平定のときに麻生家氏は降伏開城し、小早川隆景によって接収されたあと、廃城になりました。家氏は帰農し、弟・家長は黒田長政に召抱えられて、家臣として明治まで続きました。JR黒崎駅を降りて黒崎城跡がある城山緑地公園に行ったときに、展望台と帆柱ロープウェイがある花尾山(花尾城跡)が南側に大きく見えました。城山緑地公園から花尾山を撮影したものの、操作ミスで画像を消去してしまったのでありません…。
名島城
福岡市・東区
戦国時代に大友一族・立花鑑載が立花山城の支城として築いたのがはじまりだそうです。小規模ながら海に囲まれた要害で、豊臣政権の時代では小早川隆景(毛利元就の3男)が水軍の本拠地として改修して現在の姿になりました。その後、隆景は養子の秀秋(秀吉の甥)に家督を譲ると、秀秋が城主になりました。関ヶ原の合戦の後に秀秋は岡山城主になると、中津から黒田長政が城主になりました。まもなくして長政が福岡城を築いて移ると、名島城は廃城になりました。城山公園(黒崎城跡)へはJR千早駅から歩いていきました。石垣は一部しか残ってなく、福岡城の築城によって多くの石垣が転用されてしまったそうです。写真は福岡城跡にあった名島城の旧城門で、他に黒田家菩提寺の崇徳寺、宗像市内にある宗生寺にも旧城門が残っています。
立花山城
福岡市・東区


操作ミスで消去し
てしまったために
画像はありません
戦国末期に20歳になったばかりの立花道雪と宗茂(後に柳川藩主となります)が立て篭もったことで福岡県では1番有名な山城で、九州の覇者・島津義久と義弘の精鋭の猛攻に耐えました。道雪は養父で大友一族です。同じ頃に宗茂の実父・高橋招運も島津忠長(義久の従弟)の大軍に攻められて岩屋城で玉砕してしまいました。インターネットではJR千早駅から城山が見えると紹介していたのですが、実際には大きなマンションがいくつか建っていて遮って全く見えませんでした。そのときはガッカリしたのですが、JR千早駅を降りて名島神社(名島城跡)まで行ったときに、3つのこぶを持った特長的な立花山が北東側に大きく見えたときは感動してしまいました。名島神社にある高台から立花山を撮影したものの、操作ミスで画像を消去してしまったのでありません…。
福岡城
福岡市・中央区
慶長5年(1601年)に黒田長政が52万石の居城に相応しい新城を築いたのが始まりです。築城の際に福崎を黒田家再興の地である備前国「福岡」の地名にちなんで「福岡」と改めました。福岡城は黒田如水(長政の父)の縄張りによって那珂川に突き出た福崎丘陵に築かれ、47棟の櫓を配置した大城郭でした。天守台も築かれましたが、その頃には徳川幕府は徳川秀忠が将軍となり、江戸城の外郭石壁普請として黒田長政が江戸に駆り出されていた時期だったので、天下の情勢に敏感だった如水の命令で天守閣が築かれることは無かったそうです。写真は復元されたばかりの下ノ橋大手門と現存の潮見櫓です。福岡城を出た所で前日から撮ってきたデジカメの画像を操作ミスで全て消去してしまい、携帯電話で撮影した6枚の画像だけが残って愕然としてしまいました。

15ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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