大洲城
大洲市

室町時代に宇都宮豊房によって肱川の畔に築いたのがはじまりだそうです。戦国時代の宇都宮氏は、長曽我部氏に従ったり、河野氏に従ったりと揺れ動いたそうです。淡路洲本から脇坂安治が入ってくると、大洲城を大改修すると共に、四層四階の天守閣があがったそうです(藤堂高虎が築いたという説もある)。明治21年に取り壊された天守閣が、平成16年に古写真を基に木造で見事に復元されました。復元された天守閣内に残っている新しい大木の香りに浸りながら「新築されたお城って、こんな感じだったのかなぁ」と感動してしまいました。外に出たら急に空が暗くなっていて、向こうで雷がゴロゴロと鳴っていました。まだ宇和島城が残っていたので、レンタカーに向かって駆け下りました。

宇和島城
宇和島市

築城者や築城時期は定かではないのですが、最初は丸串城と呼ばれ、西園寺氏代々の居城だったそうです。西園寺宣久のときに長曽我部元親の勢力が脅かしてくるようになると、人質を差し出して領地の安堵を得ました。豊臣秀吉の四国平定のときに小早川隆景に接収されたそうです。江戸時代に藤堂高虎が入封すると、丸串城を大改修して石垣を築くと共に、名を宇和島城と改めたそうです。関ヶ原の戦いで藤堂高虎は今治城に移ると、伊達政宗の長男・秀宗(側室の子)が城主になって以来、幕末まで伊達氏11代の居城として続きました。大洲城から宇和島城に向かう途中に大雨に降られて心配しましたが、着いたときに雨が止んだのでホッとしました。閉館直前だったのですが、管理人にお願いして天守閣に入れてもらい、現存の天守閣を堪能することが出来ました。

今治城
今治市

関ヶ原の合戦で東軍が勝利を収めると、恩賞で今治に入封した藤堂高虎によって築かれ、三重の堀に海水を引き入れた海城でした。高虎が在城8年で伊勢の津に移ると、松平定房(徳川家康の孫)が城主になって以来、250年間松平氏の居城となりました。高虎が津に移るときに天守閣を解体して、天下普請中の丹波亀山城に移築したといわれています(高虎が縄張り責任者を担当)。今治城の天守閣は幻となりましたが、明治初期に取り壊される前の2枚の古写真で見ることが出来ます。五層六階の飾り被風を全く持たない層塔型天守閣であったにもかかわらず、観光目的で飾り被風を持つ模擬天守閣を建てたことで研究者や愛好者から非難が殺到したそうです。今治城は吹揚公園となり、明治維新に取り壊された三棟の隅櫓が古写真を元に木造で復元されました。

川之江城
四国中央市

南北朝時代に河野氏の家臣・土肥義昌によって築かれたのがはじまりで、伊予国の東端の要として重要な地点にありました。妻鳥友春が城主のときに三好長治が侵攻しましたが、これを撃退しました。まもなくして長曽我部元親の軍勢が攻めてくると、友春は寝返ってしまったそうです。激怒した河野道直は、家臣の河上安勝に命じて川之江城を取り返したのですが、再び元親に奪われてしまいました。豊臣秀吉の四国平定のときに、小早川隆景によって落城してしまいました。城山公園への道は分かりづらく、麓をグルグル回ってしまいました。新しく造られた石垣の上に模擬天守閣と模擬城門があったのですが、戦国時代の石垣が残っているというところに直行してしまいました。そこから撮った写真です。

西条陣屋
西条市

江戸時代(徳川家光の時代)に一柳直盛が伊勢神戸より移封され西条藩を起こしたときに陣屋を築いたのがはじまりだそうです。一柳直興(直盛の孫)のときに参勤交代を遅参し、幕府から役目不届を咎められて改易となってしまったそうです。和歌山城から松平頼純(紀伊徳川家の祖・徳川頼宣の次男)が3万石で入封し、165年間松平家10代の陣屋として明治時代を迎えるまで続きました。現在は西条高校となり、敷地を水堀と低い石垣が囲むようにして残っていました。写真は旧陣屋の正門で、左脇に石碑と説明板が設置されていました。正門の前に停めていたレンタカーに乗り込むと、今治城に向かうべく西条陣屋跡を後にしました。

松山城
松山市

関ヶ原の恩賞で伊予国を得た加藤嘉明(賎ヶ岳七本槍の一人)が勝山の山頂に新城を築いたのが始まりだそうです。26年間もかけて築きましたが、完成間際で会津若松に転封になってしまいました。その後、蒲生忠知(氏郷の孫)、松平定行(家康の孫)と城主が変わって以来、松平家の居城として続きました。最後の藩主は松平定昭(藤堂本家から来た養嗣)で、わずか22歳で幕府老中になりました。まもなくして起きた戊辰戦争では幕府側についたのですが、土佐藩の山内容堂の説得に応じて松山城を無血開城したそうです。松山城は祖母(お袋の母親)が小さい時によく遊んでいた場所だと聞かされてきました。松山城内を歩きながら「おばあさんが遊んでいたお城なんだなぁ」と感激してしまいました。

湯築城
松山市

室町時代に伊予国の守護職・河野通盛によって築かれたのがはじまりだそうです。河野通直が城主のときに長曽我部元親に敗れて、長曽我部氏の軍門に降ったそうです。豊臣秀吉の四国征伐が始まると、秀吉の命で小早川隆景によって包囲されてしまいましたが、隆景の説得によって開城したそうです。関ヶ原で東軍が勝利すると、加藤嘉明によって松山城の築城が開始すると、湯築城の石垣も転用されてしまったそうです。現在の湯築城は道後公園となり、二重の堀が残りました。公園前には写真の看板「国史跡・湯築城跡」が設置されていました。城内には中世の武家屋敷が再現されていましたが、訪れた時間が遅くて閉館になった後でした。湯築城の山頂に登ると、夕日を浴びた伊予松山城が良く見えました。

荏原城
松山市
伊予地方の有力豪族だった河野氏の家臣・平岡氏の城がありました。築城者や築城年代は不詳ですが、南北朝時代の動乱の頃から歴史に登場しているそうです。戦国時代に湯築城の河野道直が長曽我部元親に敗れると、平岡通倚も長曽我部の軍門に降ったそうです。豊臣秀吉の四国征伐のときには小早川隆景(毛利元就の三男)の軍勢の前に降伏、開城をしたそうです。荏原城は松山城から松山自動車道に入る前に寄り道をした城跡で、とべ動物園から東側に2キロメートル行ったところにありました。中世の城跡ですが、正方形の城郭に土塁と水濠が残っているのは珍しいと思いました。

8ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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