布施城
柏市

鎌倉時代に一帯を支配する相馬氏が手賀沼に流れる常陸川の水運を抑えるために築いたのがはじまりだそうです。常陸川に突き出た大地に古谷・堂の下・城山の3つの郭を並べるようにして配置した城で、空から見ると将棋の駒の形をしていました。近くに弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊として開山された布施弁財天(紅龍山東海寺)があります。平将門は父・平良将と母・紅龍の間に産まれているという伝承(※史実ではないようです)があり、その紅龍から付いた寺名だそうです。写真はウィングホール柏斎場の正門にあった石碑で、葬儀者の方がたくさん居たので、急ぎ石碑を撮影すると直ぐにウィングホール柏斎場から離れました。

戸張城
柏市

鎌倉時代に相馬行常が父・相馬師常(千葉常胤の次男)から戸張荘を与えられた際に居館を置いたのがはじまりだそうです。戸張城は手賀沼に注ぐ大津川を東側に覗く台地の上に築かれた城で、2つの郭を並べた構造でした。近くには手賀沼があることから、相馬一族の支族として200年間水運を抑える役割をしていたと思われます。室町時代は千葉氏の家臣・原治部が在城していたという文献も残っているようです。写真は国道16号沿いにある文京区立柏学園の入口から撮影した土塁と空堀です。開園していなかったので敷地内に入れなかったのですが、その土塁の奥に由来板が見えました。戸張城を目指す歴史ファンの人が多いようですので、文京区の教育委員会は由来板を校門前に移設して歴史散策に訪れた人達が楽しめるよう是非工夫をして頂きたいと思いました。

目吹城
野田市

鎌倉時代に鎌倉景正が源義家&義光に従って奥州征伐に赴き、目に傷を受けて知行地だった下総の館に戻って治療をしたので、目吹の地名が起こったと伝えられています。景正は桓武平氏の流れをくむ名族で、父・平景成は平氏の祖・高望王の曾孫にあたります。それから約500年後の子孫として上杉謙信がいます。ネットを見ると、城址碑が個人宅の前に建ててあったのですが、現在は個人宅の裏にある土塁の茂みに隠すようにして移設されていました。その横には故意に壊された板碑もありました。城址碑と板碑を熊野神社のほうに移すよう野田市に相談して欲しかったと思うと同時に、遺跡&文化財に対する意識の低さには呆れてしまいました。個人が警告を発する以前の問題として、野田市教育委員会の所有物を勝手に移設する行為は犯罪なので元の場所に戻して頂きたい。

小見川城
香取市

源頼朝による鎌倉幕府を開く前年に粟飯原朝秀が築いたのがはじまりです。粟飯原氏は桓武平氏の流れを組む千葉氏の一族です。南北朝時代は粟飯原清胤が当主で、千葉氏胤(千葉氏13代目当主)の後見役を務めると共に、足利尊氏に付いて活躍しました。清胤と詮胤の親子は室町幕府の要職を務めていました。最後の城主は北条氏に付いた粟飯原俊胤(千葉氏27代目当主・千葉邦胤の次男)で、豊臣秀吉の小田原攻めによって落城してしまいました。その後武蔵国の忍城から松平家忠が入城しましたが、関ヶ原の戦いで伏見城に鳥居元忠(徳川家康の傅役)と共に籠城して西軍の猛攻を受けて戦死すると、小見川城は廃城になりました。小見川城跡は土塁が残っているのですが、写真の由来板は古墳跡についてしか書かれておらず、小見川城に関する説明が全くありませんでした。

松ヶ崎城
柏市
手賀沼に注ぎ込む大堀川と地金川が合流する舌状の台地の上に築かれた城ですが、残念ながら松ケ崎城に関する文献や言い伝えなどが残っていないそうです。しかし、平成14年から2年かけて柏市が実施した発掘調査によって戦国時代であることが判明しました。「手賀沼と松ケ崎城の歴史を考える会」の協力と地主の理解のもとで、柏市が城跡を借地して公園として今年に入って公開されたばかりだと説明板に書いてありました。松ケ崎城を巡って問題がこじれていた時期があったようです。千葉県内には良好に残っている城跡が少ないので、城址という遺構を確実に保存していくためには、柏市が城址がある土地を買取するべきだと個人的に思っています。写真は平成21年3月末に設置された説明板で、まだ2ケ月しか経ってない新しいものです。
根戸城
我孫子市
戦国時代に千葉一族・根戸胤光によって手賀沼に突き出た台地の上に築かれたのが始まりです。昭和60年に行なわれた発掘調査によって戦国時代である事が判明し、荒追遺跡という縄文時代から奈良時代にかけて続いていた大きな集落があった事も判明しました。写真はJR北柏駅から手賀沼に向かって歩き、根戸城址通りに入った所にあった看板で、背後に城山が見えました。根戸城址通りを北上した所にあるトンネルの壁に、根戸城址と荒追遺跡について書かれた説明板がありました。「大光寺による霊園建設再申請の断固反対!」という看板が目立ちました。我孫子市では「我孫子市手賀沼文化拠点整備計画」があり、根戸城址と荒追遺跡が含まれているそうです。大光寺による遺跡の破壊から守る為には、計画に基づいた歴史公園の整備を早く実現して欲しいと思いました。
小弓城
千葉市・中央区
築城の時期は不明ですが、室町時代に原胤高(15代当主・千葉兼胤の弟)が居城として構えたことが最初だとも云われています。古河公方・足利家で足利政氏と足利高基の父子が不仲になると、高基は弟・足利義明とも不仲になってしまいました。足利家の内紛は上総国と下総国にも飛び火してしまいました。高基側に付いた原胤隆の小弓城は、義明と武田信保の連合軍によって落城しました。小弓城を占拠した義明は居城として構えるようになったことから「小弓公方」と呼ばれるようになりました。小弓公方・義明(武田氏,里見氏)と古河公方・高基(北条氏,千葉氏,原氏)の対立は、第1次国府台合戦で北条氏綱(早雲の嫡男)によって義明が敗死したことで終わりを告げました。写真は八剣神社の背後にあった広照寺の墓地(主郭部の跡)にあった解説板です。
生実城
千葉市・中央区
室町時代に起きた足利家の内紛は上総国と下総国にも飛び火してしまいました。小弓公方・義明(武田氏,里見氏)と古河公方・高基(北条氏,千葉氏,原氏)の対立は、第1次国府台合戦で北条氏綱(早雲の嫡男)によって義明が敗死したことで終わりを告げました。かつての居城を取り戻した原胤清は小弓城を改修することなく、北側にある台地の上に新城を築きました。それが生実城(北小弓城)です。義明が敗死した後も里見氏と北条氏の対立は続きましたが、反撃に移った里見義明によって原胤栄は臼井城に退いたものの、北条氏康(氏綱の嫡男)が勝利を収めると、胤栄は生実城に戻りました。豊臣秀吉の小田原役で酒井家次(徳川家康の従弟)に攻められて生実城は落城し、胤栄は自刃してしまいました。写真は重俊院の裏にある本城公園にあった解説板です。
森川氏陣屋
千葉市・中央区
徳川秀忠の近習・森川重俊が築いた陣屋がありました。重俊は幕府の老中も努めた人物でしたが、秀忠が病死すると後を追って殉死してしまいました。森川氏13代の陣屋として141年間続きました。陣屋のあった場所は、足利義明(古河公方・足利高基の弟)の御所があった場所と重なっていました。近くにある重俊院の境内には、藩主・森川氏の歴代の墓がありました。写真は生実神社にあった森川氏陣屋と生実城の解説板で、これを読むと相当広い敷地を持った陣屋跡(御所跡)だったことが分かり、現在は住宅地によってすっかり変貌してしまいましたが、生実神社に残っている土塁で偲ぶことが出来ました。
大巌寺館
千葉市・中央区
戦国時代に千葉邦胤の家臣・原胤栄(原氏の宗家)が開祖、貞把上人が開山したのがはじまりだそうです。なぜ寺院なのに「大巌寺館」として紹介されているのかな…?と不思議に思って色々調べてみたところ、貞把上人を開山として招いた曉把は千葉一族出身の人物で、貞把上人と一緒に大巌寺に住んでいたことからきていることが分かりました。写真は浄土宗・大巌寺で、関東十八檀林の1つに数えられています。地元の岩槻にある浄国寺も檀林の1つに数えられています。檀林というのは僧侶の養成機関もしくは学問所に相当したところで、江戸時代の関東八州における浄土宗の僧侶の養成は、この18寺院に限られていたそうです。
芝原城
我孫子市
芝原城(中峠城)の築城年代と築城者は不詳ですが、近くにある本土寺の過去帳によると小田原城の支城として河村勝融が支配していたそうです。勝融は相模国の豪族で古河公方・足利義氏の家臣でしたが、北条氏康が台頭すると北条氏に属するようになりました。豊臣秀吉の小田原攻めでは城代の林順道が守っていましたが、小田原城が落城したという報を知った順道は自刃し、芝原城は開城して豊臣軍に引き渡されました。写真は芝原城址の西側にあった解説板です。前回訪城したときは自然観察の森が城址だったのを知らなくて行けなかったので、リベンジを果たせて嬉しかったです。余談ですが、破壊された城址が多い我孫子市内にあって芝原城は土塁が良好に残っている城址なので、今後も大事にして欲しいと思いました。
小林城
印西市
鎌倉幕府の御家人・朝比奈義秀(和田義盛の子)が小林郷に居城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には千葉氏の一族・原氏が代々城主をしていたという記録が残っています。この周辺には原氏の竹袋城,笠神城,中根砦などの同時期に築かれた城砦群が点在している土地でした。現在の小林城址は県道291号バイパス工事によって城山の中央が無残にも削られてしまい、山が二つに分かれていました。写真は城山公園の角にあった城址碑ですが、小林城のあった場所ではないそうです。どうせなら県道291号バイパスが貫通している山肌に面した所に立てて欲しかったです。話が変わるのですが、成田と印旛沼の周辺は古墳が多く残されている地方です。小林だけでも27基もの古墳があるそうで、行く途中に古墳をいくつか見かけました。
亥鼻城
千葉市・中央区
平安時代に平常重が大椎城から新城を築いて移って千葉氏を称したのが始まりだそうです。本丸が台地の亥の方向に突き出ていたので、亥鼻城と名づけられました。常重が千葉介となった事から、代々千葉氏の棟梁は千葉介が付いていました。千葉氏で最も栄えたのは千葉常胤(常重の長男)の時で、関東における平家の中でも有力な勢力を持つようになりました。戦国時代には27代・千葉邦胤が城主で、北条氏に侵略されたので亥鼻城の最後の当主となりました。後に小田原城から北条直重(北条氏政の子)が送り込まれて千葉氏の28代になりました。豊臣秀吉によって小田原城が降伏すると、兄の氏直(北条氏5代目)と共に高野山に追放されました。余談ですが、氏直と直重の母は武田信玄の長女・黄梅院です。写真は亥鼻城跡に建つ模擬天守閣(千葉県文化会館)です。
千葉御殿
千葉市・中央区
江戸初期に築かれた千葉御殿があった場所だそうです。徳川家康によって築かれ、鷹狩の際の休息所が置かれていました。平安時代から鎌倉時代には千葉氏の初期の居館があった場所だという異説があります。しかし、都川を挟んだ対岸に千葉氏の居城・亥鼻城があるので、そちらのほうだったのではないかと考えています。「千葉むかしNo.18」という本によれば、千葉市内には御茶屋御殿と千葉御殿の2つの御殿が存在していたことが書かれていて、千葉地方裁判所が建つ前の一帯は、かつて‘御殿跡’と呼ばれていたそうです。写真は千葉御殿(あるいは千葉氏館)があった場所にそびえ立つ裁判所の建物で、手前は天然の水堀として利用されたであろう都川です。
立山城
千葉市・緑区
築城の時期は不詳ですが、戦国期には酒井氏の土気城を守る支城の1つとして整備されました。千葉外房有料の大木戸インターチェンジを降りてJR土気駅に向かう途中にかかる新大椎橋の300メートル手前にある脇道をグングン登ったところに、写真の石碑がありました。石碑の裏を読んだのですが、子孫が記念に建てたということで、立山城については「大椎城の酒井一族の隠居城だったと伝承されている」という短い一行があっただけでした。
大椎城
千葉市・緑区
平安末期に平忠常が村田川に突き出た台地上に築いたのがはじまりだそうです。忠常・常将・常長・常兼が代々居城し、平常重(常兼の子)のときに大椎城から新たに亥鼻城(後の千葉城)を築いて移ると、千葉氏を名乗るようになりました。戦国時代になると、酒井氏の土気城の支城として大椎城が修復され、現在の姿になりました。城山は分かったものの、真夏日に行ったので藪に阻まれて石碑に辿り着くことが出来ませんでした。少し離れたところに解説板があるというので探したのですが、見つけることが出来ませんでした。城跡の一部を切り崩して造成されたワンハンドレッドヒルズという高級別荘街があり、車庫にはロールスロイスやフェラーリ、ベンツなどの高級車がありました。千葉市の埋蔵文化財に対する意識の無さには呆れて開いた口が塞がらなかったです。
貴船城
千葉市・緑区
平安時代の聖武天皇のときに、鎮守府将軍の大野東人が奥州の蝦夷に対する軍事拠点として貴船城(土気城の前身)を築いたのがはじまりだそうです。室町時代には千葉一族の相馬氏のときに土気城と改められました。畠山氏と酒井氏の支配となりましたが、酒井康治が城主のときに小田原城の北条氏の軍門に下りました。豊臣秀吉の小田原役では、浅野長政の軍勢に囲まれて降伏しました。写真は貴船神社にあった貴船城の石碑です。そこから100メートル進んだところに、土気城の説明板がありました。
土気城
千葉市・緑区

平安時代に鎮守府将軍の大野東人が奥州の蝦夷に対する軍事拠点としてこの地に貴船城(土気城の前身)を築いたのがはじまりだそうです。室町時代には千葉一族の相馬太郎のときに土気城と改められ、土気氏を名乗るようになりました。室町時代には畠山重康(鎌倉御家人・畠山重忠の末裔)が支配していましたが、古河公方・足利成氏の家臣・酒井定隆によって追われて以来、酒井氏5代の居城として栄えていましたが、最後の城主・酒井康治のときに豊臣秀吉の小田原攻めが起き、攻め寄せてきた浅野長政の軍勢に明け渡したそうです。写真は日航研修センターの手前にあった土気城の解説板で、畑の中にありました。解説板から100メートル手前のところに貴船神社があり、階段の入口に貴船城の石碑がありました。

本納城
茂原市
築城時期と築城者は定かではないそうです。戦国時代に黒熊景吉が居城していました。国府台合戦で里見氏が北条氏に大敗すると、里見氏を見限った土気城の酒井胤治に攻められて落城し、景吉は切腹したそうです。永禄12年(1969年)3月28日の出来事でした。その後は酒井氏の属城として城代の板倉右衛門によって支配されました。豊臣秀吉の小田原攻めが起きると、攻め寄せてきた浅野長政の軍勢に明け渡したそうです。写真は曹洞宗・蓮福寺の裏にあった本城山(本納城址)の頂にあった石碑です。そこからは茂原市街地を見渡すことが出来ました。麓に降りて、蓮福寺の山門の前に出ると解説板がありました。
坂田城
横芝光町
鎌倉時代に千葉氏が築城したとも、千葉氏の重臣・三谷大輔が築城したとも云われていて、築城者ははっきりしないようです。室町時代には、三谷氏の内紛に乗じて井田胤興が坂田城を乗っ取ったそうです。戦国時代には井田胤徳が城主で、本家の千葉賢胤と共に小田原城の北条氏政に従っていました。胤徳は常陸国の佐竹氏と度々交戦して上総国への侵攻を牽制したという記録が残っているそうです。豊臣秀吉の小田原攻めでは、城主不在の坂田城にはわずかな守備隊だけだったので、豊臣軍の前に無血開城をしたそうです。現在はふれあい坂田池公園の一角に見事な土塁の一部が残されていて、本丸と二ノ丸を繋ぐ土橋の横に写真の説明板がありました。そこから成田空港は近いので、着陸態勢に入った多国籍の旅客機が轟音をたてて頭上を何度も通過していました。
御城
香取市
鎌倉時代に千葉一族の田部師時が築いたのがはじまりだそうです。写真の「御城址」は市道125号沿いにあり、碑の側面には「鎌倉時代・千葉氏の支砦」と書かれていました。家に帰ってから気付いたのですが、この碑の横にある細い道に入った突き当りに土塁が残り、そこには西田部郷土史会が建てた「史跡・御城址」という黒くて立派な石碑があることが分かり、とても残念でした。
岩部城
香取市
鎌倉時代に千葉常長の4男・常基が岩部城を築いて岩部姓を名乗ったのがはじまりだそうです。南北朝の動乱では岩部中務が城主のときに、北朝方に付いたそうです。9月9日に南朝方に攻められて落城したので、この地域では重陽の節句(9月9日)のお祝いをしないそうです。写真の「岩部城址」は県道16号から入った台地の上にあり、碑の側面には「鎌倉時代・千葉氏の支砦」と書かれていました。
手古内城
香取市

鎌倉時代に千葉氏の一族・木内胤俊が居城していたそうです。近くに耕地整理で造られた橘堰があり、胤俊の娘・立花姫が不治の病を苦にして身を投げたという話が残っています。立花姫の菩提を弔うために田部の大峰にあった地蔵堂を手古内城内に移したのが写真の浄土宗・西雲寺だそうです。本堂は鎌倉時代創建のもので、胤俊の位牌が納められています。土塁が良く残っていたので、香取市の教育委員会が一本の石碑でも建てて欲しいと思いました。

長岡城
香取市

築城の年代と歴史は不詳です。しかし、幕末に起きた天狗党の乱(筑波山で挙兵した水戸藩士を中心とした尊皇攘夷の過激派による乱)で、一行が立て籠もったことがあったそうです。城跡の麓を通る道沿いで声をかけて道を訪ねただけなのに、本丸跡までわざわざ案内してくれた上に、スイカとキュウリまで頂いた優しいおばあさんに出会いました。おばあさんの話によると、写真は観世音菩薩をまつった観音堂のある一帯が本丸跡だそうで、そこはおばあさんの畑になっていました。土塁は良く残っていたので、先程巡った手古内城(西雲寺)と同様、香取市の教育委員会が一本の石碑でも建てて欲しいと思いました。

一宮城
一宮城
築城時期は定かではないのですが、内藤久長が城主のときに里見義頼(千葉城)と土岐頼春(万木城)と正木盛賢(大多喜城)の連合軍に攻められて落城したという文献が残っているそうです。豊臣秀吉の小田原攻めでは、本多忠勝の軍勢によって再び落城したそうです。徳川家康の関東入封後、脇坂安元(賤ケ岳七本槍で名を馳せた安治の次男)が入封すると、一宮城跡に陣屋が置かれました。最後の藩主は加納久宜で、一宮藩知事、鹿児島県知事、一宮市長を歴任しました。余談ですが、橋本龍太郎(元首相)の妻は久宜の孫に当たるそうです。あと、同じく麻生太郎(現外相)は久宜の曾孫に当たるそうです。写真は一宮城址の入口にあった説明板で、城址の敷地内には久宜のお墓がありました。久宜のお墓の前は崖になっていて、九十九里浜が見えました。
勝見城
睦沢町
鎌倉時代に御家人の金田頼次が埴生川の絶壁の上に築城したのがはじまりだそうです。金田氏は桓武平氏の流れをくむ名門でしたが、同族の千葉氏、そして房総を平定した里見氏、上総武田氏との抗争に度々巻き込まれたそうです。写真は麓にある天台宗・歓喜寺から城山に登ったときに見つけた城址碑です。横には勝見城の解説板が設置されていて、楽しむことが出来ました。見張り台跡からは歓喜寺の屋根と睦沢町の町並みが見えました。
万木城
いすみ市
築城時期は定かではないのですが、戦国時代での城主・土岐為頼のときに‘里見の三羽烏’の一つに数えられていました。為頼は里見義堯の娘を迎えるなど関係を深めていたのですが、義堯との関係がおかしくなってくると国府台合戦を境に北条氏綱に付いたそうです。為頼の長男・頼春が家督を継ぐと、万木城の要害を利用して里見氏と上総武田氏と正木氏による長年の侵攻をよく防いだそうです。豊臣秀吉の小田原攻めでは本多忠勝の大軍によって落城し、頼春は自刃したそうです。当時の米蔵であると思われる曲郭跡からは、落城のときに焼けて炭になった米が今でも出土するそうです。写真は駐車場の前にあった解説板で、そこから見上げた城風の屋根を乗せた展望台です。
関宿城
関宿市
室町時代に古河公方・足利成氏の命令で家臣・簗田成助が築いたのが始まりだそうです。戦国時代に起きた国府台合戦を境に小田原城の北条氏の勢力が拡大してくると、古河公方・足利晴氏は北条氏綱の娘・芳春院を迎え、近くの栗橋城には北条氏照(氏康の次男)が入城すると、反北条勢力だった簗田晴助は関宿城を明け渡してしまったそうです。簗田家は平国香を祖とする名門で、関東に独立国家を樹立させようとした平将門は国香の甥に当たるそうです。江戸時代には水運の要衝として重視されると、松平康元(徳川家康の異父弟)が配置され、その後も譜代大名が城主になりました。歴代の城主には大坂城代に栄転した久世広明も居ました。写真は千葉県立関宿城博物館で、城下にある真言宗・実相寺には関宿城の本丸御殿の一部が移築され、客殿として残っています。
相模台城
松戸市

鎌倉時代に鎌倉幕府の北条一族の館があったそうですが、築かれた年代は定かではないそうです。戦国時代に起きた古河公方・足利晴氏と、小弓公方・足利義明が対立して起きた第一次・国府台合戦で、両軍が激戦を繰り広げた場所が相模台合戦だそうです。最初は義明と里見義尭の連合軍が押していたそうですが、数に劣る晴氏と北条氏綱の連合軍が勝利を収め、義明と一族は戦死して小弓公方は滅んでしまったそうです。義明の次男・頼淳は里見義康に保護された後、豊臣秀吉、徳川家康によって高家として扱われ、足利国朝(頼淳の長男)によって喜連川藩が立藩し、明治時代まで続いたそうです。写真は相模台城のあった場所にあった看板「相模台公園」です。昔お城があったということを示す表現として、「相模台城址公園」にするべきだと思いました。

大堀陣城
松戸市

天文7年(1538年)に古河公方・足利晴氏と、小弓公方・足利義明が対立して起きた第一次・国府台合戦で、晴氏と北条氏綱の連合軍は江戸川の西側岸に陣を敷くと、義明と里見義尭の連合軍は東側岸に陣を敷いたそうです。義明が本陣を置いたと云われている台地は、曹洞宗・西蓮寺が建てられていて、境内に説明板「史跡・国府台の合戦」がありました。説明板によると、この付近に義明の城があったそうです。インターネットでは大堀城として紹介されているのですが、正しくは陣城程度の規模だったのではないかと思いました。

国府台城
市川市

築かれた時期は諸説があって定かではないのですが、戦国時代に太田道灌が千葉家の内紛に乗じて陣城を築いたのが始まりだとも云われているそうです。国府台城が有名になったのは、2回行なわれた国府台合戦の舞台になったからだそうです。第二次・国府台合戦は、江戸城主・太田康資(道灌の曾孫)が恩賞の不満から里見義弘と組むと、義弟の裏切りに怒った北条氏康と国府台で対峙した戦いだそうです。この戦いで北条軍は苦戦していましたが、北条綱成(氏康の義兄)が奮戦して決着が付いたそうです。綱成は今年の大河ドラマ「風林火山」で出ていた花倉の乱で戦死した福島正成の遺児で、北条一門からの信頼が厚く、河越夜戦や国府台合戦をはじめとする緒戦では負けた事がない為、彼の才能を見抜いた北条氏綱が娘を娶らせたという話は分かるような気がしました。

曽谷城
市川市

鎌倉末期に千葉家7代目当主・千葉胤鎮が一族の曽谷重胤に曽谷村を与えて支配したのがはじまりだそうです。曽谷胤貞が城主のときに足利尊氏に従って転戦していましたが、三河で戦死してしまったそうです。その頃に曽谷城が廃城になったそうです。県道254号沿いにあるNTT曽谷支店の右横にある細い道を登って降りた突き当たりに、写真の標柱と日焼けして読めなくなってしまった説明板がありました。撮影と説明板を読み終わると、自分が通っていた国府台文化幼稚園(幼稚園時代の3年間は市川市に住んでいました)を目指すべくして再び歩きはじめました。

深井城
流山市
戦国時代に小金城主・高城氏の支城の一つがあったところだそうです。深井城について、それ以上のことは調べても分かりませんでした。不動坊が目印だということで行ってみたのですが、全然見つからなくて西深井という地名の中をウロウロしてしまいました。歩いていた地元の人の何人かをつかまえて尋ねてみたのですが、「分からないな〜」とか「そんなのあったっけ?」と言われてしまいました。5人目のお年寄りに尋ねてみたところ「すぐそこだよ!」と、指差してくれました。指差してくれた方面に目を移したのですが、「どこに?」と思ってしまいました。真っ直ぐ行けばいいというので言う通りにして行ってみたら、民家の陰に小さな墓地が見え、その入口に「深井城跡」と書かれた小さな説明板がありました。
野田城
野田市

野田市では有名な宗教法人・霊波之光の天守閣風の本殿です。野田市を通る国道16号から良く見えるし、日常で利用している東武野田線には広告がデカデカと貼られているので、千葉県と埼玉県に住んでいる人で知らない人は居ないのではないかと思います。自宅から常磐自動車道の柏インターに入るときの裏道沿いに霊波之光の施設があって、いつも通り過ぎていました。イベントがある日は白装束をまとった人達が大勢出てきて、交通整理や駐車場への誘導、参拝者へのお手伝いをしている姿を良くみかけます。地域ぐるみで笑顔で支え合っている感じがするので変なところではないんでしょうけど、僕から見れば新興宗教団体(カルト)であることには変わりがないと思っています。昔ながら日本にあった宗教(浄土宗,天台宗,臨済宗など)のほうが魅力があります。

近藤陣屋
流山市
慶応4年(明治元年)の1月に起きた後鳥羽伏見の戦いで破れて以来、徳川幕府の敗色が強くなってきたときに、千葉の流山で500名余の軍勢を集結させた新撰組の近藤勇が本陣を置いた場所だそうです。同年4月に官軍に包囲されてしまった勇は出頭したのですが、板橋にある総督府で打ち首になってしまったそうです(江戸城が無血開城をした15日後の出来事でした)。勇を失った土方歳三と新撰組は、会津と函館を転戦した末に五稜郭で散ったそうです。勇が陣を置いたのは流山にある醸造元・長岡屋で、正確には本陣なのですが、石碑と説明板には陣屋として紹介していました。写真は地酒の問屋・秋元の一角にあった石碑と説明板です。
松戸城
松戸市

松戸城の築城年代と築城者は不詳ですが、小金城の支城として高城氏が支配していたそうです。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めで小金城と共に落城してしまったそうです。時代が少しさかのぼるのですが、第一次国府台合戦で、相模台城に小弓公方・足利義明が立て篭もると、江戸川を渡河した北条氏綱(氏康の実父)が松戸台(後の松戸城)に布陣して対峙したという記録が残っているそうです。この戦いによって小弓公方の足利家は滅亡し、北条氏の上総国における支配の基礎が固められたそうです。明治17年に、水戸藩の最後の藩主・徳川昭武(徳川慶喜の実弟)が別邸・戸定邸を造営し、平成18年に御殿が国指定重要文化財となりました。徳川慶喜と昭武兄弟は写真が趣味で、滞在中に撮影された古写真が膨大の枚数で残されています。写真は戸定邸の正門です。

藤心陣屋
柏市
大坂の陣で軍功のあった本多正重が将軍・徳川秀忠から旗本として藤心領の9千石を拝領し陣屋を構えた所です。正重は高知城の本多俊正の子に当たり、兄に正信がいます。元々は船戸にあった代官所を正重が藤心に移して陣屋としたそうです。代々本多氏が治め、明治時代まで続いたそうです。藤心陣屋は明治4年に取り壊されてしまい、最近まで残っていた長屋門も痛みが激しかった為、惜しくも取り壊されてしまったそうです。写真は藤心陣屋跡にあった石碑と説明板で、周辺は畑になっていました。そこから鎌ヶ谷市にある佐津間城に向かう途中の県道8号沿いにラーメン屋「支那そば・ふなとり」を偶然見つけたのですが、行列に釣られて入ってしまいました。ちょうどお昼でお腹がすいていたので、チャーハンを注文しました。あっさりした味で美味しかったです。
佐津間城
鎌ヶ谷市

鎌倉時代にこの地を支配していた相馬胤村の居城があった場所だそうです。胤村の娘・阿蓮は鎌倉幕府の執権・北条時宗の側室だったそうです。戦国時代には千葉一族・高城氏の本城・小金城の支城として機能していたそうです。話しを戻すようですが、相馬氏は桓武平氏の流れをくむ千葉一族で、胤村は相馬家の4代目に当たるそうです。6代目・重胤の時に陸奥国に下向となり、17代目・利胤の時に相馬藩(初代藩主)を興して明治まで続いたそうです。相馬野馬追は、相馬氏の先祖・平将門が関八州の武将を集めて下総国で行った軍事訓練が起源なのだそうです。軍事訓練が相馬でも行われるようになったのは、重胤が小高城に居た頃で、その訓練を再開したからだと云われているそうです。佐津間城は鎌ヶ谷市内では唯一の城址であると、写真の説明板に書いてありました。

船橋御殿
船橋市
慶長17年(1612年)に徳川家康の命を受けた関東郡代・伊奈忠政が造営したのがはじまりだそうです。船橋御殿は休憩宿泊施設を備えた御殿で、江戸城と東金御殿との往復に宿舎として徳川家康と秀忠が利用したという記録が残っているそうです。徳川家綱のときに船橋御殿が取り壊されてしまい、しばらくして船橋宿の人達によって東照宮が建立されたそうです。現在の建物は安政4年に建て替えられたものだそうで、日本で一番小さい東照宮だそうです。JR船橋駅から徒歩5分程度のところにあるのですが、「御殿通り」が見つからなくて、しかも住宅街が入り込んでいたので、分からなくてウロウロしてしまいました。偶然に見つけた標柱「船橋御殿跡・東照宮」で辿り着くことが出来ました。写真は東照宮の前に設置されていた船橋御殿の説明板です。
栗原陣屋
船橋市
徳川家康が関東に入府すると、成瀬正成は栗原領に4千石を与えられて陣屋を構えたのがはじまりだそうです。関ヶ原の戦いで功績を挙げた正成は堺奉行となり、大坂の陣で豊臣家が滅ぶと徳川義直(家康の9男で尾張初代藩主)の家老になったそうです。正成の跡を長男・正虎が継いで犬山城主になると、次男の之成が栗原藩を継いだそうです。しかし、之成の跡を継いだ之虎が早世して断絶すると、栗原領が幕府に返上されて直轄地になったそうです。陣屋の一角に成瀬氏の菩提寺・宝成寺が建ち、成瀬氏のお墓がありました。中でも大きな墓は成瀬正寿(第7代犬山城主)で、犬山焼(丸山焼ともいう)を奨励した人物だそうです。写真は宝成寺の正門で、正門の前に説明板がありました。
若宮館
市川市
鎌倉時代に千葉頼胤(千葉家七代当主)に仕えていた富木常忍が八幡荘若宮と呼ばれたこの地に居館を構えたのがはじまりだそうです。常忍が鎌倉で日蓮に出会ったことから熱心な信者になったそうです。日蓮が若宮館を訪れたときに、常忍は敷地内に法華堂を建てて説法を受けたそうです。若宮法華堂での説法が100回を超えたことから、この地が日蓮の「初転法輪の旧跡」と伝わるようになったそうです。日蓮が武蔵国で亡くなると、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺と称したそうです。現在は奥之院となり、往時の館を取り囲んでいた高さ3メートル程度の土塁が残っています。写真は奥之院の入口にあった説明板で、「奥之院(若宮館跡)」という題名が入っていました。かつては城館跡があったという寺院や神社は、見習って欲しいと思いました。
根木内城
松戸市
室町末期に西下総に勢力を誇っていた千葉一族・高城胤忠によって築かれたのがはじまりだそうです。高城胤吉が城主のときに小金城を築いて移ると、砦としての役割を果たしていたそうです。豊臣秀吉による小田原の役では、本城の小金城が浅野長政の軍勢に攻められて落城したそうなので、おそらく根木内城も同じ運命をたどったのではないかと思います。千葉県の城址は開発によって破壊、運良く破壊から免れたとしても私有地で整備されていない場合が多いのですが、根木内城公園として一部の土塁と空堀が良好に残り、写真の標柱「根木内城跡」が虎口前に設置されていました。城跡のある台地は国道6号線によって分断されていて、車の騒音が下からゴーゴーと聞こえました。
金ヶ作陣屋
松戸市
江戸時代に千葉一族・綿貫政家(千葉昌胤の3男)の陣屋があった場所だそうです。金ヶ作陣屋は使役や軍役に用いる軍馬を確保するために小金牧という大規模な放牧場の管理を司る在地の役所で、綿貫家は幕末まで代々野馬奉行職を務めていたそうです。JR八柱駅から歩いて5分程度のところにあるスポーツクラブ「クリスタルスポーツクラブ八柱」の前に、写真の標柱「金ヶ作陣屋跡」がありました。遺構は全く残っていないのですが、標柱があっただけでも良かったと思いました。
大野城
市川市
平安時代に起きた承久天慶の乱で下総国の西南部を鎮圧するために平将門が築いたのがはじまりだそうです。平将門と藤原純友が関東と京都でそれぞれ乱を起こしたのが承久天慶の乱と云われ、関東では将門と平国香(将門の伯父)が対立していました。この戦いで将門が国香を滅ぼすと、父・国香の後を継いだ平貞盛(将門とは従兄弟同士で、伊勢平氏の祖)は藤原秀郷と組んで将門を返り討ちにしてしまいました。写真は市川市の第五中学校の正門の横にあった大野城址の案内板で、その横には標柱「大野城址」がありました。中学校では部活で学生達が体育館を使っていて、卓球の球を打つ軽い音がコーンコーンと響き渡っていました。
大多喜城
大多喜町
室町時代に真里屋信清が小田喜城として築いたのがはじまりです。真里屋氏は甲斐源氏の流れをくむ名門です。真里屋氏,里見氏,正木氏,本多氏,阿部氏,青山氏,稲垣氏と城主が変わり、松平氏のときに明治維新を迎えました。徳川家康が関東に入封したときに、本多忠勝が大多喜城に入城したことがあります。天守閣を築いたのが忠勝で、天保3年に焼失するまで約200年間城下町を見守っていたそうです。写真は大多喜城の模擬天守閣で、千葉県立総南博物館になっています。あと、大多喜高校の敷地内に移築された薬医門と大井戸(今でも水が湧き出ているそうです)が残っています。
岡本城
富浦町
室町時代にこの地を治めていた豪族・岡本氏元の居城があった場所だそうです。岡本城は汐入川と豊年川に挟まれた断崖絶壁に築かれた堅城です。岡本安泰が城主のときに里見義弘の軍門に下ると、義弘の弟・義頼が支配しました。それ以来、里見宗家(6代)の居城として機能していましたが、その間に異母兄弟同士による跡目相続も起きたこともありました。豊臣秀吉による小田原の役で、出兵に応じた里見義康は鎌倉方面に進軍しましたが、関東惣無事令違反と参陣が遅れたことの2つを咎められ、上総を没収されたことで岡本城を追われ、安房にあった支城・館山城に本拠地を移しました。写真は弟と館山に1泊2日のドライブ旅行に行く途中に立ち寄った里見公園の中にあった城址碑です。
増尾城
柏市
鎌倉時代にこの地を支配していた相馬師胤の居城があった場所だそうです。大津川と支流に突き出た舌状の台地の上に築かれた要害でした。戦国時代には小金城の支城として平川氏が城主をしていましたが、小田原城の北条氏に攻められて落城しました。写真は増尾城址公園の入口にあった石碑で、土塁が良好に残っていました。本丸跡に行くと歴史看板も設置されていました。増尾城址公園は柏市街地の中にあって、開発を免れた緑のオアシスで、たくさんの市民がくつろいでいました。
根古谷城
八街市
室町時代に円城寺尚任(千葉氏の一族)が築いたのがはじまりです。戦国時代に千葉氏の内紛で千葉氏庶流・馬加康胤(後の千葉康胤)が千葉宗家を滅ぼすと、康胤方に付いていた栗飯原右衛門尉(千葉氏の一族)が城主になりました。しかし、小田原役では北条氏の属城だったので豊臣秀吉の遠征軍によって攻められて落城しました。写真は天満宮の前にあった説明板です(画質が非常に悪いので再訪する機会があったら差し替えたいと思います)。
小金城
松戸市
室町時代に古河公方・足利義明に対抗していた千葉一族・高城胤吉によって太日川(現在の利根川)に突き出た台地の上に築かれたのがはじまりです。高城胤則が城主のときに、古河公方に追われた関東管領・上杉憲政を擁立して関東に出兵した上杉謙信の大軍によって包囲されましたが、籠城して徹底抗戦をしたので落城することはなかったそうです。豊臣秀吉の小田原攻めでは、秀吉の家臣・浅野長政の軍勢によって攻められて落城しました。写真は大谷口歴史公園(小金城跡)にあった大きな石碑で、北条氏流の縄張り・障子堀をはじめとする土塁などの遺構が良好に残っていました。余談ですが、最寄の駅は「小金城跡駅(流鉄の流山線)」といい、城名を取った駅名になっています。
佐倉城
佐倉市
戦国時代に本佐倉城の城主・千葉親胤の命令で一族の鹿島幹胤に築かせようとしましたが、親胤が暗殺されてしまったので築城工事が中止されました。千葉邦胤のときにも築城の再開命令が出たものの、今度の邦胤も暗殺されて築城工事が再び中止されました。江戸時代に譜代大名の土井利勝によって築城が再開され、3層の白亜の天守閣があがりました。余談ですが、利勝は家康の伯父・水野信元の3男なので、家康の従兄弟に当たるそうです。利勝が古河城に移ると、堀田正亮が大坂城から入ってきました。正亮は大坂城代(30代目)を2年間勤めていました。以後、堀田氏代々の居城として続き、明治6年に廃城になりました。写真は国立歴史民博物館の敷地内にあった旧佐倉城址の土塁です。面白い博物館なので、また行ってみたいと思いました。
岩富城
佐倉市
室町時代に原景廣が築いたのがはじまりです。原氏は桓武平氏の流れを組んでいる千葉氏の一族で、代々城主になりました。しかし、小田原役では北条氏の属城だったので豊臣秀吉の遠征軍によって攻められて落城しました。江戸時代には徳川幕府の旗本・北条氏勝(地黄八幡で有名な玉縄城主・北条綱成の孫)が1万石で入封しましたが、養子の氏重(保科正直の実子)が下野国に移封すると、廃城になりました。写真は浅間神社の前にあった説明板です(画質が非常に悪いので再訪する機会があったら差し替えたいと思います)。
王子台城
佐倉市
永禄7年(1564年)に結城晴朝の要請で上総に出兵した上杉謙信が陣城を置いた場所だそうです。現在は開発によって住宅街になってしまいましたが、区画整理に先駆けて行なわれた発掘調査で、中世の城郭遺構が確認されたそうなので、それは残して欲しかったなと思うと残念でした。そこからわずか3キロメートル先に臼井城があるので、昔は良く見えたのではないかと思います。臼井久胤が籠城している臼井城には、軍師・白井胤治(元・三好三人衆の筆頭だった三好長逸の軍師)の知略によって落城を免れました。胤治は何度も奇襲を仕掛けたので越後勢の損害が大きく、さすがの謙信も舌を巻いたと云われています。写真は謙信の陣城跡にあった石碑「一夜城公園」で、公園内には大きな由来碑もありました。
臼井城
佐倉市
平安時代に千葉氏の一族・臼井常康が居城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には臼井久胤が城主で、上杉謙信と里見義弘の猛攻を受けましたが、軍師・白井胤治(元・三好三人衆の筆頭だった三好長逸の軍師)の知略によって落城を免れました。胤治は何度も奇襲を仕掛けたので越後勢の損害が大きく、さすがの謙信も舌を巻いたと云われています。余談ですが、臼井城址に太田資忠(道灌の孫)のお墓が残されています。千葉自胤(関東管領・上杉派)と千葉孝胤(鎌倉公方・足利派)が当主の座を巡って内紛が起きると、自胤側に付いた資忠は孝胤が籠もる臼井城を攻めましたが、逆に討ち取られてしまったそうです。写真は臼井城址公園の駐車場にあった説明板です(画質が非常に悪いので再訪する機会があったら差し替えたいと思います)。
小篠塚城
佐倉市
戦国時代に千葉氏の本拠地・本佐倉城を守る支城として築かれたのがはじまりだそうです。鹿島川の畔に築かれた城で、本佐倉城と臼井城と岩富城の3城をつなぐ陸路の要にありました。最近になって「小篠塚城址をきれいにする会」が発足し、今年に入って城址公園が完成したそうです。機会があったら大篠塚城址と共に再訪してみたいと思っています。写真は慈眠寺の土塁の前にあった城址標識です。
寺崎城
佐倉市


撮影していない為
画像はありません
室町時代に千葉宗家の内紛で千葉胤直が弟の馬加康胤に討たれると、亥鼻城を脱出した胤直の嫡男・胤将はこの地に逃れて城を築きました。千葉宗家を乗っ取った康胤は孝胤と改名して本佐倉城を築くと、胤将の寺崎城を攻撃して追っ払うと、嫡男の胤持を寺崎城に置きました。康胤が病死して胤持が家督を継ぐと、寺崎城は廃城になりました。城址には密蔵院が建ち、土塁が良好に残っていました。由来が書かれている石碑もあったのですが、写真を撮るのを忘れてしまいました。再訪する機会があったときは、写真を入れたいと思っています。
館山城
館山市
戦国時代に里見義頼の命令で岡本城の支城として根古屋山に築かせたのがはじまりだそうです。元々は北条水軍の侵略に備えて築かれたのですが、豊臣秀吉による小田原の役で北条氏が滅ぶと、関東惣無事令違反と参陣が遅れたことの2つを咎められた里見義康は岡本城から本拠地を移しました。大久保長安事件で大久保忠隣(忠義の正室の祖父)が改易されると、大久保家から正室を迎えていた里見忠義も連帯責任を取られて倉吉に流されてしまいました。これは幕府による外様大名の取り潰し政策による犠牲だったそうです。忠義が病死すると、8名の家臣も殉死しました。忠義には子が居なかったので、里見氏の血は途絶えてしまいました。写真は弟と館山に1泊2日のドライブ旅行に行ったときに、駐車場から見上げた館山城の模擬天守閣(館山市立博物館)です。
師戸城
印旛村
鎌倉時代に臼井城の支城として臼井常康の家臣・師戸四郎が築いたそうです。臼井城と同様、印旛沼に突き出た岬に築かれた要害で、臼井城とは渡しで結ばれていました。太田資忠(道灌の甥)の大軍、そして上杉謙信と里見義弘の連合軍を撃退させることが出来たのは、本城と支城の連携が上手くいったからだと云われています。現在は印旛沼公園となっていました。師戸城址は深い土塁と横矢と呼ばれる防御の跡が良好に残っていました。土塁の上に立つと「こんなところまで、越後の上杉謙信が攻めてきたんだなぁ」と思うと、戦国のロマンに浸ってしまいました。写真は師戸城址(地図上では印旛沼公園)の前にあった説明板です(画質が非常に悪いので再訪する機会があったら差し替えたいと思います)。
金野井城
野田市
鎌倉時代に御家人の野本家定がこの地に城を築いたそうです。昭和55年と昭和60年に行なわれた発掘調査で、3つの曲郭を持つ広大な城郭だったことが判明したそうです。城郭の規模が大きかったことから、家定は有力な御家人だったようですが、それと同時に謎の多い人物でもあるそうです。現在は東金野井浄水場が城址で、施設の前に写真の城址標柱がポツンと建っていました。南側を向いていて日焼けして文字が薄くなっているので、何とかして欲しいと思いました。
東金城
東金市

室町時代に千葉一族が鴇ヶ峯城(後の東金城)を築いたのがはじまりだそうです。のちに酒井隆敏によって改築されて現在の姿になったそうです。酒井隆敏は父・定隆が本城の土気城を長男の定治に譲ると、田間城に隠居し、隆敏は鴇ヶ峯城に移って東金城と改名したそうです。豊臣秀吉の小田原攻めでは、浅野長政の軍勢の前に開城したそうです。戦後は徳川家康の旗本に取り立てられ、子孫は幕末まで続いたそうです(酒井重治は大坂城代を勤めた阿部正次の組下になっています)。

成東城
成東町

鎌倉時代に千葉胤俊が成東姓を名乗っていることから、鎌倉時代にはすでに千葉氏の支配下であったそうです。千葉胤定が城主のときに豊臣秀吉の小田原攻めで、浅野長政の軍勢の前に開城したそうです。徳川家康の関東入封後、石川康道(大垣城から転封)、青山忠成(徳川秀忠の傅役)と城主が替わり、青山忠俊のときに岩槻城に転封すると、成東城は廃城になったそうです。忠俊は徳川家光の傅役と教育係を勤め、家光が化粧をしているのを見た時は「天下の主にあるまじき所業」と言い、鏡を庭の石に叩き付けて割ったりするなど、度々諫言を繰り返したそうです。ついに勘気に触れて大多喜に減転封されてしまったそうです。家光が後悔して江戸に呼び戻そうとしたら「私が戻れば主君の過ちを認めることになります」と固辞したという言い伝えがあるそうです。

埴谷城
山武町

室町時代に埴谷景政によって築かれた城で、隣に日蓮宗・妙宣寺がありました。室町時代に活躍をしたという日蓮宗一致派の僧に日親という人物が居るのですが、埴谷城主・景政の子・重継の次男として妙宣寺で産まれたそうです。日親は「立正治国論」を著して、室町将軍・足利義教に法華経受持を勧めたのですが、これに激怒した義教は日親を捕らえ、彼の信徒と共に投獄してしまったそうです。「法華経を捨てて念仏を称えよ!」と迫る室町幕府による拷問に耐え抜き、それでも意志を曲げないので舌の端を切られてしまったそうです。拷問中に義教は赤松満祐によって暗殺される事件が起き、ようやく釈放されたそうです。幕府からの拷問に耐え抜いた彼の不屈の精神をたたえる声が、京都の町中に満ちたという言い伝えがあるそうです。

松尾城
松尾町
北海道の五稜郭と、長野県の五稜郭(龍岡城)と並んで、明治維新後に築かれた珍しい城です。明治2年に掛川藩主・太田資美が所領替えになったのですが、三角形の星型をした三稜郭だったそうです。資美は太田道灌の末裔です。「松尾」という地名は旧領地の掛川城(別名:松尾城)を偲んで、松尾城と命名したそうです。現在の城址は松尾中学校が建ち、跡形もなく破壊されてしまいました。あるホームページでは中学校の外に「太田城跡」という小さな石碑があると紹介していたのですが、どうやら校舎の建て替えによって勝手に撤去されていました。松尾町の教育委員会の埋蔵文化財に対する意識の無さには呆れて開いた口が塞がらなかったです。写真は松尾自動車教習所の教習コースの中にあった「松尾藩公庁跡」という石碑で、レンズを遠望にセットして撮影しました。
前ヶ崎城
流山市

小金城を本拠とする千葉一族・高城の支城として機能していたそうです。小弓公方・足利義明が国府台合戦で北条氏康に敗れたのちは北条氏に従うようになりました。豊臣秀吉による小田原の役では、本城の小金城が浅野長政の軍勢に攻められて落城したそうなので、おそらく前ヶ崎城も同じ運命をたどったのではないかと思います。運転免許センターを目印にして行くと分かりやすいです。現地説明板を読むと、お城の歴史よりは遺構の説明が細かく書かれていて残念でした。

花輪城
流山市

小金城を本拠とする千葉一族・高城の支城として機能していたそうです。豊臣秀吉による小田原役では、本城の小金城が浅野長政の軍勢に攻められて落城したそうなので、おそらく花輪城も同じ運命をたどったのではないかと思います。江戸時代には真言宗・西福寺の境内となり、観音堂があったそうです。解体前に行われた調査によれば、17世紀前半の建築様式を持つものであることが分かりました。茅葺きながらも三間堂であり、その規模や内部の装飾は当地の経済性の高さを推測させるものだったと、説明板に書かれていました。城址公園内には発掘された花輪城の空堀と観音堂の基壇と礎石が保存されていますが、何も観音堂を取り壊さなくても…と思いました。ちなみに西福寺は県道の拡張工事と東葛病院の建設で取り壊されてしまい、墓地だけが残っていました。

木野崎城
野田市

関東に入国した徳川家康によって安堵を受けて、幸手城からこの地に移った一色直氏(義直の孫)によって築かれた城です。後に愛知県の鳳来町に移封になり、家臣の青木氏が帰農して現在に至っているそうです。写真にある市道の突き当たったところにある家に末裔が住んでおり、詳しい話を聞こうとお邪魔したのですが、ご主人が不在で詳しい話を聞くことが出来なくて残念でした。しかし、青木家は篠崎家と同じ一色氏の家臣の末裔なので、奥様と玄関で軽く挨拶が出来ただけでも良かったと思いました。

箕輪城
沼南町

小金城を本拠とする千葉一族・高城の支城として機能していたそうです。沼南町最大規模の城跡で、かつては手賀沼に突き出た要害だったそうです。城址標識は手賀沼病院の裏側を突き進んだ先にあり、数年前に訪れたときよりは錆が広がって読みづらくなっていました。数年経てば朽ち果てて何だか分からなくなってしまうのではないかと心配しています。今回はデジカメを持ってきたので、しっかり撮影しておきました。この辺は高城という名字の家が多く、もしかしたら高城氏の末裔ではないか?と思いながら、手賀沼を後にしました。

手賀城
沼南町

室町時代に千葉勝胤から手賀600貫を受領した一族・原貞が北に手賀沼を望む断崖に築いたのがはじまりだそうです。原胤久が城主のときに豊臣秀吉の小田原役で落城し、以後は廃城になりました。胤久の弟・胤重は徳川氏に使え、旗本になったそうです。子孫は江戸南町奉行の与力に抜擢され、幕末の最後の与力・原胤昭は明治時代にキリシタンとなり、囚人の待遇改善や身寄りのない人達の保護など、慈善事業につとめた名士として、地元では有名だそうです。興福院にある稲荷神社に城址碑がありました。近くの畑には石碑があったそうで、見落としてしまいました。

鷺沼城
習志野市

鷺沼城が築かれた時期は詳しく分かっていません。室町末期に里見義弘の家臣・鷺沼満義が第二次国府台合戦で北条氏康に敗れて戦死したそうで、その頃に廃城となったそうです。鷺沼城が築かれる前は鷺沼古墳のあった場所で、公園の中央に古墳についての説明板がありました。この日は日産・カレスト幕張に行ったついでに寄り道をしました。県道から坂になっている住宅街に入ったところに「鷺沼城址公園」と彫られた石碑が見え、模擬石垣で飾られた小路の中に入っていくと古墳が見えました。公園内を歩いていると台地になっていることが分かり、階段が見えたので降りてみたら写真の案内板がありました。ここから見た土塁は見ごたえがあり、「お城があったんだな〜」と思いました。

久留里城
君津市

室町時代に真里谷・武田氏の流れをくむ武田真勝が真勝寺を建て、そこに居館を構えたのがはじまりです。房総の平定を目指していた里見義尭によって攻め落とされると、居館の背後にある山に新城が拡張されました。河越城主・北条綱成(氏綱の娘婿)に度々攻められたが、落城はしなかったそうです。しかし、北条氏の持ち城になったり、里見氏が取り返したりして、度々起きた国府台合戦を通じて繰り返されていました。江戸時代に入ると譜代大名が城主になりました。土屋利直(武田二十四将・土屋昌次の弟の孫)が城主のときに、久留里藩の家臣だった新井白石が青年時代を過ごしたそうです。久留里城の二ノ丸址に新井白石像があり、麓にある城下町を見下ろしていました。

東金御殿
東金市

豊臣秀吉によって小田原城が落城し、徳川家康が関東に入府すると、徳川将軍家の御鷹場となり、東金御殿が造営されました。御鷹場の制約はこの地に住む人々の生活を苦しめたそうで、幕末になってようやく御鷹場が廃止されると人々は驚喜したそうです。東金御殿のあった跡に東金高校が建てられて遺構は残っていませんでした。東金高校の手前にあるのが八鶴湖で、東金御殿造営の際に大きく開削され、現在の姿になったそうです。背後には東金城のあった城山が東金御殿と本漸寺(日蓮宗)を抱き囲むようにありました。本漸寺には「家康公お手植え蜜柑」がありました。これは東金の気候風土が相似た故郷の駿府より蜜柑を取り寄せ、家康が植えたといわれています。本漸寺からは家康が鷹狩りで側を歩いたであろう八鶴湖が見えました。

大関城
東金市

室町時代に安房から来た畠山重忠の一族によって築かれたのがはじまりだそうです。畠山氏は土気城を本城としていて、大関城も支配していました。中野城の酒井定隆の勢力が拡大し、定隆は土気城を落とすと、畠山重康は大関城へ逃走したそうです。酒井軍は、更に大関城を攻め続けましたが、周囲の湿地に悩まされ、なかなか落すことが出来なかったそうです。重康は16年間、孤軍奮闘で大関城を死守しましたが、家臣・今関勘解由らの裏切りで遂に落城したそうです。豊臣秀吉の小田原役で浅野長政の軍勢の前に開城しました。写真の標柱は民家の敷地内にありました。教育委員会が設置した説明板は民家の住人によって勝手に撤去され、玄関の前にある庭にゴミと一緒に捨てられていました。住人から理由も聞いたんですが、僕には納得のいく内容ではありませんでした。

田間城
東金市

室町末期に古河公方・足利成氏の家臣・酒井定隆によって築かれたのがはじまりだそうです。定隆は本城の土気城を長男の定治に譲ると、田間城に次男の隆敏と共に移って隠居したそうです。しかし、地形が狭くて防備上不便があったため、まもなくして隆敏は鴇ヶ峯城(後の東金城)へ移し、以後田間城は酒井氏の支城群の1つとなりました。定隆は熱心な日蓮宗の信者だったので、領内のほとんどの寺院を日蓮宗へ改宗させたといわれています。豊臣秀吉の小田原攻めでは、浅野長政の軍勢の前に酒井氏の城砦群を明け渡したそうです。戦後は徳川家康の旗本に取り立てられ、幕末まで続いたそうです。

本佐倉城
酒々井町
室町時代に千葉孝胤が築いた城です。古河公方の足利高基と小弓公方の足利基氏の対立が激化し、高基派だった千葉孝胤は居城を亥鼻城から佐倉城に移したのがはじまりだそうです。それ以来、城内にある妙見社で歴代の当主たちが元服を行なうようになりました。千葉昌胤が城主のときに息子・利胤の正室に北条氏康の娘を迎えて北条氏との関係を深めたそうです。第一次国府台合戦で古河公方と里見義堯を破ると、奪われていた亥鼻城と国府台城を取り戻したそうです。北条氏が滅んで徳川家康が関東に入国すると佐倉城は破却されてしまいました。土井利勝が鹿島台に新城を完成させると「佐倉城」となったために、こちらは「本佐倉城」と呼ばれるようになりました。現在、国指定史跡として整備をしている最中でした。工事が終わった暁には再訪したいと思います。
久寺家城
我孫子市

小金城を本拠とする千葉一族・高城の支城として機能していたそうですが、我孫子氏の居城だったともいい歴史ははっきりしないそうです。城址に真言宗・宝蔵寺が建てられ、境内にある井戸は450年経った今でも水が沸いているそうです。写真は市道から見た宝蔵寺の入口で、巨石が土塁を包み込むようにビッシリと並べられており、まるでお城のようでした。城址は高台の上にあり、宝蔵寺の境内からは眼下に広がる我孫子市街地と水戸街道を眺めることが出来ました。

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