加藤順盛屋敷
名古屋市・熱田区
前身である羽城が築かれた時期は不詳ですが、戦国時代には熱田の豪族・加藤順盛の屋敷がありました。順盛は戦国時代に織田信秀(信長の父)に仕えていた武将で、岡崎城の松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が今川義元の人質として駿府に向かう道中に、広忠の義父・戸田康光が今川家から離反して竹千代を織田家の元に送ってしまいました。激怒した義元は田原城を攻めて康光を滅ぼしてしまいました。順盛の屋敷に入った竹千代は6歳から8歳まで預けられました。熱田神宮は隣にあったため、祈願に来ていた信長と会うことが出来たと思われます。写真は順盛の屋敷跡にあった場所にあった碑で、竹千代が幽閉されていたことが書いてありました。近くには羽城公園と図書公園(順盛は加藤図書と呼ばれていました)があり、近所の子供達が遊んでいました。
中野氏屋敷
名古屋市・熱田区

戦国時代に織田信秀と織田信長の親子に仕えていた家臣・中野一安の屋敷があった場所だそうです。一安は信長の馬廻りを務め、時には弓衆を束ねる組頭として活躍をしていたことがあるそうです。一安が17歳のときに起きた小豆坂の戦い(信秀と今川義元が衝突した国境での合戦)で活躍をしたので、小豆坂七本槍の一人に数えられたそうです。余談ですが、一安の妻は織田領に睨みを利かせていた那古野城の城主・今川氏豊(義元の実弟)の娘だとも云われていて、一安については実体のよく分かっていない武将です。写真は中野氏の屋敷があった場所にあった熱田神宮の東門の前にある名鉄神宮前駅のロータリーです。

大曽根屋敷
名古屋市・緑区

1695年(5代将軍・徳川綱吉の時代)に尾張藩の2代藩主・徳川光友(3代将軍・徳川家光の娘婿であり、家光のイトコでもある)の隠居屋敷として造営されたのがはじまりです。池泉廻遊式の広大な大名庭園があり、とても見事でした。この日は名古屋に出向中の弟夫婦と合流して、徳川美術館に行くのが目的で、国宝の源氏物語絵巻をはじめ、徳川家の収蔵品が数多く展示されていて、見事で溜息が出てしまいました。大曽根屋敷には明治時代に造営された広大な御殿があったのですが、昭和20年5月14日の名古屋大空襲によって、旧・国宝だった名古屋城と共に焼失してしまいました。それらが残っていたらと思うと残念でした。写真は徳川園の正門として使われている黒門(明治22年に造営)で、御三家・尾張徳川家の大邸宅に相応しい門構えでした。

足助城
豊田市
平安時代に飯盛山城主の足助重長が支城として真弓山に城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には鈴木信重が城主のときに武田勝頼によって攻略されましたが、まもなくして徳川家康によって取り戻されました。新田次郎の本では、美濃にある岩村城と明智城を攻め落とした勝頼は、そのまま駒を進めて奥三河にある足助城をわずか1日で陥落させたと紹介していたので、前から行きたいと思っていた城でした。足助城は全国に先駆けて平成5年に発掘調査に基づいて整備復元された戦国時代の山城で、西物見台,高櫓,長屋,物見矢倉,厨,木柵などのいくつかの建物があり、「戦国時代の山城とはこんな感じだったんだ〜」と感動してしまいました。写真の高櫓から見下ろすと、城内に雪崩れこむ武田の大軍と必死に防戦をする城兵の姿が目に浮かんできそうでした。
足助陣屋
豊田市

元和3年(5代将軍・徳川綱吉の時代)に本多忠周が三河国加茂郡に5千石を与えられた際に陣屋を置いたのがはじまりです。忠周は徳川四天王の一人に数えられた本多忠勝の曾孫に当たります。以後、足助藩10代の政庁として明治維新まで続きました。写真は足助の古い町並みを散策した時に立ち寄った足助町農林業振興センター(足助陣屋跡)で、正門の前に足助陣屋の説明と見取図の由来板がありました。

飯盛山城
豊田市
平安時代に尾張源氏の流れをくむ山田重長がこの地に山城を築いて足助姓を名乗るようになったのがはじまりだそうです。足助氏はこの飯盛山城を本城として、真弓山城や成瀬城などの6つの支城群を整備して強力に支配していたそうです。南北朝時代には倒幕の計画が漏れて後醍醐天皇が笠置山に逃げ込むと、真っ先に馳せつけたのが7代目の当主・足助重範でした。元弘の変は幕府方によって鎮圧されて天皇は隠岐へ流されて、重範は京都の六条河原で処刑されてしまいました。飯盛山城の麓には曹洞宗・香積寺があり、寛永11年(1634)に11代和尚・三栄が般若心経を1巻詠むごとにカエデの木を1本1本植えたのが、全国的に有名になった香嵐渓の紅葉の由来となりました。写真は香嵐渓の駐車場から飯盛山に入る登山口にあった石碑で、由来が書かれていました。
今朝平村古屋屋敷
豊田市

屋敷が築かれた時期は不詳ですが、この地を支配していた原田権左衛門が城主をしていたという記録が残っているそうです。そこは足助城のある真弓山の北側にある麓に位置しており、4段の曲郭だった土塁の一部が残っていました。写真は国道153号沿い(旧飯田街道)にあった今朝平八幡神社で、南北朝時代にこの地を訪れた行良親王(後醍醐天皇の皇子)の袈裟をかけたと云う石と由来板がありました。

海老陣屋
豊田市

文政9年(11代将軍・徳川家斉の時代)に海老村を支配していた菅沼氏によって築かれたのがはじまりです。元々は戦国時代に佐野入道の屋敷があった場所でもあるそうです。27年後に起きた百姓一揆が原因で、閉鎖されてしまいました。写真は県道435号から鳳来海老郵便局を過ぎたところにある稲荷神社から見上げた海老陣屋の石垣で、高さ5メートル以上もありました。写真を撮り終わると、レンタカーに飛び乗って足助方面に向けて走らせました。

医王寺山砦
新城市

戦国時代に起きた設楽原の戦い(武田勝頼と織田信長が決戦した合戦)で、勝頼(武田信玄の4男)が医王寺に布陣したと云われています。境内には「片葉のアシ」伝説の弥陀池があり、下記のような言い伝えが残っています。決戦前夜のこと、勝頼の枕元に老人が現れて設楽原の戦いを諫めたので、激怒した勝頼が老人を切りつけました。切られた老人は煙となって消えましたが、翌日弥陀池にあったアシが全て方葉となっていたという内容です。写真は医王寺(曹洞宗)の本堂で、本堂の左手前に高さ5メートルの大きな石碑「武田勝頼公本陣跡」がありました。そこから武田方の武将達が別れの盃をしたという大通寺は1キロメートル先にありました。

大通寺陣地
新城市

戦国時代に起きた設楽原の戦い(武田勝頼と織田信長が決戦した合戦)で、武田方の武将・馬場信春と武田信豊(勝頼のイトコ)と小山田昌行らが布陣したと云われています。勝頼に決戦回避を主張して果たせなかった信春は、同志である山県昌景,内藤昌豊,土屋昌次らの武将達を自分の陣地である大通寺に招いて別れの盃を交わし合ったと云われ、その時に使われたという井戸が大通寺の本堂の裏手に残っていました。翌日の決戦では、別れの盃を交わし合った武将達は死に場所を求めて全員散ってしまいました。写真は大通寺(曹洞宗)の裏手にあった由来板で、そばに盃の井戸がありました。

勝楽寺陣地
新城市

戦国時代に起きた設楽原の戦い(武田勝頼と織田信長が決戦した合戦)で、武田方の武将・山県昌景の軍勢が松楽寺に布陣したと云われています。徳川方の武将・大久保忠世と忠佐の兄弟の軍勢が近づいてくると、松楽寺に陣を置いた山県軍が出撃して激戦を繰り広げ、大久保軍を馬防柵まで押し返したと云われています。昌景の首級は昌景の家臣・志村光家が敵に奪われぬよう持ち帰ったと云われています。戦後、信長と家康が松楽寺に立ち寄って戦勝の祝杯をあげたそうで、戦勝にちなんで勝楽寺と改められました。写真は勝楽寺(曹洞宗)の付近に広がっている田んぼの中にあった由来板で、山県隊と大久保隊が激戦を繰り広げたという場所です。

天神山陣地
新城市

戦国時代に起きた設楽原の戦い(武田勝頼と織田信長が決戦した合戦)で、武田方の武将・土屋昌次と真田信綱と昌輝の兄弟(真田昌幸の兄達)の軍勢が天神山に布陣したと云われています。天神山を出た土屋軍は織田方と徳川方が築いた連合軍が築いた三段の馬防柵を突き破ったと云われ、馬防柵の内側に昌次の墓がありました。土屋軍と共に出撃した真田軍も馬防柵を二段まで突き破ったと云われ、信綱の首級は信綱の家臣・北澤最蔵と白川勘解由によって故郷の上田まで持ち帰ったと云われています。写真は天神山砦跡にあった由来板です。

丸山砦
新城市
戦国時代に起きた設楽原の戦い(武田勝頼と織田信長が決戦した合戦)で、織田方の武将・佐久間信盛と滝川一益の軍勢が布陣したと云われている砦です。そこに武田方の武将・馬場信春が率いる軍勢が攻撃して占拠したのですが、馬場軍の猛攻に耐えきれなかった佐久間軍と滝川軍は馬防柵の内側に退却したという攻防戦があった場所です。丸山砦の前には連吾川が流れており、織田方と徳川方が築いた連合軍が築いた馬防柵は目の前にありました。武田方の敗戦の色が濃くなると、信春は後方の医王寺山砦に布陣している勝頼のところに行って退却を促して見届けると、残った数十人の家臣達と共に伊那街道に留まって散ってしまいました。写真は丸山砦跡にあった由来板です。
亀山城
新城市

南北朝時代に川尻城の奥平貞俊が新しい居城を築かせて移ったのがはじまりだそうです。戦国時代は徳川家康と同盟を結んだ奥平信昌が城主で、甲斐国の武田信玄が三河国に侵攻すると武田側に付きました。しかし、武田勝頼(信玄の4男)が家督を継ぐと、信昌は再び家康に帰属してしまいました。その後家康の娘婿となった信昌は長篠城を改修すると、亀山城を離れました。29年後に起きた関ヶ原の戦いでは、松平忠明(信昌の4男)が亀山城に入城しました。8年後に伊勢国の亀山城に移封すると、役割を終えた亀山城は廃城になりました。写真は国道301号沿いにあった亀山城の由来板で、背後には亀山城があった城山で、「亀山城跡」と書かれた大きな看板が見えました。

川尻城
新城市

応永年間(3代将軍・足利義満の時代)に奥平貞俊によって築かれたのがはじまりだそうです。奥平氏は播磨国の豪族・赤松則氏行(則景の子)を始祖に持つ名門で、上野国にある奥平郷が発祥です。川尻城を築いたものの城郭が手薄であったため、貞俊は亀山城を新たに築いて居城を移すと、川尻城は亀山城の支城となりました。写真は本丸跡にあった城址碑と由来板で、土塁が良好に残っていました。創造の森城山公園の入口には模擬の冠木門が建てられていて、戦国時代の雰囲気を感じることが出来ました。余談ですが、創造の森城山公園という呼び方ではなくて川尻城址公園という呼び方にしてくれないと分かりづらいので、新城市の教育委員会には検討して欲しいものです。

石橋城
新城市

応永年間(4代将軍・足利義量の時代)に亀山城主・奥平貞勝によって築かれたのがはじまりだそうです。石橋城は単郭式の城で、亀山城の西側を固める支城でした。最初の城主は貞勝の次男・久勝で石橋氏を名乗るようになりました。石橋繁昌(久勝の子)の謀反が露見すると、祖父・貞勝の命を受けた家臣の土佐定雄の軍勢に攻められて郎党40人余りが討死してしまいました。戦後、敗死した繁昌と一族の霊を弔うために徳岩明和尚が石橋城跡に慈昌寺(曹洞宗)を建立しました。写真は慈昌寺の正門にあった城址碑で、本堂の裏にある土塁の前に由来板がありました。境内を散策していたら、本堂の上に居た2匹の猿が珍しそうにこちらを見ていました。余談ですが、徳川家康の娘・亀姫を迎えた奥平信昌は、貞勝のハトコに当たります。

文殊山城
新城市

戦国時代に作手村を支配下に置いた武田氏の命令によって奥平氏が築いたのがはじまりだそうです。文殊山城は標高661メートルの山頂の上に築かれた単郭の城で、同じく奥平氏によって築かれた塞之神城とは同じ尾根でつながっています。武田氏の勢力が作手村に及ぶと、奥平氏は武田氏に仕えるようになりました。現在は古井戸や土塁、土橋が残っていて、土塁の上に物見櫓と柵が復元されていました。写真は文殊山城跡に復元された物見櫓で、作手村を見渡すことが出来ました。余談ですが、文殊山は江戸時代には信仰の山で城跡には石仏がたくさんありました。麓にある善福寺(真言宗)の奥ノ院には、文殊菩薩が奉納されていたために、城跡は文殊山城跡と呼ばれるようになりました。

塞之神城
新城市

戦国時代に作手村を治めている奥平氏によって築かれたのがはじまりだそうです。塞之神城は標高628メートルの山頂の上に築かれた3つの曲郭で構成された城で、同じく奥平氏によって築かれた文殊山城とは同じ尾根でつながっています。武田氏の勢力が作手村に及ぶと、奥平氏は武田氏に仕えるようになりました。調査で2時期に渡る構築が指摘されており、奥平氏と武田氏による構築の違いが明らかになっています。写真は文殊山城から善福寺につながる遊歩道にあった塞之神城への標識です。余談ですが塞之神城の麓にある善福寺(真言宗)は、飛鳥時代に開山された村で最古の寺で、真済僧正が善福寺にある仏像の手を修理したことから、「作手」の名が村に付いたそうです。あと、武田勝頼による兵火を免れたという仁王門と金剛力士像が残っていました。

田峯城
設楽町
室町時代にこの地を治めている有力士豪・菅沼定信が築いた山城です。田峯の菅沼氏,長篠の菅沼氏,作手の奥平氏は山家三方衆と呼ばれ、奥三河の山岳地帯を3氏で支配していました。戦国時代になると今川氏,武田氏,松平氏などの勢力に翻弄され、一族郎党も敵味方に別れて団結は崩れていきました。菅沼定忠が城主の時に武田勝頼に属しました。勝頼が長篠の戦いで敗れると、留守を守っていた叔父の菅沼定直と家老の今泉道善が謀反を起したので、城主の定忠と勝頼が田峯城に入る事が出来ず、信州の飯田まで落ち延びたそうです。激怒した定忠は、翌年になって夜襲を仕掛け、謀反を起した一族郎党を滅ぼして田峯城を焼き払ってしまいました。写真は復元された田峯城の御殿や櫓で、神奈川県にお住まいの現当主・菅沼明雄氏から寄贈された甲冑が展示されていました。
田内城
設楽町

戦国時代に菅沼定盛が弟・定孝に家督を譲ると隠居城を築いて移ったのがはじまりです。標高330メートルの独立した丘の上に築かれた城で、寒狭川が天然の水堀の役割をしていました。その頃は今川氏親(義元の父)と織田信秀(信長の父)の勢力範囲に挟まれていて、菅沼家は今川方に付く者と織田方に付く者に分かれてしまいました。城主の定孝は織田方に付いたため、設楽郡一帯を巻き込んだ布里合戦で一緒に行動をしていた菅沼定継(田峯城主)や奥平定勝(家継の義弟)と共に滅ぼされてしまいました。写真は伊那街道沿いの曹洞宗・多宝寺を横切った先に入った登城口の前にあった城址碑で、民家の近くだったので飼い犬に吠えられながら撮影しました。

田口代官所
設楽町

明治2年に板倉勝建達が重原藩(三河国刈谷)を興した際に、飛び地である萩平村に代官所が併設され、窪田作内が代官を務めました。わずか3年後の明治4年に廃藩が決定すると、田口代官所は取り壊されてしまいました。余談ですが、戦国時代は田峯城の菅沼氏の家臣・後藤喜四郎の屋敷があった場所でもあるそうです。写真は田口代官所跡に建てられた田口高等学校です。目当ての石碑「重原藩田口代官所跡」を見つけ出すことが出来ず、帰宅後に田口高等学校の裏側にある畑にあることが分かり、ガッカリしてしまいました。

田口城
設楽町

築城の時期は不詳ですが、この地域を支配していた田口法久が築いたのがはじまりだそうです。標高510メートルの丘陵上に築かれた城で、眼下を通る街道を見張る役割を持っていたそうです。戦国時代には後藤喜四郎が田口城を守備していたそうです。写真は田口城跡にあった奥三河郷土資料館ですが、休館日で入ることが出来ませんでした。周囲を歩いてみましたが、田口城に関する由来板などはありませんでした。

牛久保城
豊川市

室町時代に瀬木城主・牧野成時の命を受けた一族の牧野成勝が築いたのがはじまりだそうです。高い土塁と、2重の水堀に囲まれた城郭で、周囲を武家屋敷や寺院を配置しました。戦国時代には今川氏真(義元の嫡男)が陣を置いたときに、近くにある浄土宗・大聖寺(一色城跡)に三回忌の法要を営んでいます。牧野康成が城主のときに徳川家康の関東移封に従って上野国の大胡に移ると、吉田城に入城した池田輝政の家臣・荒尾平左衛門が城主になりました。関ヶ原の戦いの後にこの地域が天領となると、代官所が置かれましたが、その後廃城になりました。JR牛久保駅の近くにある渡辺マタニティークリニックのそばに小公園があり、大きな石碑「牛久保城跡」と由来板がありました。

三河一色城
豊川市

室町時代に一色時家によって築かれたのがはじまりだそうです。時家は足利持氏(関東公方)の重臣でしたが、関東で起きた永享の乱(持氏と関東管領の上杉憲実)で、憲実が籠る上野国・白井城攻めに失敗して、同族である三河国の守護・一色義貫を頼ったときに、この地に入りました。その後、波多野全慶(時家の家臣)に裏切られて討たれてしまいました。その全慶も弔い合戦を仕掛けた瀬木城主・牧野成時(時家の家臣)によって討たれてしまいました。その後、成時は一族の牧野成勝に命じて築かせた牛久保城に移ると、一色城は廃城になりました。一色城跡は大聖寺(浄土宗)になっています。写真は境内にあった時家の墓と、今川義元の胴塚と、「今川義元公奉賛会」のノボリです。毎年義元の命日になると、地元の人達によって慰霊祭が行なわれているとのことです。

今川義元陣
名古屋市・緑区
戦国時代に桶狭間の戦いで今川義元が本陣を置いた場所です。現在は6年前に桶狭間古戦場伝説地(豊明市)と高徳院(義元の本陣跡)に行っているのですが、今回は義元の銅像があるということで初めて行きました。さすが‘東海一の弓取り’らしい勇ましい姿でした。横には槍を持った織田信長の銅像があり、複数の由来板が設置されていました。信長に敗れたことと、京都かぶれ等で評価が低い義元ですが、内紛で反乱分子を押さえて今川家当主になったのが18歳、甲相駿三国同盟を結成させたのが35歳、駿河と駿東だけでなく三河や尾張の一部まで完全な支配下に置いたのが39歳だったので、実際には非凡な武将でした。余談ですが、帰宅してから気づいたのですが、義元の義弟・瀬名氏俊の陣地跡に行き漏らしてしまったことが分かり、ガッカリしてしまいました。
常滑城
常滑市

室町時代に水野忠綱によって築かれたのがはじまりです。忠綱は水野忠政(於大の方の実父で徳川家康の祖父)の弟に当たります。水野守隆は水野信元(家康の伯父)の娘婿ですが、織田信長の武将として浅井朝倉攻略、伊勢長島の合戦、石山本願寺攻め、甲斐侵攻などの主要合戦に参戦しながら、本能寺の変後の山崎の戦いで明智光秀に付いたために居城を追われてしまいました。その後織田信雄(信長の2男)、高木広正(家康の家臣)が城主になりましたが、家康が関東に転封になると広正も従ったために常滑城は廃城になりました。常滑西小学校の南側に位置する小高い丘の上に常滑城の石碑と由来板があるというので探したのですが分からず、天理教会常滑支部に行って撮ったのが写真の石碑で、そこが常滑城の中心郭だったと云われているそうです。

大野城
常滑市

室町初期に三河国の守護・一色範氏が築いたのがはじまりです。範氏は室町幕府の四職という要職を務めた人物です。その後土岐氏、佐治氏と城主が変わりました。戦国時代は佐治一成が城主で、伊勢湾海上の交通を掌握する水軍を率いていました。一成の母は織田信長の妹・犬で、妻は信長の姪・江(浅井長政の3女)です。しかし、小牧長久手の戦いで徳川家康に付いたために、豊臣秀吉によって江と離縁させられた上に居城を追われてしまいました。その後秀吉の命令で織田長益(信長の弟で通称は有楽斎)が城主になりましたが、水利の悪さから大草城に移ると大野城は廃城になりました。写真は2層3階の模擬天守閣で、佐治神社の前に石碑や由来板が設置されていました。見学が終わってレンタカーに乗り込むと、隣の知多市にある大草城に向けて車を走らせました。

大野御殿
常滑市

1659年(江戸4代将軍・徳川家綱の時代)に、2代目の尾張藩主・徳川光友(家康の孫で、家綱とは従兄弟同士)の尾張領内巡行の際に、大野村の庄屋・平野邸が拡張されて御殿となり、保養地として度々藩主が立ち寄りました。1844年(江戸11代将軍・徳川家慶の時代)までの185年間存在していたそうです。写真は大野御殿跡にあった大野児童センターで、この日はちょうどお祭りで沢山の市民によって付近は賑わっていました。あと、古い民家が建ち並んでいて良い所でした。

細井氏屋敷
東海市

江戸中期に活躍した儒学者・細井平州が産まれた屋敷があった所です。細井家は大和朝廷の時代に栄えた豪族・紀氏の流れを組んでいる名門です。平州が37歳の時に14歳だった上杉鷹山(米沢9代目米沢藩主)に仕え、米沢藩の藩校・興譲館を開いています。53歳の時に徳川宗睦(尾張9代目藩主)招かれ、尾張藩の藩校・明倫堂を開いています。その他西条藩,人吉藩,紀伊藩などから藩の賓師として迎えられています。写真は平州が産まれた屋敷跡にあった小公園に大きな石碑「細井平州先生誕生地」で、横には詳細に書かれた由来板もありました。余談ですが、付近には池田恒興(池田輝政の父)の居城・平島城跡(脇ノ田公園を含)があり、輝政(家康の娘婿)が誕生した城だという事で近くまで行ったのですが、その由来板を見つける事が出来ませんでした。

清水城
東海市

戦国時代にこの地を支配していた清水左京亮の居城がありました。規模は東西25間、南北50間の小城だったそうです。左京亮は水野信元(徳川家康の祖父)に仕えていた家臣で、歌に秀でていた武将でした。連歌師・里村紹巴が尾張国に立ち寄ったときに、左京亮は居城に紹巴を招いたという文献が残っています。愛宕山・威徳院で明智光秀が張行した連歌・愛宕百韻に、紹巴が参加し、この席で光秀は「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠っています。その30日後に光秀は本能寺の変で織田信長を滅ぼしています。写真は清水城跡にあった正音寺(曹洞宗)で、敷地は雑草が凄くて、廃寺かと思ってしまいました。

木田城
東海市

室町時代に荒尾七ヶ村を支配していた豪族・荒尾氏が築いたのがはじまりです。荒尾氏は天武天皇の流れをくむ高階氏の一族です。室町幕府の奉公衆として仕えた家柄でした。戦国時代は荒尾空善が城主で、織田信長に仕えていました。しかし、今川義元の尾張侵攻によって空善は戦死してしまいました。空善の跡を継いだ荒尾善次(佐治氏からの婿養子)は義元に降伏した後に隠居してしまいました。善次の跡を継いだ荒尾善久は三方ヶ原の戦いで織田の援軍として戦死してしまいました。不幸が続いた荒尾家ですが、善久の弟・成房は池田恒興(池田輝政の父)の義兄弟だったため、池田家の外戚として鳥取藩の家老として明治維新まで残りました。写真は木田城跡にあった天尾神社です。

横須賀御殿
東海市

1666年(江戸6代将軍・徳川家宣の時代)に、2代目の尾張藩主・徳川光友(家康の孫で、家綱とは従兄弟同士)の命令によって、尾張藩士・滝川時成の知行替えが行われ、時成の屋敷に御殿「臨江亭」を築いたのがはじまりです。大回遊庭園を中心に、栗林や松並木を植えたそうです。以後、藩主の休憩所として度々利用されました。しかし、49年後に美濃を襲ったマグニチュード6の大地震によって御殿が大破し、取り壊されてしまいました。1783年(江戸10代将軍・徳川家治の時代)に横須賀代官所が置かれると、85年間知多半島西部を統治しました。写真は東海市民体育館の南側にあった公家街道公園にあった横須賀御殿の由来板です。

藪城
東海市

戦国時代に豪族・花井惣五郎が居城を築いたのがはじまりです。尾張国の守護は土岐氏で、その下に仕える守護代として花井氏と富田氏が務めていました。余談ですが、愛知県一宮市萩原町に花井と富田という地名が残っているそうです。惣五郎は今川義元に付いたことで、織田信長の命を受けた水野信元(徳川家康の祖父)の軍勢に攻められて落城しました。籠の直前に城内で裏切りが出たそうで、裏切った城兵に討たれた惣五郎は「弓矢さえ持っていたならば、このようにむざむざ討たれはしなかったものを」という恨み言葉を残して果ててしまいました。落城後に織田信治(信長の弟)が入城しましたが、まもなくして廃城になりました。写真は藪城跡にあった日蓮宗・安楽寺の本堂です。

大草城
知多市

戦国時代にこの地を有していた佐治信方(織田信長の義弟)が長島一向一揆で戦死し、跡を継いだ佐治一成(信長の甥)の後見役として織田長益(信長の弟で通称は有楽斎)が城主になりました。小牧長久手の戦いで一成が織田信雄(信長の2男)に付いたために、豊臣秀吉によって妻の江(信長の姪で浅井長政の3女)と離縁させられた上に居城を追われてしまいました。その後秀吉の命令で豊臣家の御伽衆として摂津国嶋下郡味舌に転封になると、大草城は廃城になりました。余談ですが、築城途中で廃城になったそうで、そういえば土塁や水堀などの縄張りが不自然だなと思ったのはそういうことだったのかと思いました。写真は2層3階の模擬天守閣で、大草公園内に大きな土塁や水堀、空堀が良好に残っていて見応えありました。

日長城
知多市

築城の時期は不明ですが、この地を支配していた豪族・匹田氏が築城し、後に駒沢氏が居城したという記録が文献に残っているそうで、それ以上詳しいことはわかりませんでした。日長城は標高25メートルの丘に築かれた城で、下を日長川が天然の水堀の役割をしていました。城跡には秋葉神社があり、西側に伸びる尾根伝いに紅葉谷があり、この地域の紅葉名所になっているそうです。写真は秋葉神社へ登る長い階段の上にあった手作りの看板「日長城跡」です。

寺本城
知多市

戦国時代にこの地を支配していた土豪・花井信忠の居城がありました。信忠氏は今川義元に仕えていましたが、義元が桶狭間の戦いで戦死すると、織田信長によって城下が戦火によって焼かれたので降伏しました。その後大野城の佐治信方(信長の妹婿)と協力関係を持つようになると、西知多の水軍を率いて伊勢湾を抑える働きをするようになりました。小さな天守閣があり、天守閣の鬼瓦が青銅の鱗形をしていて夕日に映えて伊勢湾を通る舟からよく見えるところから青鱗城とも呼ばれました。写真は天王山と呼ばれる城山の東側に「城之内」、北に「北堀畑」その南に「南堀畑」などの地名が残っており、住宅地を通る道沿いに、写真の石碑「城之内」がありました。僕が教育委員だったら「青鱗城(堀之内)」もしくは「寺本城(堀之内)」という形に作らせたと思います。

佐分利古城
知多市

承久3年(鎌倉将軍・北条義時の時代)にこの地を支配していた大庭氏が築いたのがはじまりです。公卿・平親宗が城主のときに春日大社とのトラブルで訴えられると、播磨に流罪になったことで廃城になりました。付近は佐布里ダム湖となり、3月上旬は梅、夏は藤、秋は紅葉が彩って近隣の住民が楽しむ名所となっています。写真は佐布里ダム記念館にあった由来板型の石碑で、夕日の逆光が眩しかったです。この佐分利城跡が20城址目で、まだ巡るところが1ヶ所残っており、急いでレンタカーに乗り込むと、村木砦跡に向かって走らせました。

半田城
半田市

明応年間(室町10代将軍・足利義稙の時代)に、この地を支配していた榊原氏によって築かれたのがはじまりだそうです。半田城は小さな平城だったと思われます。半田城跡は、南側にあった成岩城跡(榎本了圓の居城)と、北側にあった岩滑城跡(中山勝時の居城)の中間地点にあり、半径2キロメートルしかないところにありましたが関連性は薄く、戦国時代に入る前には廃城になったと思われます。半田城については、それ以上のことは全く分からないそうです。写真は城跡にあった食卓に馴染みのミツカン酢で有名な中埜産業の本社工場&自宅がありました。

成岩城
半田市

戦国時代に榎本了圓によって築かれたのが始まりです。北側は神戸川が、東側は海岸線に囲まれた要害でした。了圓は元々金蓮寺(時宗)の僧でしたが、領主の一色氏が衰えて代官の佐治氏が宮山に新城を築いて移ると、了圓も成岩に新城を築いたという事です。刈谷城の水野信元(徳川家康の伯父)が、敵対していた織田信秀(信長の父)と同盟を結ぶと成岩城を攻めてきました。成岩城の兵は必死に抵抗しましたが、落城してしまいました。その後梶川文勝(信元の重臣)が入城しました。豊臣秀吉の朝鮮出兵では文勝は池田輝政に従って参陣しましたが、ソウル郊外の陽川で戦死してしまいました。その後、成岩城は廃城になりました。写真は城跡にあった石碑「成岩城址」で、成瀬正雄(犬山城主)が書いた字で達筆でしたが、成岩城との繋がりが全く分かりませんでした。

岩滑城
半田市

戦国時代は水野氏の重臣・中山勝時が城主でした。勝時は松平元康(後の徳川家康)の生母・於大の方の妹婿で元康の叔父に当たります。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、孤立してしまった大高城を脱出した元康が逃げ込んだのが岩滑城でした。元康の母方の親戚といえども、当時の水野家は、当主の水野忠政(於大の方の実父で元康の祖父)と息子の水野信元(於大の方の兄で元康の伯父)と勝時は一族を挙げて織田側に付いていたのですが、勝時は匿ってくれました。時代が移り、本能寺の変で織田信長が明智勢に討たれると、堺町で急報を受けた元康は伊賀越えを決行して、中山勝尚(勝時の子で元康のイトコ)の護衛を受けて常福院に入って典空和尚(同じく元康のイトコ)が匿ってくれました。写真は岩滑城跡にあった常福院(浄土宗)の本堂です。

追分城
大府市

戦国時代に稲垣淡路守が築城したのがはじまりだそうです。この地域は織田氏対今川氏、水野氏対松平氏の合戦が繰り広げられていたので、追分城も戦乱に巻き込まれたと思われます。江戸時代には松平忠吉(徳川家康の4男)と徳川義直(家康の9男で尾張藩の始祖)の2代に仕えていた阿部正興の屋敷が追分城跡に置かれていました。昭和30年代までは、東西約78メートルで南北約90メートルの土塁、そして幅が5メートルを超える堀が残っていましたは、現在は城跡公園として残すことなく団地の建設と大浜街道の建設によって無残に破壊されてしまいました。写真は大府北中学校の生徒達によって作られた木製の由来板で、正門をくぐった左手にありました。

長草城
大府市

鎌倉時代にこの地域を支配していた地頭・藤田民部の居城がありました。民部は家臣の藤次藤左衛門に銘じて開拓をしていたという記録が残っています。現在の長草城跡は長草神社と写真の地蔵寺(曹洞宗)がありました。高台に建てられている地蔵寺を見ていると城塀と本堂がお城っぽく見えました。余談ですが長草神社は室町時代から続く天下の奇祭と呼ばれる‘どぶろく祭り’があり、お祭りの日には狭い敷地内に縁日が立ち並び、大勢の地元の人達で賑わうそうです。

村木砦
東浦町

戦国時代に尾張侵攻の手を強めた今川義元の命令で石川康盛が築いたのが始まりです。当時は周辺には海があり、対岸沿いに築かれた織田方に付いた水野一族が支配する城砦群に対して、制海権を押さえる目的でクサビを打ち込んだ今川方の砦でした。松平義春(徳川家康の曽祖父)が村木砦を守っていましたが、織田信長,織田信光(信長の叔父),水野信元(家康の伯父)らの連合軍に攻められて落城しました。この戦いで信長は斎藤道三より直伝の鉄砲連打戦法を採用しましたが、松平勢が強く抵抗した為、織田軍は3割の兵を失っただけではなく、信長の小姓まで戦死してしまった戦いでした。村木村の代官になった清水家重が戦死者鎮魂の為に建立したのが八剣神社で、境内には石碑と由来板がありました。この日の城巡りは村木砦が最後で、すっかり暗くなっていました。

阿久比城
阿久比町

築城の時期は不明ですが、久松氏(尾張守護・斯波氏の家臣)が阿古居荘を支配していました。戦国時代は久松俊勝(元康の母・於大の方の再婚相手)が城主で、桶狭間の前哨戦・大高城の兵糧入れ作戦を命じられた今川方の松平元康が直前に寄り道したのが阿久比城でした。織田方に寝返った水野信元(元康の伯父)の命で今川方だった松平広忠(元康の父)と離別させられて以来、16年振りの再会でした。織田方に付いていたにもかかわらず俊勝は阿久比城に来た元康を迎え入れたので実現した再会でした。そういう出来事があったので元康が徳川家康と名乗って江戸に幕府を開くと、俊勝と於大の方の間に産まれた息子達(元康の異父弟)は久松松平家として後に関宿藩や桑名藩を起こしています。写真は城山公園にあった城址碑と由来板で、土塁が良好に残っていました。

宮津城
阿久比町

弘安の役(一度目の蒙古襲来の役)の恩賞によってこの地に領地を与えられた新海淳英が独立丘陵の上に築いたのがはじまりだそうです。戦国時代に緒川城から攻めてきた水野信元(徳川家康の伯父)によって落城するまで、新海氏9代の居城として続きました。新海氏は菅原道真を祖に持つ家柄です。写真は宮津城の主郭にある土塁の上に建てられていた秋葉神社で、まるで櫓のように見えました。その後レンタカーに乗り込むと、戦国時代に久松俊勝(家康の生母・於大の方の再婚相手)が城主をしていた阿久比城に向かって走らせました。

勝幡城
稲沢市

室町時代に織田信定によって居城が築かれたのが始まりです。2重の水堀で固めたのは当時では珍しかったそうです。信定は信長の祖父で、清州三奉行の一人です。元々は塩畑城と呼ばれ、織田信秀(信長の父)が家督を継ぐと勝幡城と改名されました。勝幡城に招かれた公卿の山科言継(藤原北家四条家の分家)が、城の規模と城下町の栄えに驚いたと言継卿記に残しています。当時の那古野城は今川氏豊(今川義元の弟)が城主でしたが、信秀は奇策を用いて氏豊を滅ぼすと拠点を那古野城に移しました。信長は那古野城で産まれたという説が有力ですが、この勝幡城で産まれたという説もあります。家督を継いだ信長が那古野城から拠点を清州城に移すと、城代・武藤雄政も野府城に移すと役割を終えました。写真は住宅街にあった勝幡城の看板で、横には石碑もありました。

陸田城
稲沢市

戦国時代に織田信雄(信長の次男)の家臣・陸田市左衛門の居城があった場所です。陸田氏は景行天皇の流れをくむ名門です。陸田城については左衛門が城主であったこと以外は全く分からないのですが、周辺は丸ノ内(本丸),北屋敷,中屋敷,南屋敷,治朗丸,西ノ口,陣出、といった城跡があったことを示す地名が残っています。写真は田んぼの中にあった大きな石碑「陸田古城址」で、目の前を東海道新幹線がゴーッと音を立てて通過していきました。

竹腰城
稲沢市

関ヶ原の戦いで福島正則(豊臣秀吉の重臣)に従って軍功のあった祖父江信勝が加増を受けた竹腰村に居城を築いたのがはじまりです。しかし、大坂冬の陣で豊臣方への内通の疑いをかけられた信勝は領地没収、およびお家断絶となり、竹腰城は取り壊されてしまいました。その後は、尾張藩の重臣・横井一族の治めるところとなりました。写真は田んぼと畑の中にあった竹腰城の高札型の看板で、その横を東海道新幹線がゴーッと音を立てて通過していきました。

片原一色城
稲沢市

南北朝時代に橋本宣都寺によって築かれたのがはじまりです。橋本氏8代の居城として、江戸時代に発令された一国一城令によって廃城になるまで約180間続きました。戦国時代は5代目・橋本一巴が城主で、織田信長の鉄砲師範を務めていました。長男の道一は織田軍の砲術の組頭、次男の大膳は織田軍の砲術家を務めていた鉄砲一家です。一巴亡き後の橋本一族は、豊臣秀吉の重臣・加藤清正に仕えるようになり、朝鮮出兵では鉄砲隊を引き連れて従軍しています。写真は神明社の横を通るサイクリングロード沿いにあった片原一色城の石碑で、のどかな田園風景が広がっていました。

矢合城
稲沢市
戦国時代に主君・織田信雄(信長の次男)の命令で橋本大膳が片原一色城の支城として矢合城を築いたのがはじまりです。大膳は織田軍団の砲術家です。余談ですが、片原一色城に居る父の一巴は信長の鉄砲師範、兄の道一は砲術の組頭を務めていた鉄砲一家です。大膳は子供に恵まれませんでした。徳川家康によって発令された一国一城令の際に、橋本一族の城(片原一色城,儀長城,井掘城,三宅城)と共に廃城になりました。周辺は喜蔵屋敷,興屋敷,中屋敷、といった城跡があったことを示す地名が残っています。矢合城跡は国分寺(臨済宗)となり、写真の山門の左手に石碑「矢合城跡」がありました。
西溝口城
稲沢市

応永年間(室町4代将軍・足利義持)に豪族・溝口勝政が居城を築いたのがはじまりです。溝口氏は甲斐国の武田一族・逸見氏の流れを組んでいる家柄です。戦国時代は溝口定勝(後に越後国の新発田藩主になる秀勝)が当主で、丹羽長秀(信長の重臣)、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えるようになりました。いつ頃に廃城になってしまったのかは分かっていないようです。写真は浄土真宗・成願寺にあった西溝口城跡の石碑で、埋もれた垣根から顔を出している状態でした。お寺というと一般的に思い浮かぶイメージがあるんですが、そこは民家という雰囲気で全く気付かなくて、周囲を何度もまわってやっと見つけました。

祖父江城
稲沢市

文正元年(8代目室町将軍・足利義政)に祖父江久豊が居城を築いたのがはじまりです。祖父江氏は代々尾張中島郡内直轄領代官を務めていた家柄です。戦国時代には祖父江国舎が当主で、国舎織田信長に、弟の国成は明智光秀に、別の弟の国之(後の信勝)は福島正則にそれぞれ仕えていました。国舎は本能寺の変で戦死、国成は山崎の戦いで戦死したため、残った国之が当主になりました。大坂冬の陣では徳川方に付いたものの、豊臣方への内通の疑いをかけられは国之は領地没収、およびお家断絶となると、祖父江城を接収されました。江戸時代に尾張藩の家老・横井時泰が赤目城に入城すると、弟の時久(尾張徳川家の鷹匠頭)が祖父江城に入城して祖父江横井家を興しました。写真は祖父江城跡にあった祖父江神明社で、境内には土塁の一部が残っていました。

坂井氏屋敷
稲沢市

戦国時代に土豪・坂井利貞の居城がありました。利貞は織田信長に仕えていた奉行で、信長の命令によって尾張領内の道路や橋、河川の築堤や東海道の並木整備などの奉行をしていました。信長の死後は、織田信雄(信長の次男)や豊臣秀吉に奉行として仕えていました。次男の利政は尾張藩に仕えて船奉行となりましたが、その息子の利知の時に船事故の責任を負って断絶されてしまいました。写真は山崎神社の脇にあった坂井氏屋敷跡の石碑です。

山崎城
稲沢市

戦国時代に柴田勝豊仕えていた徳永秀昌が築いたのがはじまりです。領内川を天然の水堀とした小さな要害でした。秀昌は勝豊(勝家の甥)に仕えていましたが、賎ヶ岳の合戦で勝豊と共に秀吉に寝返り、その後美濃国の松長城を与えられて移った後も、山崎城は支城として続きました。秀吉の死後は朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めるという難しい役を果たしました。その後、徳川家康に仕えるようになり、関ヶ原の合戦は西軍に付いた高木盛兼(秀吉の家臣)の高須城と池田秀氏(六角氏の旧臣)の駒野城を攻め落とす手柄を立てた後に、高須藩の初代藩主になると、山崎城は廃城になりました。写真は城跡にあった山崎神社で、土塁らしき遺構が残っていました。

苅安賀城
一宮市

戦国時代に織田信長に仕えていた浅井政高の居城があった場所です。2重の水堀で囲った平城です。政高は近江の浅井亮政(浅井長政の祖父)の庶子に当たります。政高の子は政貞といい、織田軍の赤母衣衆の一人でした。信長によって岩倉城の織田信安(信長の叔父)が攻略されると、黒田城を追われた山内一豊が政貞の元に身を寄せたことがあります。政貞には織田信雄(信長の次男)の3家老になった嫡男の長時と、徳川家康と秀忠に仕えて書院番(将軍家の親衛隊)になった次男の政重が居ます。後に政貞は信長の命令で織田信忠(信長の嫡男)に仕えるようになりましたが、本能寺の変で明智光秀の兵に攻められて戦死してしまいました。写真は苅安賀自動車教習所の出入口の右手側にあった苅安賀城跡の石碑です。

中嶋城
一宮市

鎌倉時代に中島宣長が中嶋郡に土着して居城を築いたのがはじまりです。宣長は源融(嵯峨天皇の12男)を始祖に持つ家柄で、歴代の当主は代々中島蔵人を名乗りました。戦国時代には斯波氏や織田氏によって所領を奪われて衰退しました。一族で豊臣秀吉の家臣になった中島氏種という武士が居て、大坂七手組頭の一人として2千の兵で大坂城を守備し、大坂の夏の陣で戦死してしまいました。幕末に活躍をした榎本武明、木戸孝允が長崎海軍伝習所時代に師匠として慕ったのが浦賀奉行与力をしていた中島三郎助で、氏種の末裔に当たります。写真は中島小学校の南側に位置する住宅街にあった中嶋城跡の石碑です。

吉藤城
一宮市

戦国時代に織田信雄(信長の次男)の家臣・遠藤三郎右衛門の居城がありました。小牧・長久手の戦いでは、信雄と徳川家康の連合軍の砦として、織田長益(信長の11男で後に利休の弟子となった有楽斎)と滝川雄利(一益の娘婿)と飯田半兵衛(信雄の家老)を派遣し、兵糧と弾薬も補給して守備を強化しました。戦後、廃城になったと思われます。写真は工場団地に囲まれた田んぼの中あった石碑「吉藤城跡」と由来板で、周辺は南古城という地名になっていました。この日の城巡りは吉藤城が最後の17城址目で、レンタカーに乗り込むと、東海道本線のJR尾張一宮駅に向かってハンドルを切りました。

正則出生地
美和町

永禄4年(1561年)に、二ッ寺の百姓の子・市松(後の福島正則)として出生した場所だと云われているそうです。正則の母は豊臣秀吉の叔母だったので、小姓として頭角を現してきました。同じく秀吉の小姓として仕えていた親戚の加藤清正とは歳が1つしか離れていません。正則には別所重宗(秀吉による三木の干殺しで自刃した長治の叔父)に嫁いだ姉と、弟の高晴が居たことを初めて知りました。余談ですが、近くには菊泉寺(曹洞宗)があり、正則の姿を伝える唯一の肖像画(甲冑姿)や、安芸国の広島城が徳川幕府によって改易&接収される直前に家臣達の身のふり方を詳かく指示した書簡「正則公仰書之写」が納められています。現在は美和町にある静かな住宅地の中にある小さな公園になっていて、そこに写真の出生地碑と説明板がありました。

十二城
愛西市

鎌倉初期に板垣兼信の居城がありました。城名は12の棟を持つ城だったことから付いたそうです。兼信は甲斐源氏・武田信義(武田氏の始祖)の3男で、源義光(源義家の実弟)の玄孫で、板垣氏の始祖に当たります。兼信は源範頼(源頼朝の異母弟)に従って一ノ谷戦いなどで平氏を撃退する活躍をしましたが、甲斐源氏の力を恐れた頼朝によって違勅(勅令違反)の罪を着せられて、隠岐国へ配流されてしまいました。余談ですが、兼信の子孫に武田信玄を支えた重臣・板垣信方(武田24将の一人)が居ます。写真は唯称寺(浄土宗)の南東側の入口にあった十二城の小さな石碑で、唯称寺の南側にある田んぼから掘り出されたものだそうです。

古木江城
愛西市

戦国時代に織田信長の命令を受けた織田信興(信長の弟)が木曽川の支流・筏川と沼地に囲まれた平地に築いたのがはじまりです。この地は伊勢国長島・願証寺(浄土真宗)から近かったことで一向宗勢力が強く、一向宗門徒を滅ぼすために信長が打ち込んだクサビが古木江城でした。弥富村の服部党や周辺の農民に攻められ、6日間籠城した信興と80名余りの城兵は、城外で撃たれてしまいました。比叡山の延暦寺焼き討ちから岐阜城に戻った信長は、そのまま津島へ出陣して城を奪回しましたが、その後も一向宗門徒との対立は続きました。3度目の伊勢国長島攻めで、8万を超える織田兵によって一帯の一向宗門徒は鎮圧されました。写真は富岡神社の鳥居の横にあった古木江城の石碑と説明板です。

早尾東城
愛西市
室町時代にこの地を支配していた豪族・大橋源三右衛門が築城したのがはじまりです。戦国時代は津島衆の拠点として利用されていましたが、勝幡城の織田信定(信長の祖父)に攻められて降伏し、早尾東城を明け渡してしまいました。信長が本能寺で倒れると、織田信雄(信長の次男)の家臣・橋本大膳が城主になり、片原一色城の支城となりました。大膳は織田軍団の砲術家です。余談ですが、片原一色城に居る父の一巴は信長の鉄砲師範、兄の道一は砲術の組頭を務めていた鉄砲一家です。当時は東西180メートル、南北に55メートルほどで、約15軒の民家が建ち並んでいたそうです。まもなくして大膳が矢合城主として去った後、廃城になって常徳寺(浄土真宗)が建てられて現在に至っています。写真は常徳寺にあった早尾東城の石碑と説明板です。
田尻城
愛西市

築城の時期と城主名は不明ですが、木曽川東岸の低湿地帯に築かれたそうです。嘉永3年(12代将軍・徳川家慶の時代)に、17軒の小さな村を治めていた庄屋・弥左衛門が尾張藩に提出した報告文書に、「当村城跡丸の内と申す場所も御座候」と書かれていたことから、当村が古城跡にあったことが分かるのみです。そのことから後世になってから田尻城と呼ばれるようになりましたが、木曽川の改修によって正確な城跡は発見されていません。写真は木曽川の堤防沿いにあった田尻城の石碑と説明板で、付近には「丸の内」と「天王田」の字名が残っています。

赤目城
愛西市

室町時代に横井時永が築城したのがはじまりです。横井氏は北条時行(鎌倉幕府14代執権・北条高時の次男)の末裔です。2代目・横井時勝は足利義輝(室町幕府・13代将軍)に仕え、3代目・横井時延は織田信長に仕え、4代目・横井時泰は信長が横死した後は、豊臣秀吉や徳川家康に仕えました。時泰の子供達は、藤ヶ瀬横井家(本家)、紀州横山家、祖父江横井家を興して、代々尾張藩の重臣として仕えて明治時代を迎えました。写真は横井家の居城・赤目城跡にあった赤城神社で、田んぼに囲まれた台地の上にありました。余談ですが、赤目城から移築したという伝承の旧門が、一心寺(横井家の菩提寺)と蓮台寺に残っています。

九之坪城
北名古屋市

築城者と時期は定かではありませんが、この地を支配していた豪族の此壷城があったことは確かのようです。戦国時代に織田信長の家臣・簗田政綱が戦功で此壷城を与えられると、大改修して城名を九之坪城に改めました。桶狭間の戦いでは今川義元の本陣の正確な居場所を信長に伝えたことで奇襲攻撃の成功につながった功績を認められると、政綱は沓掛城(義元が桶狭間の戦いの前夜に宿泊した城)を与えられました。九之坪城が廃城になった時期は不明ですが、沓掛城に移った際に利用されなくなったと思われます。写真は北名古屋市健康ドームに隣接していた老人ホーム・ふれあいの家にあった石碑「九之坪城址」と説明板です。

林道勝邸
北名古屋市

戦国時代に織田信秀(信長の父)に仕えていた重臣・林道勝の屋敷があった場所です。通称は秀貞といい、信秀の偏諱を受けて‘秀’の一字を貰うほど信頼のあった武将で、信長が那古屋城を与えられると、一番家老として信長に付くようになりました。織田家の内紛で、織田一族を次々と糾合する信長に不満を抱くようになった道勝は、柴田勝家と弟の林通具と共に織田信行(信長の弟)擁立して謀叛を起こしました。稲生の戦いで敗れた道勝は勝家と共に、外交や行政面を中心に宿老として信長を支えました。晩年は信長の元を離れ、京都に住んだり安芸に移住したりして静かに暮らしていたそうです。写真は浄土真宗・松林寺(沖村城跡とも呼ばれている)にあった石碑です。

井関城
北名古屋市

文明11年(8代将軍・足利 義政の時代)、佐々成宗が井瀬木に居城を築いたのがはじまりで、成宗は近江源氏の出身で、織田信長に仕えていた重臣・佐々成政の実父に当たります。嫡男・佐々政次(成政の兄)が城主の時に、桶狭間の戦いで今川義元の大軍に取り囲まれて戦死すると、井関城は廃城になりました。余談ですが、成政の孫に本理院(3代将軍・徳川家光の正室)と、狩野探幽(江戸時代の大絵師で江戸城,大坂城,名古屋城,二条城,大徳寺,南禅寺などの障壁画を手掛けた人物)が居ます。写真は井関城跡に建つ全昌寺の弘法堂です。

長束正家邸
稲沢市

豊臣政権の五奉行の1人・長束正家の屋敷があった場所です。水口盛里の嫡男として生まれた正家は、23歳の時に豊臣秀吉から高い算術能力を買われて豊臣家の財政を一手に担い、太閤検地と知行地の管理をしていました。小田原攻めにおける数万を超える豊臣軍の兵糧管理や、朝鮮出兵における数十万を超える日本軍の兵糧管理、伏見城の普請に参加するなど困難な仕事をやってのけた優秀な人物でした。関ヶ原では西軍に付いた為、池田長吉(輝政の弟)によって弟の長束直吉と共に捕えられて、京都で切腹してしまいました。余談ですが、正家の嫡男・助信は徳雲院(細川幽斎の外孫)を正室に迎えていた事から、関ヶ原の時は幽斎の田辺城に匿われました。幽斎の嫡男・忠興が小倉城主になると、田中半左衛門と改名して細川家に仕え、子孫は代々続いて明治を迎えました。

増田長盛邸
稲沢市

豊臣政権の五奉行の1人・増田長盛の屋敷があった場所です。一向宗門徒の出身だった長盛は、28歳の時に豊臣秀吉に仕え、主要合戦では石田三成と共に外交を担当しました。京都にある三条大橋の奉行も務めた事があり、橋に名が刻まれています。関ヶ原では西軍に付いて、西国大名に西軍加担を要請する担当したり、伏見城や大津城攻めに参加しました。しかし、開戦の直前に保身工作の為に勝手に手勢を引き連れて大坂城に入城して出家してしまいました。徳川家康の命令で岩槻城主・高力清長の預かり身となりました。息子の盛次は徳川義直(家康の9男)に仕えていながら、夏の陣直前になって出奔して大坂方に付いて戦死してしまいました。戦後家康の怒りを買った長盛は命令で自刃してしまいました。同じ五奉行の長束正家とは違って本当に潔くない最後でした。

浅野長勝邸
稲沢市

戦国時代に織田信長の弓衆を務めていた浅野長勝の屋敷があった場所です。長勝は浅野長政(安井重継の子で、後に豊臣政権の五奉行)と寧々(後に秀吉の正室)を養子に迎えた武将です。写真は平頼盛(平清盛の異母弟)が寄進した臨済宗・長光寺の南側にある民家の角にあった屋敷跡を示す石碑「浅野長勝邸跡」です。土塁などの遺構は全く残っていませんでしたが、石碑があるだけでも嬉しいものでした。長光寺の付近は古い宿場の建物が連なって残っていて見応えがありました。その長光寺には室町時代に建てられた地蔵堂(重要文化財)が残っていて、長勝や浅野家中の者がお参りに来たりしたんだなぁと思うと、感動してしまいました。

北島城
稲沢市
平安時代にこの荘園を与えられた平経貞が築いたのがはじまりだと云われているそうです。経貞は坂東平氏・秩父党の出です。戦国時代は織田信長の家臣・飯尾尚清(織田信長のハトコ)の居城となりました。桶狭間の戦いでは、尚清は織田秀敏(信長の大叔父)と共に鷲津砦を守備したために、今川義元の家臣・朝比奈泰能(義元の母・寿桂尼の孫)と井伊直盛(徳川四天王の1人・井伊直政の祖父)の攻撃を受けて全滅してしまいました。写真は北島城跡に建てられた陽春院(曹洞宗)で、名鉄線の新清州駅前にあった「きよす・あしがるサイクル」で借りた無料サイクルで一番最初に寄ったところです。
清州陣屋
春日町

天明3年(10代将軍・徳川家治の時代)に美濃街道(吉例街道)の追分として栄えていた清州宿(昔は‘清須宿’)や、新川の堀江と寺野、春日の野田、稲沢の北市場などの広大な領地を統治するために築かれたのがはじまりです。代官・朝田藤三郎によって、織田信長の清洲城跡が荒廃するのを防ぐために城跡の周辺に石垣を築いて保全したという記録が残っています。写真は平頼盛(平清盛の異母弟)が寄進した臨済宗・長光寺の近くに広がる畑の中にあった由来板です。長光寺の付近は古い宿場の建物が連なって残っていて見応えがありました。その長光寺には室町時代に建てられた地蔵堂(重要文化財)が残っていて、清州陣屋の誕生から明治維新に取り壊されるまでの経過を見てきた歴史証人なんだなぁと思うと、感動してしまいました。

大野木城
名古屋市・西区
戦国時代に塙右近がこの地に居城を築いたのがはじまりです。塙氏は常陸国の出身だそうです。右近の息子は原田重友(柴田勝家の娘婿)といって織田信長に仕えていましたが、石山合戦(信長と石山本願寺の顕如が対立した戦い)で戦死してしまいました。重友の息子は安友と言い、塙姓に戻って塙宗悦と名乗るようになると、徳川将軍家の医者となりました。大坂の陣で真田幸村と木村重成と長曽我部盛親らと共に奮戦した塙直之(通称は塙団右衛門)はこの塙一族で、直之の生母の墓が曹洞宗・福昌寺(塙氏の居城跡)にありました。写真は福昌寺にあった宗悦に関する石碑です。余談ですが、京都伏見にあった伊達屋敷で侍女として奉公していて伊達政宗の目にとまって側室となった祥光院は塙一族の出身だと云われていて、伊達宗泰(岩出山伊達氏の祖)を産んでいます。
小牧山城
小牧市
戦国時代に尊敬していた亡き舅・斉藤道三が築いた稲葉山城を攻略する拠点として織田信長が新城を築いたのがはじまりだそうです。NHK番組で道三を取り上げていたのですが、信長によって楽市楽座の制度,関所の廃止などは道三が先駆けたことで、それらを取り入れた最初の城下町だそうです。豊臣秀吉と徳川家康が対峙した小牧・長久手の合戦では、すばやく占拠した家康の本陣が置かれていました(秀吉は犬山城に本陣を敷いていました)。江戸時代の小牧山は入山禁止になっていました。明治維新には徳川義親(尾張藩の最後の藩主)の所有地となっていましたが、昭和2年に国に寄付された関係で、義親の銅像がありました。小牧山は14年前に犬山城に日帰りドライブに行ったときの国道155号から見上げたことがあり、やっと訪城を果たすことが出来ました。
北外山砦
小牧市
戦国時代に柘植正俊の居城がありました。城主をしていた当時の正俊は織田与四郎を名乗っていて、織田信長の従弟に当たります。近くにある蟹清水砦も正俊の居城だったと云われていて、定かではありませんでした。小牧・長久手の戦いでは徳川家康方の砦として居城跡が再利用されました。この砦には、本多忠勝(徳川四天王の一人)と松平家忠(深溝松平一族)と奥平信昌(家康の娘婿)の軍勢が布陣したそうです。実は、4年前に目印であるスーパーサントまで行きながら、写真の石碑「北外山砦跡」が敷地内あるという個人宅が見つかりませんでした。今回は新しい道路の拡張による区画整備のお蔭で、その石碑が道路に面して移し直されていたので、ゆっくり撮ることが出来ました。史蹟巡りをする側としては、見つけやすくなっていたので良かったと思いました。
二重堀砦
小牧市

小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦が置かれていた場所です。この砦には、日根野弘就と盛就の兄弟の軍勢が布陣して、二重の堀で固めていました。日根野氏は斎藤道三に仕えていた旧臣でしたが、複数の主君を変えた後に豊臣秀次(秀吉の甥)に仕えるようになった人物です。徳川家康の本陣がある小牧山城からは2キロメートルしか離れていなかったので、徳川方の軍勢の猛攻を度々受けて多数の戦死者を出しましたが、それでも陥落しませんでした。豊臣軍が美濃国に移動するときに、細川忠興と長谷川秀一(織田家の元奉行)と共に殿とつとめ、追いかけてきた織田信雄(信長の次男)の攻撃を防ぐ活躍をしました。写真は砦址にあった石碑「日根野備中守弘就砦址」で、住宅街の中にありました。ここから家康が本陣を置いた小牧山が良く見えました。

宇田津砦
小牧市

小牧・長久手の戦いでは徳川家康方の砦が置かれていた場所です。この砦には、松平親乗(大給松平一族)と松平忠頼(桜井松平一族)が率いる1500名の軍勢が布陣したそうです。豊臣秀吉方の二重堀砦とは対峙する位置にありました。宇田津砦を経由して家康方の軍勢がたびたび出撃して、二重堀砦の日根野兵を苦しめました。写真は東洋ゴム工業小牧本社工場の敷地内に残されている哥津の森にあった石碑「宇田津砦跡」で、その横には説明板もありました。見学を申し込んでみたら、直ぐ総務に連絡してくれた守衛さんと、案内してくれた総務課の方には感謝です。余談ですが、大正年間に撮影したという不発橋から見た哥津の森(宇田津砦跡)の古写真が残っていて、のどかな風景が広がっていました。なお、この付近には沢山の鉄矢じりが出土されたということです。

田楽城
小牧市

築かれた時期は不明ですが、戦国時代にこの地を治めていた豪族・長江平左衛門の屋敷がありました。小牧・長久手の戦いでは徳川家康方の砦となり、屋敷には豊臣秀吉方の池田恒興(姫路城を築いた輝政の父)によって討たれた犬山城主・中川定成(織田信長の次男・信雄の家臣)の残党が集結して守備しました。それが田楽城となったということですが、どういった定義で、合戦中に名称が「屋敷」から「城」に変わってしまったのかが分かりませんでした。写真は住宅街の細い道を駆け上った台地の上にあった長福寺(臨済宗)で、門と土壁がお城っぽい雰囲気で面白かったです

上末城
小牧市

文明年間(8代将軍・足利義政の時代)に落合勝正によって築かれたのがはじまりです。落合氏は足利一族の流れをくむ名門です。落合安親(勝正の子)の時に織田氏に仕えるようになりました。落合庄九郎(勝正の孫)の時に、小牧・長久手の戦いが起きると豊臣秀吉方に付いて池田恒興(織田信長の元重臣で姫路城を築いた池田輝政の父)の三河侵入への道案内をしたそうです。しかし、その動きを察した、徳川家康の軍勢によって恒興と森長可(織田信長の小姓・蘭丸の兄)が戦死し、豊臣秀次(秀吉の甥)は敗走し、庄九郎も敗走して居城も落とされてしまいました。戦後、居城は廃城になり、落合一族は武士をやめて帰農して現在に至っています。写真は国道155号沿いにあった石碑「上末城跡」と説明板です。付近には落合という苗字の家が多かったです。

大草城
小牧市

室町時代にこの地を治めていた豪族・西尾道永が居城を築いたのがはじまりだそうです。道永は岩倉城の織田信安に仕えていた家臣でしたが、主家の家督争いに巻き込まれてしまった為、東美濃国の釜戸に萩之島城を築いて織田氏の元を離れると、大草城は廃城になりました。現在、城跡に白山神社が建てられており、その登城口が分からなくて農作業をしていた地元の方に聞いたら、丁寧に教えていただいたので、写真の石碑「大草城跡」と説明板を見つけることが出来ました。この日は大草城が最後の16城跡で、レンタカーに乗り込むと、国道155号を尾張一宮駅に向かって走らせました。

尾張一宮城
一宮市

戦国時代に関長重が築いたのがはじまりだそうです。関氏は平重盛(清盛の嫡男)の末裔です。長重の嫡男は長安といい、森長可の娘を妻に迎えたので、森蘭丸(織田信長の小姓)とは義理兄弟の関係になります。長安は小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に付き、作戦で軍勢を移動していた秀吉が一時的に一宮城に入ったことがあるそうです。しかし、この戦いで長安は戦死してしまいました。余談ですが、戦死した長安は信長の命を受けた甲斐国攻めで、臨済宗・恵林寺(武田家の菩提寺)の焼討ちを指揮した武将だったことが分かりました。罪の無い僧侶をたくさん殺傷した報いかなと思いました。戦後、織田信雄(信長の次男)の命で家臣の不破広綱が入城しましたが、まもなくして廃城になりました。

澤井公屋敷
一宮市

織田信雄(信長の次男)の重臣・澤井雄重の屋敷がありました。小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方に付いて、恩賞で千石を賜わりました。関ヶ原の戦いでは福島正則(秀吉の重臣)に従って東軍に付き、その後松平忠吉(徳川家康の4男)の家来として3千石を賜ると、合計4千石の領主となりました。徳川義直(家康の14男)が尾張の初代藩主となると、代々尾張藩の家臣として続きました。飛び地として黒田村にも領地を持っていた関係で、黒田城の城主をしていたことがありますが、信雄が小牧・長久手の戦いの後に秀吉によって領地を没収されたときに、黒田村を手放しました。写真は屋敷跡にあった石碑「澤井公屋敷跡」で、16代当主・澤井昭の書だとのことでした。その横には由来板もありました。

長谷川秀一邸
一宮市

織田信長の小姓をしていた長谷川秀一の屋敷がありました。小牧・長久手の戦いで戦功があり、越前国の東郷荘を与えられました。安土城に招かれた徳川家康が宴を楽しんだ後、信長の命によって堺への接待役をする事になった秀一は、家康一行を連れて堺の津田宗及の屋敷に入りました。堺での遊覧を終えた頃に本能寺で信長が横死すると、家康一行を連れて尾張熱田まで案内しました。その後は豊臣秀吉に仕えるようになりました。朝鮮出兵で病気になって帰国直後に亡くなると、嫡子が居なかった為に断絶してしまいました。余談ですが、秀一の父は与次といい、関長安(信長の家臣)の手下として臨済宗・恵林寺(武田家の菩提寺)を攻撃して放火しただけでなく、武田信豊(信玄の甥)の首印を信長の元に送り届けています。写真は北方中学校にあった屋敷跡の石碑です。

北方代官所
一宮市

天明元年(1781年)に郡奉行の廃止に伴って代官所が置かれたのがはじまりです。木曽川沿いにある村(葉栗,丹羽,中島)と対岸にある尾張国にある村(本巣,池田,大野)を合わせた8万7千石余りの広大な土地を治めていました。近くには川並奉行所があり、北方代官所の代官が兼務して、木曽川の上流から流れてくる切り出し筏で木材の管理や、船の積み荷の管理などをしていました。写真は西本郷公民館の付近から木曽川堤防沿いに進んだところにあった代官跡の大きな石碑と説明板です。撮影していると、東海道本線の列車が轟音を立てて木曽川を渡っていきました。

光明寺城
一宮市

戦国時代に織田信長の家臣・神戸伯耆守によって築かれました。伯耆守は桓武平氏の出身です。信長の馬廻衆・山田半兵衛が城主をしていた城です。古代の時代から続いていた古刹・光明寺(天台宗)の隣にありました。桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、信長と松平元康(後の徳川家康)は清州城で同盟を締結しました。酒盛り開かれた後、酔い覚ましに信長は元康を呼んで光明寺まで馬を走らせ、同盟締結の礼として源義家の軍法を伝える僧侶・青井意足を紹介しました。清和源氏出身である元康は光明寺に滞在して軍法を授かると、軍法を継ぐ者は名前に‘義’か‘家’を付けるというルールに従って、元康を家康に名前を改めました。写真は城跡にあった大きな城跡碑で、昭和8年に建てられたものです。周囲は住宅街やマンションによって遺構は失われていました。

大野城
一宮市

織田信長に招かれた京都にある石清水八幡宮の祠官・大野治定が木曽川沿いに居城を築いたのが始まりです。小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦として大野城が利用されました。関ヶ原の前哨戦では子の大野定長が城主で、一柳直盛(豊臣秀次の旧臣)と共に東軍に寝返って木曽川を渡って、西軍の織田秀信(信長の孫で清洲会議で有名な三法師)が守る岐阜城攻めに加わりました。写真は大野極楽寺公園の中央部分あった城址碑で、横には由来板もありました。余談ですが、定長と大蔵卿局(豊臣秀頼の乳母で、大坂城落城時に淀君と共に自刃)の間に産まれたのが、豊臣家の為に命を賭して散ってしまった大野治長(秀頼の側近で大坂城落城時に共に山里曲輪で自刃)と大野治房(大坂城落城時に秀頼の遺児・国松を擁して脱出したものの徳川軍に見つかって斬首された)です。

河田城
一宮市

築城の時期は定かではないのですが、高田城という城がありました。小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦として高田城が利用されました。後に織田信雄(信長の次男)との和睦が成立すると、同じ秀吉方の下奈良城は破却され、下奈良城にあった諸道具などは高田城に移し、兵糧や薪などは伊勢長島城に移されました。その後利用価値がなくなると、高田城は廃城になりました。写真は木曽川の堤防下にある住宅地にあった石碑「河田城跡」で、昭和38年に行なわれた木曽川の改修工事によって遺構は消滅してしまいました。余談ですが、高田(たかだ)城と読むのかなと思っていたら、「こうだ」と読むことが分かりました。時代の流れで、高田という地名が当て字である河田に変化していった関係で、城跡も河田(こうだ)城と呼ばれるようになったのかなと思いました。

五丁堀砦
江南市

小牧・長久手の戦いでは徳川家康方の砦が置かれていた場所です。この砦には、前野義康の300の軍勢が布陣したそうです。余談ですが、前野一族は守護代・織田信安に仕えていた家老で、従兄弟の前野長康は豊臣秀次(秀吉の甥)の後見人を務めていた人物でした。しかし、秀次事件で後見人だった長康と息子の景定は連座して切腹させられてしまいました。名鉄犬山線沿いにある畑の中に、写真の石碑がありました。石碑の下には市のゴミ置き場になっていて沢山のゴミ袋があったので、逆光の中でゴミ袋が映らないように撮るのが大変でした。

前野屋敷
江南市

平安末期に良峯高長がこの地に屋敷を構えたのが始まりです。高長は前野に姓を変えると、13代続きました。8代当主は前野高康といい、尾張守護代・織田守敏広に仕えていた家老でした。最後の当主は前野長康といい、蜂須賀小六(後の蜂須賀正勝)と共に墨俣一夜城の築城の頃から木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕えていました。小牧・長久手の戦いでは屋敷が豊臣秀吉方の砦として利用された事がありました。四国征伐、関東征伐、朝鮮出兵などの主な合戦に従軍して秀吉のために働き続けました。豊臣秀次(秀吉の甥)の後見人を務めていましたが、秀次事件で長康と息子の景定は連座して切腹させられてしまいました。事件後に生き残った前野一族は吉田に姓を変えて帰農すると、名主になりました。写真は前野氏の屋敷跡にあった末裔の吉田邸で、立派な屋敷でした。

蜂須賀屋敷
江南市
室町時代に安井重継が宮後城を構えたのがはじまりで、母の在所で蜂須賀小六(後の正勝)と嫡男の家政(徳島藩の初代藩主)が産まれました。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕えていたことで有名な小六ですが、吉川英治の「太閤記」では盗賊の首領として描かれていたので信じてしまいました。実際には、蜂須賀家は守護代・斎藤氏に仕えていた国人で、安井家(母の実家)は守護・土岐氏に仕えていた国人だったので、苗字帯刀を許されていた由緒正しき家柄でした。写真は江南市内を通る県道64号沿いにあった石碑「蜂須賀家政公誕生之碑」と由来板です。なお、古城跡一帯に含まれている宮後八幡宮(家政が寄進した当時の古建築物)には、野良積みの石垣と土塁が残っていて、県道64号を挟んだ向かいには、宮後城の石碑と由来板がありました。
宮後城
江南市

室町時代に安井重継が居城を構えたのがはじまりです。重継は安井尾張守護・土岐満貞の家臣で、木曽川流域の水運を管理していた川並衆を従えていた人物でした。余談ですが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕えていた蜂須賀小六(後の正勝)は甥に当たり、母の実家である宮後城で誕生したそうです。あと、正勝の嫡男・家政も宮後城で誕生しています。写真は古城跡付近にあった城跡碑で、江南市内を通る県道64号沿いにありました。なお、古城跡一帯に含まれている宮後八幡宮(家政が寄進した当時の古建築物)には、野良積みの石垣と土塁が残っていて、県道64号を挟んだ向かいには、蜂須賀屋敷の石碑と由来板がありました。折り畳み式の自転車に乗り込むと、豊臣秀次(秀吉の甥)の後見人をしていた前野屋敷に向かってペダルを漕ぎました。

小折城
江南市

室町時代に藤原家広が居城を築いて生駒の姓を名乗ったのが始まりです。生駒氏は公卿・藤原良房の流れを組んでいる家柄です。3代目・生駒家宗のときに犬山城主・織田信清(織田信長の妹婿)に仕えるようになりました。後に縁があって家宗の娘・吉乃が織田信長の側室になっています。余談ですが、信長の母・土田御前は生駒一族、豊臣政権で活躍した生駒親正(後に高松藩主)も生駒一族です。江戸時代には松平忠吉(徳川家康の4男)を支えた生駒利豊、徳川綱誠(尾張3代藩主)の傳役を務めた生駒利勝などが居ます。後にした。一国一城令によって小折城が破却されたものの、生駒氏下屋敷として存続を許されて明治時代まで続きました。写真は布袋保育園の正面にあった小折城の由来板です。その由来板の横に「生駒氏の邸跡」と彫られた石碑がありました。

埴原屋敷
江南市

松平信康(徳川家康の嫡男)が二俣城で切腹して正室の徳姫が戻ってくると、織田信長によって徳姫の守役を命じられた埴原常安が小折城の一角に屋敷を構えたのが始まりです。信長と常安の出会いは尾張領内にある長光寺の六角堂でした。ある日、鷹狩りから戻ってきた信長が昼寝しようと六角堂に行った所、常安が寝ていたので怒った信長は床上から外に蹴飛ばし落としてしまいました。それが縁で信長に仕える様になった常安は八条流馬術の名手で、後に清州城の城代まで出世しました。信長からの信頼が厚かった常安は「天下布武」の朱印状を最初に貰った3人の中の1人になりました。写真は常安の屋敷があった付近にあった常観寺の山門です。1ケ月前に小折城と吉乃屋敷を訪れたのですが、帰宅後に漏れていた事に気付いたので、リベンジが出来て嬉しかったです。

吉乃屋敷
江南市

室町時代に藤原家広が居城を築いて生駒の姓を名乗ったのがはじまりです。生駒氏は公卿・藤原良房の流れを組んでいる家柄です。3代目・生駒家宗のときに犬山城主・織田信清(織田信長の妹婿)に仕えるようになりました。後に縁があって家宗の娘・吉乃が織田信長の側室になっています。信長が吉乃のために城内に築かせた屋敷で、信忠(信長の嫡男)、信雄(信長の次男)、徳姫(徳川家康の嫡男・松平信康の正室)が産まれています。徳姫を産んだあとの産後の肥立ちが悪く、心配した信長は何度も見舞いに訪れたものの、吉乃は屋敷で亡くなってしまいました。写真は吉乃が過ごしていた屋敷があった付近に建てられた久昌寺(曹洞宗)の本堂で、吉乃について書かれた由来板がありました。

浅野長政館
一宮市

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕えていた浅野長政の居館(屋敷)のあった場所です。長政の養父・浅野長勝(信長に仕えていた弓衆)は、妻・七曲の姪も養女として迎えています。その姪はねねといい、後に藤吉郎の正室となって豊臣政権を支えることになります。知らなかったのですが、長政という名前は浅野長重(長政の3男)の所領である常陸国・真壁陣屋で晩年を過ごしていた頃に付けられたもので、それまでは長吉と名乗っていた時期のほうが長かったそうです。写真は館址(浅野公園)にあった大きな石碑「浅野長政公宅址」で、土塁や水堀が良好に残っていました。余談ですが、浅野公園から300メートル行ったところに今は無き名古屋鉄道一宮線の浅野駅があり、旧広島藩主・浅野長勲が大正天皇の貴賓車で数回浅野公園を訪問したことがあるそうです。

重吉城
一宮市

戦国時代に尾藤重吉が居城を築いたのがはじまりです。重吉は信濃守護・小笠原長時に仕えていた重臣で、武田信玄によって主家の小笠原氏が滅ぼされると、この地に流れ着いたそうです。しかし、織田信秀(信長の父)との戦いに敗れて居城を焼かれてしまい、今川義元を頼って逃げました。小牧・長久手の戦いでは、城跡を活用して織田信雄と徳川家康の連合軍の砦が置かれたことがあります。写真は県道153号沿いにあった標識で、その向かいにある新築のアパートの裏に、石碑と土塁の一部がありました。余談ですが、重吉には2人の孫娘が居ます。一人は寒松院といい、真田昌幸の正室となって真田信之と真田幸村を産んでいます。もう一人は皎月院といい、石田三成の正室となって辰姫(弘前藩2代目・津軽信枚の側室で、3代目・信義の母)を産んでいます。

大赤見城
一宮市

室町時代に織田勝久が築いたのがはじまりです。勝久は清州三奉行の一人だそうです。戦国時代は服部一忠(織田信長の側近で、通称・小平太)が城主になったことがあり、桶狭間の合戦で今川義元に一番槍をつける戦功をあげました。写真は城跡一帯にあった神明神です。近くにある民家に城址碑があるというので行ってみたら、顔を見た途端に飼い犬に激しく吠えられてしまったので、諦めて退散してしまいました。そういえば、中島砦(桶狭間の合戦で築かれた織田方の砦)に行ったときでも、飼い犬に激しく吠えられてしまったのを思い出しました。その時は写真におさめることが出来たので良かったと思いました。どうして、神明神に石碑を設置してくれなかったのかと思うと、怒りを感じました。

浮野城
一宮市

戦国時代に織田信行が謀叛を起こしたときに、弟を討つために織田信長が築いたのがはじまりです。鴬ヶ池の畔に築かれた浮野城ですが、実際には陣城程度の規模だったそうです。信行は岩倉城の織田信賢(尾張守護代)を味方につけ、対する信長は犬山城の織田信清に妹を嫁がせて味方につけると、浮野で対峙しました。この戦いで信長と信清の連合軍が勝ち、信行と信安の連合軍は900の死傷者を出して敗走しました。この敗戦によって、信行は信長の命を受けた池田恒興(姫路城を築いた池田輝政の父)によって暗殺され、岩倉城を追われた信賢は行方不明になってしまいました。信賢の旧領地の分割を巡って信長と信清が対立すると、信長によって犬山城を攻撃された信清は甲斐の武田氏を頼って逃亡してしまいました。これによって信長の尾張統一が完成しました。

岩倉城
岩倉市

室町時代に、分家の織田敏定との戦いで下津城を追われた尾張守護代だった織田敏広が居城として五条川沿いに築いたのが始まりです。後に清州城の支城になった岩倉城に織田信安(敏定の子)が入城しました。信安は織田信秀(信長の父)の妹・秋悦院を迎えました。跡継ぎ問題で起きた内紛では、信安と信家(信安の次男)と信賢(信安の嫡男)が対立し、信賢によって岩倉城を追われてしまいました。援軍を出した信長によって落城したものの、信安は岩倉城に戻る事は許されませんでした。余談ですが、前田犬千代が元服した際の烏帽子親となったのが信家で、家の偏諱を貰って利家と名乗る様になりました。しかし、13年後の信州高遠城攻めで仁科信盛(武田信玄の4男)に討たれてしまいました。写真は岩倉城跡にあった城跡碑で、外はすっかり暗くなっていました。

井上城
岩倉市

築城の年代は不明ですが、室町時代に17ヶ村を支配していた有馬主殿正の居城で、五条川沿いに築かれた平城です。守護代・織田郷広や伊藤源内(郷広の宿老)が何度も説得をしたものの、主殿正は謀叛を起こしたために織田軍に攻められて落城しました。守護代・織田郷広に攻められて落城しました。写真の説明板は五条川沿いにあった説明板で、横には歴史を記した碑がありました。しかし、他に石碑「井上城址」があったはずですが、事前に場所の下調べをしていなかったことが原因で、見つけることが出来なくて残念でした。帰宅後に調べてみたところ、写真の後ろに民家の方へ向かう小道があり、そこを入ったところにあることが分かりました。近くを流れる五条川の両側に桜並木が延々と続いていたので、春になると見物客で賑やかになるんだろうと思いました。

小口城
大口町

長禄3年(8代将軍・足利義政の時代)に尾張守護代・織田広近が築いたのがはじまりです。小口城はこの時代では珍しい平城でした。広近は主君の尾張守護・斯波義廉(足利一族)と共に大軍を引き連れて上洛をするなど室町幕府の職を真面目に務めていました。後に木下城(後の犬山城)を築くと居城を移してしまいました。戦国時代に織田信長が近くにある小牧山に居城を移すと、斎藤家が支配している美濃侵攻の手始めとして永禄7年に犬山城を落城させたときに、この小口城も陥落させられました。天正12年に起きた小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦が置かれました。この砦には、稲葉一鉄の軍勢が布陣したそうです。戦後廃城になりました。写真は小口城跡公園にあった模擬建物(望楼櫓,門,漆喰塀,石垣)で、周囲に溶け込んでいました。

堀尾屋敷
大口町

鎌倉時代に公卿・高階邦経(93代・後伏見天皇の娘婿)がこの地に屋敷を構えたのが始まりです。高階氏は天武天皇(40代)の流れをくむ名門です。室町時代には守護・斯波義重に仕えていた高階忠泰の時に軍功をたて、堀尾氏を名乗る様になりました。忠泰から数えて6代が堀尾吉晴で、当初は守護代・織田信安(織田信長の叔父)に仕えていました。信安が信長によって滅ぼされると、信長を経て木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、豊臣政権における三中老の1人して活躍しました。江戸時代では松江藩の初代となって松江城を築いたものの、完成した翌年に亡くなってしまいました。写真は「堀尾屋敷跡公園」にあった看板です。近くにある曹洞宗・桂林禅寺(堀尾氏の菩提寺)まで行きながら、石碑「堀尾吉晴邸跡」がある隣の若宮八幡社に行くのを忘れてしまいました。

下津城
稲沢市

築城の時期は不明ですが、室町時代に尾張守護・斯波義重(足利一族)が居城していた時期がありました。下津城はこの時代では珍しい平城です。義重は幕府の管領(将軍に次ぐ役職で)も歴任していた人物で、6代将軍・足利義政が富士遊覧の際に宿泊したことがあります。応仁の乱(山名宗と細川勝元が対立した乱)での混乱に乗じて、尾張守護代・織田敏広が奪取して居城を置いたこともあります。しかし、分家の織田敏定との戦いで下津城は焼失してしまいました。戦いに勝った敏定は尾張守護代を相続すると、清州城を築いて移りました。一方、戦いに敗れた敏広は岩倉に新城を築いて移りました。写真は下津小学校の向かいにあった下津城の石碑で、逆光になっていて眩しくて上手に撮れませんでした。

大導寺砦
扶桑町

築城の時期は不明ですが、戦国時代に犬山城を守る砦の1つとして兼松全四郎が守備していたそうです。織田信長が小牧山に居城を移すと、斎藤家が支配している美濃侵攻の手始めとして永禄7年に犬山城を落城を落城させたときに、この大導寺砦も陥落させられたと云われています。写真は浄土宗・専修院の東門で、かつて大道寺砦があった場所です。東門は、明治9年に現地に移築された犬山城の旧矢来門(形式は高麗門)で大きな建物でした。犬山城の旧城門は、犬山市(常満寺,瑞泉寺)に2基、大口町(徳林寺)に1基、一宮市(淨連寺,運善寺)に2基が、それぞれ残されています。

黒田城
一宮市
室町時代に五藤光正がこの地に封じられた時に居館を構えた場所です。戦国時代には岩倉城・織田信安の家老・山内盛豊が城代を守っていました。この城で盛豊の3男として山内一豊が産まれました。信安が織田信長によって攻略されると、黒田城も落城して山内一族は飛散してしまいました。その後、織田信広(信長の従兄弟),和田定教(足利義輝の幕臣),沢井雄重(福島正則の家臣),一柳直盛(豊臣秀次の家臣),富田忠繁(松平忠吉の重臣)と次々と城主が変わった後に廃城になりました。余談ですが、盛豊が仕えていた信安は、後に許されると、安土城の麓にある総見寺(臨済宗)の住職を経て、旧臣の一豊を頼って土佐に移住したことがあるそうです。写真は黒田小学校の一角にあった冠木門です。くぐると小公園になっていて、城址碑や由来板、山内一豊像がありました。
野府城
一宮市
築城の時期は不明ですが、戦国時代には織田信治(信長の弟)の居城でした。姉川の戦いでは、森可成(蘭丸の父)と青地茂綱(蒲生氏郷の叔父)と共に坂本まで出撃しましたが、山崎吉家(朝倉家臣)と浅井玄蕃の軍勢に撃破されて討ち死にしてしまいました。そのとき信治は26歳でした。江戸初期には、武藤雄政(信長の旧臣で後に尾張藩の徳川義直に仕える)が城跡に屋敷を構えていた時期がありました。写真は開明小学校の正門を入ったところの左手にあった城址碑と説明板です。
奥城
一宮市
築城の時期は不明ですが、戦国時代には梶川高盛の居城でした。高盛は織田信長の家臣で、室町将軍・足利義昭が立て篭もる槇島城の戦いでは、先陣を務めるという手柄を立てました。この戦いで敗れた義昭は京都を追放されて室町幕府は終わりを告げました。小牧・長久手の戦いでは、城主の高盛は織田信雄(信長の次男)と織田秀信(信長の孫で清洲会議で有名な三法師)を奥城に迎えて籠城しましたが、豊臣秀吉の大軍の前に開城しました。写真は奥町西保育園の敷地内の片隅にあった大きな石碑「奥城址」です。
玉ノ井城
一宮市
築城の時期は不明ですが、平安末期にはこの地を支配していた岩田正居の居館がありました。源頼朝の平家討伐では、玉ノ井四郎が岩田氏の荘園を取り立てて、館を更に拡張して居城したそうです。その後は歴史に登場することはありませんでした。現在は写真の念敬寺(真宗)が城跡の一部で、本堂が古くて立派でした。本堂をデジカメに撮ってレンタカーに乗り込むと、木曽川と長良川の二つの河川を渡った先にある墨俣城に向かいました。
梶川高盛邸
一宮市
織田信長の家臣・梶川高盛の屋敷があったところです。高盛の父・高秀は桶狭間の戦いで中島砦を守備していたそうです。小牧・長久手の戦いでの高盛は、織田秀信(信長の孫で清洲会議で有名な三法師)の家臣として従軍し、秀信と織田信雄(信長の次男)を居城・奥城に迎えて陣所としましたが、豊臣秀吉の大軍の前に開城しました。その後、奥村宗親(前田利家の義兄)が接収し、そこで奥村永福が産まれました。写真は貴船神社に移築された服部氏の書院と織部型灯篭です。敷地内に「梶川高盛公宅地」と彫られた石碑があるというので探したのですが、何故か見つけることが出来ませんでした。帰宅してから拝殿左裏手にあったことが分かると、「そこを通ったのに…」とガッカリしてしまいました。
奥村永福邸
一宮市
戦国時代には織田信長の家臣・梶川高盛の屋敷があったところです。小牧・長久手の戦いでの高盛は、織田秀信(信長の孫で清洲会議で有名な三法師)の家臣として従軍したものの、豊臣秀吉に降伏してしまいました。の大軍の前に開城しました。その後、奥村宗親(前田利家の義兄)が接収し、そこで奥村永福が産まれました。奥村氏は藤原鎌足を祖に持つ家柄だったので、織田家に仕えていた頃の奥村家は前田家よりも格上でした。永福の時代には前田利久(利家の兄)に仕えるようになりました。写真は貴船神社にあった石碑で、「奥村伊予守永福出生地」と彫られていました。永福の名前を全く知らなかったのですが、大河ドラマ「天地人」の影響で再販された漫画「花の慶次」に登場する奥村助右衛門とは同一人物だったことを、帰宅してから知りました。
岡崎城
岡崎市
室町時代に三河守護代・西郷頼嗣が居城を築いたのがはじまりだそうです。西郷信貞が城主のときに松平清康(松平元康の祖父)が岡崎城を奪い取ると、松平氏の居城になりました。岡崎城は元康(若き頃の徳川家康)が産まれた城として有名で、産湯の井戸が残っています。元康は今川義元の人質となったものの、義元の姪を娶るなど信頼を置かれていました。義元が桶狭間で戦死すると、今川氏の城番から岡崎城を取り戻した元康は家康と改名しました。江戸時代の岡崎藩は、譜代大名が代々城主になりました。明治6年に天守閣などの建物が取り壊されましたが、数枚の古写真で残っています。岡崎城は今回で2回目の訪城となるのですが、城内の木が邪魔で今回も模擬天守閣がなかなかキレイに撮れなくて苦労してしまいました。
井田城
岡崎市
室町時代に酒井広親が築いたのがはじまりだそうです。初代の広親から数えて6代目が徳川四天王の一人に数えられていた酒井忠次で、酒井忠親の子として生まれた城でもあります。忠次のときに、井田城は岡崎城の支城として機能していました。井田城山公園が城址で、土塁は高さ10メートルほどあり、周囲に広がっている住宅街を見渡すことが出来ました。写真は井田城山公園の土塁の上にあった城址碑です。灯篭が二つ、石碑の手前にあったので「お城の墓石」のように見えてしまい、思わずふきだしてしまいました。
西蔵前城
岡崎市
戦国時代に本多忠高によって築かれたのがはじまりだそうです。忠高の子が本多忠勝(徳川四天王の一人に数えられています)で、この西蔵前城で生まれたと云われています。本多氏は太政大臣・藤原兼道の流れを組む家柄で、元々は豊後国本多郷に領地を持っていた豪族で、2代目の泰親のときに三河国岩津荘に移住し、4代目の忠高のときにこの西蔵前城が築かれました。忠勝のときに、井田城は岡崎城の支城として機能していました。忠勝は戦が上手だったので、武田信玄からは「家康に過ぎたるもの2つあり、唐の頭に本多平八」、織田信長からは「花も実もある武将」と称されていた武将でした。写真は住宅街の中にある民家の敷地内にあった石碑「本多平八郎忠勝誕生地」と案内板です。
永井城
岡崎市
築城者と築城時期は定かではないのですが、この地を支配していた・山本小次郎の城があったそうです。小次郎は三河一向一揆に加担して、討伐に向かった松平元康(後の徳川家康)の軍勢によって滅ぼされてしまったそうです。小次郎は山本晴幸(通称:勘助)の一族だとも云われているそうで、写真の石碑の近くに勘助の墓がありました。余談ですが、個人的には晴幸の存在を全く信じていません。仮に実在していたとしても身分が高くない人物だったのではないかと思っています。
岩津城
岡崎市
室町時代に松平信光が三河攻略の拠点として築いたのがはじまりだそうです。同時に信光は7つの支城を築いて、息子達をそれぞれ置きました。後に信光は安祥城(安城城)を攻略して新たな拠点にし、翌年には岡崎城も手中におさめています。戦国時代に今川氏親の家臣・伊勢早雲(通称:北条早雲)が三河に侵攻したときに、岩津城と7つの支城が落城しました。写真は岩津天満宮のある山の麓にあった登城口で、そこに案内板がありました。上には土塁が残っていて、そこに石碑があるみたいですが、登城口に「私有地につき入らないで下さい」という小さな看板があったので登るのを断念しました。城山の下には東名高速道があり、真横を車がゴーゴーと音をたてて通過していました。
細川城
岡崎市
鎌倉時代に足利義季が三河国細川郷に知行を得て居城を築くと共に、細川氏を名乗るようになりました。写真は三菱自動車教育センターの裏にあった石碑で、かつては土塁の上にあったのですが、石碑があるところを残して土塁が無残にも削られてしまいました。この石碑を眺めながら「ここが名門細川氏の発祥地なんだな」と思うと感慨深かったです。余談ですが、細川城は1つの丘でつながっていた大きな城だったそうですが、国道248号が城跡を分断していました。近くにある菩提寺・蓮性院(細川城山城の跡)には、細川氏の祖・義季の石塔と、細川家の末裔である元内閣総理大臣・細川護熙が墓参りしたときに建てられた小さな墓参記念碑があることを、帰宅してから初めて知りました。また岡崎方面に城址巡りに行く機会があったときは行ってみたいと思いました。
能見城
岡崎市
室町時代に松平親光が居城を構えた場所だそうです。親光の孫・松平重吉は松平元康(後の徳川家康)の初陣・寺部城攻めに従軍して以来、元康の主要な合戦には全て出ていたそうです。元康が関東に移封すると、重吉も従ったので能見城は廃城になりました。現在は曹洞宗・観音寺がある一帯が城址で、伊賀川にかかる神明橋を渡った対岸に写真の石碑がありました。まさか民家の玄関の正面にあるとは思ってもいなかったので、その民家と周辺をウロウロしながた全く気がつきませんでした。偶然に会った警官に石碑の在りかを尋ねたら、わずか5メートル先を指差しながら「この民家の玄関前にあるよ」と教えてくれてくれました(目の前に在りながら気づかなかったので恥ずかしかったです)。
西大平陣屋
岡崎市
江戸時代に江戸南町奉行をしていた大岡忠相(通称:大岡越前守)が飛び地である西大平村を治めるために陣屋を置いたのがはじまりです。旗本の身でありながら、前将軍・徳川吉宗の口添えもあって4千石の領地を加増されて1万石の大名となりました。忠相が72歳の出来事で、藩主をしていたのはわずか3年余りと短かったそうです。その後、7代にわたって領地を治め続けていったそうです。大岡氏は江戸に常府する大名だったので参勤交代がなく、家臣団の大部分が江戸藩邸のほうに住んでいて、陣屋に詰めていた家臣は、郡代1名,郡奉行1名,代官2名,足軽4〜5名だけでした。写真は復元された陣屋門で、なかなか良いところでした。
大平古城
岡崎市
室町初期に發知勝正によって築かれた城があった場所だそうです。發知氏は藤原秀郷の流れをくむ名門で、戦国時代には松平清康(後の徳川家康の祖父)に仕えるまでは、この地方を約100年に渡って知行していました。代々弓使いの名手だったことから、家康の命令で惣領嫡男のみ發知の姓を、それ以外は柴田の姓を名乗るようになりました。江戸時代になって太平の世の中になると、帰農したそうです。写真は去年のちょうど今ごろに發知氏の末裔が石碑を寄贈した石碑で、これを機会に岡崎市教育委員会が文化財広場として整備し、石碑の横には解説板も設置されました。
奥殿陣屋
岡崎市
大坂の夏陣の戦功で大給に3000石を与えられた松平真次が陣屋を築いたのがはじまりだそうです。以後、松平代々の陣屋として明治維新を迎えました。陣屋は藩廃置県の後に移築や取り壊しが行なわれて跡地は田畑になってしまいました。昭和59年になって曹洞宗・竜渓院に移築されていた書院が元の場所に復元されました。余談ですが、5代・松平乗尹の実子・永井尚志は、幕末に一橋派を支持したため、井伊直弼による安政の大獄で捕らえられてしまいました。直弼が暗殺されると京都町奉行として復帰し、徳川慶喜の直臣として最後まで従ったそうです。尚志の孫に三島由紀夫が居ます。由紀夫は大給松平家の血筋だったなんて知りませんでした。最後の藩主・松平乗謨(後に大給恒と改名)は、日本赤十字社の設立に尽くした人物だそうです。
生田城
岡崎市
築城の時期は定かではないのですが、戦国時代に徳川家康の家臣・生田重勝の居城があった場所だそうです。乙川の畔に築かれた城で、土塁は昭和初期まで残っていたそうです。農地の整備事業で完全に消滅してしまいました。写真は田んぼの中にポツンとあった石碑で、県道48号を走っていたら見えたので直ぐに分かりました。撮影が終わるとレンタカーに乗って上和田城跡(大久保一族発祥地)に向かいました。
上和田城
岡崎市
室町初期に宇津泰藤が上和田村に移住して居館を構えたのがはじまりだそうです。泰藤から数えて4代の宇津泰昌のときに、三河の松平氏に仕えるようになりました。8代の宇津忠員のときに大久保に姓を変えました。忠員には、嫡男・大久保忠世(後の小田原藩主)と、次男・大久保忠佐(後の沼津藩主)と、8男・大久保忠教(通称:大久保彦左衛門)が居て、彼らは徳川十六将に数えられています。写真は上和田公民館にあった石碑「大久保一族発祥地」で、道路に面しているところに解説板がありました。余談ですが、大久保氏(宇津氏)は下野国の豪族・宇都宮氏の末裔だったなんて全然知らなかったです。
下和田城
岡崎市
室町時代には松平親生が在城、戦国時代には松平伴忠が在城していたと伝わっているそうです。東側は占部川を天然の水堀とし、西側は田んぼに囲まれた台地の上に築かれた城だったみたいですが、現在は住宅街に変貌していました。写真は城址に建てられた真宗・常楽寺で、古い建物が雰囲気を残していました。レンタカーを停めた犬尾神社も城郭の一部で、土塁の一部が残っていました。常楽寺に下和田城に関する説明板があると紹介していたホームケージがあったので行ってみたのですが、それらしき物を見つけることが出来ませんでした。
本郷城
岡崎市
室町時代に土岐持益が本郷荘に居館を構えて植村姓を名乗ったのが始まりです。植村氏義(持益の子)は東本郷荘に居館を構え、植村氏明(氏義の子)は祖父・持益と共に、松平三代(清康・広忠・元康)に仕えていました。清康は家来の阿部弥七郎に暗殺され、広忠も家臣の岩松八弥に暗殺されると、氏明は暗殺した人物達を仇討ちにしました。家存(氏明の子)の時に元康(後の徳川家康)に仕える様になると、居館を拡張して本郷城と改めました。家存の子・家次は松平信康(家康の嫡男)に仕えていましたが、信康が織田信長の命令で自刃すると、家康の元を離れてしまいました。家政(家次の子)の時に、家康の旗本として数々の戦功を挙げたので、後に大和国・高取城の藩主となり、以後植村氏は明治維新まで続きました。写真は本郷公民館にあった解説板です。
岡城
岡崎市
室町後期にこの地を治めていた豪族・池田大学によって乙川の断崖に築かれたのがはじまりです。戦国時代には三河を平定した松平元康(後の徳川家康)が家臣の河合勘解左衛門に命じて守備させたという記録が残っています。写真は民家の畑の前にあった解説板です。畑の向こうに城址碑があるのですが、飼い犬がワンワン吠えまくっていたので、びびって奥に行けなくなってしまいました。仕方ないので解説板を撮って引き返してしまいました。
東条城
吉良町
鎌倉時代に足利義氏(北条政子のいとこ)が三河守護になると、東条城を築いたのが始まりです。以後、吉良家14代の居城として栄えました。室町足利将軍家から、御一家として優遇されていたので、足利宗家が断絶した場合、宗家と征夷大将軍の継承権が発生する特別な家柄でした。応仁の乱では吉良氏は東条と西条に分裂して争う悲劇がありました。戦国時代では吉良持広が当主で、松平家の内紛で幼い松平仙千代(徳川家康の父)が頼ってきました。持広は今川義元の力添えで松平宗家を再興させると、仙千代を元服させて広忠と名乗らせました。桶狭間の戦いで義元が戦死すると、吉良義昭の東条城は家康の軍勢によって落城しました。後に天下人となって幕府を開府した家康は吉良義定(持広の孫)を旗本に取り立てました。それが江戸時代の高家・吉良家の始まりです。
岡山陣屋
吉良町
江戸幕府を開府した徳川家康から岡山郷と瀬戸郷の200石を与えられた吉良義定が岡山に館を構えたのが始まりです。旗本になった義定はここで吉良氏を再興して高家となりました。子の義彌の時に4200石で陣屋に改築されました。4代が吉良義央(上野介)で、11歳の時に徳川家綱の拝謁を受け、18歳の時に後西天皇の謁見を済ませています。以後、年賀使として15回、幕府の使者として9回も上洛をしている程、朝廷と幕府からの信任の厚い人物でした。幕府の老中からも相談を受けるなどの文化人でした。松の廊下事件を起こした浅野長矩、および赤穂浪士達の行動は、義央に対する逆恨みだと僕は見ているので、同情の余地はありません。写真は岡山陣屋跡にあった義央の騎馬像です。余談ですが、義央は同じ高家・今川氏真(義元の嫡男)の玄孫に当たります。
小牧陣屋
吉良町
戦国時代に松平元康(後の徳川家康)が吉良義昭の守る東条城と牧野貞成の守る西条城を攻めるときに本陣を築いた場所だそうです。この戦いで元康が勝つと、今川氏真の勢力範囲が更に縮小されました。江戸時代に大河内正久の所領となると、本陣跡に陣屋が置かれました。小牧陣屋は代官所としての機能を兼ね備えていたらしく、規模も大きなものでした。大河内氏8代の陣屋として続き、明治維新を迎えました。写真は小牧陣屋跡にあった解説板です。
安城城
安城市
室町時代に足利一族・和田親平が三方を湿原帯に囲まれた台地に築いたのがはじまりです。戦国時代に松平信光が安城城(安祥城)を奪うと、以後50年余り松平宗家4代の本拠地となりました。松平清康(徳川家康の祖父)が西郷頼嗣の岡崎城を奪って本拠地を移すと、安城城を巡って松平家&今川家と織田家との間に、10年間に5度におよぶ攻防戦が繰り広げられたそうです。今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると、水野信元(家康の異母兄)の勧めで織田信長と松平元康(後の家康)が清洲同盟を結ぶと、安城城は廃城になりました。写真は安城城址にあった大乗寺の山門で、山門の前に石碑「安祥城址」が建てられていました。ウチは浄土宗なのでお参りをしました。
安城古城
安城市
平安時代に志貫荘の地頭・藤原保相の居館があったのが最初だそうです。鎌倉時代には安藤氏の居館となり、室町初期には畠山氏の居館となり、室町中期には畠山氏の一族・和田氏の本拠地となりました。室町末期には和田親平が新城を築いて本拠地を移すと、廃城になりました(安城古城)。戦国時代に三河に侵入した織田信秀が安城城を攻めたときに、松平郎党は安城古城跡に前線地を築いて立て篭もりました。前線地には信秀の家臣・水野忠政が攻撃し、この攻防戦で前線地が破れると、安城城は落城しました。写真は安城古城跡にあった解説板です。ここに行く前に、江戸時代に築かれたという安城陣屋跡に行こうとしましたが、地元の人に聞いても分からないとのことで、時間の関係で諦めてしまいました。
高木城
安城市
室町時代に高木清秀が移り住んだときに構えたのがはじまりです。清秀は織田信長の家臣・水野信元の与力でしたが、信元が武田勝頼に内通したことを咎められて信長に殺されてしまいました。佐久間信盛の与力になったのですが、信盛も信長によって追放されてしまいました。信長が本能寺の変で横死すると、清秀は徳川家康に仕えるようになりました。家康の元で数々の軍功を挙げました。家康が関東に移ると清秀も江戸に移ったので、高木城は廃城になりました。余談ですが、清秀は徳川16将の一人に数えられていて、清秀の3男・正次は河内・丹南藩の藩主となると、高木氏は代々続いて明治維新を迎えました。写真は高木城址に建てられた石碑と看板です。
櫻井城
安城市
室町時代にこの地を治めていた豪族・小浦喜平治が碧海台地に湿地帯に築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には安城城に拠点を構えた松平長親は3男の松平信定に命じて藤井城を築かせたのがはじまりだそうです。信定と清定と家次は松平宗家に度々反抗していたそうです。4代目の松平家広が城主のときに松平元康(後の徳川家康)に従うようになりました。家康の関東移封に従って武蔵・松山に移ると、櫻井城は廃城になりました。写真は桜井公園の入口にあった解説板です。桜井公園公園内にはかろうじて残された土塁があり、その上に大きな石碑があったのですが、外が真っ暗でうまく写真を撮ることが出来ませんでした。この日の三河城巡りは櫻井城が最後の18城址目で、新幹線の三河安城駅の近くにあるホテルに向かいました。
藤井城
安城市
戦国時代に安城城に拠点を構えた松平長親は5男の松平利長に命じて藤井城を築かせたのがはじまりだそうです。利長は今川義元の上洛戦に従軍し、丸根砦攻めで佐久間盛重の反撃にあって戦死してしまいました。利長の子・信一は松平元康(後の徳川家康)による大高城の兵糧入れ作戦に加わったことがあります。以後、三河一向一揆討伐,姉川の戦い,長篠の戦い,小牧長久手の戦いなどにも従軍して活躍をしました。家康の関東移封に従って下総・布川に移ると、藤井城は廃城になりました。写真は藤井城址にあった石碑で、灯篭の前に解説板が設置されていました。余談ですが、寺院なのに城郭のような構造を持った城郭伽藍が残されている珍しい本證寺(真宗)が300メートル北上したところにありました。
岩根城
安城市
鎌倉中期に加藤正成が築いたといわれています。加藤氏は、足利氏,吉良氏,松平氏に仕えていた安城では有力な豪族でした。戦国時代には加藤教明が城主で、松平元康(後の徳川家康)に背いて三河一向一揆に加担した教明は岩根城を追われてしまいました。教明の子・孫六が、後に賤ヶ岳の七本槍で名を馳せた加藤嘉明です。写真は岩根公民館に設置されていた解説板です。岩根城址は昭和10年の発掘によって作成された実測図を見ると、一重の水堀と土塁を巡らせたもので、それまでは規模の大きい土塁が完全に残っていたそうです。城址は惜しくも住宅街になって姿を消してしまったのですが、城址の外は田んぼや畑が広がっていていたので、「城址の外を住宅街にすれば良かったのに…」と思ってしまいました。
今川城
西尾市
鎌倉時代に三河守護・吉良長氏の次男・国氏がこの地に居城を構えて今川姓を名乗ったのがはじまりです。今川家は室町将軍家から御一家に数えられ、「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と云われるほど、足利宗家が断絶した場合、宗家と征夷大将軍の継承権が発生する特別な家柄でした。余談ですが、国氏の次男が一色公深(足利系一色氏の祖)で後に武蔵幸手に移住しています。写真は西尾中学校の裏側にあった小さな公園内にあった石碑「今川氏発祥地」で、その奥に九州探題を務めていた今川貞世(通称:了俊)の墓がありました。今川城跡から西尾城跡にレンタカーで移動中に「今川町」交差点を通ったのですが、「この地から今川家が興って東海の覇者にまでのぼりつめたんだなあ」と思いながら、今川町を後にしました。
下永良陣屋
西尾市
寛延7年(1705年)に幕府の旗本・諏訪頼秋の陣屋が置かれていました。頼秋は信州諏訪氏の一族で、この地方の22村の代官を務めていました。写真は松平元康(後の徳川家康)による東条攻めの際、善明堤の戦いで吉良義昭の反撃にあって討ち死にした松平好景(元康の一族)が戦死した場所でもあるそうで、石碑が建てられていました。近くの民家には下永良陣屋の石垣が残っているそうですが、場所がよく分かりませんでした。次は今川城址(今川氏発祥地)なので、急いでレンタカーに飛び乗って下永良陣屋跡を後にしました。
室城
西尾市
室町時代に東条城に至る街道の要所を守る城として吉良義昭の家老・富永拓玉によって築かれたのがはじまりだそうです。桶狭間の戦い以降に起きた吉良氏と松平元康(後の徳川家康)との抗争に決着がつかなかったのは拓玉の活躍があったからだそうです。拓玉が藤波畷の戦いで討ち死にすると、義昭は戦意を失って東条城を元康に明け渡しました。写真は林松寺の背後にある城山の裏にあった解説板で、去年設置されたばかりの新しいものでした。最初は林松寺の境内に城址の標柱があるということで行ったのですが、どうしても見つかりませんでした。それで、仕方なくレンタカーで城山の裏に回ってみたところ、インターネットでは全く紹介されていなかった解説板を見つけたときは非常に嬉しかったです。
西尾城
西尾市
鎌倉時代に足利義氏(北条政子のいとこ)が三河守護になると、嫡男の吉良長氏に西条城を、3男の吉良義継に東条城をそれぞれ与えたのが始まりです。以後、西条吉良氏の居城として栄えました。赤穂浪士事件で有名な吉良義央(上野介)は西条吉良氏の流れをくむ名門です。戦国時代には徳川家康の家臣・酒井重忠によって近世の城郭に大改修されました。そのときに3重の天守閣が建てられたのですが、本丸ではなく二ノ丸にある珍しいものでした。その頃には西条城から西尾城に改名されていたそうです(時期は今でも判明されていないそうです)。写真は復興された本丸丑寅櫓で期待していなかったのですが、建物の内部に入ってビックリしてしまいました。なんと木造建築でした。「木造というのはいいものだなぁ」と思いながら、手で柱などをすりすりしてしまいました。
寺津城
西尾市
鎌倉時代にこの地を治めていた大河内信政が居城を築いたのがはじまりだそうです。大河内氏は源顕綱の流れをくむ家柄で、室町時代は代々吉良氏の家老として活躍をしていました。大河内秀綱のときに徳川家康による東条城攻めで吉良氏が没落すると、秀綱は武士をやめたそうです。秀綱の弟が正綱で、徳川家康のすすめで松平一門に入ると、徳川家に仕えるようになりました。正綱の甥が有名な大老の松平信綱で川越藩主になっています。写真は端松寺の境内にあった石碑「寺津城址」で、傾いていました。
赤羽根古城
一色町
平安時代に平遠衡がこの地に居城を築いたのがはじまりです。戦国時代に今川義元が桶狭間の戦いで敗死すると、赤羽根城の高橋政信(東条城の吉良義昭の家臣)は、松平元康(後の徳川家康)の家臣・酒井忠次の軍勢に攻められて元康の軍門に下りました。しかし、2年後に起きた三河一向一揆に義昭と政信が加担したため、再び忠次の軍勢に攻められて滅ぼされると、赤羽根城は廃城になりました。戦後、政信の遺児・洞山祖誕上人が高橋一族の菩提を弔うために、赤羽根城跡に親宣寺を建立しました。写真は真宗・親宣寺の山門の前にあった石碑と解説板で、黄色の小さなお花が咲いていてきれいでした。
三河上野城
豊田市
室町時代に伊勢貞親の家臣・戸田宗光が築いたのが始まりだそうです。戸田家光が城主のときに、岡崎に侵攻した松平親忠に攻められて対峙した井田野合戦で敗れると、松平氏に帰属するようになりました。松平一族同士が衝突した広畔畷の戦いで松平広忠(松平元康の実父)が勝利を収めると、広忠の家臣・酒井忠尚(徳川四天王・酒井忠次の叔父)が入城しました。しかし、三河一向一揆が起きると、忠尚は一揆側に付いてしまいました。元康(後の徳川家康)が三河を平定すると、石川数正が岡崎城代になると、上野七人衆と呼ばれる在番衆が上野城に置かれました。写真は護国神社(上野城址)にあった解説板です。小高くなっているところの上には石碑「榊原康政生誕之地」が設置されていました。
三河吉田城
豊橋市
室町時代に一色時家の命令で家臣・牧野古白によって築かれたのが始まりだそうです。豊川と朝倉川に挟まれた合流地点・入道ヶ淵に築かれた要害で、その頃は今橋城と呼ばれていました。今川氏、徳川氏、酒井氏の支配を経て、池田輝政(徳川家康の娘婿)が城主のときに、吉田城と改めると、城郭と城下町を大改築したそうです。そのときに石垣が築かれました。関ヶ原の戦功によって輝政が姫路藩の太守になると、譜代大名が代々城主になりました。吉田城の石垣は、名古屋城築城の際に余った石垣が転用されたもので、土佐藩(山内家)の印が付いた石垣が見つかっています。松平信古(69代目の大坂城代)が最後の城主のときに明治維新を迎えました。写真は昭和29年に建てられた鉄櫓(模擬櫓)で、城内に溶け込んでいました。
二連木城
豊橋市
室町時代に戸田宗光によって朝倉川の畔に築かれたのがはじまりだそうです。宗光は源義隆(義家の7男)を先祖に持つ名門で、妻は松平信光(徳川家康の曽祖父)の娘に当たります。新田次郎の本では、「武田信玄が伊那より青崩峠を通過して三河に侵攻して、足助城などの城群を陥落させると、浜松城ではなく吉田城に向かった。裏をかかれた徳川家康は吉田城へ救援にかけつけた。酒井忠次は家康を吉田城に迎えるため、二連木の古城跡に砦を築いた。そこに山県昌景の精鋭が襲いかかり、酒井軍は2千の兵を失った。酒井軍の犠牲があって家康は無事に吉田城に入ることが出来た。」と書いてあったのを思い出しました。そこから吉田城までは1キロメートルしかなかったので、合戦の様子が家康の目に映ったのではないかと思いました。写真は大口公園にあった城址碑です。
牟呂城
豊橋市
室町時代に三河湾沿岸を支配していた府相城の城主・鵜殿金平の命令で牟呂正茂が支城を築いたのがはじまりです。戦国時代には松平元康(後の徳川家康)が府相城を陥落させると、牟呂城は開城して元康の軍門に降ったそうです。これには異説があって、今川義元が桶狭間で戦死すると、今川軍が駐屯していた吉田城を酒井忠次が攻め、牟呂城を元康が攻めて落城し、城主の鵜殿政茂は自刃したという説もあって定かではありません。二連木城から折り畳み自転車で移動中に大雨に降られてしまいました。写真は牟呂神社で、境内にある屋根のある井戸で1時間ほど雨宿りをしました。すると2羽の鶏が雨宿りやってきました。僕のことを気に入ったのか、足の周りをグルグルと歩いたり、ズボンの裾を突っついたりして僕をオモチャにして遊んでいました。
大崎城
豊橋市
室町時代に田原城の城主・戸田憲光が築いたのがはじまりだそうです。憲光は吉田城の牧野古白を滅ぼすと、子の戸田宣成を置きました。古白の遺児・牧野成三と信成の兄弟が、今川氏親(義元の父)の援軍を得て吉田城を攻撃して取り返しました。憲光は牧野氏の吉田城から田原城を守るために大崎城を築いたのですが、再び来襲した今川の大軍によって落城しました。江戸時代には、幕府の旗本・中島重好の陣屋が置かれていました。写真は主郭にあった木製の城址碑です。主郭の入口には南陵中学校が建てた説明板があったのですが、倒れていたのでそれを建て直して置きました。近くに天台宗・龍源院があり、境内に新しい城址碑があったのですが、なぜ主郭に建てなかったのでしょうか。
伊庭城
豊橋市
築城された明確な時期は不明ですが、戦国時代にこの地を治めていた豪族・伊庭藤太が築いたと云われています。伊庭氏は近江観音寺城の佐々木行実の四男・高実を先祖に持つ家柄だそうです。伊庭城は大崎城から1キロメートルほど南下したところにあったので、田原城の戸田氏に仕えていたのではないかと思います。大崎小学校付近にある住宅街の細い道に入ってクネクネと行った奥のところに、写真の木製の城址碑がありました。民家の前に城址碑があって写真を撮るのに一瞬ためらってしまいましたが、デジタルカメラを望遠にして離れた所から撮りました。
高縄城
豊橋市
室町時代に戸田宗光が築いたのがはじまりだそうです。宗光は松平信光(徳川家康の曽祖父)の娘を妻に迎えており、高縄城を基に知多半島にまで勢力を広げて行きました。田原に進出した宗光は、郡代の一色政照を攻めて隠居に追い込むと、田原に新城を築いて移りました。入れ替わるようにして戸田忠次が高縄城に入りました。忠次は徳川家康に仕えると、三河一向一揆の鎮圧,掛川城攻め,三方ヶ原の戦い,長篠の戦い,高天神城攻め,小牧長久手の戦い,小田原攻めなどの主要合戦に参加しました。家康の関東移封に伴い伊豆の下田城に移ると、高縄城は廃城になりました。写真は家政高等専修学校の校門を入ったところにあった城址碑です。撮影が終わると、近くにある豊橋鉄道の老津駅(無人駅)に行き、電車に乗って田原城に向かいました。
田原城
田原市
室町時代に田原に侵攻して郡代の一色政照を隠居に追い込んだ戸田宗光が築いたのがはじまりだそうです。戸田康光が城主のときに、松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)を駿府城に護送する任務を受けましたが、寝返って織田信秀(信長の父)に送ってしまいました。激怒した今川義元の軍勢によって田原城は落城し、康光は戦死しました。江戸時代には譜代大名が代々城主になり、三宅康保が最後の藩主のときに明治維新を迎えました。余談ですが、三宅氏の江戸上屋敷付近に坂があったことに由来して三宅坂(最高裁判所がある地名)と呼ばれるようになりました。写真は復興した二ノ丸櫓ですが、古写真では下見板張りだったので、残念ながら意匠が異なる復興でした。
刈谷城
刈谷市
戦国時代に水野忠政が築いたのがはじまりだそうです。三河の松平清康と同盟を結んだときに、清康の要請で忠政の娘が岡崎城の松平広忠に嫁ぎました。忠政の娘は於大の方といい、二人の間に産まれたのが、竹千代(後の徳川家康)です。桶狭間の合戦のときは水野信近(徳川家康の叔父)が城主で、今川義元が戦死したことが分かったときに織田信長に寝返ったそうです。尾張の鳴海城に籠城していた義元の忠臣・岡部元信は、主君・義元の首の返還を交換条件として鳴海城を引き渡すと、弔い合戦として真っ先に刈谷城を襲い、信近を討ち取った上に城を焼き払ってから、駿河に戻りました。写真は本丸跡にあった城址碑と説明碑です。少し離れたところに、於大の方が住んでいたという椎の木屋敷址があり、そこにも寄ってみました。
刈谷古城
刈谷市
室町時代に水野貞守が居館を築いたのがはじまりだそうです。水野忠政(徳川家康の母・於大の方の実父が刈屋(後の刈谷)に新城を完成させると「刈谷城」となったために、こちらは「刈谷古城」と呼ばれるようになりました。刈谷古城址は土塁の一部が残っているとのことでしたが、崩れて跡形もなくてどれなのかが分かりませんでした。あと、城址があったことを示す物は無くて残念でした。写真は正面にあった本刈谷神社で、そっちのほうが城址っぽく見えました。
重原陣屋
刈谷市
寛政2年(1790年)に、刈谷藩主・土井利制のときに領内で寛政一揆が起きて、幕府から領地替えの処分を受けました。陸奥国・福島藩の飛び地として陣屋が置かれました。以後、板倉氏が代々治めました。戊辰戦争で福島藩の板倉勝尚は幕府側に付いたため、戦後明治政府によって福島城を没収された上に隠居させられました。家督を継いだ板倉勝達は飛び地(重原陣屋)に移封され、そこで廃藩置県を迎えました。写真は真言宗・浄福寺の境内にあった石碑「重原陣屋跡」です。陣屋の玄関は十応寺、陣屋門は願行寺にそれぞれ移築されたそうですが、折り畳み式の自転車で巡っていたのと、浄福寺から少し離れていることが分かったので寄りませんでした。
重原城
知立市
築城の年代は不詳ですが、平安時代に重原荘を治めていた領主の居館があった場所だそうです。戦国時代には、駿河の今川氏と三河の松平氏に対する備えとして、刈谷城の水野氏によって城郭が拡張されました。織田信長の家臣・山岡河内守が城主のときに、上洛で尾張領に侵攻した今川義元の大軍によって落城しました。義元は家臣の松平義春に命じて、重原城を拠点として、西側にある村木の台地に砦を築かせて、信長包囲網を強化したそうです。桶狭間の戦いで義元が戦死すると、撤退が遅れた重原城と村木砦の今川勢は信長に降伏しました。写真は上重原町公民館の裏側にあった石碑です。
知立城
知立市
平安時代に知立神社の神主をしていた永見氏の屋敷がありました。13代目・永見貞春の時に居城として整備されました。戦国時代には、29代目・永見貞英が城主で、上洛で尾張領に侵攻した今川義元の大軍によって落城しました。しかし、桶狭間で義元が戦死すると織田信長によって取り返されました。貞英の娘は於万といい、徳川家康の側室になりました。家康と於万の間に産まれたのが於義丸(後の結城秀康)で、於万の実家・知立城で育ちました。余談ですが、秀康には双子の弟・永見貞愛が居ました。当時は双子が生まれると不吉な事になるという風習があり、家康から実子と認められなかったそうです。貞愛は永見氏に身を寄せて知立神社の神職を継ぎました。写真は知立古城址公園にあった高さ5メートルもの大きな石碑で、最初は電柱と勘違いしてしまいました。
知立御殿
知立市
平安時代の初期から知立地方を治めていた永見氏代々の居城・知立城があったのですが、戦国時代に上洛で尾張領に侵攻した今川義元の大軍によって半日で落城しました。天正年間に刈谷城主・水野忠重(徳川家康の叔父)が荒廃した知立城跡に御殿を築きました。寛永年間に増築されて徳川将軍家の休息用の御殿となりました。しかし、元禄12年(1699年)に起きた大地震によって崩壊してしまいました。写真は知立古城址公園の入口に入った右側にあった石碑です。どうせなら「御殿址」ではなく「知立御殿址」にしたほうが分かりやすかったのに…と思いました。
牛田城
知立市
戦国時代に刈谷城の水野忠政の命令を受けて家臣の牛田興政が築いたのがはじまりだそうです。自領の生命線である猿渡川の要に城を築くことで、三河の松平氏と駿河の今川氏から守る働きをしていました。5年後に上洛で尾張領に侵攻した今川義元の大軍の前にあっけなく落城し、城主の興政は戦死してしまいました。牛田城を落とした義元は、知立城に向かって軍勢を進めて行ったそうです。写真は住宅街の中にあった石碑と説明板です。住宅街の外に出ると台地になっていて、そこで折り畳み自転車のペダルを止めて眺めていると、牛田城に押し寄せてくる今川勢の姿と、必死になって防戦している城兵のざわめきが聞こえてきそうでした。
今崎城
知立市

築城の時期と歴史は不詳ですが、戦国時代に織田氏の城があったと云われています。城址に建てられた来迎寺(臨済宗)の境内には、永禄3年(1560年)に上洛で今川義元の大軍が来襲したときに、今崎城を守って全滅した織田勢を埋葬して弔ったという「さむらい塚」が、離れた場所にありました。写真は門くぐった右脇にあった石碑「今崎城址」です。石碑をデジタルカメラにおさめると、折り畳み自転車に跨って八橋城に向かってペダルを漕ぎました。

八橋城
知立市
平安時代に八橋村を治めていた村上兼房と村上兼利の両将の居城があった場所だそうです。村上氏は源師房を祖に持つ名門だそうです。大正7年の三河鉄道の工事の際に、多数の人骨と五輪塔が発掘されたので、八橋城の存在が判明したと、写真の説明板に書いてありました。ちょうど行ったときには畑だった場所を発掘中で、ブルーシートが被せてありました。写真には写ってないのですが、説明板の前に石碑「葦香城」もありました。余談ですが、明治維新で活躍をした公家・岩倉具視も同じ村上源氏の血筋です。
大脇城
豊明市
戦国時代に梶川秀盛の居城があった場所だそうです。秀盛は織田信長と信雄(信長の次男)に仕え、豊臣秀吉の朝鮮出兵では池田輝政に従って参陣しましたが、ソウル郊外の陽川にて戦死してしまったそうです。豊明インターチェンジの建設に伴う発掘調査で、天正4年(1576年)の護摩札が発見されたそうです。写真は豊明インターチェンジの横にあった石碑「大脇城址」と説明板です。
犬山城
犬山市
戦国時代に織田信康(信長の叔父)が木ノ下城を廃城にして犬山城を築いたのがはじまりだそうです。現存する天守閣の二階部分までは、信康が築いた頃だと云われています。信康が斉藤道三との戦いで戦死すると、子・信清が城主になりましたが、従兄弟の織田信長によって追われてしまいました。小牧・長久手の戦いでは池田恒興が城主に、関ヶ原の戦いでは平岩親吉が城主になりました。江戸時代に尾張藩の家老・成瀬正成が犬山城主になると、望楼が増築されて現在見られる姿になりました。平成16年まで日本で唯一の個人所有の城でした。14年前に日帰りドライブで犬山城に行っているので、今回で2度目の訪城となります。犬山城の天守閣(昭和10年に国宝に指定)からは、木曽川の対岸にある鵜沼城跡と伊木山城跡のある城山がそれぞれ目の前に見えました。
木ノ下城
犬山市
室町時代に越前国の守護・斯波義廉の命で守護代として織田敏広が尾張国の小口城に入りと、弟の織田広近は木ノ下城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代に織田信康(信長の叔父)が犬山城を築くと、木ノ下城は廃城になりました。犬山市役所の手前にある愛宕神社が城跡で、境内には写真の城址碑が、奥にある本殿の横に解説板がそれぞれありました。愛宕神社から犬山城の天守閣までは約1キロメートルしか離れていませんでした。
羽黒城
犬山市
室町末期に羽黒村を治めていた梶原景義(鎌倉御家人・梶原景時の末裔)の居城があったところだそうです。景義は織田信長の側近で、本能寺の変で森蘭丸と共に信長を守って討ち死にしています。景義の亡き後を継ぐ者が居なかったので梶原家は断絶し、羽黒城は廃城になりました。小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉の命令で山内一豊と堀尾吉晴が羽黒城址を修復して一時的に砦として復活しましたが、戦いが終わると再び廃城になりました。余談ですが、一豊の母・法秀尼は梶原家の出身だそうです。写真は羽黒城址にあった石碑で、城址の入口にはNHK大河ドラマ「功名が辻」の放送中に設置された新しい説明板がありました。
梶原氏館
犬山市

鎌倉時代に梶原景親(坂東平氏・鎌倉氏の末裔)の居館のあった場所だそうです。景親は鎌倉御家人・梶原景時の孫に当たるそうです。将軍・源頼朝の死後、幕府の内紛によって景時は鎌倉から追放の身となり、京都に落ち延びる途中の駿河国で嫡男・景季と次男・景高と共に討伐されてしまいました。この時、景高の遺児・豊丸は幼少だったので、乳母・隅の方に連れられて、隅の方の生地である羽黒の地侍・長谷部左膳を頼って逃れました。豊丸は元服すると景親と名乗り、初代の景親から17代目の景義まで代々続きました。写真は梶原氏の居館跡にあった ‘磨墨塚’です。磨墨は頼朝から景時に与えられた名馬で、宇治川の戦いで景時の嫡男・景季が磨墨に乗って佐々木高綱と先陣争いをしたという伝説があります。余談ですが、明治時代の軍人・乃木希典は高綱の末裔です。

楽田城
犬山市
室町時代に織田久長が尾張と木曽を結ぶ木曽街道の要に築いたのがはじまりです。戦国時代を通じて目まぐるしく城主が変わりました。小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦が置かれ、堀秀政(織田信長の元側近)が布陣したそうです。楽田城は「天守」の由来となる建物を築いたとの記載が資料としては早い時期に記された城だそうです。永禄元年だそうなので、室町幕府13代将軍・足利義輝のときに建てられたことになります。「永禄以来出来初之事」という古文によれば、『楽田城に高さ5メートルほどの土台を築き、その上に2階の櫓を築いて中には神仏をまつり、それを殿守(でんしゅ⇒てんしゅ)と呼んだ。』という内容が記載されているそうです。現在は楽田小学校が建てられているので遺構は全く残っていませんでした。写真は正門前にあった石碑「楽田城址」です。
楽田小城
犬山市
室町時代に織田久長が尾張と木曽を結ぶ木曽街道の要に築いたのがはじまりです。戦国時代を通じて目まぐるしく城主が変わりました。小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦が置かれ、堀秀政(織田信長の元側近)が布陣したそうです。長久手で豊臣秀次の別働隊が不意を突かれて敗走すると、犬山城に居た豊臣秀吉自ら本隊を率いて前線に出る途中にある楽田城に入ったのですが、そのときに新しく拡張された曲郭のあった場所だそうです。現在は楽田小学校から北側に向かって150メートルのところにある須加神社に土塁の一部が残っていて、そこに写真の石碑「楽田城小城址」がありました。犬山に行く前日にインターネット下調べをしているときに偶然に見つけたのですが、それを紹介しているサイトは非常に少なかった城址でした。
浅井氏屋敷
春日井市
戦国時代に織田信長に敗れた近江国・浅井長政が29歳で自刃すると、嫡男の万福丸は織田軍に捕らえられて斬首、次男の万寿丸は出家(後に地元福田寺の住職になる)し、三男の七郎は生母・八重の方(長政の側室)に連れられて美濃国に潜みました。信長が本能寺の変で横死すると、七郎はこの地(春日井郡牛山村)に移って住み着いたそうです。代々庄屋を務め、広大な土地と屋敷を構えていました。9代目の新七は、大正2年に神奈川県の藤沢に屋敷を移すと、広大な土地と屋敷は廃止されてしまいました。現在は何も残っておらず、名鉄・間内駅の改札口を出たところに、写真の浅井長政の銅像と石碑がありました。
小牧御殿
小牧市

かつては戦国時代の蟹清水砦があったのですが、小牧・長久手の戦いが終わると破却されてしまいました。江戸時代には江崎善左衛門(農業用の広大な池・入鹿池を造営して尾張領内における新田開発に協力した庄屋)が広大な屋敷を構えました。尾張藩の徳川義直(尾張徳川家の祖)が鷹狩りで江崎氏の屋敷を訪れたところ、屋敷から眺めた小牧山の景観や庭園が大層気に入ったので、屋敷内に御殿の造営を命じたそうです。それが小牧御殿のはじまりです。同時に小牧代官所も置かれました。現在は土塁などの遺構は全く残っておらず、写真の解説入りの石碑と、垣根に埋もれて見えなくなった「小牧御殿跡」と書かれた石碑が設置されていました。手前を通る道路の向かいには蟹清水砦跡の石碑と解説板が設置されていました。そこからは小牧山が良く見えました。

久保山砦
小牧市

小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦が置かれていた場所です。この砦には、丹羽長秀(織田信長の元重臣)と金森長近(土岐氏の支族)などの4千の軍勢が布陣したそうです。長久手で豊臣秀次(秀吉の甥)の別働隊が徳川家康に不意を突かれて敗走すると、犬山城に居た秀吉自ら本隊を率いて久保山砦に来たので「太閤山」とも呼ばれています。熊野神社の本殿に説明板が、本殿左側の裏を少し登ったところに、写真の石碑「久保山砦跡」がありました。ここから家康が本陣を置いた小牧山が良く見えました。

小松寺砦
小牧市

小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦が置かれていた場所です。この砦には、豊臣秀次(秀吉の甥)と丹羽長重(長秀の長男)の1万2千の軍勢が布陣しました。真言宗・小松寺の境内に写真の石碑「小松寺砦跡」がありました。余談ですが、お寺の由緒は平安時代と古く、この一帯を荘園として所有していた平重盛(清盛の長男)が寺の建物を改修と増築し、更に領地を与えられた事から、重盛の別称である「小松内大臣」から小松をとって小松寺と称するようになりました。小学校の時に両親から買ってもらった「平家物語」を読み漁っていた時期がありました。源氏より平氏のほうが好きなのはその影響で、父・清盛に劣らない才能を持ちながらも温厚な性格を持ち合わせていた重盛も好きでした。お寺を眺めながら「重盛の荘園だったのか」と思うと感動してしまいました。

岩崎山砦
小牧市
小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦が置かれていた場所です。この砦には、稲葉一鉄の4千の軍勢が布陣したそうです。一鉄は斉藤道三に仕えていて「美濃三人衆」の一人に数えられていましたが、斉藤氏が滅ぶと織田信長に仕え、その後秀吉に仕えていた武将です(春日局は一鉄の姪が産んだ娘です)。岩崎山(観音堂)に登る細い道沿いに、写真の石碑「岩崎山砦跡」と説明板がありました。高台にあるので、そこから徳川家康が本陣を置いた小牧山が良く見えました。また、名古屋城の築城時の石垣の採掘場だったらしく、転がっている多数の残石のところにも説明板があり、歴史のロマンを楽しむことが出来ました。
田中砦
小牧市

小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉方の砦が置かれていた場所です。この砦には、蒲生氏郷(織田信長の娘婿で秀吉の重臣)と堀秀次(秀吉の重臣)と細川忠興などの1万3千の軍勢が布陣したそうです。田中砦から徳川家康が本陣を置いて対峙したという小牧山城までは2300メートルしか離れていませんでした。小牧山城を眺めていると、砦内に駐屯している豊臣軍の兵馬と軍旗が、目に浮かんできました。現在は三ツ山会館の敷地内に写真の石碑「田中砦跡」がありました。なお、そこは三ツ山古墳群だったところでもあるそうで、合戦に使われたことは納得しました。

蟹清水砦
小牧市

戦国時代に柘植正俊の居城がありました。城主をしていた当時の正俊は織田与四郎を名乗っていて、織田信長の従弟に当たります。小牧・長久手の戦いでは、居城跡を利用して織田信雄(信長の次男)と徳川家康の連合軍の砦として利用されました。戦後に砦は破却されてしまいましたが、江戸時代には江崎善左衛門(農業用の広大な池・入鹿池を造営して尾張領内における新田開発に協力した庄屋)が広大な屋敷を建てて、まもなくして屋敷内に尾張藩の鷹狩御殿が造営されました。同時に尾張代官所も置かれました。写真は駐車場にあった石碑「蟹清水砦跡」で、その横には解説板が設置されていました。手前を通る道路の向かいには小牧御殿跡の石碑と解説板が設置されていました。

南外山砦
小牧市

砦が築かれた時期は定かではないのですが、戦国時代に土豪・堀尾孫助の居館があったのが最初だと云われています。小牧・長久手の戦いでは織田信雄(信長の次男)と徳川家康の連合軍の砦として、居館跡が再利用されました。戦後に徳川軍が引き上げると、砦は破却されてしまいました。写真は八幡神社の境内にあった石碑「南外山砦跡」で、表面が剥離して文字が読みづらくなっていました。ここに行く前に、北外山砦跡に行ったのですが、目印である問屋・スーパーサントまでは行けたのですが、個人宅の敷地内に北外山砦跡の石碑があるため、その個人宅を見つけることが出来ませんでした。八幡神社を出ると、東側に500メートル先にある名鉄・間内駅(浅井氏屋敷跡)に向かって折り畳み自転車を走らせました。

丹羽長秀館
名古屋市・西区
織田信長の重臣・丹羽長秀の居館(屋敷)のあった場所です。長秀は信長の姪(信長の兄・信広の娘)を妻に迎え、長秀の息子・長重は信長の娘を迎えています長秀は奉行職も努め、安土城普請でも功績をあげました。信長の信頼が厚かったにもかかわらず、信長の没後に発生した賤ヶ岳の戦いでは、羽柴秀吉に付いてしまいました。柴田勝家が滅ぼされると、長秀は焼け野原となった北ノ庄城に入城すると、清洲城下にあった居館は廃止されました。写真は石碑「丹羽長秀邸址」で、道の奥に入った突き当たり付近に、旧名古屋城の三ノ丸にあった重臣・志水屋敷の玄関(車寄せ)を移築したという立派な門がありました。余談ですが、長秀の家臣には豊臣政権の五奉行の1つに数えられた長束正家がいました。
平田城
名古屋市・西区
築城年代と築城者は定かではないのですが、「尾張府志」によると、戦国時代に尾張守護・斯波家の一族・平田氏が城主をしていたと云われています。平田城の規模は小さかったらしく、館址(屋敷址)だとも砦址だとも云われていて、これも定かではないそうです。県道63号とから県道163号が交差している「城町」交差点の付近にあるビニールハウスが立ち並ぶ一区画に写真の解説板がありました。古井戸があると書いてあったのですが、個人宅の敷地内にあるのか外からは分かりませんでした。
名塚砦
名古屋市・西区
戦国時代に織田信秀が急死すると家督争いで織田信長と織田信勝(信長の弟)が対立しました。宗家の織田信友と林道勝&光春の兄弟と柴田勝家などは信勝に家督を継がせようとし、その不穏な動きを察した信長は、佐久間盛重に命じて急いで築かせたのが名塚砦です。信長は佐久間一族と丹羽長秀と佐々政次(成政の兄)と前田利家を引き連れて稲生原で合戦が起きました。この戦いで信勝側は破れて幽閉され、勝家は降伏して剃髪しました。織田一族の内紛を治めた信長は、後に織田宗家をも追放し、尾張国での支配権を確立しました。写真は白山神社にあった名塚砦址の解説板です。写真を撮り終えると、庄内川を渡った対岸にある小田井城址に向かって折り畳み自転車のペダルをこぎました。
田幡城
名古屋市・北区
戦国時代に清洲城の支城として越智信高が築いたのがはじまりだそうです。信高の後を継いだ林秀禎は織田信秀(信長の父)に仕え、幼少期の信長の補佐役を務めていました。家督争いで弟の信勝と対立し、信勝は敗れて切腹したそうです。戦後、廃城になりました。写真は田幡城址の一部に含まれる田幡公園で、公園の向かいには本丸址に建てられた金城小学校がありました。小学校内には林泉寺址の石碑と清正橋の石があるのですが、休日で校門が閉まっていて入ることが出来ませんでした。清正橋の石というのは、徳川家康による名古屋城築城の際、石を運ぶ道中の小川に架けられた橋石に使われていたものだと伝えられていて、見たかったな〜と思いました。
平手政秀館
名古屋市・北区
織田信秀の重臣・平手政秀の居館(屋敷)のあった場所です。政秀は織田信長(信秀の嫡男)の傳役を務めていました。信長の初陣を見届け、美濃の斉藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫との婚約を取りまとめました。若年のうつけ者と言われていた信長を長い間諌め続けていたそうです。信秀の死後織田家中が不穏な空気に包まれるようになると、強いメッセージを信長に伝えるために、居館内で自刃したそうです。これには異説もあって定かではないのですが、信長は家中を油断させるためにうつけ者のフリをしていたそうです。写真は志賀公園内にあった石碑と解説板です。別名・西志賀城とも呼ばれ、ここから信長の清洲城は西方面に2.5キロメートルの所にあります。
山田重忠館
名古屋市・北区
倉時代の武士・山田重忠の居館があった場所だそうです。元々は美濃国を拠点にしていましたが、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、尾張国の山田庄の地頭に命ぜられました。山田氏は清和源氏・源重宗の流れをくむ名門です。承久の乱(後鳥羽上皇は、朝廷の権力を鎌倉幕府から取り戻すために起きた動乱)が起きると、重忠は一族郎党を引き連れて朝廷側に付きましたが、執権・北条義時(北条政子の弟)の命令で、京都に押し寄せてきた北条時房(同じく北条政子の弟)の大軍によって全滅してしまいました。黄檗宗・福禅寺が経営している山田幼稚園の正門に、写真の石碑がありました。
龍泉寺城
名古屋市・守山区
延暦14年(桓武天皇の時代)に最澄が神のお告げを受けて馬頭観音像を本尊として建立したのが龍泉寺(天台宗)です。通常は城址に、あとから神社仏閣などが建てられる例は多いのですが、795年に創建されたと伝わる龍泉寺の場合は、お寺の歴史のほうがはるかに古いです。龍泉寺にお城が築かれたのは戦国時代で、織田家の家督争いのときに織田信行が入城しましたが、戦いに勝った織田信長によって廃城になりました。29年後に起きた小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉が龍泉寺に本陣を置いたことがあるそうです。現在は尾張四観音として名古屋市民に親しまれています。写真の本堂の右側の奥に模擬天守閣が見えました。休館日で模擬天守閣の写真を撮ることは出来ませんでした。
小幡城
名古屋市・守山区

戦国時代に岩倉城の織田信安の家臣・岡田重篤が築いたのがはじまりだそうです。三河国を統一した松平清康(徳川家康の祖父)は尾張国に侵攻すると、織田方の小幡城と守山城を共に落城させました。しかし、清康は守山城を取り戻しに来た織田信光(織田信長の叔父)の奇襲を受けて帰らぬ人となりました。戦後、信光の持城となりましたが、まもなく廃城になりました。29年後に起きた小牧・長久手の戦いで家康が修復し、三河国との連絡の城として機能していましたが、家康と豊臣秀吉が和睦して引揚げると、再び廃城になりました。写真は守山ケアコミュニティ「そよ風」の向かいにある駐車場の角にあった解説板です。城址はすっかり破壊されてしまい、西城小学校の南側にある崖が雰囲気を残すだけとなりました。

守山城
名古屋市・守山区
築城年代と築城者は共に不詳です。戦国時代に松平清康(徳川家康の祖父)は尾張国に侵攻すると、守山城と小幡城を共に落城させました。一時的に清康は守山城に在城していましたが、守山城を取り戻しに来た織田信光(織田信長の叔父)の奇襲を受けて帰らぬ人となりました。そのとき清康は25歳だったそうです。織田信秀(信長の父)が急死して織田一族の内紛が起きると、めまぐるしく城主が変わりました。29年後に起きた小牧・長久手の戦いでは家康が修復し、三河国との連絡の城として機能していましたが、家康と豊臣秀吉が和睦して引揚げると、廃城になりました。余談ですが桶狭間の合戦で廃城になったという説もあるそうです。写真は曹洞宗・宝勝寺の裏にあるアパートにあった解説板です。石碑は宝勝寺の奥に残っている土塁の上にありました。
末森城
名古屋市・千種区
戦国時代に織田信秀が古渡城を廃城して本拠地を移したのがはじまりだそうです。末森城は三河・松平氏と、駿河・今川氏に対する防衛線上にありました。信秀が急死すると次男の織田信行が城主になりましたが、家督争いで兄の織田信長に敗れて一度許されたものの、再び謀反を起したので、ついに清洲城で暗殺されてしまいました。信長の怒りは激しかったので、末森城は徹底的に破壊されてしまいました。現在は城山八幡宮になっていて、土塁が良好に残っていました。写真は城山八幡宮の敷地内にあった石碑です。城山八幡宮の案内板はあったものの、有名な城なのに末森城に関する解説板が設置されていなかったのは意外でした。
上野城
名古屋市・千種区
戦国時代に上野庄に入った織田信秀の家臣・下方貞経が築いたのがはじまりだと云われています。子の貞清は織田信長に仕え、小豆坂の戦い,萱津の戦い,桶狭間の戦いなどでも槍の功名を挙げた武将でした。本能寺の変では貞清は居城を固めていて難を逃れていますが、一族は信長の盾になって討ち死にしたそうです。松平忠吉(徳川家康の4男で、秀忠とは同じ腹の兄弟)が清洲城に入ると、忠吉に仕えるようになりました。忠吉が病死すると、徳川義直(家康の9男で、尾張徳川家の始祖)が名古屋城に入ると、下方一族は尾張藩に仕えるようになり、やがて上野城は廃城になったそうです。写真は下方氏の菩提寺・永弘院で、表門に入った右側にあった石碑で、解説板はありませんでした。
一色城
名古屋市・名東区
戦国時代に今川氏親(義元の父)の侵攻を防ぐために、尾張国の守護・斯波義統の命令で柴田勝重が築いたのがはじまりだそうです。勝重は勝家の祖父で、柴田勝家が誕生したという下社城とは2キロメートル以内のところにありました。写真は神蔵寺の墓地にあった一色城主・柴田勝重の墓石です。この日はお彼岸で、前日に行ってきた比良城と同様、多くの参拝者が訪れていました。
下社城
名古屋市・名東区
織田家の重臣・柴田勝家が誕生したと云われている城です。織田信秀が急死して家督争いが起きると、勝家は織田信行派に付いて織田信長と対立しました。稲生原の戦いで信行派が破れると、降伏した勝家は幽閉され、剃髪しました。一度許された信行が再び謀反を起すと、勝家は信行を見限りました。それ以来、勝家は信長の忠臣として支えて行くようになりました。以後、織田家の筆頭家老として越前国・北ノ庄城に移るまで、下社城を居城にしていました。現在は真宗・明徳寺が建ち、山門の右脇には写真の石碑「下社城址」、左脇には石碑「柴田勝家公誕生地」と解説板が、それぞれ設置されていました。明徳寺の周辺を歩いて気づいたのですが、柴田姓の家がいくつかありました。もしかしたら勝家の末裔?と思ったりしました。
島田城
名古屋市・天白区

築城年代は不詳ですが、京鎌倉街道の要所に築かれた城で、牧虎蔵が居城していたといわれています。牧氏は足利氏の流れをくむ斯波高経(越前の守護)の末裔です。戦国時代には織田信秀(信長の父)の命令で、小林城の牧長義が島田城を改修して大きくしたそうです。写真は天白郵便局の裏路に入ったところにあった解説板で、その後ろには小さな土塁が残っていました。住宅街の中にあったのですが、開発されることなく末永く残して欲しいと思いました。名古屋市にある史跡(お城,神社,寺院,古墳など)は、写真のような解説板が非常に豊富で面白いところだと思いました。埼玉県も見習って欲しいと思いました。

鳥栖城
名古屋市・南区
室町時代に成田時重がこの地に城を築いたのがはじまりだそうです。戦国時代には成田義次が城主で、寺部城の山口盛重(長門国・大内義弘の次男・持盛の一族)の家臣となり、盛重の娘を妻として迎えていましたが、戦後武士をやめて帰農したそうです。現在、城址には写真の曹洞宗・成道寺が建てられていて、境内には成田夫婦地蔵がありました。この鳥栖城を最後に折り畳み式の自転車を使った1泊2日の城巡りが終わり、名鉄名古屋本線の「桜駅」に入ってきた電車に乗って名古屋駅に戻りました。
比良城
師勝市
戦国時代に佐々盛政が近くを流れる庄内川の湿原地帯に築いたのがはじまりだそうです。織田信長に仕えていた佐々成政が誕生した城で、信長が使番として用いた黒母衣衆の一人として活躍をしました。稲生の戦いで次兄の成経が、桶狭間の戦いで長兄の政次が相次いで戦死したので、3男だった成政が比良城の城主になりました。比良城は清洲城の支城として重要な城でした。しかし、織田信長の命により越前国の小丸城に移ったときに廃城となりました。写真は曹洞宗・光通寺の墓地内にあった石碑で、表門の前には解説板がそれぞれありました。光通寺には佐成政の後裔・佐々白鳳画伯筆の佐々成政像の軸がありました。この日はお彼岸で多くの参拝者が訪れていました。
小田井城
西枇杷島町
室町時代に清洲城の城主だった織田敏定(織田信長の曾祖父)の命令で、支城として小田井城が築かれたのがはじまりです。織田忠辰(織田信長の従兄弟)が城主のときに小牧・長久手の戦いが起き、豊臣秀吉に追われて廃城になりました。忠辰の子孫は、尾張藩士として続きました。写真は小田井城址公園にあった石碑です。しかし、土塁などの遺構は全く残っていませんでした。小田井城は庄内川の畔に築かれた城で、庄内川を挟んで東側に1.5キロメートルの位置には名塚砦(白山神社)がありました。折り畳み自転車にまたがると、ここから3キロメートル先にある清洲城に向かってペダルをこぎました。
尾張吉田城
春日井市
築城の時期と廃城の時期は共に不明ですが、室町時代に織田敏定(織田信長の曾祖父)の家臣・小坂孫四郎が城主をしていたそうです。孫四郎が戦死すると、子が居なかったので同じ織田氏の家臣・前野宗吉が養子として名跡を継いで存城していたそうです。写真は王子製紙の南側に位置している下条公園の隅にあった吉田城の石碑で、遺構は全く残っていませんでした。
赤池城
日進市
戦国時代に丹羽秀信が居城を構え、城内に龍渕寺を建立したという文献が残っているそうです。秀信は岩崎城の丹羽氏の一族です。秀信が岩崎城の戦いで戦死すると、赤池城は廃城になりました。現在は中部電力日進変電所の周囲を通る細い農道沿いに石碑がありました。帰宅してからインターネットで調べてみたのですが、全く分からなかったので「本当にお城があったの?」と思ってしまいました。
梅森城
日進市
室町末期に尾張国に進出した松平信次によって築かれたのがはじまりだそうです。梅森城は北城と東城で構成された城でした。信次は三河国の佐々木城の城主で、松平広忠(徳川家康)の叔父に当たるそうです。信次は梅森城の敷地内に真宗・眺景寺を建立し、次男の信之が道西と名を改めて住職になりました。写真は眺景寺で、表門の左脇に石碑「梅森城址」がありました。
清洲城
清洲町
室町時代に斯波義重によって築かれたのが始まりだそうです。戦国時代には織田宗家の城となりました。宗家の織田信友が家来だった織田信長によって謀殺されると信長の居城となりました。桶狭間の戦いの時、こういう実話が残っています。信長は清洲城の3千の兵を1人も残さずに引き連れて今川義元との戦いに挑んだそうです。清洲城に残っていたのは織田家の女性達だけで、その清洲城を守備したのは舅の斉藤道三が派遣した5千の精鋭(美濃四人衆)だったそうです。信長が取った大胆な行動を家臣から聞いた道三は大喜びをしたそうです。信長が本能寺の変で倒れると、羽柴秀吉と柴田勝家が対立した世に言う清洲会議が起きています。江戸時代になると名古屋城の築城に伴って清洲城は取り壊されてしまい、清洲城下町は名古屋城下町に移転されました。
清洲古城
清洲町
室町時代に尾張守護・斯波義重によって築かれたのがはじまりだそうです。義重は室町将軍・足利義満に仕えていて越前守護をしていました。応仁の乱では幕府側に付いた恩賞で、尾張守護に命ぜられて清洲に入りました。清洲は京鎌倉往還と伊勢街道が合流し、中仙道にも通じる交通の要衝でした。戦国時代になると斯波氏に仕えていた守護代・織田宗家の本城となりました。分家の織田信秀(信長の父)が清洲奉行として清洲城に入った時期もありました。宗家を滅ぼした信長によって五条川の対岸に新しい新城が築かれました。そういう経緯があって、現在は清洲古城址公園に写真の石碑「清洲古城跡」が建てられています。模擬天守閣が建てられているのは清洲公園で、信長によって築かれた新城があった場所です。
名古屋城
名古屋市・中区
慶長14年(1909年)に徳川家康の命により、徳川義直の尾張藩の居城として造営され、慶長17年に金鯱をのせた大小天守閣が完成し、333年間威容を誇っていました。慶長20年に大坂の夏の陣で豊臣家が滅んでいるので、豊臣秀吉が築いた大坂城があった時期とは約4年重なっています。明治維新に最後の藩主・徳川慶勝が名古屋城の取り壊しと金鯱の献上を申し入れてきましたが、山県有朋の命で名古屋離宮に指定されました。昭和20年5月14日の名古屋大空襲によって、国宝に指定されていた大小天守閣と本丸御殿などの多数の建物が焼失してしまいました。写真は昭和34年10月に建てられた復興天守閣と、平成30年6月に完成公開されたばかりの復元本丸御殿(左が上洛殿)です。
那古野城
名古屋市・中区
室町時代に今川氏親(義元の父)の命によって尾張平野の中心に築かれたのがはじまりだそうです。その頃は規模としては大きな城ではなかったそうです。今川氏豊(義元の弟)が城主のときに、織田信秀によって奪取されたそうです。織田信長はこの城で生まれたそうです。後に信秀は古渡城に移ると、那古野城は信長の居城となりました。13年後に信長が清洲城に居城を移すと、那古野城は廃城になったそうです。那古野城の故地で、後の名古屋城の二ノ丸の位置にあったと云われているそうです。写真は二ノ丸庭園にあった那古野城の説明板です。
大秋城
名古屋市・中村区
室町時代に那古野城を支配していた今川氏豊(義元の弟)に属していた大秋村の地侍・大秋十郎左衛門と、その一族の居城があった場所だそうです。大秋城は清洲と那古野の両城をつなぐ要にあり、織田信秀によって那古野城が奪われると、大秋城は織田方の属城になったそうです。写真は大秋神社の鳥居の横にあった石碑「大秋城址」で、静かな住宅街の中にポツンとありました。
秀吉出生地
名古屋市・中村区

天文6年(1537年)3月26日に、中村の百姓の子・日吉丸(後の豊臣秀吉)として出生した場所だと云われているそうです。秀吉の母と清正の母は従姉妹同士(一説には姉妹)で、家も隣同士だったそうです。あと、木下家定&勝俊と小出秀政の家も隣同士だったそうです。現在は日蓮宗・常泉寺になっていて、豊國神社(中村公園)と隣接していました。常泉寺の境内には、秀吉の像と、産湯の井戸がありました。ちょうどこの日は豊國祭をやっていて、道路には縁日が建ち並び、たくさんの家族連れや学生達で賑わっていました。常泉寺にも大勢の参拝者で賑わっていました。

清正出生地
名古屋市・中村区
永禄5年(1562年)6月24日に、中村の土豪の子・夜叉若(後の加藤清正)として出生した場所だと云われているそうです。清正の母と豊臣秀吉の母は従姉妹同士(一説には姉妹)で、家も隣同士だったそうです。あと、木下家定&勝俊と小出秀政の家も隣同士だったそうです。現在は日蓮宗・妙行寺になっていて、豊國神社(中村公園)と隣接していました。妙行寺の境内には、清正の像がありました。清正の銅像は全国で6ケ所もあります。名古屋市の妙行寺と名古屋城の能楽堂と同じく名古屋城のニノ丸、熊本市の熊本城と八景水谷公園、近江長浜市の豊國神社です。余談ですが、徳川頼宣(紀州徳川家の祖)は清正の5女・瑤林院を正室に迎えており、その間に生まれた光貞は2代藩主となり、光貞の4男・徳川吉宗(徳川8代将軍)は清正の曾孫に当たります。
小出秀政館
名古屋市・中村区
豊臣秀吉の叔父・小出秀政の屋敷のあった場所だそうです。秀政の妻は大政所(秀吉の母)の妹に当たることから、岸和田城の城主にまで出世しました。関ヶ原の戦いでは嫡男・吉政と共に西軍に味方をして、東軍に属した細川幽斎(忠興の父)の守る田辺城を攻撃したそうです。次男の秀家が関ヶ原の本戦で東軍として大活躍をしたことから、岸和田城と所領は異例の処置として安泰されたそうです。小出を救った秀家は父・吉政に先立って病死してしまったそうです。写真の石碑は、豊國神社の境内にありました。ちょうどこの日は豊國祭をやっていて、道路には縁日が建ち並び、たくさんの家族連れや学生達で賑わっていました。
木下勝俊館
名古屋市・中村区

北政所(秀吉の正室)の甥・木下勝俊の屋敷のあった場所だそうです。勝俊の父・家定は北政所の兄に当たることから、龍野城の城主にまで出世しました。勝俊の弟には関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀秋が居ます。戦後、京都東山に隠居した勝俊は、林羅山(徳川将軍の儒学者)と松永貞徳(歌人であり、久秀の孫に当たります)と藤原惺窩(朱子学者)などの多くの文化人と交流を持っていたそうです。特に和歌に優れ、「挙白集」や「九州道之記」など多くの歌集を遺しているそうです。写真は豊國神社の隣にある日蓮宗・常泉寺の門前にあった石碑です。余談ですが、勝俊の弟・延俊は正室に細川幽斎の娘・加賀姫を迎えていた関係(忠興の義兄に当たる)で、北政所の縁者では唯一東軍に付いた武将でした。木下家は豊後国日出藩の藩主として明治維新まで続きました。

稲葉地城
名古屋市・中村区
室町時代津田信光(織田信長の叔父)の居城があったと云われているそうです。稲葉地城は庄内川を天然の水堀にし、美濃路と那古野城の西側を押さえる要衝として機能していました。信光の一族は、桶狭間の戦いや本能寺の変で戦死してしまったそうです。現在は稲葉地神明社になっていて、鳥居の前に石碑「稲葉地城跡」がありました。近くには臨済宗・凌雲寺があり、信長が幼少のときに習字の手習いなどを学んだと云われているそうです。稲葉地神明社の見学が終わって折り畳み式の自転車にまたがると、2キロメートル先にある豊国神社に向かいました。
岩塚城
名古屋市・中村区
室町時代に尾張国守護の斯波氏の一族・吉田重氏の居城があった場所だそうです。子の守氏のときに織田信長に降伏しましたが、信長に仕えるのを嫌がった守氏は元氏に家督を譲って隠居してしまったそうです。元氏は織田信長の伊勢国平定戦での大河内城攻略で戦死してしまうと、岩塚城は廃城になったそうです。写真は曹洞宗・扁兼寺の山門で、山門の前に石碑「岩塚城跡」がありました。
前田城
名古屋市・中川区
築城年代は不詳ですが、前田氏発祥の城として有名だそうです。戦国時代には前田種利(利家の祖父・利隆の兄)が城主をしていたことが判明しているそうです。前田城を本城として、荒子城,蟹江城,下市場城,下之一色城の4つの支城を築いて、前田一族を配置していたそうです。戦国時代には小牧長久手の合戦で、前田城主・前田長種は秀吉方に付いたため、徳川家康に攻められて落城してしまったそうです。戦後、前田利則(利家の叔父)が出家して意休と号すると、浄土宗・速念寺を建てたそうです。速念寺の住職は利則から数えて今日まで16代目になるそうです。現在は前田一族による会「前田梅鉢会」が結成され、毎年速念寺で集いや法要が行なわれているそうです。写真は速念寺の山門で、左側に石碑「前田城址」がありました。
助光城
名古屋市・中川区
築城年代は不詳ですが、織田信長の家臣・福留将監の居城のあったところだといわれているそうです。土之宮神明社が跡で、小さな石碑「福留将監古城跡」が神社の竹薮に埋れていたのを、地元の人が見つけて現在の場所に移された物だそうです。余談ですが、助光城から前田城(浄土真宗・速念寺)は200メートルのところにありました。
下之一色城
名古屋市・中川区
室町時代に前田種利が築いたのがはじまりだそうです。種利は利家の祖父・利隆の兄に当たるそうです。戦国時代には小牧長久手の合戦(豊臣秀吉と徳川家康が対立した戦い)で、城主の種定は秀吉方に付いた為、織田信雄(信長の次男)に攻められて落城してしまったそうです。写真は正色小学校の角にあった石碑ですが、フェンスが前にあって邪魔でした。フェンスの外に石碑を設置するという工夫が欲しかったです。
荒子城
名古屋市・中川区
戦国時代に前田利昌が荒子の地に城を築いたのがはじまりだそうです。前田利家は利昌の4男として、この城で生まれました。父の利昌が病死すると長男の利久が家督を継いだのですが、織田信長の命令で弟の利家が家督を継いで荒子城の城主となりました。2002年の大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」で出てきた荒子城は、山に囲まれたところに築かれた城のように映っていましたが、周囲には山など全く無い尾張平野の中心に築かれた小さな平城でした。現在は天満天神宮になっていて、写真の説明板と、大きな石碑「前田利家卿生誕之遺址」がありました。
西浜御殿
名古屋市・熱田区
承応3年(1654年)に2代藩主・徳川光友が造営した御殿です。規模は東西三十六間(65メートル)、南北三十三間(59メートル)の壮大なものだったそうです。御殿は熱田神宮に隣接していたので、公家,幕府高官,大名の客館として利用されていました。御殿の正殿は安政年間に浄土宗・常楽寺(半田市)に移築され、門は春日井市にある市民文化センターに移築され、その他の建物も明治6年に全て解体されてしまったそうです。現在は住宅地になっていて、跡形もありませんでした。写真は白鳥消防団詰所の前に設置されていた説明板です。
藤原氏館
名古屋市・熱田区

平安末期に藤原季範の別館があったところだそうです。季範は公家でありながら熱田神宮の大宮司をしていた人物で、熱田神宮の向かいに別館がありました。娘の由良御前は源氏の棟梁・源義朝の正室で、由良御前が身籠ったときに実家に戻り、ここで頼朝を生んだと云われているそうです。現在は浄土宗・誓願寺(尼寺)が建てられています。山門に葵御紋が付いているのは、開祖・日秀善光上人が竹千代(徳川家康の幼名)の教育係をしていた功績により、寺紋として賜ったものだそうです。写真の山門の前に石碑と説明板がありました。

古渡城
名古屋市・中区
室町時代に頭角をあらわした織田信秀が、今川氏豊(義元の弟)から奪った那古野城を居城にしていましたが、息子の信長が生まれると那古野城を譲り、信秀は南へ2kmのところにある古渡の地に新城を築いて移ったのがはじまりだそうです。13歳の信長は父の居る古渡城で元服を果たしたと云われているそうです。まもなくして信秀が末森城を築いて移ると、わずか14年で古渡城は廃城になったそうです。城址は浄土真宗の一派の寺院・真宗大谷派名古屋別院(正式名称)の敷地になっています。文政3年(1823年)に建てられた大きな本堂は、昭和20年の名古屋大空襲で焼失してしまい、昭和41年に再建されました。写真の石碑と説明板は、山門をくぐった左側にありました。
小林城
名古屋市・中区
室町時代に尾張国守護の斯波氏の一族・牧長清の居城があった場所だそうです。長清は織田信長の妹・信徳院の婿で、老後に参禅して仏門に帰依しましたが、長清の死後に廃城になったそうです。現在は浄土宗・清浄寺が建ち、城主の長清夫妻のお墓が境内にありました。写真は清浄寺の門前にあった小林城の説明板です。
廣井城
名古屋市・中区

室町時代に尾張国守護の斯波氏の家臣・中村氏の居城のあった場所だそうです。江戸時代の慶長15年に、徳川家康によって開削奉行を命じられた福島正則が築いた堀川がすぐ横を流れています。堀川は名古屋城と熱田の海をつなぐ重要な運河で、尾張藩の水軍の拠点として御船方役屋敷が置かれていたそうです。現在は洲崎神社になっていて、鳥居の手前に廣井城址に関する2行の短い由来が書いてありました。

岩崎城
日新市
室町時代に織田信秀の命によって荒川頼宗が築いたのがはじまりだそうです。三河の松平清康(徳川家康の祖父)によって奪われてしまい、丹羽氏清が本郷城から移ったそうです。氏清,氏識,氏勝,氏次の4代が城主になりました。長久手の合戦では、氏次は家康側に付いたそうです。氏次の留守を弟・氏重が岩崎城を守備していましたが、豊臣秀吉側の池田恒興に攻められて玉砕してしまったそうです。岩崎城は落城したものの、留守を守った氏重の奮戦によって時間稼ぎをされた恒興の軍勢は家康によって全滅してしまいました。写真は岩崎交差点から見えた模擬天守閣(岩崎城歴史博物館)で、親友が運転する車の窓から無理な姿勢で何とか撮ることが出来ました
長久手城
長久手町
築城の時期は定かではないのですが、戦国時代に加藤忠景が古城跡を修築したという文献が残っているそうです。長久手の戦いでは徳川家康に付いた岩崎城主・丹羽氏次の留守を守っていましたが、豊臣秀吉の家臣・池田恒興の軍勢に囲まれて、230名の城兵と共に討ち死にしたそうです。文化6年(1809年)に尾張藩の藩士になっていた忠景の末裔によって観音堂が建てられました。写真は観音堂の敷地内にあった説明板で、横には徳川義宣(徳川美術館長)の名前の入った石碑「長久手城址」がありました。この日は静岡県の沼津市に住んでいる親友とトヨタ博物館に行ったときに、長久手町にある城址(長久手城,大草城,岩作城)に車で寄り道をしてくれました。本当にありがとう!
岩作城
長久手町
室町時代に京極家の家臣・今井氏の居城があった場所だそうです。長久手の戦いで、今井一族は徳川家康に付いたため、豊臣秀吉の軍勢によって落城したそうです。写真は長久手町役場の駐車場にあった石碑「岩作(やざこ)城址」です。ここから大草城へは車で10分程度のところにありました。
大草城
長久手町
室町時代にこの地を治めていた福岡氏の居城があった場所だそうです。戦国時代には丹羽氏と森氏の持ち城となっていたそうです。長久手の戦いでにおいて森長可(織田信長の側近・蘭丸の兄)は豊臣秀吉に付いたそうです。長可は舅の池田恒興(輝政の父)と共に、豊臣秀次隊として徳川家康の留守を狙って三河に進軍していたところを、事前に察した徳川家康の軍勢によって討たれてしまったそうです。この戦いで本城の岩崎城と共に大草城も落城したそうです。写真は熊野社の裏手にあった石碑「大草城址」です。
野田城
新城市
戦国時代に菅沼定則によって築かれたのが始まりです。奥三河では武田氏の支配下の色が濃くなってくると、山県昌景と小笠原信嶺(武田信廉の娘婿)の軍勢によって落城しました。武田軍が引き上げると、放火された野田城に戻った定則は大修理をしました。西上作戦の途中に起きた三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を撃破し、更には長篠城も落城させていた武田の大軍は野田城を包囲しました。野田城の戦いの最中に、城内に居た笛の名人の奏でる音色に、武田信玄が聞き惚れて堀端に出てきた所を鉄砲で狙撃されたという伝説があり、狙撃に使われた鉄砲が残っているそうです。史実では病が悪化していた信玄は起き上がる事も出来ない身体になっていて、その頃に侍医・監物が重臣宛に送ったという手紙が実際に残っています。信玄が最後に陥落させた城となりました。
宇利城
新城市
鎌倉末期に足利尊氏に従って六波羅探題を攻撃して手柄をたてた熊谷直鎮が三河国簗郡を拝領して宇利郷に居館を築いたのがはじまりだそうです。直鎮は源平合戦で有名な熊谷直実から数えて5代になるそうです。戦国時代には熊谷重実が城主のときに、東三河の平定を目指していた松平清康(徳川家康の祖父)に攻められて落城しました。宇利の戦いは清康の叔父・親盛が戦死するほどの激戦を極めましたが、城内に内通者が出たことで決着がついたと、写真の説明板に書いてありました。直実の末裔が東三河に定着していたなんて知らなかったのですが、埼玉県民として身近に感じました。
新城城
新城市
天正4年(1576年)に長篠城を死守した功績によって奥平信昌が菅沼定継の築いた城跡に新たに城を築いたのがはじまりだそうです。信昌が徳川家康の長女・亀姫を迎えた城でもあります。城主は奥平氏と水野氏に変わり、菅沼氏のときに丹波亀山藩の陣屋が置かれて明治維新まで続きました。余談ですが、この城で授かった信昌の4男・忠明は、奥平家では唯一松平姓を許された人物で、大坂の夏の陣で荒廃した大坂城と城下町の復旧につとめた唯一の大坂藩主です。忠明が大和郡山に移封すると大坂藩は廃藩になり、以後は天領となって大坂城には城代が置かれるようになりました。現在は新城小学校の敷地となり、校庭の奥にある土塁に写真の説明板がありました。
新城古城
新城市

戦国時代(1532年)にこの地を治めていた菅沼定継によって築かれたのがはじまりだそうです。定継は大谷城を居城とし、ここに新たに城を築いたことで、新城と呼ばれ、現在の「新城」の地名の起こりとなりました。その後、奥三河に侵攻した今川氏真(義元の長男)に攻められて落城しました。長篠城を死守した功績によって奥平信昌が同じ地に築いた新城城と区別するために、現在は「新城古城」と呼ばれています。

鳶ヶ巣山砦
新城市
天正3年(1575年)に武田勝頼が長篠城を攻めるときに築かせた5つの砦(鳶ヶ巣山砦,君ヶ伏床砦姥ヶ懐砦中山砦久間山砦)の1つで、鳶ヶ巣山砦は川窪信実(武田信玄の弟)が守備していました。織田信長の命を受けた酒井忠次と松平伊忠と金森右近は、夜中に紛れて5つの砦の背後から奇襲して攻め落としました。特に鳶ヶ巣山砦の戦いは激戦を極めたのですが、信実と守備兵は全滅してしまいました。信実の首印をとった松平伊忠(徳川家康の叔父)は深追いをしてしまい、小山田信茂(信玄の従兄弟)の軍勢に取り囲まれて伊忠は戦死し、信実の首印は奪い返されました。長篠城の本丸跡から見た鳶ヶ巣山砦跡で、旗が無数になびいているのが見えました。
長篠城
新城市
室町時代に奥三河の豪族・菅沼元成が寒狭川と大野川が合流する断崖絶壁に築いたのが始まりです。正貞が城主のときに武田信玄の西上作戦で猛攻を受けて落城しました。まもなくして武田信玄が病気で亡くなって西上を中止すると、長篠城に駐屯していた武田軍も引き上げました。徳川家康の命令で奥平信昌(家康の娘婿)が改修しました。2年後に武田勝頼の大軍が長篠城を来襲しました。勝頼の猛攻に耐えていた時に織田信長と徳川家康の連合軍が到着しました。設楽ヶ原の決戦で武田軍は破れ、滅亡の道に転げ落ちたといわれています。あまり知られていないのですが、武田軍は一方的に鉄砲の餌食になったのではなく、連合軍が築いた堅固な三段構えの陣を打ち破っています。しかし、次々と新手を繰り出してくる連合軍の前に勝頼が敗れてしまったというのが史実です。
戸部城
名古屋市・南区

築城年代は不詳ですが、戦国時代に織田信長の領内にクザビを入れた今川方の武将・戸部政直のお城があった場所だそうです。近くにある織田方・山口重俊(大内義弘の次男・持盛の一族)を監視する役割を果たしていたそうです。信長の謀略によって内通の疑いをかけられ、今川義元の命で切腹したそうです。この事件で戸部城は廃城になったそうです。現在は住宅街の中にポツンと石碑「戸部城址」がありました。辺りを見渡したのですが、築城に相応しい台地とかはなく、小さな平城だったのではないかと思いました。

星崎城
名古屋市・南区

鎌倉時代に山田重忠が築いたのが始まりだそうです。戦国時代には岡田直孝(織田信雄の三家老の一人)が城主となりました。直孝は豊臣秀吉との内通が疑われ、信雄の居る伊勢長島城で殺されてしまったそうです。怒った岡田善同(直孝の弟)は秀吉に付いて籠城しましたが、徳川家康の家臣・水野忠重(家康の叔父)の軍勢に攻められて降伏しました。星崎城は岡田氏の家臣・山口重俊(大内義弘の次男・持盛の一族)が寺部城から移ってきました。重俊の従弟・重政が城主の時に伊勢に領地替えとなると、星崎城は廃城になったそうです。城跡は笠寺小学校が建てられていました。校門前に行くと鍵がかかっていたのですが、外に居た職員に声をかけて敷地内に入る事が出来ました(写真の石碑と説明板)。近くにある秋葉神社にも小さな石碑「星崎城址」がありました。

大高城
名古屋市・緑区

室町時代に花井氏によって築かれ、水野氏、山口氏と城主が代わりました。桶狭間の戦いでの前哨戦で鵜殿長照(義元の妹婿)が大高城を攻め落としたそうです。それに対して織田信長は囲む様にして鷲津砦と丸根砦を築いた為、大高城は孤立してしまったそうです。今川義元は19歳になったばかりの松平元康(後の徳川家康)に兵糧輸送を命じ、元康は織田信長の目をかいくぐって作戦を成功させたそうです。これが有名な「大高城の兵糧入れ」です。鷲津砦に義元の重臣・朝比奈泰能が襲いかかると、元康も大高城を出て丸根砦を攻撃し、わずか数時間で両砦は陥落し、織田方の守備兵は全滅したそうです。義元が桶狭間で戦死すると、元康は夜闇に紛れて大高城を出て岡崎城に戻ると、今川家から独立しました。本丸跡からは鷲津砦と丸根砦のある山が目の前に見えました。

鷲津砦
名古屋市・緑区

戦国時代に今川義元の妹婿・鵜殿長照が守る大高城を包囲する砦群の1つとして織田信長が築いて、織田秀敏(信長の叔父)と飯尾定宗を守将として置いたのがはじまりだそうです。桶狭間の合戦では、鷲津砦は義元の重臣・朝比奈泰能と井伊直盛(直政の祖父)が攻撃し、隣にある丸根砦は松平元康(後の徳川家康)が攻撃して、わずか数時間で織田方の将兵は全滅したそうです。鷲津砦の跡からは大高城のある山と丸根砦のある山が、それぞれ数百メートル先に見えました。周囲を眺めていると、この鷲津砦に押し寄せてくる朝比奈軍と井伊軍が見え、近くでは炎上する丸根砦が見えてきそうでした。現在は鷲津砦公園になっていて、主郭部分には城址碑が、駐車場には説明板がそれぞれありました。

丸根砦
名古屋市・緑区

戦国時代に今川義元の妹婿・鵜殿長照が守る大高城を包囲する砦群の1つとして織田信長が築いて、佐久間盛重を守将として置いたのがはじまりだそうです。桶狭間の合戦では、丸根砦は松平元康(後の徳川家康)が大高城から出て攻撃し、隣にある鷲津砦は義元の重臣・朝比奈泰能と井伊直盛(直政の祖父)が攻撃して、わずか数時間で織田方の将兵は全滅したそうです。丸根砦の跡からは大高城のある山と鷲津砦のある山が、それぞれ数百メートル先に見えました。大高城を眺めていると、今川の兵と今川軍旗が動き回っているのが見え、この丸根砦に押し寄せてくる松平軍が見えてきそうでした。ここにも城址碑と説明板がありました。

中島砦
名古屋市・緑区

戦国時代に今川義元の重臣・岡部元信が守る鳴海城を包囲する砦群の1つとして織田信長が築いて、梶川一秀を守将として置いたのがはじまりだそうです。「信長記」によると、善照寺砦から中島砦に入ったそうです。この砦で信長は雨を待ったと云われているそうです。雨が強なってくると、信長は「我に勝機あり!」と叫びながら桶狭間に向かって出発したそうです。砦跡にある民家の敷地内に石碑「中島城跡」があってちゅうちょしてしまいました。名古屋市が設置した看板「史跡散策路・鳴海宿コース・中島砦跡」の下に、所有者が作成した「中へ入ってご自由にご覧下さい」という看板があったので、静かに入って石碑をカメラに納めることが出来ました。所有者の好意で見学することが出来るようになっていたので、感謝したいと思いました。写真は門にあった看板です。

鳴海城
名古屋市・緑区

室町時代に幕府の家臣・安原宗範が築いたのが始まりだそうです。戦国時代には織田信秀の家臣・山口教継が城主でしたが、今川義元の勢力が拡大すると織田信長を見限って今川方に付いてしまったそうです。教継が信長の謀略で殺されると、義元の猛将・岡部元信が入城しました。桶狭間で義元が討たれると今川兵は駿河に逃げ帰るのですが、元信は鳴海城に立て篭もって織田勢を寄せ付けなかったそうです。鳴海城の明け渡し条件に主君・義元の首の返還を信長に要求し、首を受け取ってから鳴海城を引き渡したそうです。駿河に戻る途中、元信は織田方の刈谷城を襲い、城主の水野信近(徳川家康の叔父)を討ち取って刈谷城を放火したそうです。駿河に戻った元信は城下にある臨済寺に手厚く葬ったそうです。余談ですが、元信は高天神城の攻防戦でも名を残しています。

丹下砦
名古屋市・緑区

戦国時代に今川義元の重臣・岡部元信が守る鳴海城を包囲する砦群の1つとして織田信長が築いて、水野帯刀と山口海老之丞と柘植蕃允の3将を守将として置いたのがはじまりだそうです。「信長記」によると、熱田神宮でわずかな手勢を引き連れて戦勝祈願をし、そこから丹下砦に入ったそうです。そして丹下砦を出た信長は善照寺砦に向かったそうです。現在は浄土真宗・光明寺が麓に建っていましたが、城址碑や説明板などはありませんでした。近くには鳴海宿があり、旧街道の面影を残していました。

善照寺砦
名古屋市・緑区

戦国時代に今川義元の重臣・岡部元信が守る鳴海城を包囲する砦群の1つとして織田信長が築いて、佐久間右衛門を守将として置いたのがはじまりだそうです。「信長記」によると、丹下砦から善照寺砦に入った信長は、ここで遅れてきた本隊や駆けつけてきた味方の兵を集結させたそうです。善照寺砦を出た信長は中島砦に向かったそうです。現在は児童公園になっていて、公園の入口に「砦公園」という石碑がありました。これだと砦の名前が分からないので、先程行ってきた「鷲津砦公園」のように砦の名前を入れて欲しかったです。写真の説明板があっただけでも救われました。

沓掛城
豊明市

室町時代に藤原氏によって築かれたのが始まりだそうです。今川義元の勢力が拡大すると、織田家を見限った星崎城の山口教継が謀反を起こすと、沓掛城の近藤景春も呼応して今川方に付いてしまったそうです。桶狭間の合戦の前夜に、今川義元が宿営&軍議を開いたそうです。翌日に沓掛城を出立してそのまま帰らぬ身となりました。沓掛城は小さな平城ですが、土塁と空堀が良好に残っていて良かったと思いました。沓掛城の本丸跡に立つと、和やかな雰囲気で軍議と宴会を開いている義元、櫓からは織田方の砦群が焼かれて夜空が赤く見えるのを見て笑っている義元、朝日を浴びた義元の本隊が出立して行く様子など、戦国のロマンが溢れて楽しかったです。沓掛城の見学が終わったら、バスを拾って桶狭間古戦場伝説地と、浄土宗・高徳院(義元の本陣跡)に向かいました。

231ヶ所を紹介しています。 (^^)/

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