| わたしが最後に彼女を見舞ったのは、 冬の名残の、水気を含んだ重い雪が降る午後だった。 彼女は病室の窓を開け放ち、スケッチブックを膝に置いて、鉛筆を走らせていた。 かたわらには、随分やつれた彼女の母が、無言で娘が走らせる 鉛筆の先を見つめていた。 「寒くないの?窓開けて・・・・・・。」 「わたしの言うことなんてちっとも聞かないのよ。」 すべてを悟った母親の目は、やさくし、哀しかった。 「もういいわ、閉めてくれる?」 背中に当てた枕にぐったりと身体を持たせかけた彼女の額には汗がにじんでいる。 「情けないもんね、ちょっとデッサンしただけでこんなになるんだもん。」 「無理しちゃだめじゃないの。」 「かあさん、お昼食べてきたら?」 「そうね、じゃゆっくりしてってね。」 母親が病室を出ていくにり、彼女は小声でささやいた。 「かあさん、痩せたでしょ。」 「うん。」 「迷惑かけちゃった・・・・でもあと少し、あと少しだけ・・・」 わたしは聞こえないふりをした。 「なに描いてるの?」 「雪よ、湿った雪がね、海に降ってるの。」 鏡のように凪いだ海、そして降り注ぐ雪。 その素描の海は人の存在を拒否しているかのようだった。 人類が存在する以前、気の遠くなるほど太古の海。 彼女は太古の海を書き続けていた。 「昨日絵里子がお見舞いに来たわよ。あんな生き生きした絵里子見たの 初めてかもしれない。」 「そう。」 「みんな、幸せそう。」 蝕まれた彼女は、目だけが異様に輝く。 「再手術、明日なんだった。」 「明日?」 その時、彼女は私の手に無造作にスケッチブックを放った。 「この次あんたがここに来るまで、仕上げておくから。海に降る雪。」 「無理しちゃだめ、良くなったらまた描けるから。」 「大きくてね、湿った雪が波のない静かな海に吸い込まれていくのよ。」 あくまでもおだやかな彼女の目。その中にはどんな色の海が映っているのか わたしにはわからない。 「もう、駄目なんだ・・・・あたし。」 「なに言ってるのっ。」 「明日手術しても、もう駄目なの。」 「そんなこと言っちゃだめっ」 「子供の頃思ってたこと、ほんとになっちゃった。」 「どうしてそんなこと・・・・」 「年とって、なんにも考えられなくなって、なにもしたくなくなって死ぬより、 いいわよね。」 「そんなこと言わないで、お願いだから。」 「だって、そう思わなきゃ寂しいじゃない。」 わたしは泣いていた。 彼女は泣いていないのに・・・・ 春を待たずに、彼女は死んだ。 夭折という言葉の持つはかなさと美しさで、自分の心を偽るしか 彼女はできなかった。 夭折は やはりむごい。 彼女の夢も、願いも、そしてあらゆる可能性も呑み込んで。 わたしの手に残ったのは、一冊のスケッチブック。 この次まで仕上げておくという約束通り、雪の降る海の素描はできあがっていた。 海は限りなく平らかで冷たい。 雪は人魂のように鏡の海に吸い込まれていく。 海に降る雪は、きっと生き抜けなかった人の魂なんだ・・・・・・ 色のない素描の海が、わたしには哀しいくらいに青かった。 |